第5話

 混みあった街中を抜け、なだらかな丘を登る広い道に差し掛かるころにはタケヲの運転もだいぶ安定してきた。車のFMラジオからはエビスビーツのフィーリン・グッドが流れている。

「そういえばこの車は黒じゃないんですね」

 タケヲはウインカーを出して左折待ちをしながらトモミに訊ねた。

「どして?」

「いや、アトリエの建物が真っ黒だったんで。黒が好きなのかと思ったんです」

「ああ、あれね」

 トモミはドアに肘をついて頬杖をしたまま言った。

「あのアトリエはあたしの師匠から譲り受けたものなの。もともとは普通にトタンの色だったんだけど、師匠が亡くなったときにあたしがぜんぶ真っ黒に塗ったんだ。それから塗り替えてないだけ」

「なるほど…」

「…ってかなんであんたはそうやって暗い話ばっか引き出すの? デリカシーがないんじゃないの?」

「い、いやむしろどの角度に投げても重い話で打ち返される気がしてきました」

 タケヲは左折したあとで車の窓を開けた。窓からは心地よい春の風が吹き抜けてきた。

 街を見下ろす小高い丘の上には振興の住宅街が広がっている。その中の一角にひときわ高い高層マンションがあった。タケヲはトモミの指示に従ってその建物から少し離れた業者用の駐車場に車を入れた。

「8時40分か。荷物を降ろしながら準備して15分後にチャイムを鳴らすようにしましょう。ここの人は時間にうるさいから、早すぎても遅すぎてもだめなのよ」

 そう言ってトモミは車から降りると後ろのハッチを開けて重い道具箱を手に取った。

「それ僕が持ちますよ。重いでしょう?」

「いいよいいよ、他のはぜんぶタケに持ってもらうから」

「え? ぜんぶ?」

 タケヲは車の中に置かれている脚立や大小さまざまな塗料を見渡した。

「ぜんぶって言ってもそこにあるものすべてってわけじゃないよ? 今日使わないものもあるからさ」

 そう言ってトモミが指示したものは、脚立と様々な保護シート類が入った袋、それから下地用の塗料缶が3つとシィカ用の塗料缶が2つだった。

「これぜんぶ僕が持っていくんですか? 結構重いですよ?」

 タケヲがそう言うとトモミは困ったような顔をして目を潤ませながら言った。

「今日のこの仕事…タケヲくんの採用試験なんだよ?」

「やりましょう。楽勝です。ぜんぶ担いで2往復しましょう」

「いや2往復はしなくていーよ」

 タケヲは指示されたものすべてを担ぎ、トモミとともにマンションのエントランスへと向かった。エントランスへたどり着くころには二人とも少し汗をかいていた。

 タケヲがひとまず荷物を降ろして一息ついている間に、トモミはインターホンシステムで部屋番号を入力した。

「…はい」

 インターホン越しに冷たい女性の声が聞こえてきた。

「センさまのお宅でしょうか?」

「そうですけど…」

「わたくし、アトリエ猫のひげから参りましたトモミ・ムラカミです。本日はシィカの描き換えでお伺いしました」

 そう言ってトモミはインターホンのカメラに向けて上品な笑みを浮かべた。

「…どうぞ、入って」

 そう言って通話は終了し、内側の自動扉が開いた。

「センって…また因縁深い名前ですね…」

 タケヲは息を整えながら言った。

「無駄口はいいからさっさと行くわよ」

 トモミはそう言って、2人は中へと入っていった。

 入口正面にエレベーターがあり、タケヲがそちらに向けて一歩足を出した瞬間にエントランスホールの掃除をしていた男が声をかけてきた。

「ちょっとキミ、君たちは出入りの業者だろ?」

「そうです。こちらの住民の方から依頼を受けてきました」

 トモミはタケヲに代わって即座にそう答えた。

「だったらエレベーターなんか使うんじゃないぞ。奥の非常階段を使え。特にあんたらはペンキを持ってるようだし、エレベーターに変な臭いが残ったりしたら住民からクレームが来るんだからな」

「大丈夫です。承知してます。さ、タケ行くわよ」

 唖然とするタケヲをしり目にトモミは足早に1階奥にある非常階段へと向かった。

 重い鉄の扉を開けると長い階段が上下に向かって伸びていた。締め切った階段室はわずかだが埃っぽい臭いが充満していた。

「…センさんちって何階にあるんですか?」

「17階よ」

「じゅ…17階…。もうちょっと昇れば天国まで行けるんじゃないですか?」

 皮肉を漏らすタケヲにトモミは笑顔で言った。

「タケヲくん、これ、試験だから」

 その言葉がタケヲの闘争本能に火をつけた。

「うおぉぉおトモミさん! わいのプロ根性、見せたりますよ!」

 そう言ってタケヲは荷物を担いで全速力で階段を上っていった。

「まだプロじゃねーだろ…」

 トモミはため息をひとつ吐いてから階段の一段目に足をかけた。


 17階にたどり着くころにはトモミは全身に汗をびっしょりとかいていた。彼女は17階の踊り場で燃え尽きて灰になっているタケヲに予備のタオルを投げつけ、「1分やるから汗を拭いて息を整えろ」とだけ言った。そして自身も猫のキャラクターが刺繍されているタオルを取り出して額や首元の汗を拭った。

 階段室を出ると心地よい風が2人のからだを吹き抜けた。2人とも思わず顔がほころぶ。地上には小さな公園があり、そこから子供たちの楽し気な声が聞こえてくる。

 トモミは部屋番号を確かめながら通路を進み、目当ての部屋の前まで来るとぼさぼさになった髪を少しだけ整えた。先ほどまで灰と化していたタケヲもいよいよこれから念願の詩工師の仕事が見られるとあって幾分生気を取り戻していた。

 トモミは咳ばらいをひとつしてドア横のインターホンを鳴らした。

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