第2話

 トモミはタケヲから目をそらさないように慎重に立ち上がると、無言のまま決して背中を見せないように素早くあとずさりしながら街の中へと消えていった。

 タケヲは猛烈に恥ずかしくなった。不意に視線を感じて店内に目を向けると、アフロヘアーのマスターが怒りに満ちた表情で「ナ・ン・パ・キ・ン・シ!」と読唇術のできないタケヲにもわかるように伝えてきた。タケヲは慌てて両手を振って無罪を主張した。

 その時、タケヲは先ほどまで彼女がいたテーブルの下のかごに大きめの黒いトートバッグが残されているのに気が付いた。彼はそれを取り上げると躊躇なくそれを開いて中を確認した。中には一冊の分厚いノートが入っていた。表紙にはきれいな手書きの字で『詩台帳』と書かれていて、その下には『アトリエ猫のひげ』と書かれている。先ほどの詩工師の女の子のものに違いないと思った。

 タケヲはポケットからスマートフォンを取り出し、『アトリエ猫のひげ』を検索した。ホームページは見つけられなかったけれど、グーグルマップで場所を調べることはできた。どうやらそれはこの近くの路地を入っていったところにあるらしかった。

 アルバイトが終わる時間まではまだある。タケヲはそのバッグを持って店内に戻り、カウンター奥の忘れ物かごの中に入れてから仕事に戻った。


 それから2時間が経過し、時刻は午後4時を過ぎた。タケヲのアルバイトが終了する時間になっても女の子はバッグを取りに戻らなかった。

 タケヲはエプロンを外しながらマスターに言った。

「このバッグ…取りに来ませんでしたね」

「そうね」

 マスターはエスプレッソマシンのフィルターを掃除しながらそっけなく言った。彼は男性ホルモンあふれる見た目に反して女性的な口調で話すタイプだ。

「どうしましょうか?」

「だめよ」

「え?」

「絶対だめ」

「まだ何も言ってないですよ?」

「あなた自分が届けてきますって言おうとしてるでしょ? そういうのだめだから。来てほしくないって人もたくさんいるのよ。もうちょっと考えて行動しなさい」

「いや、でも大切なものかもしれないですよ?」

「見たの?」

「え?」

「バッグの中を見たの?」

「え? いやあの、はい。誰のものか確かめようと思って…」

 マスターは殺気が込められた目つきでタケヲを睨みつけた。

「そういうのアタシがやるから! あなたは忘れ物の報告だけしてくれればいいから! 初日に説明したよね?」

 マスターの手の中で鉄製のフィルターが悲鳴を上げている。

「だいたいあなたあのお客さんに尋常じゃないくらい嫌われてたみたいに見えたわよ? そのことは理解できてる?」

「いや、はい、あの…ちょっとした誤解があったので…」

「ちょっとした誤解であれだけ嫌われるものなの? 3年くらいストーカー行為を続けた人に対する態度みたいだったわよ?」

「いやほんと単なる誤解なんで。話せばわかってくれると思います」

 タケヲの言葉にマスターはため息をついた。

「…まあいいわ。とにかく、バッグはそのまま置いといてさっさと帰りなさい。くれぐれも、変な気起こすんじゃないわよ」

「わかりました」

 タケヲは真っすぐな目でマスターにそう答え、「それではお先に失礼します」と言ってトートバッグを持ってカフェを出て行った。あまりに自然なふるまいだったため、事態に気づいたマスターが怒りの咆哮をあげた頃にはすでにタケヲはその声の届かないところまで移動していた。

「…若さだねぇ」

 マスターの雄たけびをカウンター席で間近に聞いていた小柄なおばあさんが涼しげな声で言った。彼女はこのカフェの常連で、いつもカウンターで一人静かにコーヒーを飲んでいる。

「あの子まじめに働くし基本的にはいい子なんだけど、たまに何考えてるのかわかんないときがあるのよね」

 マスターはそう言っておばあさんに愚痴をこぼした。おばあさんは小さいカップに注がれているエスプレッソコーヒーを一口飲むとやさしく微笑んで言った。

「突拍子もないことをする子のほうが面白いじゃないの。おとなしそうに見えて身体の中にエネルギーが有り余ってるのよ」

「バッグのお客さんに迷惑をかけなきゃいいんだけど…」

「あたしはこの店が出来てからずっとあの子を見てるけど、あんたの言うように根はいい子だと思うよ。だから多少変なことはするかもしれないけど、そこまで馬鹿なことをする子じゃないさ。だから何も心配はいらないよ」

 マスターはやれやれといった表情でため息をつくと黙って首を振った。おばあさんは残りのコーヒーを飲み干すとゆっくりと立ち上がり、かばんと日傘とを腕に掛けながら言った。

「痛みから多くを学べるのは若いもんの特権だと思うよ。嫌われて学び、叱られて学ぶ。だからあの子がまた出てきたら、ちゃんと決まり事を守れるようにこってり叱ってやりな」

 そう言っておばあさんはにっこりと笑った。つられてマスターも頬を緩め、「そうするわ」とため息混じりに言った。


 そんな会話が交わされていることとはつゆ知らず、タケヲはスマートフォンを片手に路地を歩いていた。古い家並みに挟まれた車一台がやっと通れるような細い道で、彼は画面に表示させているマップのナビゲーションを確認しながらのんびりした足取りで進んでいた。

 やがて彼は現在地と目的地とが重なる場所にたどり着いた。そこには黒塗りのトタンで覆われた2階建ての建物があり、表の壁には白いペンキで『アトリエ猫のひげ』と書かれていた。

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