最終話


 離任式翌日は春分の日で休日。カーツンはこの日、私物の持帰りのためにムーサンが運転する車で午前中に学校に向った。車にはサンバアと二匹の犬も同乗した。サンバアのデイ-サービスが休みなので外で昼食を一緒に摂るつもりで連れて行くことにしたのだ。ワンちゃんたちは留守番は可哀想ということで車に乗せた。軽い緊張感がカーツンにはあった。今日が学校を訪れる最後の日となるはずだった。

 荷物を積込みやすいように学校の玄関前まで車を乗り入れて停めた。ムーサンは車内で待機。カーツンは段ボールの空き箱を三つほど抱えて、玄関のガラス戸の中に入っていった。

 職員室は電燈が点いておらず、窓からの外光だけで薄暗かった。人影は見えなかった。カーツンは入口近くの操作盤で自分の席周辺の照明だけを点けて、自席に向った。

 昨日までに捨てる物はゴミステーションに運び込んでしまったので、今日は持帰る物の箱詰め・運搬が仕事だった。手始めにロッカーの中の古文と漢文の注釈書を箱詰めすることにした。それぞれ二十巻ほどになるシリーズなので最も嵩張る荷物だった。古文の方は授業の教材に応じてロッカーから引き出して参照していたが、漢文の方は漢文の授業自体が少ないので、殆ど利用することもなかった。いずれにしても高価な買物だったが、ロッカーの中で眠っていることが多かった書物だった。退職後時間ができたら、ゆっくり目を通そうとカーツンは思っていた。段ボール箱に詰込むとかなりの重量になった。もちろん一箱では収まらない。カーツンは運搬のために職員室の出入口前の通路の隅にいつも置いてある台車を持ってきた。

 ロッカーの中が終ると、ロッカーの上、そして机の引出し、机上、机の下と、持帰る物を段ボール箱に詰込んでいった。空の段ボール箱を五、六個持ってきていた。それが全て一杯になった。カーツンは台車を押して職員室と車の間を何度か往復した。車への積込みはムーサンも手伝った。

 宛がわれたパソコンの他には何も無くなった机上をカーツンは眺めた。透明なビニールカバーの上に溜ったゴミや埃が目についた。後からそれを見る者の目を彼は意識した。水雑巾で拭いておこうと思いついた。自分の雑巾は捨ててしまっていたので、周囲で目についた他の教師の雑巾を借りた。

 カーツンが作業をしている間に数人の教員が職員室に入ってきた。いずれも来月入学する新一年生の学年に属する教師たちだった。休日返上で新学年のスタートを切る準備をしなければならないのだろう。三十代の若い教師たちだ。彼らは談笑を始めた。その中に昨年カーツンが女子部に居た時によく話を交した体育科の教師がいた。当時彼はカーツンの隣席だった。男女共学になるに際して、これまで全く別の学校だった男子部と女子部の統合はいろいろな摩擦を起していた。両部の間には教員間の意見調整の進め方や生徒指導のやり方などに少なくないギャップがあった。それが主として男子部に倣う形で統合が進められていた。彼はその事への不満を口にしていた。本音を言えば今後この学校には居たくないとまで言った。カーツンは彼の批判に共感し共鳴した。体育科の教師でもこんなリベラルな考え方をする人も居るのだと男子部の体育科の教師と比較して思った。カーツンは長く男子部に所属しながら、そこに根強く存在する競争主義、管理主義、受験第一主義が嫌いだった。彼はそれに孤独に抗ってきた。女子部にはまだ伸び伸びとした自由な雰囲気があった。生徒の主体性や自主性を重んじる風があった。だから統合に際しては女子部の校風を基調にして欲しかった。カーツンが彼の批判に共鳴したのはそのためだった。人を見ても女子部の教員の方がフランクで親しみやすい人が多かった。彼もその一人だった。しかし、今年度になって所属が変ってからは彼と話を交すことも殆ど無くなっていた。

 机周りが終ると後は更衣室のロッカーだった。カーツンは更衣室に向った。談笑する彼らの傍らを通った。カーツンは「こんにちは」と声をかけた。彼らはそれぞれ挨拶を返した。体育科の彼の声が一番大きかった。

 カーツンはロッカーから黒いビニールカバーに入ったギターと体育館シューズを取り出した。ギターは同好会の顧問になった時、家から持ってきたもので、体育館シューズはこの学校に任用された当初支給されたものだ。体育館シューズは体育館で行われる集会などの時に時々使うだけなのでそれほど傷んでいなかった。

 更衣室を出て、再び彼らの傍らを通る時、カーツンは足を止め、体育科の教師に「どうもお世話になりました」と声をかけた。彼は少し驚いたように、「もう来られないんですか」と訊いた。

「はい。今日は荷物を片付けに来ました」

「もう終わったんですか」

 と彼は訊いた。終ってなければ手伝いますよ、という語気だった。

「はい。これが最後で」

 とカーツンは両手に持ったギターとシューズを上げて見せた。

「ではお元気で」

 カーツンはそう言って頭を下げた。

「先生もお元気で。失礼します」

 と彼は応じて一礼した。

 彼に声をかけてやはりよかったと思いながらカーツンは職員室を出た。学校を去るに当って、それらしい会話が同僚教師との間に一つでもできたことに満足感があった。

 カーツンは学校の正門の脇に立って、ムーサンに写真を撮ってもらった。カーツンはVサインをした。健康を保ったまま無事定年退職して学校を去る、これは学校に対する勝利だと彼は考えた。勝利の記念写真のつもりだった。もう二度とこの門の内に入ることはないという意味でのお別れの記念写真でもあった。明後日の学習会の監督は直接現場に行くのでもう学校を訪れることはなかった。

 車が学校を出て数分経って、カーツンは湯茶室に足を踏み入れなかったことに思い当った。そこの流し台の上の水切り籠に長年使ってきたマグカップが入れてあるのだ。カップの底にはマジックで姓が記してあった。まぁ、いいかとカーツンは思った。今さら戻る気はしなかった。置土産にしてやろうと思った。

 翌二十一日は丸一日の不快な思いを代償にして年休を取った日だった。年休など取る必要は全くなかったことが今のカーツンには明白だった。離任式の後、退職者は学校に出てくる必要はないのだ。私物の無くなった席に座る必要はないのだ。離任式を挟んで、学校に出てくるのが原則から出てこないのが原則に変るのだ。出てこなくても文句を言う者はいないのだ。そのことが離任式を経た今は明らかだった。鹿毛山との問答は意味の無いものだった。二人とも無意味な焦慮に囚われていたのだ。学習会の監督という離任式を越えてある前例のない業務に惑乱されたとカーツンは振り返った。それがなければ年休を申し出ようという気など起きるはずもなかった。

 二十二日。学習会の監督のためにカーツンは家を出た。余計な事なんだけどなと彼は思った。断れば断ることもできたのだろうがな、とも思った。渡された監督割表には「新3年生学習会」と記されていた。「新3年生」とは来年度の三年生のことだ。つまりカーツンには無関係な来年度に属する行事だった。離任式が終った後も平野と谷村はカーツンを監督から外さなかった。それどころか平野は、監督は大丈夫かと確認してきた。まぁ、最後のご奉公だとカーツンは自分に言い聞かせて駅に向った。

 学習会は大学の教室を使って行われる。カーツンの勤める高校はその大学に付属していた。いつも下りる駅の一つ先の駅で下りて、カーツンは大学へ向った。大学の敷地に沿う車道脇の歩道を彼は上って行った。歩道から会場の教室が入っている三号館へ折れる地点に国語科の女性講師が立って生徒たちを誘導していた。彼女はカーツンを見て、

「先生、学習会はどんなものか見に来たんですか」

 と声をかけた。

「いや、監督になっているんですよ」

 とカーツンが答えると、驚いた表情をした。スタッフとは思っていなかったのだ。離任式を終えた者が業務に就くのはやはり異例なことなのだとカーツンは思った。

 三号館の入口に入ると、左側に曲れば会場となっている教室があるらしく、生徒たちの騒めきが聞こえた。右側には階段があり、教員の控室は上階にあるだろうと推測してカーツンは階段を上った。中途の踊場から上を見上げると、谷村が階段を上りきったところの廊下をちょうど通り過ぎようとして下を向いた。カーツンと目が合った。谷村は会釈もせずに通り過ぎた。カーツンの胸の内に不快感がこみ上げた。離任式を終えた退職者が本来する必要もない業務を果しにわざわざ出て来ているのに、挨拶もしないのか。しかもその仕事を割当てた張本人が。カーツンは谷村のような教員と同じ部屋に居たくなかった。彼は階段を下り、生徒たちが居る教室の方に行った。

 廊下を挟んだ二つの教室に生徒たちは入っていた。廊下に置かれた長椅子にカーツンは腰を下ろした。九時の始業まで二十分ほど時間があった。カーツンはしばらくここにいることにした。

 教室を出入りする生徒たちがカーツンを見た。その中にカーツンが教えていた生徒の顔は見なかった。なぜこの先生はここに居るのかと生徒たちは訝しむだろう。色紙をくれた女生徒たちとまた顔を合すかもしれない。それは照れ臭かった。仕方がない、二階に行くか、とカーツンは思った。その時、菊丸という国語科の女教師が建物に入ってきた。彼女はカーツンを見ると、「お早うございます」と挨拶して、「先生、上に控室がありますよ」と言った。カーツンはちょうどよかったと思い、「はい」と返事をして腰を上げた。

 菊丸は女子部に勤めていた教師で、五十歳が近かった。昨年の共学部一年発足と同時に移籍し、今年度は共学部二年でカーツンと同じだった。彼女も監督を割当てられていた。

 控室はコの字形に長机が並べられ、正面の席に平野と谷村が並んで座っていた。学習会は昨日から行われており、三つの教室を使って、時間割は一コマ一時間半の学習時間が午前・午後にそれぞれ二コマずつ組まれていた。その二コマに教室毎に二人ずつ監督が配置されていた。カーツンは午前中は谷村、午後は福山とペアになっていた。福山が午後の二コマのうち前半を担当したいとカーツンに言ってきた。彼女は生徒からの質問を受ける係にもなっていて、それを後半に行いたいというのが理由だった。カーツンは了承した。谷村も一コマずつの分担にしたいのか気になったが、彼とは話をしたくなかったので訊きもせず、カーツンは開始時刻になるとそのまま教室に行った。

 カーツンが担当する教室には新三年の特進三クラスの生徒百名余りが入っていた。カーツンが接したことのない生徒たちだった。彼らは静かに学習を始めた。間もなく谷村が入ってきた。彼は参加生徒の名簿を持っていて、それで出席状況をチェックする様子だった。カーツンも座席を眺めた。空席がいくつかあった。生徒がどのように分かれて座っているのか知りたかったが、訊くのも嫌で黙っていた。谷村がカーツンに近づき、午後から参加する予定の生徒の名前を告げた。午前中は部活や通院などで出席できない生徒が数名居るのだ。カーツンはそれをしおに生徒の座り方を谷村に訊いた。クラス毎に出席番号順に座っているという。谷村は「他の教室を回ってきます」と言って出て行った。谷村には福山のように一コマずつを分担するという考えはないようだった。名簿を置いて行ったので、カーツンはそれを見てクラス毎の座席区分や出席状況を確かめた。特進は全員参加、進学クラスは希望による参加だった。

 六、七年前までは春休みは純然たる休みだった。課外授業も何もなかった。それが特進クラスで学習合宿が行われるようになり、進学クラスでも希望者参加で学習会が行われるようになった。共学体制が近づくと、特進の中に更に難関大学・難関学部受験を目指す難関クラスが設けられた。難関クラスは全員参加の学習合宿を行い、特進・進学のクラスは大学の教室を使って学習会を行うことが定例となった。学校の受験態勢は強められていた。

 カーツンは机間を巡視した。さすがに特進クラスだけあって私語する者もなく、生徒たちは教科書、参考書、問題集と取り組んでいた。この生徒たちを相手に授業するのは楽だなぁとカーツンはスポクラを思い浮かべて思った。どの教科の勉強をしているのかを見ていくと、数学が圧倒的に多く、英語が次で、社会や理科がパラパラと目についた。国語は一人もいなかった。カーツンは苦笑を浮かべた。

 しばらくして谷村が戻ってきた。カーツンが教卓の後ろの椅子に座っているので、彼は生徒の座席の後方の空席に座った。カーツンは持参した井上ひさしの『吉里吉里人』を読み進めた。

 午前中の二コマが終った。カーツンは控室に戻った。コの字形に並べられた長机の欠けた一辺は出入口に面している。そこにコの字の中に少し入るようにして長机一つと、机を挟んで二脚の椅子が相対して置かれている。質問のある生徒はそこに座り、向き合った教師と問答をするのだ。

 カーツンはムーサン手作りの弁当を食べた。食べ終ると手持無沙汰となった。外に出るにはまだ早かった。カーツンは『吉里吉里人』をまた出して読み始めた。菊丸が側に来て、「吉里吉里人ですか」と訊いた。「そうです」とカーツンは答え、表紙を見せた。

「長い小説ですね」

 と菊丸は言った。それは八百ページを越えていた。

「私もこれ読みましたよ。面白かった」

 と彼女は言った。

「へぇー、そうですか」

 カーツンは少し驚いた。そして、

「確かに面白いですね」

 と頷いた。控室の中には菊丸の他にはカーツンの話し相手になる教員は居なかった。

 カーツンは午後の監督が始まる二時半までどう過ごすかを考えた。大学の図書館が思い浮かんだが、職員に知人が居て、気楽に過ごせそうになかった。駅前の食事もできる喫茶店で時間を潰そうと思った。料理の味と盛りの良さでカーツンお気に入りの喫茶店だった。歩いて片道十五分くらいかかるが、時間は十分にあった。実はそこは明日、監督を終えて昼食を摂るつもりの場所だった。カーツンにとっては退職後の解放された時間がそこから始まる場所として設定されていた。

 カーツンは外に出て歩き始めた。少し歩くと、喫茶店に行く途中に公立の図書館があることに気がついた。そこがいいと彼は思った。本を読むにはお誂え向きの場所だ。やはり喫茶店は明日のために取っておこうと思った。

 図書館を出たのは二時過ぎだった。『吉里吉里人』はかなり読み進んだ。大学に着くと監督開始時刻まで十分間ほど時間があった。三号館に入る前に自販機で缶コーヒーを買った。二、三口飲むと胃にせきあげるような不快感が起きた。胃の調子が悪いなとカーツンは不安になった。彼はトイレの手洗いに残りのコーヒーを流した。幸い不快感はやがて治まった。

 控室では平野の周りに二、三人の教師が集って話をしていた。平野には今日監督の割当がなかった。割当がなくても責任者だから出てくるのだが、もし自分が勤務を断っておれば彼女が代ることになったのだろうとカーツンは思った。平野は朝からいろいろと指示を出していた。平野が責任者としての仕事に専念するのに自分の出勤は役立ったのだとカーツンは思った。

 開始五分前にカーツンは控室を出た。教室に入ると生徒たちのほとんどは既に着席していた。二、三の生徒がカーツンを見て、友達との話を止め、自分の席に向った。開始時刻になり、「では静かに自習を初めてください」とカーツンは呼びかけた。午後から出席予定の生徒たちはちゃんと出て来ていた。

 開始後十分ほど経って学年主任の越谷が入ってきた。カーツンに軽く会釈して教壇に上がり、腕組みをして生徒たちを見回した。しばらく眺めた後、話し始めた。

「作業をちょっと止めて聞いてください。いいか。こっちを向いて」

 越谷はそう呼びかけ、

「私は難関クラスの学習合宿の会場からここに来ました。学習会は三日間ですが、難関クラスの合宿は四泊五日でやってます。皆真剣にやってます。話し声なんか聞こえませんよ。シーンとした張り詰めた雰囲気の中でやってます。それに比べるとここの雰囲気はまだ甘いというか、緩みが感じられます。君たちは学年は始まっていないが、もう三年生です。二年生は終りました。受験生としての自覚を持ってください。来年の今頃は進路が決っています。時間は有りません。志望校に合格するということは大変なことです。簡単ではありません。努力しなければ実現できません。それを肝に銘じてください。学習会はそのためにやってます。新学期が始まったらもうラストスパートと思ってください。その準備をこの学習会、そして春休みにしっかりやってください」

 越谷は声量を上げて話した。その声は生徒の頭上に重くのしかかっていくようだった。越谷は話の後、机間巡視をして出て行った。

 カーツンは教員としての最後の務めが嫌悪してきた受験教育の末端を担うものとなったことに皮肉を感じた。自分の教員生活は所詮受験教育の領域にあったのだと思った。一刻も早くこの境涯から脱したいと思った。明日がその日なのだと思った。

 

 二十三日。いよいよ最後の日となった。昨日は午後四時までのフルタイムだったが、今日の勤務は昼までだ。もう一回敵地に身を投じなければならない。そんな気持でカーツンは昨日と同じ時刻の電車に乗った。

 控室で待機していると越谷がドアを開けて、コの字形の中に入ってきた。まだ自転車を漕ぐ服装のままだ。歩く度にカタカタ音を立てる靴を履いている。ちょうどいい、これを話題にしようとカーツンは思った。

「それ、なんですか」

 とカーツンは目で靴を見ながら訊いた。

「え」

 と越谷はカーツンの方を振り向き、

「ああ、まだ履き替えてないんで。ペダルを漕ぐための靴です」

 と答えた。

「へえー」

 カーツンは越谷の靴に注目した。靴底に下駄の歯のような突起が二つある。

「その突起でペダルを挟むんですか」

「そうです」

「なるほど。それで滑らないか」

 周囲の教師たちが二人の会話を聞いている。越谷はカーツンを相手にあまり話をしたくなさそうだが、成り行きで相手をせざるを得ない。

「どのくらいのスピードが出るんですか」

 とカーツンが訊くと、越谷は微笑して、

「七十キロくらいまで出そうと思えば出ますが、普通は三、四十キロですね」

 と得意そうに答えた。越谷は自転車で通勤していた。健康のためと、登山部の顧問をしている彼には足腰を鍛える意味もあった。そのために何度か事故を起していた。今年度の一学期にも自動車との接触事故を起し、数日間欠勤した。自転車で通勤する教員は他にも数名居り、彼らはグループを作っていた。谷村などもその一員だった。越谷は昨日とは逆に、今日は午前中に学習会を見て、午後から学習合宿の方に回る予定のようだった。

「自転車でどのくらいかかります、合宿所まで」

 とカーツンは訊いた。

「うーん、四十分くらいですかね」

 と越谷は答えた。

 越谷と話したことでカーツンの控室における無聊は少し紛れた。周囲の教師に自分の喋っている姿を見せられたのもよかったと思った。最年長なのに隅で黙りこんでいるというのも情けない気がしていた。退職者として本来する必要のない業務を学年のために一肌脱いでしているのだから周囲に遠慮することは何もないという気持もあった。

 監督は今日は平野とペアになっていた。担当教室は昨日と同じだ。始業時刻になって、カーツンは平野と一緒に教室に向った。

 平野は教壇に立って注意を始めた。

「注意事項を言います。昼食は教室でとってください。昼休みは出歩かないこと。外に出る場合はこの棟の周辺までにしてください。大学は試験中なので、騒がしくならないように。それから何度も言ってますが、散らかさないこと。自分のゴミは持帰ること。今日の質問は英語と数学を受付けます。午後は数学だけです。眠っている人をよく見ます。何のための学習会ですか。今日が最終日です。この機会を生かしてしっかり自習をしてください。それでは始めなさい」

 そう言って、自習を始めた生徒たちの様子をしばらく見渡してから、平野はカーツンの側に来た。参加者名簿を示して、欠席通知のあった生徒、午後から早退する生徒など、今日の生徒の動向を伝えた。

 カーツンは生徒の座席の後方の空席、平野は檀上の教卓の椅子に座って監督業務が始まった。時折は机間巡視をして居眠りをチェックする。やはり二、三人、頭が前後に揺れている生徒が居る。カーツンが巡っていると、一人の男子生徒が、「先生は何の教科の先生ですか」と訊いてきた。「国語」と答えると生徒は頷くしぐさをした。何か質問してくるかなと思ったが何も言わなかった。特進の生徒にはカーツンは見かけない顔なので訊いてきたのだろう。

 カーツンは座っている間は『吉里吉里人』を開いて読んだ。監督業務に専念するという建前からは好ましくない行為だった。しかしカーツンにすれば合理的な時間の使い方だった。カーツンはこの読書を義務として自分に課していた。それは退職後の彼の人生目標に関連していた。それはまた、この場所で意味の無い苦痛な時間を過ごさなければならないことへの慰めでもあった。昨日は百ページほど読み進めた。今日は半日なのでそんなには進むまいと思った。

 十時半に一コマ目が終った。平野が休憩を宣した。平野は次の一コマは質問を受けなければならないので監督はできないと言ってきた。カーツンは了承した。

 二コマ目が始まった。これが最後の勤務だとカーツンは思った。あと一時間半で学校という社会、教師という職業から解き放たれるのだと思った。そう思うとこの人生の重大な区切りを記録しておかなければならないという思いにカーツンは衝き動かされた。彼は『吉里吉里人』を閉じ、手帳を取り出した。

 離任式から今日までのことを彼は記しておこうと思った。何があり、その時自分が何を感じ、考えたのか、を彼は思い起して記していった。気がつくと三十分余りが経過していた。それでも書き終らないようだった。

 その時、越谷が入ってきた。越谷は教壇の中央に立ち、室内を見渡した。カーツンは手帳を閉じた。そして彼も室内を見渡した。越谷が教壇を下りて或る一点に向った。その方向を見ると一人の女生徒が船を漕いでいた。カーツンは舌打ちした。越谷は監督の手落ちと考えるはずだった。側に行った越谷は腕組みをしてしばらく女生徒を見下ろしていたが、「おい」と声をかけた。女生徒は気づかない。「おい、おい」と今度は二回、声を強めて言った。女生徒はハッとして目覚めた。「何をしとるんか、お前は」と越谷は少しからかうような調子で言った。女生徒はバツが悪そうに頭を下げた。その頭に越谷は「しっかりせいよ! 」と大きな叱声を浴びせた。カーツンはその声が合図のように起ち上がって机間巡視を始めた。越谷はそのまましばらく机間巡視を続けていたが、やがて出て行った。

 カーツンは越谷に気を遣って起ち上がった自分に不快を感じながら椅子に座った。構うものかと思って彼は手帳を取り出した。そして記述に集中した。廊下から鋭い大きな声が聞こえた。越谷が生徒を叱る声だった。カーツンがドア越しに覗くと、彼が教えていた進学理系クラスの男子生徒が廊下に出されて叱られていた。それはカーツンの授業中にも騒がしかった生徒で、いつになく神妙な顔をして畏まっている姿にカーツンは苦笑した。

 手帳への書込みが一応終ると、残り時間は十分ほどとなっていた。カーツンは仕事が終った後の事を考えた。黙って出て行くか、それとも最後の挨拶をして出て行くか。全体に対して改まった挨拶をする気はなかった。それは離任式の時に済んでいると思った。と言って、何も言わずに出て行くのもコソコソしているようで嫌だった。近くに居る二、三の人に声をかけて出ていこうとカーツンは思いを定めた。

 二コマ目が終った。

「昼休みに入りなさい」

 カーツンは教壇から生徒たちに声をかけた。そして教室を出て控室に向った。控室のドアを開けると、カーツンの業務が終了したことに気づいた誰かが、「お疲れでした」と声をかけてくることを想像した。

 カーツンはドアを開けて控室に入った。するとすぐ、後を追うように宇津木という教師が部屋に入ってきた。宇津木は側に居るカーツンには目もくれず、正面に居る平野と谷村に向って何か言い始めた。宇津木はカーツンが「若年寄」と内心で呼んで嫌っている国語科の若手の一人だった。彼の監督は午後からになっているので会わずに済むとカーツンは思っていた。宇津木は大学の試験が学習会より少し遅れて終了するので、学習会の終了時刻を大学の試験終了より後に変更することを提案していた。学習会終了後の生徒の移動の騒がしさが受験する学生の迷惑になる可能性が高いとすれば、教室を使わせてもらっている側としては何らかの措置を取るべきではないか、というようなことを宇津木は弁じていた。喋っている間、彼は平野と谷村を見つめ、他の教師にも視線を走らせたが、カーツンには一顧だに与えなかった。谷村と平野は部屋に入ってくると同時に始まった宇津木の弁舌を起ち上がって聞いていた。周囲の教師たちも喋る宇津木を見つめていた。宇津木は皆の注視を浴びて、自分は大切な提案をしているという気負いを見せて声高に話した。宇津木の話が終ると谷村が宇津木の側に歩み出て、振り返って、

「それでは皆さん、どうしましょうか」

 と教師たちに呼びかけた。谷村もまた傍らのカーツンを一顧だにしないのだった。どうやら今から会議が始まるようだった。カーツンにはもはや関わりのない会議だった。仕事が終れば俺は帰るだけだとカーツンは思った。これでは挨拶をしようにも誰にも声をかけられないなと彼は思った。ここに居る人たちの誰も俺の最後の勤務が終ったことに気づいていない。或いは知っていても構おうとしていない。そう言えば離任式の後、異例の業務をしている自分に労いの言葉をかけてくる者は最後までいなかったと思い、カーツンは苦笑を浮かべた。彼はコートを着て、鞄を肩に掛け、控室を出た。

 階段を下りようとした時、平野が後を追ってきた。手に紙袋を提げていた。

「先生はこれが最後なんですか」

 と平野は言った。カーツンは頷いた。

「黙って行かないでくださいよ」

 と平野は続けた。会議が始まったんじゃ、ものは言えないだろうとカーツンは思った。

「お疲れ様でした」

 と平野は言い、「これ」と紙袋を差し出した。

「食べてください。旅行のお土産」

 と言葉を添えた。

「どうも、すみませんね」

 とカーツンは素直に受け取った。

「また顔を見せてくださいよ」

 そう言う平野の目をカーツンは精一杯の愛想として見つめ直し、微笑した。

 平野は女子部に所属していた教師だった。彼女が学年の副主任になったのは、学年主任が男子部出身の越谷なので、共学体制における男子部女子部の人事のバランスを取るためだった。

 平野と別れて階段を下り、踊場から棟の出口を見下ろすと、越谷が出て行くところだった。これから難関クラスの合宿所に向うのだろう。わずかな時間差で顔を合さずに済んだことをカーツンは幸運と感じた。顔を合せても谷村・宇津木と同様に、越谷からは「お疲れでした」の一言も出ないはずだった。

 歩道を下りながら、終った、終ったとカーツンは自分に言い聞かせた。しかし彼の心は北風を受けたように縮こまっていた。縮こまって針ネズミのように針を立てていた。自分の存在を全く無視した宇津木・谷村の振舞いがカーツンの気持を逆撫でしていた。奴らは最後にあの態度を示すことで俺を否定する気持を見せつけたのだなとカーツンは思った。平野の「黙って行かないでくださいよ」という言葉にも引っかかっていた。会議が始まれば局外者は黙って出て行くしかないだろう。平野も状況は分っているはずなのになぜあんなことを言うのか、とカーツンは腹立たしかった。〈会議が始まったからね〉と言い返してやればよかったと思った。

 しかし、いずれにしてもカーツンの教員生活はこれで終ったのだ。カーツンは立ち止まり、手帳とペンを取り出して、「我が教師生活、本日をもって終結す。万歳!」と記した。その通りなのだ。彼は気持を切替えようとした。

 三叉路の横断歩道でカーツンは立ち止まった。彼は気持を静め、左右を慎重に見て歩き出した。苦役から解放されたその初日に事故に遭ったりしてはつまらない。横断歩道を渡り終えたその時だった。菊丸と遭遇した。彼女はカーツンとは逆にこれから横断歩道を渡ろうとしていた。

「お疲れでした」

 菊丸はにこやかな笑顔で言った。カーツンは驚いた。不意を突かれたように感じた。それでも彼は何とか笑顔を作って会釈を返したが、言葉が出てこなかった。二人はそのまますれ違った。午後からの監督に入っている菊丸は大学に向っているのだ。

 十歩ほど歩いて、カーツンに激しい悔いが生じた。〈先生、お体大切にね〉という言葉を脆弱な菊丸にかけてやれなかった悔いだった。

 菊丸は国語科の教員の中でカーツンが今年度最も気軽に話を交した教員だった。彼女は知り合ったばかりのカーツンに憚ることなく身の上話をした。独りっ子で、独身で、親の家で親と一緒に暮していたが、昨年父親が亡くなり、天涯孤独の身となったと言った。これという趣味もなく、今後何を軸に暮していくか迷っていると告白した。余りに率直な告白に聞いているカーツンが戸惑うくらいだった。病弱で、父親が亡くなってからは夜も不安で眠れないことが多いと言った。動悸がして、不整脈も出ていると言う。そんな打明け話を、全校集会の折など、体育館の壁際に並んで立ちながら、カーツンは聞いてきた。それに対してカーツンには適当なアドバイスの言葉も浮かばないのだった。菊丸は顔色も青白く、華奢な体つきで、いかにも虚弱を感じさせた。そんな彼女に別れに際して一言言葉をかけてやればよかったという悔いが募り、カーツンは二、三十メートルは離れた距離を走って引き返して菊丸に追いつこうかと、一度足を止めた。

 駅前の喫茶店に入り、カーツンは昼食の注文をした。メニューも豊富で味も良く、ゆっくり寛げる店だった。自由な生活がスタートする場所と定めていた地点にようやく到達したのだ。学習会の監督によって延引されていた解放の時がようやく訪れたのだ。楽しもう、喜ぼうとカーツンは自分を嗾けた。しかし、一点、菊丸に対する悔いがカーツンの気持を結ぼれさせていた。それが今から自分を縛る強迫観念に転化するのではないかという懼れをカーツンは抱いた。気掛りなことは何もない状態で解放を迎えたかったのに。「不完全主義」を彼は念じた。

 なぜあの時言葉が出てこなかったのだろうとカーツンは考えた。宇津木・谷村に対する強張りがまだ解けていなかったその時の自分の気持が反芻された。無傷では終れなかったか、とカーツンは唇を噛んだ。やはり学習会の監督はカーツンを躓かせる罠だった。


                                     完



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「ラスト‐ストラグル」 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711

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