第十五話 きみの声が、聴きたくて

 幼い風貌の女探偵ヨリコと別れ、健太は自室に帰ってくる。どっと疲れが押し寄せ、昨日と同じようにそのままベッドにうつぶせで倒れこんだ。

 そのままの体勢で首だけ動かし赤いカニ時計を見ると、時間は九時十三分になったばかりであった。


「ふぃ~……」


 再度シーツに顔を埋め、脱力する。

 今日もあっという間に過ぎていった。

 初めて経験した依頼、初めて知る事実。新たな出会いに、見慣れてきた街並み。

 この慌ただしい日々も、しばらくすれば、日常になるのだろうか。

 この疲れ切ってしまう体も、慣れていけば、少しずつ楽になるのだろうか。

 そんな取り留めのないことを考える健太の脳裏に、ふっと浮かぶ願いは。


「……テンシさんと話したいな」


 目を閉じると、自然と脳裏に浮かんでくる、白髪の少女。

 笑顔がまぶしくて。でも、その輝きがほんの少しだけかげる時もあって。


 ――テンシちゃんのこと好き?


 修道女の言葉を、頭の中で反芻はんすうする。

 直接的に尋ねられ、気付いたことがある。


「好き、なんだろうなあ……」


 とはいえ、記憶があやふやな彼には、きちんと恋愛をした記憶も当然ない。

 そんな自分の「好き」をどこまで信じていいのか、悩ましいところである。

 でも、こういうものは理屈じゃないのかも、と健太は自分自身を納得させる。


「早く、会いたいな」


 ふと、そこで昨日手に入れた【Talk】のことを思い出す。いわゆる、通話機能のプログラムである。


 ……うーん。


 おそるおそる、空中に縦長の四角を描き、画面を表示させる。

 そこに浮かび上がるのは、今まで交流のあった人々のリストだ。

 その一番上に表示されている、「テンシ」という文字。


 ……ううーん。


 その状態でまごついていると、画面が薄くなり消えかける。


「っとと」


 慌てて上端を連打すると指先が少しずれ、ちょうど『テンシ』の位置を押す形になる。


「あっ」


 時すでに遅し。

 Connecting……、という文字が明滅する。

 黒い画面の左下端に、翼猫を正面から描いたような白いシルエットが、蝶の白いシルエットを捕らえようとして、右に左に両前脚を伸ばすアニメーションが表示される。

 消し方が分からず、身体は硬直し、顔は紅潮し、無限と思えるような数秒が過ぎ、


「はぁい、テンシちゃんでーす」


 少し、いや、かなり眠そうな柔らかい声が耳元に響く。


「あ、こんばんは、健太です」


 思った以上に近い位置で響く声に鼓動早まるのを感じ、汗がたらりと流れ落ちる。


「健太さんですかぁ、こんばんはー、……って健太さんっ⁉」


 通話越しにシーツを跳ね飛ばしたような音がして、がさ、がさがさと大きな雑音を立て、これって映像モードになってないよね、ね、と遠い位置から声が聞こえ。

 それから程なくして、いつものハイテンションな声が室内に響き渡る。


「お待たせしましたっ! 【Talk】ゲットしたんですね、やるぅ!!」

「うん、ありがとう。……でも、急に電話しちゃってごめんね」

「いえいえ、お気になさらずです! 使い方がわからず試しにいじっていたら、一番初めに登録されているであろう私に間違ってかけた、みたいなやつですよね、あるあるなんですよね」


 ほぼほぼ合っていて、ほんのちょっとだけ間違っている。

 けれども、それをあえて声が聴きたくてかけました、と告白めいたことを言うほどには、少年の機微は成熟していなかった。

 なので、


「う、うん、そんなところ」


 と、ふわっとした返しになるのだった。


「このシステム結構古くに作られたみたいで、ちょっとだけ不便なんですよね。一回通話かけたら取り消せないし! あ、でもカスタマイズは色々出来るから、今度お会いした時に使いやすいように設定しますね」

「ありがとう、テンシさん」

「ふふふー、どういたしまして!!」


 通話越しでも分かる、テンションの高さと、嬉しそうな声色。

 通話越しだからこそより一層分かる、透明感のある美しく、温かく、柔らかい声。

 ずっと聞いていたいと思ってしまうのに、楽しいひと時は、またたく間に過ぎていく。


「あ、ヤバいです。私もう寝ないと」

「あ、うん。夜遅いもんね」


 時計を見ると、時間は午後十時二十六分。


「……今日はありがとうございました。いい夢見てくださいね、おやすみなさい」

「うん、こちらこそありがとう。……おやすみなさい、テンシさん」


 お互いに挨拶した後、十数秒くらい間があっただろうか。

 画面がDisconnetとなり、部屋は元の静けさを取り戻す。 

 満足感と、寂寥せきりょう感。

 ベッドの端に腰かけていた身体を後ろに倒し、ベッドに仰向けになる。


「あー……」


 通話が切れてようやく、健太は自分の喉がひどく渇いていることに気づいた。

 苦笑すると、テーブルに置いた手のひらサイズの瓶を開け、中の液体を一気に飲み干す。

 全身に林檎りんごの甘みが染み渡り、熱を帯びた体を少しだけ冷ますのだった。


     *


 通話を切ると、テンシは六畳ほどの無機質な室内を時計回りにふらふらと歩いていたのを終える。

 そして、質素な白いパイプベッドにうつ伏せで頭から倒れこむ。

 少し固めのマットレスと、その下のスプリングに支えられ、近くで丸まっている清潔な白いシーツを引き寄せ、ぎゅうっと掴む。


「……」


 言葉が、出てこない。

 嬉しさと、温かさと、そんな感情に対する動揺、怖れ、それら全てが心を掻き混ぜる。

 数分間そのままでいた後、もう一度起き上がり、部屋の角に置かれた簡素な机へ向かう。

 そこに置かれていたのは、今日の分を書き終えた日記。

 それを再度広げると、三行を付け足し、そしてまた閉じる。


「……うん」


 ほんの少しだけ落ち着いた気持ちを抱えて、今度はベッドに仰向けになる。


「私、……」


 あてもなく、答えもない自問自答をするうち、通話で引いていた眠気が途端に強くなり、白髪の少女はそれに逆らうことなく眠りの中に落ちていく。

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