第三十五話 本村愛美の【場合】

 シンガーソングライターだった母親は、その人気の絶頂期、私を身籠ることになった。

 ただ、それは母親にとってとても幸せなことで、一旦活動休止という形で、その間に子供との時間を設け、成長したら復帰しようと思っていたらしい。

 しかし、時を同じくして、母親を醜聞が襲う。

 週刊誌のスクープで大々的に書かれたそれは、母親が違法な薬物に手を染めている、というものであった。


 ――全くの事実無根であった。


 が、それは瞬く間に拡がり、ちょうど表に出られない時期であったことも重なり、もはや手の付けられない程、炎上し続けた。

 そして。母親は自分自身の夢を捨て、代わりに私を得た。

 父親がおらず、二人きりだった私達は、小さい頃は本当にずっと一緒だった。

 買い物に行く時も、遊ぶ時も、寝る時もずっと。手を繋いで隣で笑う母親が大好きだった。



 だが、私が成長し、小学校も高学年になると、母親は夜な夜な街へ繰り出すようになり、朝になっても帰ってこない、なんてことは当たり前になった。

 三十を超えても美しかった面影は薄れ、目元の化粧だけが濃くなっていった。

 その頃になると、私も、母親の生活に何らかの変化が起こったことを認識していた。

 友達の家に呼ばれた時に経験した、遊んでいる最中、その母親がお菓子やジュースを持ってくる、ともすればそんな当たり前のことも、私の世界には無く。


 ――ね、今度はマナちゃんのおうちで遊ぼう?


 そう、無邪気に言う友達に、私は愛想笑いを浮かべるだけ。

 そして、次第にその子とは、疎遠になっていくのだった。



 時は流れ、中学二年になった頃。

 小さい頃、生活費用に口座を作ってもらい、年齢にしては明らかに過剰なお金を毎月振り込んでもらっていた私だったが、ある月を境にその入金が全く無くなった。

 ある日の夕方。

 寝室から出てきたばかりの母親と久しぶりに出くわした私は、目線を床に落とし、おそるおそる、そのことを尋ねた。


「あ、あの、お母さん、その、お、お金、振り込まれてなくて」


 視界の端に見えていた自分の手は、強く握りしめられ、ぶるぶると震えていた。

 そして、――しばらくの沈黙の後。


「ん、ああ、ごめ。金、ねーんだわ」


 そう言って、背中を向けて手をひらひらと振りながら寝室へ戻っていく姿を見て、その女が自分の知っている母親ではもう無いのだと、改めて気付かされたのだ。



 まだバイトをするのが不可能な年齢だったこともあり、それからの日々は、自分の口座に入っているお金で、これからの生活をやりくりすることに必死であった。

 大好きな歌を歌うためにお金を使うことも、出来なくなっていた。

 そして、一年が経過した中学三年の四月。

 長い間、歌えなかったストレスが溜まっていた私は放課後、誰もいない学校の屋上で、大好きな母の、大好きな歌を口ずさんでいた。

 そんな姿を、三年から新しく担任になった教師が偶然見つけ、彼女が副顧問をやっている合唱部へ、半ば強引に誘われたのだった。

 とても魅力的だった。どんな形であれ、歌えるということは、私にとって幸せだったのだ。

 その一方で、合唱部という人が大勢いる環境に入ることへの抵抗感も強かった。

 小学校の頃、友達がうまく作れず、人と馴染むことがトラウマになっていたからだ。

 しかし、そんなことを学校の教師である彼女に伝えることは出来ず。


「忙しいし。……参加出来る時だけでいいなら、いいけど」


 そう答えて、合唱部に入ることになった。

 三年の自分を合唱部に誘うという時点で、内情はある程度察していたが、それゆえに一人でも部員が増えるのは嬉しかったようで、合唱部の皆は私を暖かく迎え入れてくれた。

 そして、ようやく。ずっと友達が出来なかった私に、ようやく友達が出来た。

 家に誘うことはやっぱり出来なかったけれど、一緒に練習したり、遊びに行ったりする時間はとても幸せで、満たされた日々だった。

 そして、私の歌に触れてもらったことも。

 それまで独りで歌っていてわからなかったけれど、人前で歌い、初めて褒められたその時、ようやく私も、母親と同じ血が流れていることを実感出来た。


 ――卒業したら、プロを目指そう。


 大好きな母親がそうしたように、私もそうなりたい、と。

 大好きな母親が出来なかった分、私がそうなるんだ、と。


 そう、心に決めたのだった。



 そして、季節は流れ。

 卒業のひと月くらい前のことだ。

 その日は、雪が断続的に降り続く、部屋の底冷えが酷い、本当に寒い、寒い日の夕方だった。

 私は、家のソファーにゆったりと座りながら、卒業後、友達と遊びに行くための段取りを端末でやり取りしていた時。


「愛美、ああ、ちょうどよかった」


 珍しく夕方に帰ってきた母親は、数か月前より、目元のメイクをさらに酷くさせた姿でリビングに入り、声を掛ける。


「あんたに紹介したい人がいるんだ」


 そう言うと、後ろから母親より明らかに若い、金髪の男が姿を現す。

 母親はよく男を家に連れ込んでいたが、その金髪はまだ見たことがなかった。


「こいつはあたしのパートナーでね。十五の娘がいるって言ったらさ、売ってくれたら、クスリを弾むっていうんだ」


 何を、言っているんだろう。


「だからさ、あんた、こいつに売ることにしたからさ。なぁに、あんたもカネ、大変だろう。こいつが男を取る斡旋もしてくれるらしいし、良いことづくめだよ」


 何を、言ってるんだろう、この女は。


「じゃあ、あとはよろしくー、ああ、奥のベッド使っていいからさ」


 女は玄関から出ていき、下卑げびた笑みをにやにやと浮かべる男と、私が残された。

 親に売られるなんて、可哀想すぎるでしょ。

 緩慢に近づいてくる、ヒトの形をしたソレに言われた言葉で、私は絶叫した。

 端末を投げ捨て、逃げ出そうと玄関へ向かい、油断していたのか弾かれ、尻もちをついた男の嘲笑ちょうしょうを背中に受けながら、靴も履かず外に出て走り、そして。

 無我夢中で、何も考えられず走って逃げて。気が付いたら、雪と泥で服は酷く汚れ、履いていたタイツはところどころ破け、足先は血がにじんでいた。

 私の辿り着いた先。そこは、学校の屋上だった。



 顔は涙でぼろぼろで。

 今日、せっかく練習していたメイクもぐちゃぐちゃで。

 吐き気と気持ち悪さが止まらず、身体が、心が、痛くて。

 濡れたフェンスで背中は冷え、眼下には、薄暗い濃紺の運動場が広がっており。

 そこに、大好きだった幼い頃の母親の顔が、脳裏に何度もフラッシュバックし。

 狭いスペースにしゃがみ込むと、長い時間、ずっと泣き続けた。



 ――どれくらいの時間が経過しただろう。

 端末を持ってきていなかったため、時間も分からず、世界はまだくらく。

 ほんの少しだけ激情が過ぎ去った私は、誰かに助けを求めようと思った。

 友達でも、先生でも、警察でも。とにかく、生きたくて、生きていたくて。


 フェンスを逆手に持ちながら、ふらつく足で、立ち、上がった、はず、の、私は。




「すってんころりん、積もっていた雪で、滑って転んでしまったのでした!」


 そう言って、翼を羽ばたかせるかのように両手を広げた愛美に、途中からうつむいて聞いていたテンシは飛びつき、ぎゅう、と抱きしめる。


「マナちゃんは頑張りました、頑張りました……、いっぱい頑張りました」

「……うん」


 テンシは自分の頬に熱いものが流れ落ちるのを感じ、さらに優しく、強く、過酷な運命を辿った少女を抱きしめ、背中を何度も撫で続けた。

 健太は、声を殺してすすり泣く愛美の姿を見ながら、少しでも今を、これからを幸せなものにしてあげたい、と改めて心に誓った。



 ――少しの時間が経過し、涙の跡が残る愛美はそれでも前向きだ。


「というわけで、どうしても転生、頑張りたいんです」


 ぐっ、と親指を立て、笑顔を見せる。その姿に、テンシは少し考え込む。


「どうしたの、テンシさん」

「ん。ちょっとだけ本気出そうかなって」


 健太の問いかけにテンシはそう呟くと、転茶屋のチャート画面を開き、小さく頷く。

 そして立ち上がると、ちょっと通話してきますね、とテントの出口から外へ這い出る。

 数分後、戻ってくると、テンシは愛美に優しく微笑み、こう言うのだった。


「マナちゃん。私が、私達が、貴女が望む次の生を、必ず迎えられるようにします」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る