その参

 ああ、大国主神オオクニヌシノカミ様を頼ったのは失敗だったかもしれない。

 伏せた目の裏で落胆の色を感じながら、漏れそうになる溜め息を飲み込んだ。

 私だって、与えられた知識から現状を把握するくらい、頑張れば出来るのだ。自分のことなら尚更。

 だからあの羊羹を口にした時点で黄泉竈食ひが成立したことも、その後も食事をし続けたせいで隠り世との繋がりがより強固になったことも、全て分かっていた。分かった上で、それでも私は現し世に帰る気でいる。

 何も考えなしって訳じゃない。黄泉竈食ひを打ち消す術を、私は知っているのだ。

 自分が現し世に帰れないと気づいたその日、私は絶望するより先に情報を求めた。隠り世に関する知識を意欲的に蓄え、境内の書物を片っ端から読み込んでいった。黄泉竈食ひを如何にかする方法を見つける為だ。けれど見つけた蔵書の大半は、今よりずっと崩れた文字の形をしていて殆ど読めず、辛うじて読める中にもめぼしい情報は見つけられなかった。

 そこで私は、大胆にもある神様に文を飛ばした。日本国民で知らない人は居ないくらい有名な高天原たかまがはらの主宰神、天照大御神アマテラスオオミカミ様だ。

 彼女なら、この世の全てを知っていても可笑しくない。無礼を承知で黄泉竈食ひについて尋ねた結果、伝書鳩は素晴らしい返事を運んできた。こんな何処の誰とも知れない私の文に、天照大御神アマテラスオオミカミ様は懇切丁寧に説明してくれた。しかも楷書で。彼女の配慮に私は五体投地した。

 彼女曰く、神が差し出した物を食べたのなら、別の神の差し出す飲食物で相殺すると良いのだとか。特に効果的なのは澄んだ清酒だが、それ以外でも構わない。この方法は、位の高い神ならば大抵知っているとも書いてあった。

 手紙の最後は「何か事情がおありなのでしょう。私で良ければ何時でも手助け致します」という言葉で締め括られており、思わず泣きそうになった。しかし、流石に会ったこともない彼女に助けを求める程不用心にはなれないので、事情は伝えずお礼だけを飛ばしておいた。

 それ以降天照大御神アマテラスオオミカミ様とは文通を続けている。お陰ですっかり伝書鳩が文を運ぶ気配には鋭くなった。何時かユウさんに暴露ばれそうで冷や冷やしているが、文面を通して触れる気遣いが心地好くて、未だに関係を切れていない。

 そんな彼女、実は須佐之男命スサノオノミコト——つまり須勢理毘売命スセリビメノミコトの父とは姉弟関係に当たる。即ち大国主神オオクニヌシノカミ様の義父の姉。しかも大国主神オオクニヌシノカミ様とは一昔前に国を巡って色々あった仲である。

 位の高い神であり、尚且つ情報源とも浅くない関係にある大国主神オオクニヌシノカミ様。彼が黄泉竈食ひの相殺方法を知らない筈はないのだが。

「な、何か……黄泉竈食ひを、無かった事にしたりとか、出来ないんですか?」

「残念ながら、難しい」

「そう、ですか……」

 これは拙い。

 沈んだ表情の裏で、必死に頭を回転させる。

 何故大国主神オオクニヌシノカミ様は飲食物を勧めてこないのだろう。そもそも、黄泉竈食ひの説明をしたところで嫌な予感はしていた。私が知る彼は、りげ無い形で飲み食いさせて、何も気づかせずに帰すような優しい神だ。成り済ましの可能性も考えたが、ならば本来の大国主神オオクニヌシノカミ様は依り代も置かず何処へ行ったというのだろう。

 この時点で考えられるのは二つ。

 一つは、天照大御神アマテラスオオミカミ様の情報が間違っている。

 もう一つは、今度は大国主神オオクニヌシノカミ様が私を軟禁しようとしている。

 困った。もう信じられる神がいない。いっそ伊勢神宮に乗り込んで、天照大御神アマテラスオオミカミ様に話を聞いてみようか。そう思い口を開いたところで、聞こえる筈のない三つ目の声が響いた。

「そーいう訳だ、気ぃ済んだか? さっさと帰るぞ」

「へっ?」

 慌てて声のした方を振り返ってみると、ユウさんが憮然とした表情で腕を組んでいた。何時の間に居たのだろう。余りに早い登場に喫驚する。

 少なくともあと四半刻三十分は持つと思ったのに。私が出雲大社に来てから、まだ数分しか経っていない。

「……如何やって此処に侵入したのかな? 進行阻害の結界を張り巡らせた筈なのだけれど」

 硬い表情をした大国主神オオクニヌシノカミ様が問い掛ける。

 進行阻害は字の通り、先に進めないようにするものである。前に向かって歩いている筈なのに、気づけば同じ場所をずっとめぐっている。

 そんな術を掛けていたならより一層、こんなに早く追いつかれてしまったことへの困惑が強まる。

「如何やって、なぁ……俺は此奴の縁を辿っただけだぜ?」

「それを出来ないようにしたから疑問に思——」

 大国主神オオクニヌシノカミ様の言葉が、不自然に途切れた。

 如何したのかと問い掛ける。しかし、それに応えることはなかった。私に構っている余裕はないらしい。

 彼の中途半端に開いた口が、わなわなと震え出した。段々と顔色が悪くなっていく。心なしか足元も覚束ない様子だ。

「ま、さか……きみ……」

 ショックを受けるような何かに気づいたらしい。血の気の引いた唇から、か細い声が漏れる。視線が忙しなく私とユウさんの間を往復し、結局何方どちらに定まることもなく地に落ちた。

「何ということだ……そんな、そんなこと」

「一体如何したんです? そんなに取り乱して」

 再度問い掛けた私の方を見て、大国主神オオクニヌシノカミ様は目の色を変える。焦りとも混乱ともつかない態度でユウさんに詰め寄った。

「このは知ってるんだろうね。ちゃんと説明はしたのかい? その危険性を伝えたのかい? 同意のない『これ』はいくら何でもむごすぎる」

 質問に答えてもらえない上、何やら不穏な発言をしてくる。一体何の話をしているのか分からないが、良い事でないのは確かだろう。聞きたくないけど、気になる。

「何の話ですか?」

「この反応見りゃ分かるだろ、非合意だ」

「なんて非道なっ……!」

「いや、あの、だから何?」

 一向に教えてくれない。何故だ。私にも関係のあることだろうに、二柱だけで会話を成立させているのが気に食わない。

 モヤモヤとしつつ眺めていると、気づいた大国主神オオクニヌシノカミ様が漸く私と会話をしてくれた。

「ああ、済まない、私には君を救えない……君に協力すると言ったこと、撤回させてもらう」

「え……?」

 しかし会話内容は最悪である。確かに大国主神オオクニヌシノカミ様を心から信用出来る神だとは思っていないが、それでも貴重な情報源兼協力者だ。この世界で私が使える数少ないパイプ。それが切れるなんて。

「こればかりは、私の力を持ってしても、如何しようも出来ないんだ……本当に申し訳ない」

「そんじゃ帰るか。またな、大国主オオクニヌシ

「待て待て待て、ちょいとお待ちくださいませ?」

 勝手にお開きの流れにされては困る。

 確かにユウさんが来てしまった以上、計画の続行は不可能。私が今現し世に帰ることは難しいだろう。けれどそのことはそこ迄気にしていない。悔しいけれど、私の情報不足も敗因の一端を担った訳だし。

 そうではなくて、大国主神オオクニヌシノカミ様の様子が一変した理由を知りたいのだ。あんなに騒ぎ立てておいて、話の中心である筈の私に何の説明もないとは如何いうことだ。しかも協力を撤回だなんて。

 ユウさんは「何だよ」とでも言いたげに眉根を寄せ、大国主神オオクニヌシノカミ様はばつが悪そうに目を逸らす。

「ちゃんと教えてくれません? 何故急に心変わりするんですか。ユウさんは私の同意なしに、何をしたんですか」

「それは……」

 言い淀む大国主神オオクニヌシノカミ様に、少しずつ苛立ちが湧いてくる。焦らすな、早く教えろ。大量の蛇がうごめく部屋にでも閉じ込めてやろうか。

 そんな剣呑な心情に感づいたらしいユウさんは、私の肩に手を乗せながら大国主神オオクニヌシノカミ様を援護射撃する。

「まぁじっくり考えてみろよ。お前にも気付けることだ」

「はぁ……?」

 そう言われたって、心当たりが無いから気になっているのだ。釈然としないが、自力で了知出来ると言うのなら、一度思考を巡らせても良いかもしれない。二柱に言う気が無いなら尚更。

 うべなう私と対照的に、大国主神オオクニヌシノカミ様の表情は芳しくない。彼は何か言おうとしたようだが、それは紙の裂くような音に掻き消された。

「あれ?」

 一瞬のうちに、大国主神オオクニヌシノカミ様の姿が消えてしまった。辺りを見回すが影一つ見当たらず……いや待て。そもそも此処、出雲大社じゃなくなってる。神術でユウさんの社に連れ戻されてしまったようだ。肩から温もりが消える。

「ったく、もう逃げるなよ」

 逃げ出そうとする度に言われる、最早もはやお決まりの台詞が耳を通り過ぎた。くわりと欠伸を一つして、ユウさんは低く唸る。

「あー、ねみぃ。大国主あいつ、結局来ないんだよな? 糞面倒な事させやがって」

 作りかけの依り代を睨め付けて舌打ちする。無駄骨を折って不機嫌な彼の横を通り、私は厨へ足を進めた。先程、大国主神オオクニヌシノカミ様が何を言い掛けたのか気になるのだが、もう戻ってきてしまったのだから仕方ない。

「遅くなりましたが、朝餉あさげにしましょう」

「は? お前記憶力皆無かよ」

「え」

 唐突な罵倒に思わず固まる。

 何故私は今貶されたのだろう。記憶力は寧ろ良い方だと思うのだが。

「黄泉竈食ひのこと、聞いたろ」

「あっ……あー、ええ、はい、そうですね」

 そうだ、すっかり忘れていた。今の私は、先程初めて黄泉竈食ひが成立されていたことを知った、哀れな少女なのだ。二重の意味で、食べ物は喉を通らないだろう。

「その、今更断食しても意味はないでしょう?」

「まぁな」

 咄嗟に口を衝いて出た言い訳だが、ユウさんは納得してくれたようでそれ以上追求されることはなかった。

 この機を逃さず足早にその場を去り、厨に立つ。

 ……それにしても、大国主神オオクニヌシノカミ様は何故あんなにも取り乱したのだろう。包丁を片手に早速考えてみたが、思い当たる事は何もなかった。

 

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