6話 ※神様視点

 少女が去って行った部屋の中で、『彼』は一人、深いため息を吐いた。

 ――いいや、息を吐く口さえ、今の彼には存在しない。

 ただ、かつて存在していた肉体の名残で、息を吐いたようなつもりになっているだけだ。


 日の当たらない暗い部屋の中。

 おぞましくうごめく自分自身を、彼はよく理解している。


 ――久しぶりに、人と話をした。


 これまで訪れた人間は、一声かけただけで悲鳴を上げて逃げ出していった。

 ああして会話ができたことだけでも、もう何十年ぶりかもわからない。

 楽しかった。素直にそう思う。

 同時に、彼女の去って行った部屋の冷たさがより際立つ。


――人間ならば、この感情を『さみしい』とでも言うのだろか。


 自身に向けて罵声を浴びせられることも、石を投げられることも、彼は慣れ切っていた。

 朝も夜もなく暗い場所。誰も訪れることのない部屋。

 己を顧みない人間たちに怒るつもりはない。

 だけど体は、穢れを集めて膨れ上がる一方だ。


「――良いのですか。あの娘を行かせてしまって」


 暗闇の中、ふと慇懃な声が聞こえた。

 目すらない彼にその姿は見えないが、相手は誰だかわかっている。


 人ではない。

 国を守る神々の、一柱だ。


「どうせあの娘も戻りません。そもそもあの娘自体、聖女が立てた代理です。……聖女などと名乗っておきながら、一度も顔を見せることなく代理を寄越すなど! こんな無礼を許して良いのですか!!」

「仕方がないだろう。私から強要することはできない。それだけの力もない」

「御身が望むのであれば、他の神々が立ち上がります! 不敬な神殿の連中に罰も下しましょう! 塵一つ残さずに消し去り、御身の偉大さを人々に焼き付けましょう!」


 熱のこもった神の声に、彼は苦笑する。

 たしか人々を守るべき神だというのに、言っていることはまるで真逆だ。


「私に、そこまでの価値はないだろう? 記憶を失い、元の姿も忘れ、自分が何者かさえも思い出せない。……もはや、神であるかすらもわからない存在だ」

「御身は……人間たちの穢れを集めすぎたのです……。聖女さえ傍にいれば、御身の穢れを清めることもできたはずなのに! あのアマルダとかいう小娘めが!」


 ギリ、と歯を噛む音がする。

 だけど今の彼には、どうしてこの神が自らのために怒ってくれるのかもわからないままだ。


「最高神に選ばれたからと、御身の聖女を拒むとは! ここまで見え透いた偽りがありましょうか! あの『人形』が、聖女を選ぶことなどあり得ないというのに!!」


 怒りの声を吐き終えると、神は大きく一つ息を吐いた。

 それで、少し気が晴れたのだろう。

 未だ怒りの気配は消えないが――その声音が、わずかばかり落ち着いたものになる。


「……御身には、もう時間がありません。ここまで穢れを溜めてしまえば、悪神に堕ちるのも時間の問題でしょう」


 代わりに増すのは、憂いの響きだ。

 この身を案ずる名も知らぬ神に、彼は少しだけ笑む。

 ここまで穢れに堕ちてもなお、この神は自分の事を見捨てずにいてくれるのだ。

 だが――。


「その前に、新たな聖女を選ばせましょう。急がねばなりません。今度こそ、心の清いものを用意するようにと厳命します」

「…………」


 神の言葉に、彼は苦い沈黙を返す他になかった。


 自分に時間がないことは、良くわかっている。

 それにきっと、誰が来ても彼を救えることはない。

 先の少女のように逃げていき、もう二度と戻ってくることはないのだ。


 胸の中に空虚な『さみしさ』が兆す。

 穢れが彼の心まで覆い尽くそうとする。そのとき――――。




「あ――! 重っっっ!! なんでここ、神殿のこんな端っこにあるのよ!!」


 少し前に部屋を出て行ったはずの少女が、がちゃがちゃと大荷物を揺らしながら戻ってくる姿を、見た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る