第4話
タケヲは朝起きるのが苦手だった。設定している8回のスヌーズすべてをスルーしてしまうことが日常的にあったし、学校にはいつも遅刻ギリギリで登校していた。
けれどもこの日のタケヲは目覚ましが鳴るよりも早く起き、驚きのあまり声も出ない母親をしり目に手際よく身支度を済ませ、トーストした食パンだけを牛乳で流し込むとまだ少し肌寒い真新しい朝の空気の中を街へと出かけて行った。
日曜日の朝の光景はタケヲにとって新鮮なものだった。スーツを着て出勤する人の姿はあまり見られず、代わりに犬の散歩やジョギングをしている人たちが目についた。誰もが穏やかな日曜の朝をからだ全体で満喫しているように見えた。
けれどもタケヲは今この瞬間自分が誰よりも充実しているという自負があった。何せ長い間ずっと夢見てきた詩工師の仕事に関わることができるのだ。喜びを抑えきれずに歩きながら思わず頬が緩む。それでも何とかスキップをすることだけはかろうじて我慢しながらタケヲはアトリエへと向かった。
約束の時間の30分前に到着することはタケヲの人生で初めての経験だった。思いのほか早く来てしまったのでアトリエの中に入るか躊躇していると、入口のガラスからすでに中で作業をしているトモミの姿が見えた。タケヲは勢いよく扉を開けて中に入った。
「今日からお世話になるタケヲ・スガです! よろしくお願いします!」
「いやまだ採用するか決まってねーし」
床に敷いた新聞紙の上に数種類の刷毛を並べていたトモミがあきれながら言った。
「でもまあちゃんと遅刻せずに来れたね。えらいえらい」
トモミの言葉に照れながら、タケヲはアトリエの中を見回して言った。
「ここって他に働いてる人とかいるんですか?」
「んにゃ、いないよ。大手さんにはたくさん徒弟がいるとこもあるけど、ウチは小さい工房だからね。昨日一人辞めちゃったから今はあたしだけ」
「それじゃあ、ふたりきり…」
「気持ち悪い言い方すんじゃねーよ! 言っとくけど今日採用試験だから! すべての言動に注意して! 髪の毛一本動かすのにも神経使って!」
カミノケウゴカセナイヨゥ、と小声で言った後で、タケヲは並べられた刷毛の前にしゃがみ込んだ。
「こんなにいろんな種類の刷毛を使うんですか?」
「ううん、これから行くところはお得意さんで去年も施工したところだから使うやつはもう決まってるんだけど、一応仕事道具はすべて持っていくようにしてるの。何があっても対応できるようにね」
「なるほど」
そう言うとタケヲはズボンのポケットから小さなメモ帳とペンを取り出し、トモミが言った言葉をメモし始めた。
「…あんたやるじゃん」
トモミはメモを取るタケヲを見下ろしながら微笑んで言った。
「え? 何がですか?」
「んーん、なんでもない。さ、ちゃっちゃか準備してとっとと出発するわよ」
そう言ってトモミは2回拍手をした。打ち鳴らされた音は広いアトリエの室内にまるで木霊のように響き渡った。
「あたしたち詩工師が使う塗料は主に2種類で、ひとつは下地用、つまりはシィカを描く土台を作るためのものね。最近は壁紙を貼ってる家がほとんどだけど、中には土や砂、漆喰や珪藻土の壁もあるから事前にリサーチしておく必要があるわ。リピートのお客さんでも去年と違ってるってケースもあるから前もって必ず確認するの。ちなみに下地用の塗料はここからここまでね」
トモミは塗料が並べられた棚の前でタケヲに説明した。タケヲはメモを取りながらうなずいた。
「次にシィカを描くための塗料。これは伝統的な草花から抽出した色素を原材料としているわ。鉱物由来の原料は使わない。シィカの起源は知ってる?」
「なんとなく…」
「もともと850年くらい前にご先祖様がこの地に渡ってくる船の中に描いたものが起源みたいで、そのときは墨で描いたらしいんだけど、それが基本になってるから鉱物は使わないの。ほら、鉱物って石じゃん? 石って重いじゃん? 重いと船が沈んじゃうでしょ? そんな感じの理由。あくまでもシィカは縁起物だからね。
昔の詩工師は材料を山から取ってきてちゃんと自分たちで作ってたんだけど、今は建材屋さんで買うのが一般的。中には石油を原料にした偽物もあるから注意が必要だけど。まぁお客さんが気づくことはまずないし、中にはあえてそれを使ってる工房もあるって聞くわ。値段が全然違うからコスト削減になるのよ。あたしは一応、きちんとしたものを買って使ってるけど。それでここからここがシィカを描くための塗料よ。どう、憶えた?」
「はい。ところでトモミさんは草花から塗料を作る方法は知ってるんですか?」
タケヲはメモを取りながらトモミに訊ねた。
「もちろんよ。あたしが弟子入りしてた師匠は昔気質の人で、既製品を使わずにすべて自分の手で作ってたわ。だからあたしもその教えを受けて山に材料を取りに行っていたの。それからそれらを煮出したりすりつぶしたりしてね。それが徒弟の一番の仕事だった」
「その師匠さんは別の工房にいるんですか?」
「ううん、4年前に死んじゃった。もうだいぶおじいちゃんだったから…」
「なるほど…」
「んもう! あんたが変な質問するから湿っぽくなっちゃったじゃんか! さっさと準備するわよ。あたしは表に車をまわしてくるから、タケは今から指示する塗料を店の前に運んでおいて」
「了解しました! タケ、行きまーす!」
「…あんたウザいしキモいよ」
タケヲが塗料の缶をアトリエの前に積んでいると、トモミの運転するクリーム色の古いワーゲンバスがやってきて道をふさいだ。フロント2枚ガラスの助手席側の内側には『アトリエ猫のひげ』という小さな黒いプレートが挟み込まれている。2人は交通の邪魔にならないよう大慌てで道具箱と塗料とを積み込んだ。
「タケ、あんたが運転しな」
そう言ってトモミは車の鍵を投げて渡した。タケヲはそれを片手でキャッチし、颯爽と運転席に乗り込んでエンジンをかけ、発進と同時にエンストした。
「…え?」
助手席に乗っているトモミが驚きの表情でタケヲを見つめた。
「あんた…もしかしてマニュアル運転したことないの?」
「いや、大丈夫です。構造は知ってます。大丈夫です」
そう言ってタケヲは再びエンジンをかけると小声で運転手順をつぶやきながら車を発進させた。
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