例えば背伸びの赤ネイル

源 侑司

例えば背伸びの赤ネイル

 先輩、と呼ばれながらすれ違い様に袖をつかまれて、驚いて振り返った。


 それはよく知っている女の子だった。今年の春まで同じ中学校に通っていた、一つ下の学年の子。卒業式に少し話をして以来だから、彼女の顔を見るのは約半年ぶりだ。


「やっぱり先輩だ。久しぶり」


 ぱっと顔を輝かせて無邪気に笑う彼女に、その手に袖が引っ張られている感覚に、僕は自分の心に湧き上がる嬉しさと緊張と、そして少しばかりの気まずさを感じた。

 そういう気持ちを一言でまとめるなら、そう、胸が高鳴っているというんだろう。濃い目の紺の浴衣に身を包んだ彼女の姿は、僕の知らない彼女だった。薄くだけど学校ではしていなかったメイクもしているようで、袖をつかんだ彼女の手に目を落とせば、小さな爪には不釣り合いにも思えるような真っ赤なマニキュアも塗られていて、急に大人びたような雰囲気だった。


「どうしました?」


 彼女が怪訝そうに首を傾げる。彼女の姿をもっと見たい自分と見すぎてはいけないという自分がせめぎ合って、結果目のやり場に困っているという姿を不審に思われたらしい。


「いや、何でもない」


 気恥ずかしくなって顔を手で覆いながら、ぶっきらぼうにそう答えた。


「似合ってなかったですかね、この浴衣」


 彼女は自分の格好を確かめるように言う。気付いていたのかただの天然なのか、せっかく僕がごまかそうとしたのに、迷路の出口をふさがれたような気分だった。


「似合ってると思うよ……たぶん」


 似合ってないなんて心にもない言葉を口にするほど僕は天邪鬼ではないし、意地っ張りでもない。でもやっぱり恥ずかしいから、最後は曖昧に言葉を濁してしまう。


「そうですか、よかった」


 ほっとしたように、彼女が笑った。アップにまとめた髪につけた髪飾りは向日葵のモチーフで、いつも全力で笑顔を浮かべる彼女にはぴったりなイメージだと思った。


「先輩も来てたんですね、お祭り。まさか会えるなんて思わなかったですよ」


 ちらりと周囲に目を向けながら彼女が言った。こうやって話をしている間にも、僕たちのすぐそばを祭りの見物客が次々とすり抜けていく。彼らに当たらないよう小さな身振りで両手を広げながら、


「こんなに混んでるのに」

 と言った。


「場所、移す?」

「いいんですか? 時間」

「別に、ふらっと来ただけだし。そっちこそ、大丈夫?」

「私も平気です。ふらっと来ただけです」

「その割りには気合の入った格好だけど」

 そう指摘すると、彼女はえへっと笑った。


「とりあえず、人込み抜けようか」

 促すと、彼女ははい、と大きくうなずいた。


「あ、でもせっかくだから何か買っていきません? 私、何も食べてなくてお腹ペコペコなんですよ」

「そうだね。何買う? たこ焼きとか?」

「そんなの勧めないでくださいよ、青のり付いちゃうじゃないですか。せっかく気合入れた格好してるのに、台無しです」

 少しむくれたように、彼女が頬を膨らませる。


「何だ、やっぱり気合入れてるんじゃん」

 呆れたように言うと、彼女はまた無邪気に笑った。



 結局彼女が買ったのはイチゴ味のかき氷だった。そんなのでお腹膨れるのかと思ったが、彼女いわく、例え氷でもお腹に入れば空腹は落ち着くんですよ、とのことだった。

 僕もお腹が空いてきたので、たこ焼きを買った。


 市内の夏祭りは毎年この公園が会場となる。敷地内に大きなステージが設置され、盆踊りを含め様々な催しが行われる。ちょうど町内の和太鼓チームの演奏が始まったらしく、会場を離れてにぎやかな祭りの喧騒が遠くなったけれど、打ち付ける鈍い重低音は僕の身体の内までしっかり届いて全身に響き渡り、祭りの興奮を忘れないようにと呼び掛けてくれるようだった。


 この公園の近くには大きな川が流れていて、僕たちは堤防から階段で河川敷へ降りた。大きいとは言っても雨が降らなければ普段は穏やかな流れの川だから、水辺のすぐそばまで言っても危険はなく、むしろサラサラとリズミカルに弾むような水の音が涼しげで気持ちよかった。


 気持ちを力強い響きで沸きたててくれる太鼓の音と、優しく撫でるように落ち着かせてくれる水の音。二つの音はとても仲良く混じり合うことなどできないような正反対の存在だけど、今は奇跡的なバランスで手を取り合い、僕の心のざわめきを収めてくれているようだった。片方は否応にも高鳴る気持ちを祭りという非日常感でごまかし、もう一方は舞い上がらないように歯止めをきかせてくれているような、そんな気がした。


 彼女といるだけで僕はそんな風に気まずさや高揚感を覚え、気持ちが落ち着かないのには理由がある。


 それは卒業式の日、僕は彼女に告白してフラれているから。



「そういえば、久しぶりですね。お元気でした?」

 かき氷を口に運びながら、彼女が尋ねた。


「うん、まぁ、普通に元気してる」

「高校、どうですか?」

「楽しいよ、それなりに」

「勉強とか、難しいです?」

「難しくなったかも。今のところは、ついていけてると思うけど」


 何気ない受け答えを繰り返しながら、彼女の方を見やる。彼女の横顔は川面に反射した祭りの灯りに照らされ、暗闇の中でもよく見えた。

 何でもない会話をしていると緊張も落ち着いてきて、次第に気まずさよりも不思議に思う気持ちの方が強くなる。どうして彼女は、こんな風に普通の態度で接してくれるんだろう、と。


 元々特別に仲が良い間柄、というわけでもなかった。顔を合わせれば挨拶もするし会話も弾むし、普通の先輩後輩の間柄。それでうまくいく自信があったわけじゃない。それでも告白したのは自分の気持ちにケジメをつけたかったからだ。その決心は、卒業式になってようやくついたものだったけれど。


 その時、ふいに彼女の表情がかすかに曇ったような気がした。かき氷を食べるスプーンストローをくわえさせたまま、何かを考え込んでいるような、難しい顔。


「あの」

 しばらくそんな表情を浮かべた後、その間ずっと続いていた沈黙を気まずく思っていたのか、意を決したように彼女は口を開いた。


「本当は探してたんです、先輩のこと。きっと来てるって思ってました。だって、去年もこのお祭りで見かけたから」

「え?」

 思いがけない言葉を聞かされて戸惑った。確かに僕は去年もこの祭りに来ていた。だけど、彼女とは会っていない。


「去年は、声をかけられませんでした。私、その時は本当にふらっと遊びに来てて、格好も部屋着みたいなだらしない格好で、そんなんじゃ恥ずかしくて声かけられないって思って」


 正直、何を言っているのかわからなかった。口には出さないけど疑問符ばかりを浮かべている僕に構うことなく、彼女は続けた。


「だから、今年はちゃんと声をかけられるようにって、こんな格好してみたんです。本当に見つかるとは思わなかったけど……会えて、嬉しかったです」


 彼女が恥ずかしそうに顔を俯かせる。僕はいろいろと推察をしてはみたものの、やっぱり彼女がそんなことをする意図がわからなかった。だって僕の気持ちは、彼女には届かなかったはずだから。ところが、


「私も、本当は好きなんです」

 そんな僕の推察を見抜いているかのように、彼女は言った。疑うことを許さないほどの、真っすぐな瞳を向けながら。


「……何を?」

「先輩のことをですよ、もちろん」


 それは本当は半年前に聞きたかったはずの言葉で、今聞いても舞い上がりそうなほどに嬉しい言葉だった。だけど僕の胸中にはどうしても解けない謎が付随するように、降りてくる。僕はそれを押しとどめることができなくて、彼女に投げかけた。


「だったら、どうして?」

「先輩と、同じ高校に行きたかったんです」

 即座に返ってきた答えが僕の想定外だったので、僕は呆気に取られてしまった。疑問と答えが、何とも結びつかない。


「……おかしいって思うかもしれないですし、納得してもらえないかもしれないですけど、笑わないで聞いてもらえますか?」

「うん」

「私が、あの時断った理由、覚えてます?」

「えっと、受験勉強に集中したいから、誰とも付き合う気はないって」

 わざわざ思い出すまでもなく、たった半年前に突き付けられたその言葉は脳裏に焼き付いていた。だけど正直、よくあるようなていのいい断り文句だと思って、それ以上何も聞くことはしなかった。


「それ、本当なんです。ずっと前から、先輩と同じ高校に行こうって、また学校で会いたいって思ってました。でもあまり成績いい方じゃないから必死で勉強頑張らないといけなくて……」

 必死に弁解するように、彼女が言う。


「先輩に告白されて、本当は嬉しくて、飛び上がりそうでした。でも、そこでうんって言っちゃうと、勉強に身が入らなくなっちゃいそうで、それで一緒の高校に行けなくなるなんてのは絶対に嫌で」

 そこまで言って、彼女は口をつぐんだ。そうだったのか、と嬉しさと入り混じる複雑な気持ちをなんとか納得させる。


「でも、不安だったんです。待っててほしいなんて言うのも自分勝手だし、けど高校に入って先輩が違う人を好きになったらどうしようって。だから、せめて学校とは違う場所で、かわいくなった格好を先輩に見てもらって忘れないでいてもらえるようにって。こういうお祭りの場所なら、できるんじゃないかって」

「それで、そんな格好を?」

 初めて見る彼女のメイクや爪のマニキュア。彼女は恥ずかしそうに胸の前で手を握り、赤色を隠した。


「……お姉ちゃんに、貸してもらったんです。やっぱり、変ですよね」

 苦笑いを浮かべながら、彼女が言った。そんなことないよと、僕は首を横に振る。

「成功だよ」

「え?」

「今日のこと、今聞いたこと、もう絶対忘れられない。本当は一度フラれてるのにまだ未練があるなんて格好悪い気がして言えなかった。けど、やっぱり今でも好きだし、だから、待たせてもらってもいい? また同じ学校に、通いたい」

「……はい!」

 彼女は顔を輝かせて、うなずいた。



 二人で寄り添うように座り、川面を眺めていた。

 すっかり溶け切ったかき氷を、彼女はストローで飲んでいる。僕もすっかり冷めてしまったたこ焼きを口に運んだ。


「あの、やっぱり、たこ焼きひとつもらってもいいですか?」

 申し訳なさそうに言う彼女に、どうぞ、と差し出す。彼女は丸い大きなたこ焼きを口に頬張り、おいしそうに笑みを浮かべた。


「何かほっとしてお腹空いちゃいました」

「せっかくだから、もう少しお祭り見ていく? その、今日ぐらいは一緒に」

 立ち上がりながらそう尋ねる。すると彼女ははい、と弾むような声で答えながら、僕の袖をつかんだ。


「先輩、背高いですよね。私、背伸びしても届かないですよ」

「ちゃんと歩かないとつまずくよ」


 背伸びをした彼女の顔が、その分の距離だけ近づく。花のような、いい香りがした。たぶん、これもお姉さんから借りた香水の匂い。僕はその香りを、一瞬で好きになった。

 例えばメイクだったり、マニキュアだったり、香水だったり。それは今の彼女には背伸びかもしれないけれど、伸びた分だけもっと好きになれるような、そんな気がした。


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