第5話

 十七日は土曜日で学校は休みだ。カーツンは内科医院に出かけて血液検査をした。正月の五日に受診してから二ヶ月余りが経っていた。この医院に変えてから二回目の受診だ。今回は食後二時間の血糖値を測ってもらうことにした。結果は一一三、食後としては良好だ。前回の空腹時の血糖値より低い。ヘモグロビンA1Cは六・二。これも前回よりいい。いいぞ、とカーツンは思った。あと数日で退職だ。健康を保って退職後の生活を迎えられるようだ。今年度の最大目標はクリアできたのだ。彼はそう考えて自分を励ました。

 休みが明け、離任式当日となった。本来なら職務から解放される日だが、カーツンの朝の気持は晴れ晴れとはしていなかった。離任式の後にも学習会の監督という仕事が控えているというのもその理由の一つだが、何よりも今日、大島の代りにスポクラのホームルームを担当しなければならないかもしれないという不安が彼の気持を暗くしていた。

 職員室の自席に着いたカーツンは、大島がもう学校に来ないことを思って、大島の席の様子を見ようと起ち上がった。自席の反対側に回って大島の座席を見ると、やはり机の上にも下にも大島の私物は全く無くなっていた。早技だなとカーツンは思った。

 スポクラのホームルームに行けと越谷は言ってくるだろうか、とカーツンは考えた。離任式の当日に、離任する本人にそんな仕事を言い付けるのは越谷もさすがに遠慮するのではないかと思った。学年所属の副担任は五人居る。スポクラの副担任は確かにカーツンだが、今日欠勤するクラス担任は大島だけだから他の四人は空いているのだ。その中の若手にでも言い付ければよいのだし、そうするだろうとカーツンは考えた。しかし、越谷が自分に言ってくる可能性はある。その時はどうしようか。断るか。しかし、「立つ鳥跡を濁さず」ではないか。その気持で学習会の監督も断っていないのだ。最後になって為すべきことをしなかったと後で陰口を叩かれるのも癪だ。ええい、この際、言ってくるものは全て引き受けてやろうか。大サービスだ。カーツンの思案はあれこれと廻った。しかし、普段は着ないダブルの背広を礼服として着てきている自分が、その格好で職員室とホームルームの間をアタフタと動き回るのもみっともない気がした。こんな日にまでスポクラで不愉快な思いをするのはやはり惨めに思われた。

 カーツンがそんなことを考えていると、カーツンの斜め前の席に座っている福山という女教師が、隣の大島の席が空席であることに気がついて、

「今日、スポクラのホームに行くのは江崎先生ですか。配布物が相当ありますよ」

 と言った。するとカーツンの臨席の教師が、

「えっ、終了式に担任が来てないの」

 と驚きの声を上げた。不快感が一気にカーツンを包んだ。

「私が行かな行けんのかね」

 とカーツンの口から怒気を帯びた声が出た。

 カーツンが不快と不安な気分のなかにいると、男子部・女子部担当の教頭で普段は二階の職員室にいる藤巻がカーツンの席に来た。そして、

「八時二十分から離任式を始めますから前の方に来ていてください」

 と告げた。職員朝礼の開始時刻が離任式の始まりだった。藤巻が式の進行を担当するようだ。時刻は八時十五分を過ぎていた。今朝の職朝は合同で行われるようで、二階の職員室から教師たちが下りてきていた。カーツンは席を立って教頭席の方に移動した。

 朝礼が始まった。先ず離任式だ。退職する四人が教師たちに対面して正面に並んだ。今年度末の退職者は欠席の大島を加えて五人だった。副校長が一人一人を紹介する。川西、香山、カーツン、そして若い女性講師の順に紹介された。川西は女子部校長を退職後、顧問として再雇用された教師で、今回その顧問を辞めるのだ。生徒部長、学年主任を務め、文科大臣賞を受賞した部活の顧問でもあった香山の紹介が最も内容があり、副校長も力が入るようだった。カーツンは在職期間と担当教科、それに付け足して文学活動を個人的に行っていると紹介された。一週間ほど前、副校長が、離任式で先生を紹介しなければならないが、何か言ってほしいことはないかと訊いてきた。別にありませんとカーツンは答えた。副校長は少し考える風だったが、「先生は小説なんかを書かれるから、そのことを言いましょうかね」と言った。昨年の八月末、二学期が始まってすぐ、新聞のローカルページの文芸時評欄でカーツンが同人誌に発表した小説が取り上げられた。顔写真も入ったその記事を校長が見つけ、鹿毛山がコピーを取って、職員室の掲示板に貼り付けたことがあった。学校には知られたくないことだったのでカーツンは少し困惑したが、そんな出来事が副校長の言葉の背景にあった。

 紹介が終ると、司会の藤巻が、

「それでは退職される先生方を代表して香山先生にご挨拶をお願い致します」

 と言った。「代表」という言葉で、自分は挨拶しないでいいんだとカーツンは思った。気が楽になると同時に少し残念なような気もした。実はカーツンは挨拶の言葉を準備していた。当り障りのない言葉を並べた変哲もないものだったが、カーツンなりに要点を押えたつもりだった。

 香山は前に出て話し始めたが、一言二言言うと言葉に詰まった。そして嗚咽し始めた。話せる状態でないのを見て、藤巻は川西に交代を頼んだ。現役時代に校長を務め、こういう場合の弁舌に慣れている川西はそつなく挨拶を終えた。

 離任式が終ると退職者たちは職員室の出入口の方に下がった。もちろんこの場所に留まる義務はないので、自由に動いて構わないのだが、何となくその場で待機という気持になるものだ。しばらく立っていた香山はドアを開けて外に出ていった。二階の職員室の自席に戻るのだろうとカーツンは思った。カーツンも自分の席に戻っていいのだが、動かなかった。学年の朝礼が終るまでここに居ようと思っていた。大島の穴埋めにスポクラのホームルームに行けと言われかねないので、席を外しておくのが無難と考えたのだ。不在の者に仕事を割り振ることはできないだろうと。カーツンは出入口のドアの前で、目の前の壁に貼られている最寄り駅の時刻表などを眺めて時間を潰した。

 全体の朝礼が終った。二階から下りてきていた教師たちが引きあげ始めた。人の中に埋っていたカーツンの姿が周囲から見えるようになった。用もなく出入口にいつまでも立っているのは他人の目に不自然に映るはずだった。カーツンは仕方なく自席に戻った。腕時計を見ると八時四十五分。職員朝礼の時間が大幅に延びている。学年朝礼の真最中にカーツンは戻ってきた。席に着いたカーツンにすぐ藤巻から連絡するよう指示があった。カーツンは席を立ち、電話のあるところに行き、内線で藤巻に連絡した。藤巻は終了式が行われる体育館に九時五分前までに入っていてくれと言った。前の方に退職者用の椅子を用意してあるのでそこに座って待っていてくれと言う。終了式の開始時刻は九時だ。カーツンは了解して席に戻った。時計を見ると既に八時五十分。ありがたい、助かったとカーツンは思った。越谷がスポクラのホームルームに行くように言ってきても藤巻の指示を盾に断ることができるのだ。

 学年朝礼が終った。スポクラの朝のホームルームに誰が行くのか、越谷はまだ指示していないようだ。越谷は大島の不在を忘れているのかとカーツンは思ったが、十六日に自ら大島に花束を渡したのだから、それはあるまいと打ち消した。その時、大島の不在を越谷に告げる者があった。すると越谷はためらいもなくカーツンに、「先生、スポクラの朝のホームに行ってもらえませんか」と言ってきた。カーツンは断る理由ができてほっとしてから、果して越谷が自分にスポクラのホームに行けと言ってくるかどうか見てみようという気持になっていた。少しは遠慮が見られるのではないかと思っていた。ところが越谷は平然と何の遠慮もなく言ってきたのだ。カーツンは藤巻の指示を伝えて断った。越谷は「ああ、そうか」と言った。カーツンが退職者であることに今気がついたという風だった。

 カーツンは席を立って体育館に向った。スポクラには副担任の中で一番若い教師が行くことになった。今日という日にスポクラに接しないで済んだことをカーツンは大いなる幸いと感じた。危ないところだったとほっと息を吐いた。

 体育館に入ると、舞台に向って左端に前からスチール椅子が十脚ほど並べてあった。その椅子に香山と川西が既に座っていた。校長、教頭、式の進行役の体育科の教師などが周囲に用事有り気に立っていた。カーツンは校長と副校長には数日前に退職の挨拶は済ませていた。

 カーツンは周囲の教師に頭を軽く下げながら椅子に近づき、香山の隣に座った。そして香山の腕時計に目をやりながら、

「してきましたか」

 と訊ねた。

「ええ」

 と香山は応じた。国語科が退職祝いとしてくれた腕時計だ。カーツンもしてきていた。教科への気配りだった。香山のはカーツンと同じメーカーの女性用だ。

「担任が来ていなくて、代りに朝のホームに行ってくれと学年主任から言われましたよ」

 とカーツンは零した。

「えっ、今日ですか」

 と香山は驚いたようだった。

「ええ、さっき。ここに来なければならないので断りましたが」

「こんな日にまでそんな仕事をするのは嫌ですね」

 と香山は声を潜めた。

「本当、そうですよ」

 とカーツンは頷いた。

「大島先生のクラスですよ。大島さん、今日から来ないらしいから」

「生徒が可哀想ですね。終了式に担任が出てこないというのは」

 香山のこの言葉でカーツンはスポクラの生徒たちの気持に思いが及び、そうだなと思った。

「先生は今日で終りでしょう、勤務は」

「ええ」

「僕はまだあるんですよ、二十二日から二日間、学習会の監督が」

「本当ですか」

 これも香山には驚きのようだった。

「普通はないことでしょう。離任式の後にも学校に出てくるなんて」

「そうですね」

「人手が足りないのかどうなのか」

 カーツンは一人でぼやく口調になった。香山と自分の境遇の差が思われた。香山は退職者に相応しく、業務から解放されて退職の感慨に浸りながらこの日を迎えているようだ。彼女が挨拶の度に感涙に咽ぶのはその表れとカーツンには思われていた。そんな彼女に雑務に追われる自分の現状を呈するのは体裁の良いことではなかった。

 やがて生徒たちが入場してきた。

 終了式が始まった。先ず離任式が行われる。今度は生徒たちに向けてのものだ。退職する教師たちは藤巻の促しで舞台上に上がった。

 カーツンは整列した全校生徒を前にして背筋を伸ばした。彼が全校生徒を前にこの場所に立ったのは入学式の折、担任として新入生に紹介された時だけだった。

 副校長が退職者の紹介を始めた。名を呼ばれると列から一歩前に出て一礼する。紹介の内容は職員朝礼とほぼ同じだ。カーツンは自分の文学活動に触れる副校長の口調が職朝の時よりもいかにも付け足しという感じでぞんざいになったと感じた。

 退職者を代表して香山が挨拶を始めた。彼女は今度は冷静で、自分の教師としての活動を振り返りながら、希望と努力の大切さを生徒に訴えた。

 カーツンは舞台の上から生徒たちの列、その周囲を囲んで立つ教員たちを眺めた。そして、俺は遂にここから生徒たちに語りかけることはなかったなと思った。離任式でも一語も発することはないのだった。これまでの離任式では退職する教師一人一人に話す時間が与えられていたことを思うと、カーツンは自分にはしゃべらせないという学校主流派の意志を感じた。舞台上に並ぶ退職者のうち、川西は既に一度退職して嘱託として残っていた教師だし、もう一人は勤続わずか二年の講師だった。専任で二十年以上勤務し、今回退職するのは香山とカーツンだけで、香山には十分に発言の機会が与えられたのだった。

 カーツンは生徒たちの列に目を落した。自分が教えたクラスの列にはなぜか視線が向けにくかった。スポクラは特に見にくかった。それでも二、三人の生徒を識別した。俺が今ここで叫び声を上げればどうなるかなとカーツンは思った。それはこんな場面でカーツンをよく襲う強迫観念だった。彼は妄想と嗤ってそれから離れようとした。最悪の事態を想像し、そうはならないように身構える緊張に比例するように破局への強迫は増大してくるのだ。カーツンはマズイと思い、強迫から逃れるために香山の話に意識を集中しようとした。そして何とか乗り切った。

 香山の挨拶が終ると、女子部の生徒会長が謝恩の言葉を述べた。女子部の生徒会長が選ばれているところに離任式が香山を中心にして企画されていることが表れていた。女生徒がはきはきとした口調で述べていく言葉を聞きながら、内容表現共に立派なものだとカーツンは思った。国語教育はやはり女子部の方が勝れているのではないかと思うのだった。

 花束贈呈となった。四人の女生徒から退職者各人に花束が手渡された。

 離任式が終った。生徒たちの列の中央が開き、その間を退職者たちは拍手を受けながら退場していくのだった。生徒たちの列を過ぎると教員たちの人垣となった。カーツンは先頭から三番目で一斉射撃のように感じる視線が幾分緩和されるのを幸いに思った。


 職員室に戻って、カーツンは私物の片付けを始めた。片付けは殆ど進んでなかった。一日に二冊ずつ持帰る計画の古文、漢文の注釈書もまだ三回しか運んでなかった、明日の休みに車で学校に来て、持帰るものは一気に持帰るつもりだった。今日の仕事は捨てるべきものを選定し、それを紐で括ったり、ビニール袋に入れたりして、ゴミステーションに運び込むことだった。

 終了式が終り、帰りのホームルームが行われ、掃除の時間と校時は流れていった。もし今朝、カーツンがスポクラのホームルームに行っていたら、自動的に掃除の終了までスポクラに張り付いていなければならなかっただろう。カーツンが苦情を申し出て交代を要請しない限りは。そのことを思って冗談じゃないとカーツンは思った。退職者にはそんなことをしている余裕はないのだ。

 職員室に数名の女生徒が入ってきた。その中にいた庄野がカーツンを見て手招きした。カーツンは席を立った。カーツンが側に行くと女生徒たちは職員室の外に出た。ドアの外には四、五名の女生徒が待っていた。三日前に生物教室でカーツンを囲んで写真を撮った女生徒たちだ。その中の一人が「先生、これ」と言って色紙を手渡した。それは淡いピンク色の地にハート型の模様が散っている色紙で、カーツンが初めて目にする種類のものだった。真ん中がハート型にかれ、そこにこの前撮った写真が嵌めこまれていた。上部に「江崎先生」、下部に「30年間お疲れ様」と大きく書かれ、その間を彼女らの寄せ書きが埋めていた。カーツンの目が潤んだ。

「先生、お世話になりました」

「先生、ありがとうございました」

「先生、元気でいてください」

 生徒たちからカーツンに声がかかった。カーツンは「ありがとう、ありがとう」と返した。

「先生、卒業式には来てくださいよ」

 と一人の生徒が言った。カーツンはドキリとした。彼女たちの卒業式は一年後だ。その言葉はカーツンには辛い言葉だった。退職後、学校を訪れるつもりはなかったからだ。ごく少数を除いてこの学校の教師たちとまた顔を会わすのは気塞ぎなことだった。相手側もそうだろうと思っていた。

「ああ、そうだなぁ」

 とカーツンは曖昧に答えた。

「先生、淋しくなる」

 と一人の生徒が言った。

「僕もだ」

 とカーツンは応じた。

「先生、文化祭来てね」

 と一人の生徒が言った。文化祭は六月だ。

「来れるかなぁ」

 とカーツンは否定的なニュアンスを強めて応じた。彼は生徒たちの顔を見辛く感じて色紙に目を向け、寄せ書きの文字を追った。赤、緑、ブルー、橙と、それはさまざまな色のペンで書かれていた。カーツンの胸に生徒たちの優しさが沁みてくるのだった。

 生徒たちが去った後、中森と庄野が改めてカーツンの側に来た。二人はカーツンに紙箱を差し出した。中森が、

「先生、これ使って」

 と言った。

「何、これ」

 とカーツンが訊くと、

「マグカップ」

 と庄野が答えた。そして箱を開け、包み紙を取り除けてカップを取り出した。白地に熊の顔の模様が並んだ陶製のマグカップだった。青色の蓋も付いていた。二人で選んで買ったという。

「嬉しいな。こんなのが欲しいと思ってたんだよ。これから毎日これでコーヒー飲むよ」

 とカーツンの声は弾んだ。

 中森と庄野は一学期の始めからカーツンに親しく声をかけてきた生徒だった。授業開始の数分前、早く来たカーツンが廊下で始業のチャイムを待っていると、話しかけてくることが多かった。その会話のなかで、カーツンは二人に定期考査で或る基準の点数以上を取れば褒美として食堂のメニューから適当なものを奢る約束をした。第一回は六十五点を基準として缶ジュースにしたが、考査の度に基準点を少しずつ上げながら行ってきた。最後の学年末考査は七十五点以上で定食だった。結果は中森が七十点、庄野が七十五点。いつも中森より低い点を取る庄野が初めて上位に立った。カーツンは中森を大目に見て、二人共に定食を奢った。そんなことがあったので、二人はそのお返しをしたのだなとカーツンは思った。二人の女生徒の優しさと律義さをカーツンは感じるのだった。

 二人が去ってしばらくすると、木谷と松村がやってきた。昨日、木谷からカーツンの家に電話があり、今日学校に来ると言うので、昼頃来ればいいよと言っておいた。木谷と松村は昨年女子部を卒業した生徒だった。カーツンが女子部三年に所属していた時に教えた生徒だった。木谷と松村ともう一人、野口という生徒が仲が良く、いつも三人が一緒に居た。そして三人ともカーツンに懐いてくれた。木谷と野口が同じクラスで、松村は別だったが、休み時間になると松村はいつも木谷のクラスに行って、木谷の側に居た。

 二人とも目にアイラインを入れ、木谷は茶色に染めた髪をアップにし、松村は長い黒髪を艶やかに光らせ、ニコニコしながらカーツンの側に来た。服は二人揃って色鮮やかなローブ風のワンピースで、制服姿とは異なる年頃の娘の美しさを感じさせた。

「久しぶり。よく来たね」

 とカーツンは声をかけた。二人はちょこんと頭を下げた。

「二人ともきれいになったな」

 カーツンが言うと二人は下を向いて微笑した。

「今日は野口は」

 二人で行くと木谷が電話で言っていたのでカーツンが訊くと、

「麻衣は今日は都合が悪くて」

 と木谷が答えた。

「そうか」

 カーツンが頷くと、

「先生、写真持ってない」

 と木谷が訊いてきた。

「俺の写真?」

「そう」

 カーツンは木谷に渡せるような適当な写真が思い浮かばなかった。机の引出しに何枚か写真が入っているが、どれも集合写真だ。

「カメラ持ってないの?持ってるなら今から俺の写真取ればいいじゃないか」

「現像しなければならないものはだめなの」

「え。もう出来上がってるやつがいいのか」

「うん」

「何に使うの」

「うん。ちょっとね」

 木谷は答えない。

「うーん、白黒でいいの?」

「できればカラー」

「どんな写真。顔写真とか」

「そう。顔が大きく写っているのがいい」

 カーツンは引出しのなかを探した。証明写真の余りがあるのではないか思ったが見つからない。二年前に写したギター同好会の集合写真がカーツンの頭に浮かんだ。あれなら比較的大きくカーツンの姿が写されている。カーツンはその写真を取り出して木谷に見せた。

「これ、コピーしようか」

 と訊くと、木谷は頷いた。カーツンは写真を持って印刷室に向った。何に使うのだろうと思いながらコピーを取った。コピーを木谷に渡す時、

「何に使うんだよ」

 とカーツンは再び訊ねた。木谷は笑って答えない。カーツンは少し不安になった。変なことに使われると困るなと思った。

「気になるなあ」

 とカーツンは呟いた。

「そんな。悪用はしないから」

 と木谷は笑いながら言った。用事を済ませて三十分くらい後にまた来ると言って、二人は職員室から出て行った。カーツンはその間に昼食を摂った。

 再び現れた彼女たちはカーツンに色紙を差し出した。それはまたカーツンが初めて目にする種類の色紙だった。色紙自体がハート形をしている。地の色は淡いピンク。それに木谷、松村、野口のカラフルな大小多数のプリクラ写真が貼ってある。その写真には「ずっといっしょ」「仲良しサイコー」などの書き込みがある。色紙の上部に「こげんじが1番大好き」と大きく書いてあり、右脇にカーツンがさっき渡したコピーからカーツンの姿だけ切り取って貼ってある。その上に「大好き」と赤いペンで書いている。プリクラ写真の隙間は三人のカーツンへのコメントで埋められていた。カーツンは感激した。この娘たちも色紙をくれるのだ!

「嬉しいなぁ。いや、ありがとう」

 カーツンはお礼を言って頭を下げた。

「ここに先生の写真を貼りたかったんだけど」

 と木谷が言った。色紙の中央が五センチ四方ほど空いている。そこにはハートマークが描かれ、その中に「大好き」と書いてある。彼女たちはここにカーツンの顔写真を貼るつもりだったのだ。これで木谷がカーツンの写真を求めた理由が分かった。用途を明かさなかった訳も。カーツンの胸に彼女たちの優しさが沁み透った。写真を悪用されるのではと疑った自分の心の汚れを恥ずかしく思った。

 カーツンは二人を食堂に連れて行き、コーヒーを奢ることにした。

「こげんじと書いてあったな」

 食堂への階段を上りながらカーツンは木谷に話しかけた。そして、

「なるほどな、古典と現代文を教えているからな」

 と自分で頷いた。

 木谷のクラスではカーツンは古典を教えた。『蜻蛉日記』『源氏物語』のかなり長い文章を読んだ。男子部スポクラではできない授業だった。授業の前後には木谷がよく話しかけてきた。ふざけた馬鹿話が多かったが、その弾みで、カーツンは自分のことを「こてんじ」と言ってしまったのだ。「古典爺」、つまり古典を教えている爺さんの意だ。「爺」に自虐を感じたが、木谷たちから見ればその通りだろうと思った。果して木谷は喜んだ。廊下などでもカーツンに「こてんじ」と呼びかけるようになった。松村のクラスでは現代文を教えた。だから二人が一緒にカーツンを呼ぶ場合は「古現爺こげんじ」となるわけだ。

 食堂の自販機でカーツンは缶コーヒーを三つ買い、端っこの窓際のテーブルを三人で囲んだ。

「大学はどうかね」

 とカーツンは話の皮切りに二人に訊ねた。二人は大学は別だが地元の四年制の私立大学に進学していた。二人は微笑を返した。

「松村は日本文化を海外に紹介したいとか書いていたな」

 推薦入試の面接指導の折、松村は「将来の希望」欄にそんなことを書いていた。

「そのためには日本文化を勉強しなきゃならんな。何か勉強してんの」

 カーツンの質問に松村は曖昧に笑った。

「まあ、松村の場合は英語が専門だからな」

 松村は在校時、「国際教養コース」のクラスに居た。このクラスは少人数だが、二年生になると海外留学をするという特徴があった。留学期間は半年から一年に渡った。カーツンが四月に初めて授業に行くと、クラスの半数近くがまだ留学先から帰っていなかった。全員が揃ったのは一学期が終る頃だった。アメリカ、イギリス、オーストラリア、ドイツなどが留学先だった。松村はアメリカに一年間留学していた。彼女も帰ってきたのは六月だった。

「先生、村岡先生どうしてる」

 木谷が突然訊ねた。

「ああ、村岡先生は今年は共学の一年生に入ってたな」

「担任してるの」

「ああ、そうだろう」

 カーツンは頷いた。村岡は去年は女子部の三年に所属していて、松村のクラスの担任だった。

「どうかしたん」

 と松村が訊いた。

「あの先生、私のタイプやったんよ」

 木谷が顔をクシャと潰したように笑って言った。

「えっ、村岡が。あのゴリラが」

 と松村が応じた。

「かっこいいと思わない? 可愛いところもあるし」

 木谷は照れ笑いをしながら言った。

「そうかな。まあ、悪い人じゃないけどね」

 と松村は頷いた。

「私、卒業式の後でコクロウと思っていたけど、できなかった」

「そうなん。知らなかった」

 コクルというのは好きだと告白することだなとカーツンは推測した。カーツンも木谷の発言に驚いていた。

「あの先生、まだ独身でしょ」

「うん。結婚の話は聞いてないよ」

 松村は答えた。

「でも、どうせだめだよね」

 木谷は少し首を傾げて言った。

「そりゃあ分らないぞ。当って砕けろだ。言うだけ言えばいい」

 カーツンは口を挟んだ。

「そうよ。コクってみたら」

 と松村も促した。そこへ二学年所属の若い女教師が現れて、

「江崎先生、越谷先生が職員室に来てくださいと言ってます」

 とカーツンに伝えた。カーツンは二人に「ちょっと待っとって」と言って席を立った。

 階段を下りながら、カーツンは何を言い出すやらと、木谷の告白を思い苦笑を浮かべた。

 職員室に入ると、二年のブロックには教師たちが集っていた。越谷がその中央で花束を抱えている。予想はしていたが、やはりとカーツンは思った。軽快に行け、と彼は自分に言い聞かせた。

「先生、こちらへ」

 と越谷が促した。カーツンは頭を下げながら教師たちの中に入り、越谷の横に立った。

「えー、二学年では大島先生の他に江崎先生もご退職になります。学年から花束を贈り、お送りしたいと思います」

 越谷はそこで言葉を切り、カーツンの方を向いて、「お疲れでした」と言って花束を差し出した。大島の時と同等の花束だが、離任式で手渡された花束の二倍ほどはある大きなものだ。「ありがとうございます。お世話になりました」と言ってカーツンは受け取った。拍手が起きた。セレモニーはそれで終った。

 カーツンは自席に行き、自分のロッカーの上に花束を、離任式でもらった花束と並べて置いた。ロッカーの上はそれで一杯になった。持って帰るのがちょっと大変だなと彼は思った。

 学年の副主任の平野が、「江崎先生、学習会の監督はいいんですか」と訊いてきた。学習会の責任者が平野だった。「ああ、行きますよ」と、そのために苦しんだことを悟らせないようカーツンは軽快に答えた。一方で、これで監督が確定したなと唇を噛んだ。

 食堂に戻ろうとカーツンは出入口に向った。すると福山が前に立って、

「先生、お疲れ様でした。お世話になりました」

 と言って頭を下げた。カーツンは同僚教師から面と向ってこんな言葉を掛けられるのは初めてのような気がした。

「私、先生のご退任のことを全く考えてなくて、朝、あんなことを言ってしまってすいません」

 と彼女は続けて言った。スポクラの朝のホームルームにはカーツンが行くのか、という今朝の発言を詫びたのだ。福山は日頃そんなことを言う教師ではなかった。スポクラの隣のクラスの担任なので、ホームルームを掛け持ちさせられるのではないかという不安と不満が生んだ発言だろうとカーツンは後で推測していた。

「いや、いいですよ。あなたにもお世話になりました。あなたには癒されるところがありましたよ」

 とカーツンは応じた。カーツンは福山と個人的な付き合いはなかったが、十年以上その人となりを見てきた。福山は生徒の扱いが優しく、それが逆に生徒管理に甘さをもたらしていると学校の主流派教師たちから批判されていた。しかしカーツンは福山の生徒に寄り添おうという志向を評価し、そのナイーブな人となりにも好意を抱いていた。他に対して攻撃的な教師が多いなかで、彼女は側に居る者にほっと寛ぎを感じさせてくれる数少ない存在だった。

 食堂に戻ると、テーブルでは二人の娘が楽しげに話していた。自分を待っているわけでもあるまいと思いながらも、カーツンは「お待たせ」と言って椅子に座った。

「先生がやめちゃうと学校に来ても会えなくなるから淋しいよ」

 と木谷が言った。

「それはそうだな」

 とカーツンは応じた。この子たちと学校以外の場所で会ったことはなかった。会おうとも考えなかった。

「先生、やめた後もキープインタッチでいこうね」

 と松村が言った。意識的な努力をしなければもうこの娘たちと会うこともないのかもしれなかった。その意識的な努力を俺はしないだろうなとカーツンは思った。やはり連絡を待つ側の受身の立場に止まるだろうと思うのだった。

「夏になったら花火見物にでも行きたいね」

 とカーツンは言った。この次会うとすればその時だという気持を籠めた。この娘たちの浴衣姿を見たいと思った。だから連絡してこいよという気持があった。

「花火?」

 と言って木谷はおかしそうに笑った。

 カーツンはこの優しい娘たちと過ごせる時間を幸いに感じた。お陰で離任式の日にふさわしい過ごし方ができたと思った。二年の女生徒たちも含めて、生徒たちの優しさ、温かさこそがカーツンを慰め、癒してくれているのだった。それがなかったら、カーツンは言葉をかけてくる者もいない職員室で、一人黙々と私物の整理を続けながら、心を荒ませていたことだろう。


   

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