第7話

「…うん、できた」

 長い沈黙の後で唐突にトモミが独り言のようにつぶやいた。彼女の言葉をきっかけとして、その空間を満たしていた不思議な空気はまるで水槽の栓を抜いたときのように徐々に引いていき、やがては再びもとの日常空間へと戻っていった。

「…できましたか」

 タケヲはまるで夢から覚めた時のようにぼんやりとした口調で言った。

 トモミはすっと立ち上がり、塗料の乾き具合を確かめるために指先で壁を撫でた。

「もう大丈夫かな」

 そう言って彼女は紺色の塗料缶と細めの筆とを手に取ると白壁の前に立った。

 目を閉じ、大きく深呼吸をする。

 一瞬の静寂ののちに、彼女は塗料に筆をつけて流れるような動作で詩を描き始めた。

 トモミは一心不乱に描き進めていく。どこまでも真剣で、髪の毛一本入る隙間もないほどの集中力で。それはまるで演劇のようであり、演奏のようであり、あるいは彫刻のようでもあった。彼女は流れるような所作で抑揚をつけながら言葉を刻みつけた。この場所にふさわしい言葉を。この場所のためだけに紡がれた言葉を。

 やがて彼女は詩のすべてを描き終えると、最後にサインを施した。

「完成!」

 そう言って彼女は子供のように無邪気で屈託のない笑顔を浮かべた。あらゆる緊張から解き放たれ、大きなため息とともにその場にしゃがみ込んだ。

 タケヲはしゃがみ込んだトモミの頭越しに彼女が描いたシィカを読んだ。それは細くてやわらかいタッチで次のように描かれていた。



 『家族』


 あなたはわたしの嫌いな音楽を聴いて

 わたしはあなたの嫌いな野菜を食べる


 一緒にいても全部は知らない

 まったく違うのにどこか似ている


 たまたまふとした街角で

 楽しそうなあなたを見かけると

 なんだかわたしのほうまでうれしくなる


 でも今はまだ声をかけない

 どうせ夜には 会えるのだから



「良い詩ですね。なんだかあったかい」

 タケヲは素直な感想を述べた。

「3つくらいパターンを考えてこれがいちばんしっくりきたの。ベストは尽くしたわ」

 そう言ってトモミは肩に手を当てながら首を回した。

「ほかの2つはどんなのだったんですか?」

「んー、ひとつは固くて壮大な感じのやつで、もうひとつはすごくシンプルなやつ。でももう忘れちゃった。壁の上に言葉を置いたところをイメージして、いまいちはまらなかったから捨てちゃった」

「なるほど」

 タケヲは再びシィカを見つめた。彼はそこから湧き出る不思議な力に呼応するように静かな胸の高鳴りを感じていた。何もない壁にシィカが描かれることで、まるでその空間の空気そのものが入れ替わったように感じる。

 「壁掛けの絵や写真などではなく、壁に直接書き込まれた詩はまるでその家全体に根を張るように一体となってそこに暮らす人々を守る」。タケヲは学校の教科書に書かれていたシィカについての説明を思い出した。それは古来より続くこの国の文化であり、現代に至るまで脈々と受け継がれきただけの理由を、タケヲは目の当たりにしたような気がした。確かに、シィカには力がある。

 タケヲは尊敬を込めた瞳でトモミを見つめた。トモミは露骨に嫌そうな顔をした。

「…あの、気持ち悪いのでこっち見ないでもらえますか?」

「いや、ほんとうにすごいなって思って」

「そういうのいいから。普通だから。さて、アケミさんを呼んでこよっと」

 そう言ってトモミは奥の部屋へと向かった。

 しばらくしてアケミを連れたトモミが戻ってきた。アケミは描かれたシィカをちらっと見て、その後壁全体や周りの床の点検をした。

「…うん、ありがとう。ごくろうさま。金額は事前のお見積りのとおりでよろしいかしら?」

「はい。大丈夫です」

 トモミは笑顔で答えた。

「支払いはこの場でカードでも大丈夫?」

「問題ないです」

 そう言ってトモミは道具箱の中から小型の四角いカードリーダーを取り出してテーブルの上に置いた。アケミはそこにカードを差し込み、トモミのスマートフォンの画面でサインをした。

「これですべて終了です。本日はご依頼いただきありがとうございました。よろしければまた来年もよろしくお願いします」

「考えておくわ。ごくろうさまでした。気を付けて帰ってね」

 トモミとタケヲは荷物を持ってアケミの家を出た。


「…なんだかそっけなかったですね」

 帰りの車内でタケヲはハンドルを握りながらトモミにこぼした。

「ん? なにが?」

 トモミは窓の外を眺めながら言った。

「お客さんの反応ですよ。もうちょっと感動してくれてもいいと思ったけどなぁ」

「あんなもんでしょ。あたしたちは別に芸術家じゃないんだから。あそこは去年もやらせてもらったから、それなりに満足はしてるんじゃない? …もしかしたら、ほかの工房を探すのが面倒ってことかもしれないけど」

「そんな卑屈にならないでくださいよ。僕は本当に感動したんです。最後の夜のくだりとか…」

「もういいから! 今言われると猛烈に恥ずかしくなるから! 黙って運転して!」

「そんなぁ…」

 開け放した窓から風が流れる。風にはほんの少しだけ潮の匂いが含まれている。カーラジオからはヌジャベスのピースランドが流れている。

 しばらくしてトモミは相変わらず窓の外を眺めながら言った。

「…詩工師は言葉で製品を作る仕事なの。プラスチックで歯ブラシを作るように、粘土でお皿を作るように、コットンでタオルを作るように、あたしたち詩工師は言葉を材料にしてお客さんに満足してもらうための商品を作る。

 要はシィカって日用品と一緒なのよ。だから芸術的な詩のように読む者の魂を揺さぶることもないし、文学のように人の人生を変えることもない。あたしたちはお客さんに少しでも気に入ってもらえるような言葉を紡いで、その見返りとしてお金をもらって生活をしている。言ってみれば詩工師なんて何の華やかさもない地味な仕事なの。

 どう? これでもまだ詩工師になりたいって思える?」

 タケヲはそれについて少し考えた。

 車は信号にひっかかり、サイドブレーキを引いてハンドルに身を預けているタケヲの目の前を大型トラックが排気ガスを巻き上げながら通っていった。タケヲはその黒煙が霧散していく様子をじっと眺めていた。

 やがて信号が青に変わり、車を発進させたところでタケヲは話し始めた。

「…僕は小さいころからずっと詩工師に憧れてきて、今日トモミさんの仕事をお手伝いさせてもらいながらその仕事ぶりを間近で見せてもらえて、改めて、詩工師になりたいって強く思いました。

 正直最初はなんとなくのんびりした仕事がしたいって思っていました。でも今日のトモミさんのぴりっとした仕事ぶりを見て、トモミさんの描いたシィカを読んで、詩工師ってかっこいいって思ったんです。

 だから…、どうか猫のひげで働かせてください」

 トモミはそれを聞いてしばらく黙って考えた。

「…詩工師の収入って結構低いのよ? 大手さんはそこそこもらえるって聞くけど、うちみたいな小さな工房はとりあえず生活していけるくらいで精いっぱい。ましてや徒弟のうちは最低賃金しか出してあげられないし、フルタイムで雇ってあげることなんてとてもできない。あたしもそうだったけど、生活するためにバイトを掛け持ちすることになると思う。それでもいいの?」

「全然問題ないです! それじゃあ…僕を雇ってもらえるんですか?」

 トモミはタケヲの問いにため息をひとつ吐いて答えた。

「…ま、今日はキミがいてくれて助かったからね」

「やった! ありがとうございます!」

「高校を卒業したら本格的に来てもらうとして、それまでは土日を中心に仕事があれば声をかけるから手伝って。もちろん今日の分も含めてちゃんと時給で支払うから」

「はい! いやぁヤバいほんとうれしいです」

 無邪気に喜ぶタケヲを見て、トモミは思わず小さく微笑んだ。


 その日の午後、タケヲはCLACKにアルバイトに行き、マスターにちゃんとバッグを届けたことと詩工師の徒弟として働くことになったことを伝えた。マスターはタケヲを叱るためのフレーズをいくつか用意していたのだけれど、それらはタケヲの本当にうれしそうな表情にかき消されてしまった。

「よかったじゃない。あんた前からずっと詩工師になりたいって言ってたもんね」

「はい。ありがとうございます」

「あんたがもしも一人前になったら、うちの店のシィカをお願いしようかしら」

「ほんとですか? 任せてください!」

「…その根拠のない自信はどっからくるのよ。結構厳しい業界って聞くけど大丈夫なの?」

「給料が安いみたいで、バイトは掛け持ちしないといけないみたいです。詳しいことはまだわからないんですが、時間的に昼間のバイトは難しそうなのでこちらでこのまま働かせてもらうことはできないと思います」

「まぁ、もともと高校を卒業するまでって話だったしね。でも来週からもちょくちょくそちらのお手伝いをするんでしょ? だったらうちは早めにあんたの代わりの人を募集するようにするわ」

「…迷惑をかけて本当にすみません」

「心配しないでよ。うちはわりと人気の店だからすぐに新しい人が見つかるわ。それよりも…」

 そう言ってマスターはしばらく考え込んだ。

「あんたこの店夜は『Bi'SWEET』って名前のバーになってるの知ってる?」

「あ、はい。来たことはないですが」

「それあたしの弟がやってるのよ。あんたさえよかったら、そっちで働けるようにあたしから頼んであげようか?」

「本当ですか? ぜひお願いします!」

「言っとくけど弟はあたしみたいに甘くないからね。それだけは覚悟しておくのよ?」

「マスターより厳しい人がいるなんて信じられないです…」

「…あんた世の中なめてるわね」

 それを聞いてカウンターに座っているおばあさんがくすっと笑った。


 その日の夜、マンションの一室。

 ダウンライトのほのかな明かりの中で、アケミはソファに深く腰掛けてプラムワインを飲みながらトモミの描いたシィカを眺めていた。

 そこにシャワーを浴びたアケミの娘がタオルで髪を拭きながらやってきた。

「お母さんまだ見てたの? よく飽きないね」

「いいじゃない。これから一年間、この家を守ってもらうシィカなんだから」

 アケミはまどろんだ表情で答えた。アケミの娘はその言葉に促されるようにシィカに目を向けた。

「…わたしもこの詩好きよ。いいの書いてもらってよかったね」

「でしょう? これを読むと、なんだか幸せな気分になれるのよね」

 アケミの娘はそれを聞いてくすっと笑った。

「お母さんが飲んでるやつ、あたしももらっていい?」

「ダメよ、何言ってんの。これは大人が飲むものよ」

「いいじゃんケチー。あたしも何か飲みたい」

「しょうがないわね。ホットミルクティーを作ってあげるから、それ飲んだら寝なさいよ?」

「やったね!」

 そう言ってアケミの娘はアケミの隣に勢いよく座った。

 そして、2人は並んでしばらくの間トモミの描いたシィカを眺めていた。

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ポエトリー・オン・ザ・ウォール KeY @Gide

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