透明

越野 来郎

透明

 朝起きたら僕は透明になっていた。


 別に体が透けているわけではない。自分の目にはしっかりと手や足が見えている。パジャマだって着ている。しかしいま目の前にいる母の目には、僕はおろかパジャマすらも見えていない。

 僕は小柄な母の肩に手をやる。自分の手には柔らかな感触が手に伝わる。しかし、母は何もないかのように歩き始める。その瞬間、自分は他人に見えていないのだと気づいた。

 母は二階と一階を慌ただしく往復している。大体10分くらいだろうか。僕の家の前にパトカーが止まり、ガタイのいい警察官二人が家に入ってきた。二人は玄関で母や父と少ししゃべった後、僕の部屋に押し掛けてきた。布団やらタンスやらを一通り確認した後すぐに、僕の捜索届けが出された。目の前にいる僕は何もすることができず、ただ母の袖をつかんでいた。

 家出ということで処理された僕は、両親や警察、近所の人が探し始めた。近くに住む、父方の祖父母も駆け付けた。見つかるはずのない捜索が始まった。


 僕は走って学校に向かった。もしかしたら、友達はまだ見えるかもしれない。先生なら、見てくれるかもしれないと。でも、僕が校舎に入っても、職員室に行っても、教室に行っても誰も僕を見た人はいなかった。どんなに扉を強く締めても、振り返る人もいない。先生の前で踊っても、友達の肩を揺らしても、どんな奇行に走っても誰も見てはくれなかった。

 先生から僕が失踪したということがクラスに伝わった。クラスの人は、驚いている人もいれば、面白がっていた人もいたが、それが三日も続けばみんなの顔は深刻になっていた。その後、根も葉もないうわさができていた。幽霊に連れ去られた。とか、夜に女と駆け落ちした。など、ありえないものばかりだった。しかしこの状況こそが非現実的なので笑うことができなかった。


 いつしか僕は夢なのではないかと思い始めた。いつまでも覚めない、長い長い夢なのではないだろうか。

 僕が見えなくなってから一か月が経った。その間に僕は夢から覚めようと、腕をつねってみたり、頬をたたいたり、顔を水に沈めた。


痛い。痛い。痛い。苦しい。  怖い。


 何度も強く強くたたいた。でも結局自分の顔と手のひらが真っ赤になるだけだっだ。誰一人として見る人も助けてくれる人もいなかった。赤くはれ始めた頬から冷たい涙が流れ始めた。一度流れ始めた涙はダムのようにあふれ出す。透明になってから、ずっと我慢していたからか、不安のせいなのか、声を上げて泣きじゃくる。


 「どうじでぇ....。どうじて僕だけがげごんな目に合わないといげないんだよぉ!」

嗚咽交じりの僕の声が商店街に響く。その声は人々の耳に入ることもなく、大きくてどうしようもない虚空が吸い込んでいった。


 泣き疲れたのか、その場に座り込む。夜も更けてきて、お店も締まり始める。居酒屋のうるささがなくなりと、一日の終わりというように商店街も静かになる。

 最近は学校にも行かなくなり、町を歩き回らず部屋にこもっているか、この商店街にいる。初めのほうは僕を一生懸命探していた警察も、他の事件などで探すことがなくなっていた。町のみんなも捜索をやめ、普通の生活を再開する。学校では、僕はまるで初めからいなかったかのような空気になっている。席は一番端に代わっており、点呼の時は呼ばれなくなっていた。

 

 そういうことなのだ。


 つまりそういうことなのだ。


 これが僕じゃなくて友達でも、先生でも、人気の俳優でも、総理大臣でも。

 結局は忘れられていくのだ。たった一か月いないだけで僕の16年が忘れられてしまうみたいに。

 おかしい。悔しい。いやだ。いやだ。いやだ。


 伏せていた顔を上げる。今日は新月なのか月が見えない。でも、星たちは輝いていた。普段は月の光に負けていた星たちが、まぶしく、きらめいていた。暗い夜をそっと照らしている。


 そうだ。。。


 僕は決心した。曲げていた足を一度ぐっと伸ばして勢いをつけて立ち上がる。そして星に届くくらい背伸びをする。

 変えよう。せっかく透明になっているんだ。必ず、元に戻って、みんなをびっくりさせよう。それで、テレビとかに出て有名になろう。みんなから少しでも覚えていてもらえるようになろう。それが生きる理由なのかもしれない。人は忘れられる生き物だけど、忘れられない生き物でもあるのだ。だから。だから忘れられない体験談をみんなに話そう。みんなに覚えていてもらおう。

 

 そう思うと僕は歩き始めていた。どこに行くのかも、どうやって治るのかもわからない。でも不思議と足は進んでいた。伸びきった爪や髪の毛を切る。幸いにもこの体は食事を必要としない。ならなんで髪は爪が伸びるのか、考えてもしょうがない。この体に起こることすべて、。という決まったことなのだ。それ以外はない。この体は自由だ。どこへだって行ける。まずは国内の隅々まで行こう。それが終わったら、国外に出て、世界一周なんて夢のある話だ。僕は大きなバックに少しの着替えと小銭と地図を持って、駅に向かった。


 駅の改札を通ろうとPASMOを押すが反応はない。どうやら、機械ですら僕を判断しなくなっていた。だがこれは逆に好都合だった。お金を払わないで電車が乗れるのだ、普段は申し訳ない気持ちでいっぱいになっていたが、今は感謝している。

 朝の通勤ラッシュのせいか駅は人であふれかえっていた。

 こんなに人がいれば僕のこと見れる人がいるかもしれないため、一応線路に降りてみる。勿論電車が来ないことを確認した後で。薄暗い線路はひんやりとしていてホームの熱気を冷ましているようだった。電車を待つ人々が自分を見ている気がした。しかし走っても、口笛を吹いても誰も反応することはなかった。ただ、誰かの視線を感じるのは自分の行為に自然と後ろめたさがあるからなのだろう。いそいそとホームに戻る。

 そのうち電車が快音を立ててやってくる。銀色に光っている車体はホームで止まると、雪崩のように人がおりてくる。スーツ姿の会社員から、制服の学生、高そうなアクセサリーをつけている女性。小さなドアからたくさんの人が出入りする。僕もそっと空いたスペースに滑り込む。ぎゅうぎゅうに押されながらじっと乗り続ける。

窓から見える町はレプリカのようにちっぽけだった。小さいとき、あんなに大きいと思っていたあの赤い屋根の屋敷も、ガラス張りのビルも。いまなら手に収まりそうだった。

 ただただ揺られながら乗っていると、どんどん人は減っていった。終点になるともうぼちぼち人が乗っている状態だった。つり革が小刻みに揺れていた。まるで僕をせかすように。

 終点の駅を降りると、すぐ向かいにあった電車に乗り込む。効きすぎたくらいのエアコンで肌寒い車内は、眼鏡をかけた知的な大学生と、海に遊びに来たであろう学生の集団が座っていた。大学生はうるさい学生にイライラしているのか、本を読みながら足で地面をけっていた。

 少し離れた席に腰を掛ける。列車の窓から海の光が反射して降り注いでいる。

 ポケットからクシャクシャに折られた地図を取り出す。このままこの電車を乗ると陸の一番端まで行くことができる。そこから一歩踏み出せば、もうその先には道なんてない。ただ一面の海がそこに漂っているだろう。

 アナウンスが鳴り響く。空気が抜けるような音に続いてドアが閉まり始める。

 「あっぶなーい!!まにあって!」

 締まる直前、ジュースを片手にした少女が電車に飛び込む。ドアが閉まるギリギリで彼女は滑り込むことに成功した。

 彼女はまわりを一度見渡し、うるさそうな中学生にいやな顔をして、こちらにやってくる。そして、僕の席から一つとなりを開けて腰を下ろす。

 凛とした顔立ちに、黒いロングヘア。色白で、華奢な体系とは裏腹に、目元が大きく力強さを感じる。耳にイヤリング、首元にネックレスなど、かなりおしゃれであった。高校生くらいであろうか。しかし高校生が一人でこんなところに来るなんて珍しい。

 

 「あの。そんなにじろじろ見ないでくれる?ケーサツ呼ぶわよ。」


 「す、すいませんっ!」

 僕は慌てて目をそらす。確かに入ってきてから僕はずっと彼女を見てしまっていた。もう一度ちらりと見ると口元に少し笑みを浮かべて、僕を見ている。

 もしかしてほんとに警察に電話するのだろうか。なんて警察もぼくのこと....。


 「ぼ、僕のことが見えるんですか?僕の声が聞こえるんですか!!」

席から立ち上がり彼女に詰め寄る。急に立ち上がる僕に一瞬ビクっとさせながらも、口元の笑みは崩さなかった


 「ああ。勿論見えているとも。そして知っている。お前が誰にも見られなくなっていることも。その証拠に、こんなに騒いでいる乗客を他のものは全く見ていない。しかもさっき線路に出ていたのもお前だな。その体でもひかれたら死ぬんだ、せいぜい気をつけろ。そして何よりも、、それが動かぬ証拠だな。」


 足を軽く組み、生き高らかに語り始める。彼女の大きなその目は、面白いものを見つけたといわんばかりにキラキラと輝いていた。

 

 「私が見えるということは、あんたも人から見られてないのか?みえているとしたら、えげつない独り言を空に向かってしゃべってる子になるぞ。」


 「見えていないに決まってるだろ。それと透明になってる期間は私のほうが長いんだ、先輩。と呼びなさい。後輩君。」

 どうやら透明人間界にも縦社会の風習があるらしい。郷に入っては郷に従え、仕方がなく、自分と年が近いであろう彼女のことを、先輩ということにした。


 「それで先輩はいつごろから透明に?」

電車は猛スピードで海の横を走っている。窓から入る新鮮というか、懐かしいというか、そんな潮の香りが漂っている。


 「ふん。高校生になったときからだ。」

 

 先輩は腕を組んで外を眺めながら言う。目は少し細めて思い出すかのように言っている。高校生になってからということはあまり時間はたっていないのだろうか。年が分からないため見当がつかないが、レディに、しかも今日あったばかりの人に、年までは聞けない。ただ、自分で長いといっているのだから、今では大学生くらいになっているのかもしれない。


 「君は人をジロジロ見るのが好きなのか?それとも私に見とれているのか。あまり見られるといい思いはしないものだぞ。」


 また無意識に彼女のことを見てしまっていた。ただ仕方がなかろう。一か月以上誰とも話さずにいたのだ。しゃべれる人がいるだけで何億倍も楽になった。


 「僕らのほかにも透明になった人とかってあったことあるんですか?」

 

 「ああ。あるとも。そーだなあ、確か5人くらいだったと思うな。男女混合の。でも年代は決まって皆、高校生だった。」


 電車が駅に着く。うるさかった学生の集団や、大学生が降りていく。ここからは二人だけになりそうだ。スカスカになった車内はほかの人が見たらだれも乗っていない無人列車だろう。外の虫の音だけになった電車はまた揺れ始める。


 「そ、その人たちはどうなったんですか?今でも先輩のように見えない人として生きているんですか?」

 

 少し震える声でしゃべる。先輩はやはり外を見ながら言った。


 「知らない。」

 

 窓の外を見ながら、ぶっきらぼうに言い放つ

 彼女の言葉に、その一言に押しつぶされそうだった。彼女自身もわからない。確かにそうだ、治る方法があればとっくに戻っているだろう。そんなこと神にしかわからない。いや、姿を見ることのできない神様はわからないかもしれない。いったい誰が分かるのか。声に出して聞いてみても、誰の耳にも届かない。


 「私が聞こえるだろ。」


 彼女は不敵に笑い、目はぱっちりと開いて真っすぐ僕を見つめる。


「君はネガティブすぎる。人生このくらいないと楽しくないだろ。いいか?君は誰の目にも気にされないで遊べる!そう、自由だ!どう?いい響きだろう。」


 先輩は胸を張っていった。自由....。

 勉強も、運動も、家族も、恋愛も、友人も、時間も、鎖も、何もかもが解き放たれる。ああ。自由になりたかったのかもしれない。

 不意にチャイムが鳴り響く。終点の知らせだ。電車のスピードが落ち、駅に近づく。もう目の前には深い青の海が広がっている。息をのむ。

 

 「行くぞ。早く!」


 「はい!先輩!」


 先輩が僕の腕を引っ張っていく。改札を走って抜けて、そのままただひたすらに潮のにおいに向かって走り出す。初めての場所なのにまるで海の場所が分かるかのように足が進む。先輩も僕も笑っていた。

 へとへとになりながら、海に着く。水平線がはっきりと見える。あの先にはまだ海が続いていて、いつか別の世界が現れる。波はせわしなく、満ち引きを繰り返す。


 「どう?海ってとっても自由だろ!」


 先輩は砂浜に大の字で寝そべる。大きくうなづいて、僕も砂浜に寝そべる。上に広がるのは水色の空と、真っ白い綿あめのような雲。それに真っ赤な太陽。

 急に波が顔にかかる。大きな波がここまで来たみたいだ。服も少し濡れてしまっている。それを見て先輩が笑っていた。だから次は、海の水をすくって、先輩にかける。そこからは水の掛け合いが始まり、いつの間にか二人とも海に入っていた。

 まだ春過ぎ位だからか、水は冷たかった。しかし遊ぶことをしていなかった僕にとって、とても懐かしい時間だった。


 「くしゅうん。寒いなあ。」


 先輩が透けているTシャツの腰のところを絞りながら言う。いつの間にか夕方になり、気温が下がってきた。僕も肌寒くなりはじめ、バックから先輩の分も一緒に、長袖の羽織る服を取り出す。サンキューっと先輩はさっと羽織る。男物しかないため先輩に合うかわからなかったが、いい感じじゃん!っといろいろなポーズをとっている。何着ても似合うのは、それだけ顔も整っているからなのだろう。


 「これからどうするんですか?ずっと野宿とかするんですか?」


 僕は濡れてぴったりくっついたTシャツを脱ぎながら聞く。Tシャツからは、しょっぱい匂いが鼻を刺す。持ってきたビニール袋に詰めてバックにしまう。

 振り返ると、もう先輩は靴を履き終えて、歩き始めていた。

 

 「女の子に野宿させる気だったのか?まったくこれだから高校生は。それに私が何も考えないで行動するわけないだろう。ちゃんと用意してある。ついてこい。」

 

 回れ右をしてこちらに振り返り、指をさす。その目は合った時同様の大きな目だった。

 海を背に、彼女が再び歩き始める。追いつけるよう僕は小走りになる。

 波音は急に小さくなっている気がした。まるで眠るかのように。



 「どうだい?立派なものだろう!なんたって私が考えたのだからな!」


 小さな胸をいっぱいに張る彼女の後ろには、本当に立派なログハウスが建っていた。ペンキで黄色く塗られたそれは、林のなかでとても目立っている。


 「これは先輩のものなんですか?随分と立派なんですけど。もしかして先輩の家って金持ちなんですか?」


 僕は建物を見上げながら言った。先輩は鍵を取り出して普通に玄関から入っていく。

 

 「これは私のものだ。両親のものではない。私が建てたのだからな。」


 彼女は強気で言う。何か隠していることがありそうな感じだったが、探るのはやめておいた。人の隠し事を探るのはあまりいいことではないし、せっかく豪華な家に案内されたのだ。思いっきりくつろぐことにしよう。


 「それじゃ、まずはそこにある雑巾で床をふくんだな。」


 近くにある一人がけのソファに彼女は、女王のように足を組んで命令した。


 「は、はあ!なんで僕が召使みたいに働かないといけないんですか!」


 「おいおい、君は無料ただで。無料でこの屋敷に泊まろうと思っていたのか?」

 ぐうの音も出ない。確かにその通りなのだが、いくらなんでもこの広い屋敷をこの雑巾一枚で掃除なんて。しかも一日遊んでくたくたなのに。


 「まあ、今日のところは大目に見といてあげよう。でも明日からは働いてもらうから覚悟しろ。とりあえず、もう布団を敷いて寝るぞ。」

 上からなのはいいとして、労働が決定してしまった。


 先輩はいそいそと物置からビニールのバックに包まれた布団を運んでいく。

僕も横からひょいっと持ち上げる。一瞬彼女が赤くなって、そっぽを向いてしまったが、すぐに、「早く運べ。」っといつもの口調になっていた。


 布団を床に二枚敷き詰めても、まだまだ余りが出るほど大きいリビング。さすがにぴったり隣だと、僕もリラックスして寝れないだろう。布団を10センチほど離す。

 

 「なぜ離す必要がある?」


 「いやだって、普通に考えて今日あったやつと、しかも異性と隣で寝るなんて普通出来ないですよ。」

 慌てて、反論する。彼女には乙女心がないのだろうか。

 いじけた小学生のような顔をしているが、今度はなぜか布団の端をもって....。


 バサッ!


 思いっきり反対方向へと離す。近くに立っていた僕にも風が飛んでくる。もちろん勢い任せの移動だったため、先輩もそのまま布団に倒れこんでしまう。


 「ふぅんだー。そ、そんなに離したいならこっちから願い下げだ!」


 拗ねてしまったがなんというか、これは完全にツンデレではないか。これなら、さすがに僕も知識がある。こういう時は、ふいに来る男らしさに惹かれるやつだ。


 「先輩。ほら、寂しんだろ。僕の布団に入って来いよ。」

 布団を半分開けて、男前に、自分の出せる最大限の低い声で言う。この時のことを僕に聞かれても、夏のせいとしか言いようがない。どうかしていたに違いない。宇宙人に乗っ取られていたに違いない。つまり、完全な思い出したくない、黒歴史入りしているということだ。

 

 彼女は黙りこくって、うつむいている。何やらふるえてないか?あまりにもタイプだったのか!いい感じだったのか!と思っていた次第である。


 彼女はふいに顔を上げると、ぎこちない笑顔とともに言葉を放った。

 

「さ、さすがに、透明になっててよかったな。」


 いつもの毒舌とは違う。ガチトーンだった。

 どうやら本気で引かれてしまったらしい。


 その晩は僕は自ら玄関で寝ることを選んだ。



***

 次の日から僕は、彼女と二人だけの生活が始まった。朝起きて、すぐに建物の掃除を始める。お昼ご飯は町に出て買っておいた食材を二人で料理する。午後は遅くまで二人で遊んでいた。

 そしてへとへとになって屋敷にかえってくる。そこから二人で朝になるまで話したり、星を見に行ったり。

 まるで小さい頃に戻ったかのように僕らは過ごした。

 先輩と遊ぶ日々は、一日一日が幸せだった。濃厚で、今までの僕の人生のどの時間よりもずっと。


 髪が伸びてきたので先輩に切ってもらったりもした。

彼女は得意だと言い張り、はさみで一心不乱に切り始める。シャキっという心地のいい音とは別に、バサっという不穏な音が鳴る。自分の髪の毛が下にどんどん積もっていくのが分かった。何となく自分の髪形も察してしまう。


 「べ、別にわざとじゃない!髪の毛を切るのがこんなに難しかったのなんて知らなかったんだ。」


 鏡に映る彼女は申し訳なさそうに頬を赤くしている。目の前に映る前髪がぱっつんの自分を見る。ついに耐え切れず笑い声をあげてしまう。


 「よかったです。誰にも見られなくて。これは誰にも見せられませんよ。」

つられて彼女も笑っていた。また伸びたらきってもらうことにしよう。


 いつしか暑い夏が通り過ぎ、虫の音が高鳴る秋になっていく。


 僕はいつの間にか時間を忘れていった。


 この生活を永遠に望んだ。こんな体になってしまったのだから、このくらいの願いをしたところでおつりがくるくらいだろう。

 

 しかし神様は許してくれなかった。

 

 この生活が始まってからどのくらいが経っただろうか。いつもと同じように午後になってから海へと向かっている最中。急に息苦しさを感じた。

 全く感じたことのない痛み。痛いのかどうかもわからない。初めて感じるその感覚に気持ち悪くなる。心臓の鼓動は激しく音をたてて、一生懸命に血を運ぶ。いつしか歩くのをやめてその場に足を止める。口から息を吸おうとするがうまく吸うことができない。自分でわかる、これはとてもまずいことに。

 後ろから先輩が追い付く。初めは「どうしたのよ」っと軽くこちらを見ただけだったが、事の異常さを察知したのか、顔色が急変する。

 同時に僕の体が倒れこむ。


 「ちょっと!大丈…?ねぇ!あ…た!後は…!....。」


 僕は意識がなくなった。



 目が覚めるとベットの上に寝かされていた。

 頭がぐちゃぐちゃになって、ズキズキと鈍い痛みが体を襲う。おでこには水でぬらされたタオルがのせられている。そうか。先輩がここまで運んできてくれたのだろう。一人で来るのはなかなか大変だ。


 不意に電気がつけられる。

 

 「起きたのね。後輩。」

 そこには真剣なまなざしの先輩が立っていた。


 「ありがとうございました、先輩。急になんかよくわからない感じになってしまって。」


 言い終わる前に僕のすぐ隣まで来る。こんなにも真剣な目は初めてかもしれない。彼女は目をそらすことなく言った。


 「それは警告よ。後輩はもうすぐ死ぬ。」


 理解ができなかった。言葉の単語の意味は理解できるが突然、急に、いきなり、そんなことを言われると、よくわからなかった。また冗談だと思って、笑おうとしたが、うまく笑えない。まるで、自分ではわかっているようだ。


 「ど、どういう意味なんですか?せ、先輩は何をしってい....。」


 言いかけたところで、親指を前に出される。


 「ついてきて。」


 短く、そう発音すると、起き上がる僕を待ってから歩き始める。


 半日以上横になっていた、体は想像よりも、重かった。


 


 彼女についていくと、屋敷の屋上のようなところに出る。あたりを見回せる、眺めのいい場所で、上を向くと、星々がきらめいている。その美しさに見とれてしまう。横になって、っと彼女はあおむけで寝転がる。僕も彼女の隣にゆっくりと寝転がる。


 何分くらい沈黙続いただろうか。長い無音のあと、消え入りそうな、でも、いつも聞いていた優しい声が耳に届く。




 「まずは透明化についてよね、あなたが一番聞きたいのは。これはね、簡単に言うと、。一度ね。驚いたよね、いきなりこんなこと言われて。でも完全に死んでない。思春期の人には、生きたいとか、輝きたいっていう願望が強く出ることがあるの。そういう魂が時にこうやって、体を動かし続けるの。」


「そ、それじゃあ。僕はずっとこのままみんなから見えないままなんですか?」

  

 声が震えている。寒いのではなく、体の内からくる何かだ。


「ううん。だから私がいるの。あなたと会ったのは運でも、偶然でもない。私の家系はね、そういう魂にもう一度、生命を与えるの。これがあなたの中で起こってたこと。そしてその時間が来たってこと。」


 彼女は小さく息を吐いて、こちらを見る。これが真相と言わんばかりに、うなずいている。


 自分が死んでいる。あまりにも理解しがたいことだが、自然と飲み込めてしまう。だけどまだわからないことがある。それを聞かない限りもどれはしない。


 「聞きたいことがあるんだ、先輩。いいかな?」


 返事こそなかったが、いってみろと、コクりとうなずく。


 「なんで先輩はすぐに戻さないで、ずっと遊んでくれたんだ?戻すのが家業ならあそばなくても良かったんじゃないのか?」


 少し彼女は言葉に詰まりながら、やがて口を開く。


 「寂しかったんだ。寂しかったんだよ、誰にも見られない、誰も私を見ることができない。次、私が見れる人が現れるかなんて、まったくわからない。だから、だからわがままに私はお前を、後輩をそのままにした。ごめんなさい。ほんとにごめんなさい。」


 彼女の目から透明な雫が落ちる。体が思うように動かない。こんなに近くにいるのに抱きしめることができない。ただただ泣いている彼女を横目に見ることしかできない自分が悔しかった。


 「それと....。これは僕の想像なんですけど。もし違ったら、違うって言ってくださいね。先輩の話からだと、先輩もずっと僕と同じような状況で、透明になっている人を助けているってことなんですけど、先輩は僕たちとは違うんじゃないんですか?

家系で助けているってことなんですけど、どういうことなんですか?先輩も死んでいるんですか?」


 答えが返ってこない。スッと上を向いたままだ。


 「これはあくまで僕の考えなんですけど、先輩はもう幽霊なんじゃないんですか?本当に想像です。でも、先輩はどうして、?爪だって切っている姿は見ませんでした。タダの確認ですから。」


 彼女はやがて半身を起こして、こちらに近づく。


 「あなたの言う通りよ。私は幽霊。一番死に近いあなただから見える、幻想。

私の家では、18歳と同時に霊となるわ。殺されるとはまた違う。幽体離脱というのかしら。本体は奥の神殿に寝かされて、そこに保管される。もうわたしは自分が何歳なのか数えるのをやめたわ。ずっとこの体のまま。どんなに透明になっている人を見つけても、いつかは別れてしまう。どんなに楽しくても、すぐに消えてしまう。でも、それでも!私は私であり続けた!じゃないと、もう自分が何なのかわからなくなるから!」


 気づいたら僕は彼女のことを抱きしめていた。


 「わかったよ、先輩。僕が、僕が必ず見つけ出すから。体が戻っても、探し出して、また一緒に遊ぼう。海に行こう。花火をやろう。髪だって切ってもらうし、こうやって星を見よう。先輩はまだ死んでない。忘れさせなんかしない。必ず。」


 涙がこぼれだす。先輩との思い出が頭にどんどんとあふれ出してくる。もう止めることはできなかった。腕に力が入る。


 「別れたくない....。後輩と、もっと遊んでいたい、もっともっと一緒にいたい!」


 

 「私を見つけてね、後輩。」





 目が覚めた時、僕は病院の中にいた。



***


 「気をつけなさいよー。あなたまだ免許取ったばっかりなんだからね。」


 母の声を後ろで聞きながら、バイクのエンジンを入れる。


 あの後僕は、1年越しに発見されたと、大きく新聞に載った。僕は透明になっていたことをテレビで語った。そのせいで、当時はミステリーネタで引っ張りだこだった。今は少し落ち着いてきたが、いまだに透明人間という通り名でこの街にいる。


 ヘルメットをかぶる。今から行く場所はわからない。でも、体が勝手に反応している。

 バイクにまたがり、アクセルをかける。暖かい初夏の風が横を通りすぎる。


 「行ってきます。」


 渇いたエンジン音が町に響いた。


 







 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

透明 越野 来郎 @kukitaman

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ