第三話 デイドリーム

「ねえ兄さん、ちょっと相談があるんだけど」

 

 梅雨も明け、いよいよ日差しも強くなってきた夏の昼下がり。

 麦茶で喉を潤しながら、都市部に住んでいた時にはとんと無縁だった蝉時雨に耳を傾ける。

 

「兄さん聞いてる?」

「ああごめんごめん、ちょっとぼうっとしてたよ。なんだい未沙」

 

 私が酒匂家に潜伏してから五度目の夏。

 家族仲も周辺住民との関係も極めて良好で、もう私がこの家の家族であることを疑う者は誰もいない。まさしく、順風満帆であった。

 しかし、そうなるとそれはそれで問題が出て来るのだと私は知った。


「いや、霧香の事なんだけど」

「ああ……うん」


 霧香も今年で16歳になった。

 その活発さは衰える事なく今日も外を駆け回っているが、立ち振舞には相応の落ち着きと言うか、母親譲りの「女らしさ」が身に付きつつあった。しかし、問題はその「女らしさ」にあった。


「あの子、また兄さんの布団に潜り込もうとしたんですって?」

「段々手口が巧妙になってくるんだよ……まさか風呂入ってる隙に部屋に忍び込まれるとは思わなかった。しかしなんでなんだろうなあ。自分で言うのも何だが、俺も今年で四十路のおっさんなんだぞ?」

「それ以前に血の繋がった叔父と姪なのにねえ。一体誰に似たのかしら」


 これが目下の悩みであった。

 この所、霧香の私に対する距離感が極端に近いのである。霧香への「印象改善」は依然として継続中であり、日課のトレーニングと自慰断ちにより私の男振りは上がる一方だと自負してはいるのだが、それでも中年は中年である。まさか思春期の少女にそういう感情を向けられることになるとは思いもしなかった。


「一旦、俺から距離を置くべきなのかもしれないな。また離れに戻ろうか」

「私もそれを考えたんだけど、今は逆にまずいわ。あの子、嬉々として離れに通いかねないもの」


 困ったなあ、と天井を見上げる。実際の所、これは致命的クリティカルな問題である。霧香に好印象を与え続ける事は私がこの家に留まる策の要であったが、それがこうまで裏目に出るとは。このままでは結局私が家を出ることになってしまう。家事全般と父の農作業を手伝う事で許されてはいるものの、未だ私が無職である事に変わりはないのだ。今はまだこの家を追い出される訳には行かない。


「イッエーイ!正ニィ、ママと何してるの?何の相談?私と正ニィの将来について?」

「こらっ霧香!あなたはまたそうやって!」


 などと煩悶していると、当の悩みの種が後ろから首に腕を巻きつけてきた。

 この程度のスキンシップは日常茶飯事となりつつある。


「まあ当たらずとも遠からず、かな」

「えーホントに!?式の日取りとか?アタシも流石に10代ではまだ早いかなって思うから、キリよくハタチの誕生日なんてどうかな」

「何言ってるの、冗談にも限度があるわよ。叔父と姪でこんな話をしてるのが他所様の耳に入ったらなんて言われるか」

「ふーん、叔父と姪だからダメなんだ。じゃあそうじゃなくなればいいんだよね」

「そうじゃなくなればって、そんな事あるわけ無いでしょう。あなたは正真正銘私の娘で、私と兄さんは兄妹なんだから」


「ホントに?」


 私の膝の上に座ってきた霧香が、小首を傾げながら尋ねる。

 一瞬、心臓が跳ねた。体重を預けてきている霧香に悟られなければ良いのだが。


「なーんか、ママと正ニィって兄妹って感じしないんだよね。正直あんま似てないし。や、ママは娘から見ても自慢の美女で正ニィはどこに出しても恥ずかしくないイケオジだけど、なんかタイプが違うっていうか。ね、実は血が繋がってないとか無いの?どっちかが連れ子とか」


 どくん。

 どくん。

 落ち着け。落ち着け。顔に出すな。心臓を止めろ。歯を食いしばるな。

 ああ、何故。今は昼間なのに。思考が止まる。手足が痺れる。

 ああ、顔が、顔が、母さん、顔を見せて、どうして、こっちを見て、

 痛いよ、引っ張らないで、歩きたくない、月が、月が――


「霧香!」

「ひゃうっ」


 未沙の怒声で私は現実に引き戻される。


「なんてこと言うの!兄さんに謝りなさい!」

「……ごめんなさい」

「ああいや、気にしなくていいよ。若気の至りってやつさ。でも俺と未沙は間違いなく実の兄妹だ。それだけは俺が保証するよ」

「……ホントに?」

「ああ。確かに若い頃の俺は馬鹿で、家族にも周りにも多大な迷惑をかけて家を飛び出した。その意味では俺は一度兄では無くなったと言っても良い。それでも本当の兄妹だから、俺はこの家に帰ってこれたんだよ」


 言っていて内心笑ってしまいそうになる。白々しいにもほどがある。

 お前が一体何を保証するというのか。


「そうだね、正継の言う通りだよ。何があっても決して切れない縁というのが世の中にはあるんだ」

「ああ母さん、お帰り」

「ねえバーちゃんホント?正ニィとアタシはやっぱり叔父と姪なの?」

「ああそうだよ、間違いない」

「そっか……そうなんだ」

「そうさ。だから大丈夫、俺達はこれからもずっと家族だ」

「ふーん。ま、今はそれでいいや!よろしくね、正ニィ!」

「あらあら、この子ったら調子がいいんだから。……あれ、お母さん今インターホンなりませんでした?」

「ああ、そうみたいだね。私が出てくるよ」



 そうだ、この世には決して切れない縁というものがある。

 それは一見離れたように見えても繋がっていて、再びお互いを巡り合わせるのだ。

 だからこの時インターホンが鳴らされたのも、当然の成り行きだった。



「おいババア、俺だよ正継だ。久々に帰ってきたから鍵開けてくれや」

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