武蔵野うどんに誘われて
石屋タマ
平日の昼下がり、埼玉にて。
「おいしい……」
川越の市街地から国道一六号を西に進み狭山に入ったあたり、入間川の河川敷の近くに位置する簡素な造りのうどん屋。平日の午後二時の客が殆どいない、というよりも私と店主の二人しかいない店内で武蔵野うどんを食しながら、私は思わず呟いてしまった。
皿に盛られた極太の麺を二、三本持ち上げて、豚肉とネギが浮かぶつけ汁の中に浸す。武蔵野うどんの汁は濃い目の味付けになっているから、あまり漬け込んではいけない。さっと、軽く潜らせるぐらいがちょうどいい。
麺を口に頬張り、それを噛みしめる。ブチブチと麺の切れる弾力が心地良い。ゴクリと喉を通すと濃口醤油と小麦の風味が口一杯に広がってくる。
「うん、おいしい。まさに、武蔵野うどんだ」
――
武蔵野うどんとは東京の多摩地域から埼玉県にかけての郷土料理である。この地域にまたがる武蔵野台地は関東ローム層に覆われており、良質な小麦の生産地であった。そのため、一昔前までは地域の各家庭でうどんを打つ習慣があり、これが現代の武蔵野うどんのルーツとなる。
武蔵野うどんの最大の魅力といえば、コシが強く噛み応えのある麺である。この店のそれは特に顕著だ。だから、武蔵野うどんを食べるときは、蕎麦やラーメンのようにズルズルっと「飲み下す」ことはしない。少しずつ口の中に頬張り、しっかりと「噛みしめる」のだ。
うどん、とりわけ武蔵野うどんに目がない私は、休日ともなれば埼玉や東京の名店を何店も梯子する程の愛好家だ。数えた訳ではないが、恐らく廻った店は数百を優に超える。
平日の今日は仕事のために車で埼玉に訪れていた。うっかりランチの時間帯を逃してしまい、どこか入れる店は無いものかと注意深く車を走らせていたところ、「武蔵野うどん」と書かれた看板に目が留まった。私はその看板に、いや、武蔵野うどんに誘われて、この店に入ったのだ。
――
静かな店内の奥のカウンターで、うどんを食べる。カウンター越しの厨房に目をやると、店主が黙々と皿を洗っている。時折、国道を通るトラックの振動がカタカタと店全体を揺らすのが感じ取れた。
「おいしいけれど、何だろう、変わった麺だな。風味というか……香ばしさというか」
半分ほど食べたあたりで、他店と違う特徴に気づいた。麺から独特の香りを感じるのだ。「仄かに」ではなく、「はっきりと」漂うそれは、小麦のものとは少し違う気がした。試しに、汁につけずに一口頬張ってみると、やはり何らかの風味を感じる。
はてと思い、麺を凝視してみると、かなり茶色掛かった色をしている。もしかすると、小麦粉以外の別の何かを練り込んでいるのではないか。他店でも、そういう独自の麺を売りにする店は少なからず存在する。しかし、具体的に何をというのが分からない。
うどん愛好家の私としては、どうしても、それが何かを知りたい。ひとたび興味が沸くと、とことん調べなければ済まないのが私の性である。少々ためらったが、恥を忍んで目の前の店主に声を掛けた。
「あの……すみません」
突然の声掛けに驚いたのか、店主は一瞬だけ肩をビクッと動かして、皿を洗う手を止めた。
「は、はい。何でしょうか?」
「えっと、麺から強い香りを感じるのですけれど、小麦以外に何か使っています? 何か練りこんでいるような気がして……何か問題があるっていう訳じゃないのですが、ちょっと気になったので」
「練りこんでいる、ですか……」
あまり聞かれない質問なのだろうか、明らかに狐につままれたような顔を浮かべた。少し黙り込んだのちに、満面の笑みを浮かべて、こう返した。
「アハハ、お客さんは面白い事を聞きますねえ。うどんに詳しいのですか?」
「えっと、まあ、趣味で食べ歩きしている程度ですけれど」
「確かに少しだけ手を加えていますけれどね……そうだ。逆に聞きますけど、何を練り込んでいるのか分かりますか? 分かったら料金をタダにしますよ」
「えっ、ええ……いいのですか?」
ニコニコと笑みを浮かべながら唐突に謎解きを提案してきたので、私はドキリとした。その嬉しそうな表情を見るに、どうやらこの状況を楽しんでいるらしい。ユーモアがある店主だと思ったが、料金を無料にするとのことだ、よほどの自信があるのだろう。果たして素人の私に分かるのかと疑問がわいた。
半信半疑になりながらも、麺を一本持ち上げて香りを嗅ぐ。これは植物由来の香ばしさと表現したほうがいいだろう。では、味はどうかと汁を付けずに口に頬張る。弾力性からくる歯ごたえを楽しみながらも注意深くそれを味わうと、ほのかな甘さを感じることができた。
「うーん、どこかで嗅いだことのある香りの気がする……あとは甘味がするなぁ……」
植物由来の香ばしさと甘さ。ふと、頭に思い浮かべた言葉を不意に発する。
「栗かなぁ?」
ひょっとして、という期待もあったが……それを聞いた店主は、ぷっと吹きたしながら、こう答えた。
「ハハハ、ごめんなさい。実は、何も練り込んでいないのですよ。小麦粉しか使っていません」
「えっ、何も入っていないの? 本当に?」
思いもつかない回答に驚きを隠せなかった。引っ掛け問題だったことよりも、これだけの香りと甘味が小麦のみで生み出されているということに、である。
「ええ、小麦だけです。埼玉県産の小麦で、特に香りが強い麦種を使っています。普通はパンとかピザに使う麦種なのですけれど、強靭なグルテンを豊富に含むので、うどんに使うとコシが強くて甘味のある麺になります」
言われてみれば確かに、この麺の甘さはパンに近いような気がする。
「へえ、埼玉県産の小麦ねぇ。でも、麺の色はかなり茶色掛かっているけれど、これはどうしてですか?」
「ああ、全粒粉を使っているからですね。それを軽く炒ることで、さらに香ばしさを加えています」
全粒粉を使ったうどんは何店か食べたことがある。どの店の麺も、豊な風味と薄く茶色掛かっているのが特徴ではあるが、この店は比較にならない程に際立っている。違いを生み出しているのは、恐らく「炒る」という過程だ。なるほど、麺には何も加えていなかった。いや、加えていたとすれば、それは「工夫」だろう。
「とは言っても、小麦の本来の風味が一番重要なのですけれどね。どうしても埼玉県産の小麦を使いたくてこの麦種に辿り着いたのですが、どうです、なかなか面白い麺でしょう」
饒舌に語りながらも、どこか満足した表情を浮かべている。
「なるほどねえ。確かに初めて食べる味で、おいしいですね。埼玉県産の小麦を使うことで、ここまで違いを出せるとは。いやはや、脱帽です」
お世辞でもなく、本音から出た言葉だった。「何も無い」と表現される埼玉県だが、なかなかやるじゃないか。
「ええ、『武蔵野』を看板に掲げるからには、産地にも拘らないと。ちなみに、醤油は坂戸の醸造所の銘柄で、豚肉は入間の黒豚。つけ汁のネギと添え物の小松菜は、いずれも川越産です」
なるほど、この一杯には「武蔵野」が込められているのだ。ここまで地産地消に拘りを持った店は珍しいと思うと同時に、武蔵野うどんというのは元来こういうものなのかとも思えた。ここで暮らす人々は知恵と工夫を施しながら、武蔵野という土地を余すところなく活用してきた。その代表例が武蔵野うどんなのだろう。
「ごめんなさい、食事中なのに話し込んでしまいましたね。ごゆっくり、どうぞ」
そう言って、店主は皿洗いを再開する。私も目の前のうどんに集中するかのように、ゆっくりと、一本ずつ麺を味わう。年季の入った掛け時計のチクタクという音が店内に響くからだろうか、時の流れがゆっくりと感じる、そんな気がした。
――
最後の一本となった麺を名残惜しくも口に頬張り、何度も噛みしめてゴクンとそれを喉に通した。口の中に仄かに漂う醤油と小麦の風味が、食べ終えてもなお、余韻となって私を楽しめてくれる。
一息ついた後、「ごちそうさま」と席を立とうとした時だった。頃合いを見計らったかのように、皿を洗っていた店主がその手を止めて、小皿をすっと差し出した。
「はい、よろしかったら食後のデザートをどうぞ。さっきは少し意地悪をしてしまいましたら、お詫びと言ってはなんですがサービスをします。普段は有料なので、今回だけ内緒で」
小皿を受け取ると、そこには2つの栗がちょこんと並んでいる。
「これは?」
「自家製の栗の薄皮煮です。自画自賛みたいですが、甘くておいしいですよ」
パクリと一つ、それを頬張る。確かに、口一杯に甘さと香ばしさが広がるのを感じる。さっき私が思い浮かべた通りの味だ。
「もしかして、この栗も?」
「ええ、埼玉の日高の特産品です。ああ、忘れていました。お茶もどうぞ。もちろん、狭山茶ですよ」
にやりと笑いながら、お茶が入った急須と器をカウンターに置く。こんなところまで武蔵野に拘る。本当に徹底した人だと少しばかり感心する。
うっすらと湯気の立ちあがるお茶を一口ほど喉に流し込む。深い緑色のお茶はどこか優しく、それでいて、どこか懐かしい。小皿に残ったもう一つの栗を口に入れると、一つ目よりも一層の甘さと香ばしさが感じられた。ほっと溜息をついた私は、満腹感と幸福感に浸されているのを感じた。
私のお腹は今、武蔵野でいっぱいだ。
武蔵野うどんに誘われて 石屋タマ @ishiyatama
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