第1話

 少しずつ日差しが暖かくなり始めた3月の土曜日、タケヲ・スガは去年できたばかりのオープンカフェにいた。外国人観光客をターゲットにした海の見えるおしゃれなカフェのランチ時、彼はウェイターエプロンを腰に巻いてひっきりなしに訪れるお客の注文を捌くべく動き回っていた。

 生来のんびりした性格の彼があわただしいこの仕事を選んだ理由はたったひとつで、ひとえに時給が良かったからである。

 高校卒業を6月にひかえ、多くの同級生たちが大学への進学を決めていく中で、タケヲは卒業したらしばらく旅に出ようと考えていた。そのためのお金を貯めておきたかったのだ。


 彼には幼いころから詩工師になりたいという夢があった。そのきっかけとなったのは毎年彼の家に詩の施工をしに訪れるムラカミという名前の年老いた詩工師だ。タケヲはその詩工師の仕事ぶりを見るのが大好きだった。

 ムラカミは決まって午後2時にタケヲの家を訪れる。彼はゆっくりとした足取りで居間に入ると、そこの正面の壁に描かれている去年自分が描いた詩を5分ほど見つめる。その間ひと言もしゃべらない。その後彼は壁の下に養生用の布を敷き、速乾性の塗料を詩の上に塗っていく。そうしてしばらくすると何もない壁ができあがる。そこでタケヲの母親がお茶菓子を差し入れるので、ムラカミはそれをもそもそとほおばりながらしばらく彼女と世間話をする。彼女が席を立つと、ムラカミは少しうとうとしたりもする。やがて塗料が渇いたころを見計らって、彼は古びた筆を取り出して壁に短い詩をしたためる。少し離れて詩の出来栄えを点検した後で、彼はタケヲの母親に作業の完了を告げ、その見返りとして現金の入った封筒を受け取ると再びゆっくりとした足取りで帰っていく。

 タケヲはこのどこか時間の流れを緩めたような牧歌的な仕事風景を見るのが大好きだった。加えてムラカミの描いた詩はいつもタケヲの心に不思議な安堵感をもたらした。

 やがてタケヲは自分もムラカミのような生き方をしたいと思うようになっていった。

 「将来詩工師になりたい」とタケヲが友達に話すたびに、彼の友達は口々に「夢がない」と言ってタケヲをからかった。「詩工師なんて誰にでもできる仕事だし、給料だって安いし」というのが彼らの言い分だった。世間一般の詩工師に対するイメージもだいたい似たようなものだった。

 けれどもタケヲの想いは決して揺るがなかった。だからこそ彼は高校を卒業したら国中を旅して様々なシィカを見て回り、その後でどこかの工房に弟子入りしようと心に決めていた。


 ランチタイムを過ぎてお客がほとんどいなくなったころに、タケヲはようやく昼休憩をもらうことができた。エプロンを外してまかないのサンドウィッチを受け取ると、カフェのすぐ隣にある木陰のベンチに座って短い休憩時間に一息ついた。

 ふと気が付くと隣のオープンテラスで女の子が2人、座って話をしていた。一人は鼻の上にそばかすのある女の子で、化粧気のない顔に黒い丸眼鏡をかけ、クセの強い長い髪を後ろで束ねている。もう一人は薄いピンク色のふんわりしたワンピースを着て編み上げブーツを履いていて、明るいベージュブラウンの髪はさっきパーマをかけたばかりかのようにきれいにカールしている。

 パーマの女の子は泣きながら話をしている。

「ごめんなさい…トモミさんには迷惑ばかりかけちゃって…わたしやっぱりこの仕事向いてないんです…思ってたのと違うっていうか…」

 そう言いながら彼女はきれいに塗ったマスカラを崩さないようにハンカチで慎重に涙を拭った。

 トモミと呼ばれた丸眼鏡の女の子はやさしい口調で目の前の女の子に語りかけた。

「リサちゃんが向いてないなんて私全然思ったことないわよ。だっていつも一生懸命頑張ってくれてたし。私すっごく助けてもらってたもん」

「ううん…わたしなんて全然役立たずで…」

「そんなことないって。ね? もうちょっとだけがんばってみよ?」

「わたしにはもう無理です…。詩工師の仕事って、もっとラクだと思ってました。でも意外と力仕事とかあるし、塗料で肌とか荒れちゃうし…」

 詩工師という言葉にタケヲは敏感に反応した。そして彼女たちの会話に注意深く聞き耳を立てた。

 トモミと呼ばれる女の子は額を指でこすりながら言った。

「…まあ確かに詩工師ってみんなが思うほどラクな仕事じゃないかもしれないね。特にこの業界って男の人ばっかだから、女の子だとやりにくい部分とかも結構あるしね。でもだからこそ、私はリサちゃんが入ってきてくれてうれしかったんだ。一緒に頑張っていけたらいいなって、思ったんだよね…」

「そう言ってもらえて本当にうれしいです…トモミさんには感謝しかないです…。でもわたしもう次の仕事決めちゃったんで…。申し訳ないんですが、今日限りで辞めさせてください。本当に、お世話になりました」

 リサと呼ばれる女の子はそう言って深々と頭を下げた。トモミはその姿を黙って見つめていた。

 しばらくして、頭を上げたリサは笑顔で言った。

「わたし今度ネイルサロンで働くことにしたんですよ。よかったらトモミさんも来てくださいね。あと今日までのお給料はまた口座に振り込んでおいてください。それでは、失礼します」

「え…あ…うん、元気でね」

 トモミがリサのテンションの変化に戸惑っているうちに、リサは軽い足取りで去っていってしまった。トモミはリサが去っていった先をしばらくの間見るともなく見つめ続けていた。


 タケヲはそんなトモミの様子を静かに見つめ続けていた。憧れの詩工師という仕事をしている人が今目の前にいる。その奇妙な高揚感が、タケヲを普段とは異なる行動へと誘った。彼はすっと立ち上がるとぼんやりと物思いにふけっているトモミのそばに歩いて行った。

 突然の来訪者にトモミは身をこわばらせた。見知らぬ若い男が緊張した面持ちで隣に立っている。彼女は怪訝そうな目でタケヲの顔を見上げていた。

「あの…突然すみません。さっき『詩工師』って言葉が聞こえてきたんで…。あなたはあの…シィカを描く仕事をしているんですか?」

 タケヲの質問にトモミは答えなかった。彼女はまるで警戒する猫のように疑わし気な目でタケヲを見つめていた。

 居心地の悪い沈黙を埋めるように、タケヲはたどたどしく話を続けた。

「あの僕今度高校を卒業する者でして、卒業したら詩工師の仕事をしたいと思っていまして、それで…できたら何かアドバイスを頂けないかと思いまして」

「え…無理」

 トモミは刺すようにタケヲに言い放った。

 これが、2人が最初に言葉を交わした瞬間だった。

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