7話

「……穢れ?」


 というと、私も知っている。

 穢れはこの世にはびこる『邪悪』だ。

 人の心や澱んだ空間から生じ、濃くなれば魔物や災厄を生み出すもの。

 この国の創世神話の時代にはあちらこちらにあったらしいが、現在ではよほどのことがない限り発生したという話は聞かない。


 それもこれも、この国を神々が守っているからだ――というのは有名な話だ。

 他国では頻繁に発生する魔物が、この国にはほとんどいない。

 魔物の討伐をする騎士団も、その多くが国境付近に配置されている。


 ――……という話なんだけど。


 無意識に、私は神様の姿を見やる。

 形のない、一見泥の山のようにも見える、黒いどろどろ。


 粘着質で、底知れないどす黒さは――――あのとき、私の心に満ちたものを連想させる。


 ――もしかして、神様を覆うこれは…………。


「……すみません。エレノアさんは私の穢れに触れてしまったようです。普段なら、こんなことはないはずなのですが」


「御身の穢れではありません」


 私が返事をするより先に、アドラシオン様が割り込んでくる。

 無感情そうな顔をしかめ、どことなく咎めるように、彼は神様を見つめていた。


「それは人間たちが生み出したもの。御身はそれを引き受けてくださっているにすぎません」


 ……引き受ける?


 ――あの、暗い感情を?


「……神様」

「はい?」


 遠慮がちに呼びかける私に、神様はいつもの調子で返事をした。

 穏やかで、少しぽやっとした、柔らかな声だ。


「……私、さっき穢れに触れて……その」


 無数の怨嗟の声を聞いた。

 指先に、ほんの少し触れただけだったのに――心を塗りつぶされそうな感情に支配された。

 吐き気がするほどの強く暗い感情を思い出し、私は身震いする。


「怖かったでしょう。無事でよかった」


 そんな私をいたわるように、神様は優しい言葉をかける。


「あなたはとても心の強い方です。普通なら、呑み込まれていてもおかしくありませんでした」

「あ、いえ、それは助けていただいたからで……ありがとうございます」


 暗い感情の中、誰かが引き上げてくれなければ、私はきっとあのまま戻って来られなかったのだと思う。

 誰かの『手』に腕を掴まれた気がしたけど――アドラシオン様が言うには、神様が助けてくれたということらしいから、たぶん気のせいだったのだろう。


「いいえ。私の方こそ謝らなければいけません。穢れは本来、私の中だけに押し留めていたはずでしたのに……なぜか漏れてしまって」


 ――押し留める……。


 その言葉に、私は神様の全身を見やる。

 彼の体全体を覆う黒い泥は、私が触れた指先の比ではない。


「神様は……もしかして、ずっとあんな感情を引き受けているんですか……?」


 おそるおそる尋ねれば、彼は苦笑するように、小さく息を吐く。

 それから――。


「……慣れていますから」


 恩を着せるでもなく、自負するでもなく、ただ寂しそうにそう言った。

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