第11話 要領の悪い男

 田方正一郎は、生真面目だが要領の悪い男だ。

 学生時代に始めた新聞配達員を、大学を卒業した今も続けている。

 いや正確には、続けざるを得なかった。


 いくら世の中が売り手市場と言われていても、俗にFランと呼ばれる大学で、特別な技能も持たない学生が、一流企業に就職するなど夢のまた夢だ。

 講義にも真面目に参加し、課題は期限を守って提出、単位を落とすことなく卒業出来たとしても、主体性を持って動けなければ優良企業からの内定は勝ち取れない。


 正一郎には、自己アピールや主体性が絶望的に欠けていた。

 その結果、就職戦線に敗れ、配達員の仕事を続けている。


 配達員を始めてから四年になるが、仕事が遅い。

 さすがに入ったばかりの新人よりは早いが、あと数か月もすれば抜かれるだろう。

 欠勤も遅刻もしないがミスが多く、度々作業を中断してやり直すので時間が掛かるのだ。


 一緒に働いている人間からすれば、どうしてと思うことばかりなので、見ているとイライラしてくるのだ。

 自分の仕事に影響が出ない所は、周囲の人間も黙認しているが、配達の抜けや遅延など、迷惑を被ることが続けば風当たりが強くなるのも当然だろう。


 正一郎は、販売所では浮いた存在、お荷物として認識されていた。

 他人とのコミュニケーションも苦手で、仕事が終わると販売所の二階にある寮の個室にこもり、日用品の買い物ぐらいでしか出掛けることも無い。


 そんな正一郎が、放火殺人事件の現場に遭遇してしまった。

 その日は珍しく仕事も順調で、これならば今日は所長から小言を言われずに済むと思っていたところだった。


 住宅街の裏道に入り配達をしていたら、突然悲鳴と共に火だるまになった女が飛び出して来た。

 転げ回りながら燃え続ける女に、こちらも炎に包まれた男が飛びついて抱きしめる。


 深夜の住宅街は、あっと言う間に騒然とした空気に包まれ、周りの家から出て来た人達が消火活動を始めた。

 人間が燃えているショッキングな状況と重油が燃えるような臭いを嗅いだせいで頭の芯が燃えるように熱く、正一郎は呆然と立ち尽くしてしまった。


「ぼーっとしてないで手伝えよ!」

「す、すみません!」


 住民の一人に怒鳴られて、正一郎も無我夢中で消火活動を手伝った。

 消防隊が到着するまで心臓マッサージを手伝い、警察に事情聴取を受け、マスコミに囲まれ、解放された時にはすっかり夜が明けきっていた。


 その間、正一郎は熱に浮かされたように頭の芯が熱く、販売所に連絡を忘れていた。

 販売所には新聞が配達されていないという苦情が殺到し、所長は勿論、他の販売員達も対応に忙殺されることになった。


「なんで電話一本入れられないんだ!」

「すみません……」

「大体、消火や人命救助なんか他の人間だって出来たんだろう? それは、お前の仕事じゃないだろう!」

「す、すみません……」


 販売所に戻った途端、土間に正座させられて所長に怒鳴りつけられた。


「お前のせいで、みんなが頭を下げて回ったんだぞ。何か言うことがあるだろうが!」

「ご、ご迷惑をお掛けして、すみませんでした……」

「すみません、すみませんって、田方さん、口ばっかじゃないですか」

「そうそう、何度も何度も、同じようなミスしてさぁ……馬鹿なんじゃない?」

「すみません……ご、ごめんなさい」

「もう、いい加減にしてくれよな」


 販売所で一緒に働く全員から吊るし上げられても、正一郎は脂汗を流しながら頭を下げるしかなかった。

 販売所の二階にある寮の個室に戻っても、放火殺人現場の異様な熱気と、吊るし上げられた屈辱感で、全く眠気は訪れなかった。


「ふざけんな、入って来た時には僕が仕事を教えてやったのに……なんだよ偉そうに上から目線で文句言いやがって……」


 この日は日曜日で、夕刊の配達は無かったが出掛ける気分にもならず、部屋に籠もって布団を被っても全く眠れなかった。

 ようやく眠れたのは、平日に夕刊を配り終えた後で眠る時間よりも遅く、寝付くまでに時間が掛かったせいで、翌朝の配達に寝坊した。


 所長に怒鳴られ、自分よりも若いバイトに罵られても、ひたすら謝るしかなかった。

 配達地域には警察の非常線が張られていてバイクが乗り入れられず、何度も徒歩で往復することになり、また配達遅延を出すことになった。


「何やってんだ、お前は……いい加減にしろよ」

「おっさん、マジ使えねぇよな」

「いない方がマシじゃね?」

「すみません……すみません……」


 警察の非常線のせいなのに、自分が悪いわけじゃないのに……正一郎は、屈辱感で頭の芯が燃え上がりそうな気がしていた。

 眠れない……眠れば起きられない……正一郎は夕刊の配達時間まで、コーヒーをガブ飲みして起きたまますごした。


 午後一時過ぎ、夕刊の配達準備を始める。

 頭の芯が熱を持っているようで、眠気は全く無いが、頭が上手く働いていない。


 夕方になっても、事件現場の非常線は張られたままだった。

 うろ覚えの非常線の範囲を地図で調べて配達表を作ったのだが、自分で作ったのに内容が把握しきれていない。


 バイクを下りて必要な部数の新聞を抱え、警察官に断って徒歩で配達をしたが、足りるはずの部数が足りなくなり、また取りに戻る。

 新聞を手に配達に戻るが、どこまで配ったのか思い出せない。


 気ばかりが焦って、ぜんぜん配達が進まず、このままではまた配達遅延を起こしてしまいそうだった。

 正一郎は意を決して、販売所に電話を入れた。


「所長、すみません。遅れそうです……」

「何やってんだ、お前ぇ! 今どこだ、どこまで配った!」

「えっと……事件のあった……」

「まだそんな所に居るのかよ。そこはバイクを下りて配るように指示したよな! お前、分かったって言ったよな! このノロマ! クビにすんぞ!」

「すみません! 申し訳ありません!」

「俺が逆から配達していくから、お前はそのまま配達を続けろ!」

「は、はい……分かりました」


 正一郎が分かりましたと言い切る前に、受話器が叩きつけられて電話は切れた。

 所長の協力のおかげで、何とか配達遅延を出さずに済んだが、販売所に戻った正一郎には最後通告が突き付けられた。


「はっきり言って、面倒見きれないよ。あの現場の非常線が解かれた後、今月中に一件でも配達抜けや遅延、クレームが入ったら辞めてもらうから、そのつもりでいろよ」

「は、はい……」


 四月はまだ半月以上残っていて、その間ノークレームで仕事を終えるなんて、正一郎には不可能と言っても良い。

 つまり、事実上の解雇通告だ。

 販売所を解雇されれば、当然寮からの退去も求められる。


 殆ど遊びに行くことも無い正一郎だが、配達員としての給料の半分程度は、学生の頃に引っ掛かったマルチ商法の借金で消えてしまい貯金は殆ど無い。

 バイトぐらいは見つかるかもしれないが、住む場所を見つけるのは簡単ではない。


「ここを追い出されたら終わりだ……」


 いっそ死んでしまおうかとも考えたが、死ぬことも、眠ることも出来ずに、また朝刊の配達時間を迎えてしまった。

 正一郎は開き直ることにした。足りなくなるなら、最初から余分に持って行けば良いのだ。


 非常線が張られた地域には、目一杯新聞を抱えて、一気に徒歩で配ると決めた。

 心配事が消えて、今度こそ上手く行くと思ったのに、正一郎が配達に向かうと非常線の範囲が大幅に縮小されていた。


 要領の良い者ならば、警察と交渉してバイクで乗り入れるか、当初予定した範囲は下りたままで配ってしまうとか、対応出来たのだろう。


 だが、ただでさえ要領が悪く、極度の寝不足で判断力の落ちた正一郎が、スムーズに対応するなんて不可能だった。

 無我夢中で配達を終えて販売所に戻ると、いきなり所長に殴られた。


「お前はクビだ! 一週間以内に荷物をまとめて出て行け! いいな!」


 正一郎は精一杯頑張ったつもりだったが、配達漏れや新聞がグチャグチャになっているなどのクレームが殺到したらしい。

 対応に出ていた後輩達からも、口汚く罵られた。


 早朝四時、配達を終えて朝食まで仮眠を取る時間だが、正一郎は一人明かりの消えた作業場に立ち尽くしていた。

 絶望的な気分に囚われているかと思いきや、正一郎の口元には抑え切れない笑みが浮かんでいた。


 正一郎の視線は、作業場の隅に置かれた赤い缶に向けられている。

 配達用のバイクがガス欠になった時のための、ガソリン携行缶だ。


 正一郎はゲラゲラ笑いながら、携行缶を右手で持って階段を上がっていった。

 その直後に燃え上がった炎は、瞬く間に販売所全体を包み込んだ。

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