Episode「Ⅰ」

 ――そこは、古びたアパートの一室。

 狭い部屋に万年床と化した薄っぺらい布団が敷かれ、テーブルや床には、化粧品や包装ごみ、雑誌、雑貨、服等が乱雑に置かれている。

 そんな中、淀んだ目でテレビを見つめる一人の女がいた。

 もう壮年に近い年齢であろうか、若い頃は美人だったのかもしれないが、ぼさぼさの髪を雑に後ろで留め、こけた頬には生気がなく、かろうじて過去の面影を残すだけとなっていた。

 テレビはちょうど、とある歌番組の冒頭シーンが流れ、司会者が大写しで現れる。

 女にとってその番組は、思い出が深すぎた。

 過ぎ去った日々の輝きであり、今となっては心身をむしばむ毒物であった。

 画面の向こう側が眩しすぎて、チャンネルを替えようとリモコンに手を伸ばした瞬間。


「本日は特別な夜です。番組冒頭ですが、今日初出演の、このアーティストに一曲披露して頂きましょう。それでは、どうぞ」


 曲が始まる。一人の少女の歌声と共に。

 それは、弱い自分を受け入れ、辛い日々と向き合い、幸せな未来をこいねがう、優しくて切なく、力強い旋律だった。



 ——歌が終わり、アーティストの名前やプロフィールが、アシスタントの女性から紹介される。

 女は、涙が止まらなくなっている自分に気付いた。

 慌ててティッシュで涙を拭き、深呼吸をすると、机に置いていた端末の電話帳画面から、とある人物のアドレスを開く。

 少しばかりの逡巡しゅんじゅんの後。震える手で、通話ボタンを押す。

 耳元にコール音が鳴り響く。時間にして数秒のはずのそれが、とても長く感じられる。

 そして。


「はい、僕だ」

「あっ……、ご無沙汰しております」


 その短い時間で喉が乾ききってしまった女は、普段より更にしゃがれた声を出す。


「やあ、……久しぶり。しばらく聞かないうちに、一段と味のある声になってきたじゃないか」


 あの頃と変わらない、軽い口調。

 女は、再び涙が溢れ出そうになるのを堪え、はい、おかげさまで、とだけ返す。


「で、どうしたんだい」

「先生。あの、今番組で歌っていた子はもしかして」

「ああ、彼女か。君はさすがだね。そうだ、僕が面倒見たよ」


 そう言って、通話先の壮年の声は弾む。


「君以来の才能だ。僕も、もう表舞台に出る気はなかったんだが、今回だけは最後のチャンスだと思ってね。全力でやらせてもらってるよ」

「そうですか……」

「……君には何も出来なかった。それは後々のことも含めて、本当にもう取り返しがつかないと思っている。だから、あの子は後悔の無いようにしたいんだ」


 女は言葉を失った。あの日、聞きたかったことの答えを、今更だとしても知ることが出来、もう、溢れるものを抑えることが出来なかった。

 電話の先で、彼が微笑んだ気がした。そして。


「ああ、そうそう。彼女ね。元々クラシック志望だったみたいだが、君の歌を聞いてシンガーソングライターになることを決めたみたいだよ」

「あっ、えっ」

「君が尊敬するアーティストだそうだ。もし、彼女の音が、君の心に響いたのだとしたら、そういうことなのかもしれないね」


 嗚咽が止まらない。

 通話の先の男性も、女が少し落ち着くまで、ただ、待つ。

 そして、どれくらい時間が経っただろうか。女は口を開く。


「先生、ありがとうございます。あの、お電話をしたのは、お願いがあって」

「ああ、いいとも。何かな」


 息を整える。

 あの頃のように、少しでも心に響くものになるように、祈りを込めて。


「彼女に会ってみたいです、少しだけでいいから、話がしてみたい」

「なんだ。それこそこちらから、明日にでもオファーしようと思っていたんだ。彼女からも、全く同じことをお願いされたのだから」



 ――そして、電話が終わり。

 女はすっと立ち上がると、散らかった汚い部屋を片付け始める。

 雑誌をまとめ、出しっ放しの化粧品はポーチに入れ、散乱したゴミは袋に入れ、服は畳み、本来であれば今日にでも使う予定だった縄も、丸めてゴミ袋へ勢いよく投げ込む。

 そして、衣装棚の上に長らく伏せていた写真立てのところに行き、うっすらと被っていた埃を払い、写真がきちんと見えるように再び立てる。


 そこに飾られていたのは。

 女とその娘が、小学校の正門前で二人してピースをする、笑顔の写真だった。

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