誰かの遺書

しゃくさんしん

誰かの遺書



事故を見た。住まいを替え、ポストに見知らぬ者からの遺書があった。やや冷たい、ぬるい湯に浸かった。

夏も冬も。皮膚から骨へ、まどろみのようなものを空々しくおぼえる。女が自転車を漕ぎ、後ろのチャイルドシートに白い風船を持つ幼児。信号を渡っていた。



シルバーの乗用車が鋭い高音を響かせ、高速に左折し、横断歩道へ横滑りした。瞬く間に二人に迫った。

突進する車も、女の狂わしく剥いた目玉も、スローモーションで過ぎ去った。音は絶えていた。無音の、遅い、一瞬だった。



自転車ごと宙に舞う。

幼児はさらに高く浮かび、首から地に落ち、弧を描くように愛くるしくバウンドした。

三度目のバウンドで、風船がふと幼児の手を離れ、浮上した。

雲へ溶けいるように空へのぼっていき、幼児は地上に伏して静止した。アスファルトに血液が広がるのと同じ速度で、音が耳に戻った。車の走り去る音と、女の低い声。

八畳の1Kの部屋から、八畳の1Kの部屋へ、住まいを替えた。



築年数が浅くなったぶん、万事につけ小奇麗になった。清潔な銀色のポストに、埃をかぶった茶封筒が一つあった。見知らぬ誰かの遺書だった。



差出人の名だけがあり、宛名はない。名だけでなく、相手もこちらも住所が記されていない。

住人がいないと、知ってか知らずか、自分の手で投函したらしかった。

自ら命を絶つことにいたしました。随分とご迷惑をおかけしました。先立つ不孝をお許しください。

余白ばかりの便箋から、薄らと消毒液の匂いがした。

見知らぬ誰かから届いた遺書を掌に置き、持て余した。



私に宛てたのではない、誰に宛てたのでもない。私がここに住まわなかったならば、私ではない誰かが受け取った。

まだ家具のない、真昼の明るい部屋だった。


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誰かの遺書 しゃくさんしん @tanibayashi

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