第3話

 入口は大きなガラスをはめ込んだ木製の両開きの扉で、これも外壁同様黒く塗られている。タケヲは少しためらいながらも扉についている銀色の取っ手に指をかけてゆっくりと引いた。扉に付いている鐘が小さく鳴る。タケヲは開けた隙間から身体を滑り込ませるように建物の中へと入っていった。

 中は仕切りのない広々としたスペースが取られていて、コンクリートの床に来客用と思われるテーブルとソファーが置かれている。奥には鉄製の階段があり、その脇には様々な色の塗料が並べられた棚がある。天井には裸電球がぶら下がっていて淡いオレンジ色の光を放っている。

 それらよりもタケヲの目を惹いたのは、両脇の乳白色の壁一面に描かれた無数のシィカだった。

 様々な色で描かれたおびただしい量のシィカが壁を覆いつくしている。タケヲはその光景に圧倒され、思わず息をのみ込んだ。

 やがて彼はそのひとつひとつを見て回ることにした。それぞれが異なる書体で描かれていて、内容もすべて違っている。

 荒々しい書体で描かれた力強い詩。

 やわらかな書体で描かれた穏やかな詩。

 繊細な書体で描かれた物悲しい詩。

 艶やかな書体で描かれた淫靡な詩。

 それらひとつひとつがタケヲの心に色鮮やかな深い感動をもたらし、彼の中の新たな知覚の扉を開いた。

 言葉それ自体は単なる記号であり伝達手段のひとつにすぎない。待ち合わせをしたり、要件を伝えたり、考えを述べたりするときに使われる。けれどもときにそれは人の心を動かす。

 言葉は人に安らぎをもたらし、痛みを与え、思考の迷宮へと誘う。

 過去の記憶を呼び起こし、別の世界を想像させ、未知なる自分を発見させる。

 「おだやかな春の日差し」という言葉からはぬくもりを感じられるし、「かじかんだ指先」という言葉からは冷たさを感じることができる。

 「糞便を貪る数百の蛆虫」という言葉は嫌悪感をもたらし、「ベッドに横たわる艶やかな肢体」という言葉は情欲を喚起する。

 ただのインクの染み、あるいはモニター上のドットの集合体にすぎないような文字がその組み合わせによって無限の力を持つようになる。平面的な記号が果てしない広がりを内包する。タケヲは壁面に描かれた様々な詩を読みながら言葉の魔力に引き込まれていった。

「すごい…」

 タケヲは思わずそうつぶやいた。そのとき奥の鉄階段から渇いた足音が聞こえてきた。タケヲがそちらに目を移すと、カフェで会ったあのトモミと呼ばれていた丸眼鏡の女の子が現れた。

「いらっしゃいませ」

 彼女はタケヲに笑顔でそう言った後で、何かに気が付いたようにタケヲの顔をしげしげと見つめた。

「あれ? あなたどこかで…ああ!」

 その瞬間、トモミは脱兎のごとく階段を駆け上がって行った。

「違うんです! 忘れ物! 忘れ物を届けに来たんです!」

 タケヲは慌てて釈明をした。

「忘れ物?」

「そうです。僕は今日の午後あなたがいたカフェ『CLACK』で働いている者です。あなたがトートバッグを忘れていたのでそれを届けに来ました」

 トモミはまるで塹壕から戦況を覗く兵士のように階段の上からタケヲの様子を確認した。タケヲは持ってきた黒いトートバッグを掲げて敵意がないことを示していた。

「あ! それあたしのバッグだ!」

 そう言ってトモミはおずおずとタケヲのもとまで来てバッグを受け取ると中身を確認した。

「そうだあたしこれを持ってってたんだった。なくさなくてよかったぁ。届けてくれてありがとう。助かったわ」

「どういたしまして。それ、詩台帳ですよね? 詩工師がこれまで描いた作品を記録しておくための」

「そうそう、よく知ってるね。あ、そっか、キミは確か詩工師になりたいんだっけ」

「そうなんです。それで…もしよかったらそれを見せてもらってもいいですか?」

「え、やだ」

「え?」

「え?」

 奇妙な沈黙が二人の間に横たわった。

「だって人に見せるための作品ですよね?」

「そうだけどやだよはずかしいじゃん」

「じゃあ例えば僕が家のシィカの作成を依頼したら?」

「んー…やだ、断る」

「え? どうして?」

「なんかやだから」

「何が嫌なんですか?」

「キミ。なんかキミがやだ」

「そんな身もふたもない…」

「まあとにかく、バッグを届けてくれてありがとう。さ、もう用事は済んだでしょ? 帰ってくれるかな?」

 トモミは笑顔でそう言って手のひらで入口の扉を指した。

「すみません、まだ2つほど言い残したことがあって、それだけ伝えさせてもらってもいいですか?」

「えーなに? 気持ち悪いなぁ。変なこと?」

「それはわかんないです」

「わかんねーのかよ!」

「いや変かどうかは人によって捉え方が違うと思うので…」

「めんどくさいヤツだなぁ。まあいいよ。何?」

「まずひとつは、トモミさんが来るまでの間まことに勝手ながらここに描かれているシィカを見学させてもらってたんですが、僕は本当に、心の底から感動しました」

「ちょっと待って、なんであたしの名前を知ってるの?」

「ええ? そこですか? 別にいいじゃないですか」

「よくねーよッ! ますます気持ち悪いヤツだなぁ」

「CLACKでトモミさんが話してたもう一人の女の人がそう呼んでたのが偶然聞こえてきたんです。これで謎は解けましたか?」

「あんたもうナチュラルにあたしの名前呼んでるね…。まぁもういいや。キミがあたしの第一印象のとおり気持ちの悪いヤツだということはわかった」

「なんですかそれ? 僕だって多少なりとも傷つくんですよ? 謝ってもらえますか?」

「くぅぅイライラするぅー! はいはいごめんなさいね。どう? これで満足した?」

「心が満たされました」

「…あーもうだめだ。一刻も早く帰ってほしい。ってかもう一秒だって同じ空間にいたくない」

「心の声が漏れてますよ?」

「あんたに伝えたくて言ってんのよ! さ、もう帰ってよ。お願いだから帰ってください」

「いやもうひとつ言い残してるんで…」

「んあーもーすぐ言って。今言って。さっさと言って!」

「さっき言ったひとつ目に関係するんですが、僕はトモミさんの作る詩にとても感動しました。本当にお世辞抜きで、心臓を掴まれたような強い感動です。なので、ぜひここで働かせてください。ここで働きたいんです」

 空白に限りなく近い沈黙。

「…なにそれ千尋のマネ?」

「ん? 何がですか?」

「いや、まあいいや」

「いいんですか? よかったぁ!」

「いやよくねぇよ! 全然よくねぇよ! それについてのいいやじゃねぇよ! ってかあたしの話聞いてた? あたしはキミと一緒にいたくないの。一緒にいるとイライラするの。なのにどうして一緒に働けると思うの?」

「…ビジネスライクに?」

「いや限度があるわ。しかもキミはまったくの素人でしょ? こっちが雇うメリットとかあるの?」

 タケヲはそれについて少し考えた。

「…比較的重いものが持てます」

「なによ比較的って。しかもそれあたしとリサちゃんがカフェで話してた会話じゃん。どんだけ記憶力いいのよ。ん? ちょっと待って…」

 そこでトモミは何かを思いつき、口に手を当ててしばらく考え込んだ。タケヲはしばらく彼女の様子を見つめていたが、やがて手持ち無沙汰になり壁に描かれたシィカを読んだりし始めた。 

「キミ、明日の午前中時間ある?」

 トモミは表情を崩さずに言った。

「時間あります! まったく問題ないです!」

 タケヲはまるでフルメタル・ジャケットのハートマン軍曹からの質問に答えるときのように腹から声を出して言った。

「車の免許は?」

「持ってます!」

「よろしい。それでは明日キミをテストします。テストに合格したら、キミをこの工房の徒弟として雇い入れます。よろしいですか?」

「よろしくお願いします!」

「わかりました。では明日の朝7時にこの工房に来てください。1秒でも遅刻すれば、そこでテストは終了です」

「わかりました!」

「ってかうるせぇよ。こんだけ近くなんだから普通の声で答えてよ」

「いやーついついうれしくて…」

 タケヲは照れながらそう答えた。トモミはそれを見てため息混じりの笑顔を浮かべた。

「そういえばまだ名前を聞いてなかったね」

「タケヲといいます。タケヲ・スガです」

「タケヲ君ね。じゃあ今度からキミのことをタケって呼ぶことにするわ」

「えー、名前の一部を取られちゃうんですか?」

「…あんたやっぱ知ってんじゃん」

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