第9話
その頃、ウソかホントか分からない奇妙な噂話がちらほらなされていた。
『恋愛感情を奪うウイルスがある』
ある地域でその症状が多発したことをきっかけに、テレビのニュースでも話題になり、専門家たちが何やら語り、やがてウイルスの存在も証明された。キスによって感染する精神的な感染症と定義され、治療法はまだない、未だ研究段階の新型ウイルスのようだ。
飛沫感染でも空気感染でもない、キスという本来は愛情表現であるはずの行為によって感染する、新しい在り方の精神的感染症。
思い当たることがあった。
「アスカの手料理、マジで美味しくてさ」
「待ち合わせがあると、朝に強くなるなぁ。おまけに雪に濡れないし」
「エマちゃんに誘われるおかげで図書室通って毎日勉強するようになったのが大きいかな」
翼は彼女たちのことをそんなふうに言っていた。逆に言えばそんな見方しかしていなかった。そう思えば、「かわいい」とか「好き」とか、そんな惚気は一度も聞いたことがない。
そんな彼女たちは、
男好きの性格を捨てた。恋愛が分からなくなった。自殺未遂をするほどまでに心が荒れた。
ただひとり、恋人同士だったとはいえ会ってもいない翼とイズミ先輩は、キスなど言うまでもなく、していないことだろう。そしてイズミ先輩は今なお同級生の男子が好き……。
やはり3人の元カノの精神状態は、変わってしまっている。
そうすれば病原は……。
「翼、もしかしてお前……」
「……なんだ、涼、気づいてたのか」
「それをわかってて彼女たちと付き合ったのか!」
高校3年生になり、初めて翼と喧嘩のような言い合いをした。
「んなわけ!!俺だって最近、自分が変かもしれないって気づいたよ」
「罪のない女の子を、何人犠牲にしたと思ってるんだよ!チアキは、チアキはどうなるんだ!」
「お前まさか、チアキのこと好きだったのか」
「お前のせいで!それはもう叶わない」
翼は驚いた顔をした。そして目を伏せて黙り込んだ。
「わかってんだよ、俺は全ての元凶だ。精神科に行く。もうきっと女子と付き合うことはない」
それからというもの、翼は本当に女子と関わりを持たなかった。今までの経緯から翼を甘く見たファンの女子から告白されることもあったようだが、丁寧に断っていた。
いよいよ最後の学祭。準備は念入りで、演劇パフォーマンスは最優秀賞を取るぞとクラス全員が団結した。クラスの女子が、流行りの恋愛ドラマをアレンジしたシナリオを作ってきた。他のどんなジャンルよりも恋愛ストーリーの方が観衆は沸く。
「じゃあ主役のヒロインだけど、誰やる?」
明らかに狙っているだろうに、裏方がいいと騒いでみせる陽キャ女子。
本気で衣装作りを志願する声の小さな女子。
女子ばっかりのクラスでは、誰がヒロインになってもおかしくない。
「やります!」
堂々と手を挙げたのはチアキで、その表情には決意が見られた。ほっそりしたスタイル。バレリーナのような背筋、傷ひとつない肌にツヤのある髪。ヒロインに最適の人材だ。
「え、あ、チアキでいいの?」
まとめ役の女子は予想外の展開に狼狽えていた。他の女子たちも何も言えないでいた。
僕は承認の拍手をすると周りもなんとなくそれに従った。そしてチアキは念願のヒロインに就任した。
「オメデトウ」
チアキに口パクで合図する。チアキは顔をくしゃっとして笑顔を見せた。
「じゃ、つぎ彼氏役だけど……」
演劇のコアメンバーにいる男子は僕と翼。視線が僕たちに集まる。まさか。こんな状況予測していなかった。
翼はチアキの元彼だ。それを配慮したのか、視線による圧力は僕の方へと集まる。女子がほとんどを占めるこのクラス。逆らえない。
「あ、じゃあ、やります」
誰も意義を唱えず、自然と拍手が湧き上がった。
僕はチアキの彼氏役。悪くない役だな。僕はひとりそっと笑みをこぼした。
日に日に練習時間は長くなり、放課後の時間は部活より演劇に費やす方が多くなった。セリフを流す日、演技を磨く日、発声、立ち位置の確認など、毎日新しいことを覚えチアキと復習しながら帰る。遅い時間のバスで帰り、今までにないほどチアキとの仲は深まった。
演劇本番、僕がチアキと仲直りの握手をするシーンで幕が閉じる。でも練習通りにはいかず、熱が入ってしまいアドリブ演技をしてしまう。それは先輩方の代から受け継がれたお決まりパターンだ。特に恋愛ストーリーの演劇は。
1週間も前から僕は悩んでいた。本番にアドリブを入れるべきかどうか。本来の演技が握手なら、本番のノリだと抱きしめるのが無難だろう。でもそんなことをしたら今後チアキとの仲はどうなるだろう、引かれないだろうか。でも実際に僕はチアキのことが好きなのだ。できるものなら抱きしめたいし、これを逃せばそんな機会はない。どうしようか……。
そして本番、ラストシーン。僕は考える間もなく、握手を差し出すチアキの手を無視し抱きしめた。チアキも、僕自身も驚いていた。こんな表情は観客に見せるまい、とお互いに俯いた。そして野次が飛び、盛り上げる喚起の声が上がり、幕が閉じ、照明が段階的に消えた。幕の中は真っ暗で、抱きしめているチアキ以外はなにも感じられない。
それからは衝動的だった。演技の緊張によるドキドキ、チアキに触れているドキドキ、照明に当たっていた暑さ。いろいろなものが混じり合っておかしくなっていた。
「チアキ、好きだよ」
劇中のヒロインの名前とは違う、本名で呼ぶ。チアキは小さく息を吸った。驚いているのがわかった。
真っ暗なのをいいことに、僕はチアキに自分の唇を重ねた。
顔を離したその瞬間、熱が覚めた。僕はチアキが好きなのか……?好きってなんだ。
幕内の照明が再びつく。
翼は僕らを優しく見守っていた。
「涼、チアキ、お疲れ様」
後ろでは既に、バック絵や小道具の片付けが始まっていた。チアキはただ驚いていただけで照れる様子もなく、そそくさと片付け舞台に入っていった。
そして翼は小さく呟いた。
「俺も、女の子を好きになってみたかった」
失われた感情 雨野瀧 @WaterfallVillage
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