ポエトリー・オン・ザ・ウォール
KeY
第一章 詩工師
序
今から3年前の2016年、アメリカ大統領が88年ぶりにキューバを訪問したこの年、ニューヨークで開かれたオークションでバラ・コモリの作品が1,700万ドルで落札されたことはトコヨの国民が自分たちの文化の価値について少なからず考え直すきっかけとなった。
トコヨは日本の東、北緯35度東経171度の太平洋上に浮かぶ小さな島国だ。面積はおよそ12,000k㎡で、台湾の3分の1ほどの国土に約900万人の人びとが暮らしている。
高額で落札されたバラの作品はこの国では一般的な、ほとんどの家庭に備えられている『シィカ』と呼ばれる詩だ。
トコヨでは家々の壁に詩工師と呼ばれる専門の職人が詩を描くことでその家や家族を安全を祈るという風習がある。云わば言葉の魔よけのようなものだ。
これは遡ること850年ほど前に彼らの祖先が日本から船で移住してくる途中で大嵐に見舞われた際、船に(辞世の)詩を書くことで転覆を免れたという逸話がもとになっている。以来この地に暮らす人々は家の壁に詩を飾ることで家内安全無病息災を願うようになった。
これがシィカと呼ばれる一種のウォールアートの起源だ。
オークションに出品されたバラの作品は彼が生前依頼人の家の内壁に描いたもので、その家が老朽化によって取り壊しとなった際にとある美術商が壁ごと引き取ったものだ。
大きさは縦1m横2mほどでそれほど大きなものではない。
美術商が引き取ったときの値段については定かではないが、おそらくはタダ同然の価格であったに違いない。なぜならシィカはこの国の人びとにとって美術品という認識ではなく、壁紙などと同様に単なる家の付属物という扱いだったからだ。
長い年月の中でその風習が元来持ち合わせていた意義が薄れていき、もはや単なる形式としてのみ存在するものに成り下がっていた。なんとなく縁起の良くなる風習、といった程度のものだった。
だからバラの描いたシィカに高値がついたことに誰よりも驚いたのはトコヨの国民自身だった。
誰もがネットのニュース記事に挙げられているバラの作品を見て、それから自分たちの家にあるシィカをまじまじと見つめた。
バラの作品は数行の詩を伝統の文様で装飾したものだった。
ほとんどのシィカがそうであるように、あくまでも詩がメインであるためそれを彩る文様はごくわずかしか描かれていない。それを描いている塗料もこの国で古くから使われている伝統的な植物由来の塗料だ。
つまりは自分の家に当たり前のようにあるシィカと画面の向こう側の1,700万ドルのシィカの違いなどほとんどないように思えた。大勢の人が一斉に美術商や美術鑑定人に電話を掛け出したため、トコヨの国中の回線は一時パンクしてしまった。
結局はほとんどの家のシィカには「美術的価値なし」という判定が下った。(そのことに多くの詩工師たちが少なからず傷ついたけれど、それはとばっちり以外の何物でもなかった。彼らはそもそも技術者であり、美術的価値の探究者ではなかった)。
中には廃墟同然の家屋からバラの作品が数点見つかったが、いずれも保存状態の悪さから思うような値段にはならなかった。
そもそもシィカは通常1年ごとに新しいものに書き換えるという習わしなので、死後5年以上が経過したバラの作品が残っていること自体がまれだった。慣習に従って別の詩工師にバラの作品の上書きを依頼していた人たちは、当然のことながらひどく落胆した。彼らはもはや永遠に失われてしまった架空の戦利品に思いを馳せながら静かに枕を濡らした。
オークションをきっかけとして政府は外国人観光客の獲得に躍起になった。
ハワイのように美しいビーチやローマのように魅力的な建造物のないこの国にはこれまで観光のために立ち寄る外国人などほとんどいなかった。
けれどもバラの一件以降、家々に描かれたシィカを一目見ようと多くの外国人が訪れるようになった。政府は『芸術国家構想』を策定し、民間の旅行会社と協力して外国人観光客向けにシィカの見学を許可してもらえる家を募集し、ツアーを組んだ。
何の見どころもなかった島国は一夜にして全体がまるでひとつの美術館であるかのような『芸術国家』に生まれ変わった…かのようだった。
けれども先ほど述べた通り、ほとんどの家のシィカには美術的価値などありはしない。外国人から見ても結局のところそれは単なる「ちょっと変わった風習」に過ぎなかった。芸術国家という分不相応なブランディングは失敗し、観光客の数はみるみる減っていった。
だからと言ってすべてが無意味だったわけではない。それでも国の知名度は上がったし、ちょっと変わったオリジナリティーのある風習を見学するためにいくらかの観光客には来てもらえるようにはなった。そしてトコヨの国民の間でも独自の文化を大切にしていこうというムードが生まれた。
つまりはまあ、落ち着くところに落ち着いたというわけだ。
そして2019年、国全体を巻き込んだ一大ブームが過ぎ去ったあとの静かな街の一角で、この物語は始まる。
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