その肆

 明滅する蛍の光が、手水舎てみずやに置かれた柄杓を淡く照らした。陽の引き篭もる暁八つ、静まりかえった境内の中で一人嗤う。

 ああ、あの子は気付かなかった。助言はあんなにも与えたというのに。宵の口まで悩み、考え、そして遂に分からぬまま目を伏せた。何も知らず、未だに現し世へ帰ろうと躍起になっている。何て愚かで、滑稽で、いのだろう。

 隠り世は不変の世界。時が混交する為、朧月の下で蓮の花が開くことなどざらにある。更に生物の変化——つまり成長もなくなるのだから、隠り世で時間の流れを把握するのは容易ではない。目安となるのは一つ一つ数えた日数か、神無月の定例会議。

 そう、定例会議。あれは一年に一度、決まった日に行われるものだ。あの子はその会議に何度参加したと思う? 少なくとも、両手の指では数えきれないだろう。あの子を拐った日から、それだけの年月が既に経過しているということである。

 現し世の人々は、行方不明者が七年姿を現さなかった場合、失踪宣告というものが出来るようになるらしい。他国では死亡宣告なんて呼ばれたりするそれは、書類上の死を示す。

 そしてあの子はもう、現し世の何処にも居場所はない。責めるべき親も輪廻りんねの輪に導かれ、全てを忘れてしまった。

 けれど、そもそもあの子はまだ親を憶えているのだろうか。自分の名も忘れてしまった、可愛そうなあの子は。

 手中にある愛し子の真名を強く握り締めて、原型も見えない程複雑に縁を絡ませる。切れないよう、解けないよう、他者に千切られないよう。こうしなければ、今日のような輩は退いてくれない。幽冥界の主なんて、とんだ大物を釣り上げてくれたものだ。誰彼構わず惹きつけるのは止めてほしいが、本人に魂の清濁など分からないだろう。清いままで居させた自分に非がない訳でもないし、今後の対策は他者との関わりを控えさせるに留めよう。

 ああでも、流石に友神の一柱くらいは許してやらねば、あの子も息が詰まってしまうだろう。余計な知識を授けるのは戴けないが、良い奴ではある。つう、と花菱の紋を指でなぞった。

 その自由を真綿で縛られていることに、あの子は何時迄も気づかない。不変の世界では、鈍い頭も、汚れを知らぬ魂も、本質的に変わることはないのだから。

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隠され事 梔子紫亜 @kakuri396

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