第6話

「…はい」

「アトリエ猫のひげです。今お部屋の前に着きました」

「ちょっと待ってください」

 しばらくしてカチャっという鍵の外れる音が聞こえ、中から長身で細身の女性が姿を現した。上品な服装のおよそ40歳くらいのその女性は吊り上がった眉毛と切れ長の目をしていて初対面のタケヲにはやや冷たい印象を与えた。

「どうぞ、おあがりください」

 女性はにこりともせずにそう言った。タケヲとトモミは「失礼します」と言って部屋の中へと入っていった。

 2人が通された広いリビングには高級そうな家具が並んでいた。テーブルやソファー、棚やランプシェイドや観葉植物に至るまで統一した美的センスで貫かれていた。そして、大きくとられた窓の向かいの白壁に深い緑色で描かれたシィカがあった。タケヲがそれを読もうとした途端にトモミに脇腹を小突かれた。きょろきょろするな、という意味だ。

「お茶を入れたのでどうぞ召し上がって」

 そう言って女性はテーブルの上にソーサーとカップを並べ、ポットから暖かい紅茶を注いだ。

「ありがとうございます。いただきます」

 そう言ってトモミはタケヲが担いでいた袋から布を取り出して床に敷き、その上に荷物を置くようタケヲに指示した。タケヲはようやく重い荷物から解放された喜びに包まれながら、トモミに倣ってテーブルに着いた。

「アケミさん、ご無沙汰してます」

「そうね。もう1年が経つのね。早すぎて嫌になっちゃうわ」

「みなさんお変わりないですか?」

「ええ、相変わらずよ。夫も私も娘も、それぞれが好き勝手に楽しんでいるわ。今日は中学に通ってる娘のテニスの試合があって、13時までには学校に行かなくちゃいけないのよ。だから申し訳ないんだけれど遅くとも12時半までには作業を終えてもらえるかしら」

 トモミは壁に掛けられている時計に目を向けた。時計は9時20分を指していた。

「大丈夫です。間に合うと思います」

「そう、助かるわ。無理言ってごめんなさいね」

「いいえ、どうかお気になさらず。これから例年通り壁を塗り替えてからシィカの描き換えを行います。順調にいけば12時前には終われると思います」

 そこでアケミと呼ばれた女性は思い出したように言った。

「そういえば今回のシィカの色、電話では去年と同じ深緑って伝えたじゃない? それって今から紺色に変更することはできるのかしら?」

 タケヲは思わず振り返って自分の持ってきた塗料缶を見た。緑と黒の2色だ。

「大丈夫ですよ。車に積んであるので取ってきます」

 トモミは上品な笑みでアケミに答え、同じ笑顔をタケヲにも向けた。

「タケヲくん、念願の2往復ができるね」

 タケヲは引きつった笑みを浮かべるよりほかなかった。


 タケヲが痙攣しそうなくらいパンパンになった足を引きずりながら部屋に戻ると、トモミはすでに脚立の上に乗ってローラーで壁に下地を塗り始めていた。壁の下には汚れを防止するための布が敷かれ、周囲の壁にも養生がされている。

「紺色の缶、持ってきました…」

「ふふ、おつかれさま。これがコトダマというやつだよ」

「コトダマ?」

「あれ? 知らない? 日本の思想で、口に出した言葉が現実に影響を与えるという意味だよ。良い言葉を言えばいいことが起こり、悪い言葉を言えば悪いことが起きる。言葉には魂があるっていう考えね。あたしたち詩工師の仕事も、根源的にはこの思想に基づいているのよ」

「なるほど…」

 タケヲはふらふらになりながらポケットからメモ帳を取り出し、トモミの言葉をしたためた。

「もう去年のシィカ消しちゃったんですね。ちゃんと読みたかったなぁ」

「読まなくていいですー」

「あれ? そう言えばあの女の人は?」

 リビングにはトモミの他には誰もいなかった。

「アケミさんは出かける準備をしてくるって別の部屋に行ったわ。終わったら声をかけるように言われてる」

「なるほど。何か僕にできることありますか?」

「んー、今は特にないわ。養生してある場所とかを見ておいて。質問があったら答えるから」

「わかりました」

 そのとき、換気のために開け放たれていた窓から気持ちの良い風が入ってきた。タケヲは自然と窓の外に目を向けた。どこまでも続く澄んだ青空が広がっている。

「風が気持ちいいですね」

 タケヲは窓の外に目を細めながら言った。

「そうね。思ったより早く下地が乾いてくれそうだわ」

 トモミは作業を続けながらそっけなく言った。


 タケヲは壁全体の構図をメモし、作業の手順についていくつか質問した。トモミはそれに対して簡潔に答えながら作業を進め、予想された時間よりも少し早めに一面を塗り終えた。

「あとは乾くのを待つだけね。速乾性の塗料だから1時間程度で乾くと思うけど、もしかしたらもう少し早めに乾いてくれるかも」

「それじゃあ乾いてからシィカを描いて完成ですね」

「いいえ、乾いたらもう一度下地を塗るのよ。2度塗りしないとムラが出来ちゃうから」

 そう言ってトモミは下地用の塗料の缶に蓋をした。

 およそ50分後に再び下地を塗りはじめ、11時には下地作りの作業が完了した。

「いよいよ次はシィカを描く作業ですね」

 タケヲは目を輝かせて言った。

「そうね。乾くのを待ちながら、何を描くか考えるわ」

「あれ? シィカってあらかじめ考えておくものじゃないんですか?」

「何言ってんの。基本はその場で考えて描くものよ。そこで話した内容をふまえたりしてね。もちろんあらかじめ用意してくる人もいるらしいし、中には詩を使いまわす人もいるって聞くわ。でもやっぱり基本的にはその場で生み出すものなのよ」

「要するにフリースタイルってやつですね」

 そう言ってタケヲはラッパーの手振りを真似して見せた。トモミはそれには一瞥もくれずに紺色の塗料缶と刷毛とを手元に置き、壁に向かって座り込んだ。

「今から詩を考えるから、悪いけど集中させてね」

 そう言ってから、トモミは壁を見つめながら黙り込んだ。

 静かな時が流れる。聞こえるのはかすかな時計の音と時折吹く風が残す余韻のような響きの音だけだ。トモミは身動き一つせず白い壁を眺め続けている。時折彼女の唇がかすかに動く。まるでその姿は音のかたちをとらない祝詞を唱える巫女のように見える。

 タケヲは少し離れた場所に座って彼女の様子をじっと見つめていた。彼はこの空間に満ちている不思議な空気に飲み込まれていた。その張りつめていて穏やかな、混沌としていて清麗な空気はこれまで彼が感じたことのないものだった。

 心地よい胸の高鳴りを感じながら、彼は新たな詩の誕生を心待ちにしていた。

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