第二話 イレイサー

「おうい正継まさつぐ。ちょっとこっち手伝ってくれんか」

「うん、今行くよ父さん」


 麦わら帽子に首から手拭い、ゴム長靴で手にはクワと完全な農作業スタイルの道直みちなおさんが庭から声をかけてくる。数年前に無事定年退職し、それからは近所の畑を借りて自家栽培に勤しみ近所に野菜を配っていたのだが、それが好評となり、今では軽バンに野菜を積んで行商を行い結構な額を売上げている。


「ちょっとマサニィ、アタシの宿題見てくれるって言ったじゃん、今年夏休み短いんだからヤバいんだって」


 肩出しシャツにホットパンツ姿の霧香きりかちゃん13歳がドタバタと二階から駆け下りてくる。見た目通り完全なアウトドア派で、肌はこんがり小麦色、元々赤み掛かった髪から更に色が抜かれており、光に当たると燃えているように見える。


「ああそうか、悪い今日中にはちゃんと見るからさ。読書感想文だっけ、課題図書はもう読めたの?」

「読んだけど全然イミ分かんない。字だけの本で感想書けとか無理に決まってんじゃんマンガならともかくさー」

「そうかー、じゃあ話の要点とウケそうな感想を纏めといたノートが俺の机の上に置いてあるから、それでも流し読んどいてよ。晩御飯食べたあとに一緒に書こう」

「それもう正ニィが書いたらダメなん」

「だめ」

「ちぇー」

「そんなの当たり前でしょ、ホントにもう。いつも悪いわね兄さん、あんまりこの娘に構わなくて良いのよ?」

「可愛い姪に頼られて悪い気がする叔父なんか居ないよ。そっちこそ遠慮してくれなくて良いんだぜ未沙みさ、俺こそ家には随分迷惑をかけちまったからな。頼られてるくらいが丁度良いのさ」


 娘の霧香とは対照的に、白い肌にふんわりと優しい印象を与える茶色のストレートの髪で見た目通り柔らかい物腰の、未沙さん。

 20代で結婚し家を出ていたが、夫の長期単身赴任を機に娘を連れて実家へ戻ってきた。


「あらあら、今日も引っ張りだこね正継は。私もちょっと買い物に付いて来て欲しかったのだけど。この歳になると色々抱えて帰ってくるのも大変でねえ」

「それなら後で俺が行ってくるよ。車は使って良いんだよね」

「あらそう?いつも頼り切りで悪いわね。あなたが帰ってきてくれてから助かるわ、正継」

「気にしないでよ母さん」


 髪は少し白が目立つようになってきたが、腰は曲がらず。衰える事無く家事一切を取り仕切る良縁よしえさん。

 この人こそがこの家の象徴であり、軸である。これは夫である道直さんの弁であり

「妻が居なければ俺もこの家もとっくに駄目になっていた」が、酔った時の定番の文句である。


 実際、この一家は良い家族だと思う。私の当初の想定を超えて遥かに。

 まさかこんな恵まれた生活を送れるとは思ってもみなかった。


 父・酒匂道直さかわみちなお、67歳。

 母・酒匂良縁さかわよしえ、64歳。

 妹・瑞沢未沙みずさわみさ、36歳。

 姪・瑞沢霧香みずさわきりか、13歳。

 

 以上四名が酒匂さかわ家の構成人員であり、そこへ兄、二十年振りに帰郷した酒匂正継さかわまさつぐに擬態してがこの家に潜り込んでから、早二年が過ぎようとしていた。


 とは言っても、ここまで全く困難が無いという訳ではなかった。

 特に最初はほぼ賭けに近かった。



 実家を確認して身なりを整え、いざ酒匂家の玄関前に立ってみてようやく気付いたことが一つ。呼び名だ。家を出る前の正継は、家族をなんと呼んでいたのだろうか?

 まあ無難に父さん母さんで良いだろう。呼び鈴を押した。インターフォンから年配の女性と思しき返答が帰ってきたので、相手は母であると当たりをつけた。

 

「母さん俺だよ、正継だ。帰ってきたよ」


 ガラガラと、田舎特有の引き戸の玄関が開けられるとそこにはおおよそ想像通りの老女が立っていた。しかしその表情は険しく、到底歓迎されているとは思えない。


「あなた、どの面下げて帰ってきたの」

「いや、その」


 予想通りの厳しい回答が返ってきたが、計画の第一段階はクリアした。彼女は私を息子だと無事信じたようだ。……まさか本当に上手くいくとは。


「おう、なんだ母さん。誰だそいつは」

「お父さん、正継ですよ。何年も前に出ていった」

「ああ?何だ今更、何年経ってると思ってんだ」

「え、バーちゃん誰このおっさん。警察呼ぶ?」

「こら霧香、初対面の人に失礼でしょう。あなたの叔父よ、一応はね」


 只ならぬ気配を感じてか、他の家族も玄関前に出てきた。人員は事前に調べておいた通りだが、好意的な反応が一つも無い。正継は予想以上に最悪の息子だったらしい。ならば仕方ない、家族仲が最悪だった場合の対応、プランCだ。


「申し訳ない!」


 土下座である。長きに渡るホームレス生活で培った、一分の隙も無い全力土下座である。

 

「何を言われても仕方がないのは分かっている!あれだけ威勢の良い啖呵切って飛び出しておいて何を今更と思うのは当然だ!けど、都会で一人揉まれてようやく俺は自分の小ささを知る事が出来たんだ!家族と思ってくれなくても良い、居候、いや小間使いだと思ってくれて良い!だから、俺をもう一度この家に置いてくれ!」


 沈黙。

 頭は上げない。相手の反応があるまで決して動いてはならない。

 

「……はあ、いい歳した男がみっともない、頭をお上げ」

「母さん」

「言っとくけどあなたの部屋はもう無いわよ、孫が使ってるからね。離れがあるから当分はそっちに住みな。大して手入れもしてないから自分でなんとかおし。今の大見得が嘘じゃないか、証明しておみせ」

「ありがとう、ありがとう……!」

「え、マジ?このおっさん家にあげんの?ヤバくない?」

「まあ、離れに住むって言うなら大丈夫でしょ。勝手に家に入ってきたらすぐ警察呼んでいいからね」

 

 こうして私は酒匂家の片隅に潜り込むことに成功した。

 そこから信用を得るまでがまた大変だったのだが。まず本家への立ち入りを許されなかった私は、外での思いつく限りの雑事に手を出した。家の誰よりも早く起き、誰よりも遅く眠った。家族との仲が最悪だったように、周辺住民との関係もまた同様に最悪だったため、田舎特有の行事に積極的に顔を出し、印象改善に努めた。

 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。周辺住民からの評判が伝わったのか、酒匂家の正継に対する印象も変わっていった。先ず食事の際に家に上がることを許された。しかし、そこから本家の一室を与えられるまでは長かった。特に難関だったのが姪の霧香で、思春期の彼女にとって良く知りもしない中年男性が自分の家に住むなど耐えられたものではあるまい。

 そこで私が最初に行ったのは、自慰を絶つ事であった。

 最初の一週間はそれはもう煩悶した。凄まじいまでの射精への欲求が脳を、心を、全身を支配した。しかし私はそれを断固として拒み、筋トレやランニングで霧散させ続けた。三ヶ月が経つ頃には、私は射精への欲求を完全に忘れ去っていた。

 更に筋トレやランニングは不健康な生活で緩んでいた私の体を絞り上げ、異常中年男性から爽やかで頼り甲斐のある叔父へと変貌させた。

 

 元々がフレンドリーで人懐っこい性格なのか、印象が改善されるにつれ霧香との会話は少しづつ増えていき、笑う所を見ることも多くなった。宿題や友人関係の相談をされるようになった頃に、私は本家の一室に住むことを許された。父、道直さんに晩酌に誘われたのはその日のことであった。


 こうして、酒匂正継は再び酒匂家の一員になることに成功したのである。

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