第8話 魅入られた男
本橋耕太は、ブラック企業の社畜を絵に描いたような男だ。
現在のような売り手市場になる前、いわゆる就職氷河期にIT関連の中小企業に入社して以来、馬車馬のごとく扱き使われている。
退社時間は終電ギリギリが当たり前で、納期直前には一週間近く会社に泊まり込むことさえある。
そんな劣悪な労働条件の会社なのに、毎年春には花見が行われている。
単純に社長が花見が好きだからで、耕太からすれば、ただでさえ厳しい納期を更に厳しくする嫌がらせにしか思えなかった。
実際、今月末には、また何日か泊まり込みする羽目になるだろう。
上野公園で花見を終えた耕太は、一人寂しく家路に着いた。
桜並木が途切れた辺りで、前を行くカップルの姿が目に飛び込んで来る。
「ちっ、イチャイチャしやがって、爆発しろ!」
耕太の呟きが聞えた訳ではないだろうが、男は公衆トイレに駆け込み、路上には女が一人取り残された。
「拉致ってレイプしてやろうか……」
暗い欲望が頭に浮かんだが、周囲には多くの花見客がいて実行出来るはずがないし、本気でやろうとも思ってもいない、ただの憂さ晴らしの独り言だ。
ひんやりとした夜風が吹いて女の長い髪を揺らし、化粧の香りを運んで来る。
ダウンの襟を合わせた女の横顔に。耕太が目を奪われた時だった。
「危ないぞ、避けろ!」
「誰か、一一九番!」
沸き起こったどよめきと共に、視界が突然明るくなった。
反射的に足を止めた耕太の目の前を火の塊が横切って行く。
ぶわっと押し寄せて来た熱気に、思わず耕太は後退った。
「きゃぁぁぁぁぁ!」
火の塊は女にぶつかって、もつれるようにして地面に倒れた。
「いやぁぁぁ……助けて、助けてぇぇぇ……」
火の塊に見えたのは燃え盛る人間だと、女の悲鳴を聞いて初めて頭が認識した。
突然の事態に、耕太を含めた周囲の人間は、茫然と見守るばかりで動けない。
火は女の服にも燃え広がり、焼けたダウンジャケットから羽毛が燃えながら宙を舞った。
赤い炎の花びらが舞い散るような幻想的な光景に多くの人が目を奪われ、足元で起こっている悲惨な光景から目を背けたが、耕太は女から目を離せずにいた。
炎はダウンジャケットから長い髪へと燃え広がり、女の顔を焼いていた。
「いやぁぁぁ……がはっ、ごほっ、ごほっ……」
炎は女の喉も焼き、悲鳴すら封じてしまう。
女は死にもの狂いでもがいていたが、燃え盛る人に抱きすくめられ、徐々に動きを止めていく。
それはまるで、炎の魔人イフリートに捧げられた生贄のようだった。
「うわぁぁぁ……紗代、紗代ぉぉぉ!」
トイレから飛び出して来た男が、上着を叩きつけて消火を試みるまで、耕太は焼けただれていく女の顔を見詰め続けていた。
耕太は火の勢いが衰えるまで見届けると、現場を離れ不忍池の周囲をフラフラと歩いた。
重油が焦げるような臭いを吸い込んでから、花見の席で酒を飲んでいた時よりも頭がカーっと熱くなって、グラグラとする酩酊感に体を支配されている。
耕太は炎に酔い、女が無残に死んでいく様に興奮し、歩きにくいほどに勃起していた。
駅へと向かう道を逸れて、深夜営業のディスカウントストアへと足を向けた。
向かった先は、キャンプ用品の売り場で、手にしたのは樹脂のボトルに入った着火剤だ。
一本をカゴに放り込み、少し考えて二本追加する。
その晩は、そのまま自宅へ戻った。
翌日、耕太は着火剤を一本鞄に放り込んで会社に向かった。
昨日は花見だったので電車で通勤したが、普段の足は電動アシスト付きの自転車だ。
巣鴨のアパートから上野の会社まで三十分ほどで着けるし、終電を逃しても家の布団で眠れる。
ただし、行きは良い良い帰りは怖い、上野からの帰り道には急な坂があり、そのために電動アシスト付きを選択した。
花見の影響で、退社出来たのは日付がとっくに変わってからだった。
会社を出た耕太は、何を思ったのかアパートとは見当ちがいの方向へとペダルを踏んだ。
普段は死んだ魚のような目をして、惰性でペダルを漕いでいるのだが、この日の耕太の目には怪しい光が宿っている。
住宅地の中をゆっくりと自転車で走りながら、裏道に面した家を眺めていく。
耕太が自転車を止めたのは、まだ新しい一戸建て住宅の前だった。
3LDKぐらいだろうか、洒落た外装で駐車場には高級そうな外車が置かれている。
耕太は、鞄から着火剤のボトルを取り出すと、ノズルのキャップを外して握りしめた。
ピンク色のジェルが、高級車のボディーに線を描いていく。
バンパー、ヘッドランプ、タイヤ、フェンダーからドアへと波打つように線を描き、燃料タンクの辺りまで繋げた。
耕太はボトルを仕舞うと、ぶちまけた着火剤に火を着け、燃え広がっていくのを確認してから自転車をスタートさせた。
バンパーやライトなど多くの部品が合成樹脂で作られている現代の車は、一度火が着いてしまえば良く燃える。
少し自転車を走らせたところで聞こえた大きな爆発音は、燃料タンクにまで火が燃え広がった証拠だろう。
けたたましいサイレンの音が、耕太の背中をゾクゾクとさせた。
だが、三台の高級乗用車を燃やしてから家に戻った時には既に興奮は去り、花見の夜のような頭の芯まで熱される興奮は訪れなかった。
翌日も、耕太は着火剤を鞄に忍ばせて会社に向かった。
まだ花見の影響は残り、この日も退社したのは終電の時間を過ぎた後だった。
昨晩は高揚した気分で会社を出たのだが、今日は心が浮き立たない。
車なんか燃やしても意味がない……生きた女を燃やしたい……。
暗く歪んだ思いを抱えつつ、昨日とは別のルートで自宅を目指す。
声を掛けられたのは、二台目の車を燃やそうとしていた時だった。
「何してるんですか、ここ私の家なんですけど!」
部屋着なのだろう、スポーツウエアに身を包んだ若い女が懐中電灯を突き付けてくる。
強い光を避けるように左手で目元を覆った直後、耕太は女の顔に着火剤を噴射した。
「ちょっ、いやっ! 何すんのよ、やめてよ……」
着火剤が目に入ったのだろう、女は顔を両腕で庇いながらしゃがみ込んだ。
耕太はキャップを外したボトルを振り回し、女の全身に着火剤をぶちまけて、震える手でライターを握って火を着けた。
「いやぁぁぁぁ! 熱い、熱いぃぃぃ!」
深夜の住宅街に女の悲鳴が響き、周囲の家の窓に明かりが灯る。
女は路地のアスファルトの上で転げ回るが、着火剤に着いた火は消える気配もない。
火だるまになった女を見て、耕太は全身が震えるほどの興奮を覚えた。
ただ一つ計算外だったのは、自分の体にも着火剤の飛沫が掛かっていたことだろう。
耕太は自分も炎に包まれながら、転げまわって燃えている女に背後から抱き付き、勃起した股間を擦り付けるように腰を振った。
耕太の口や鼻、眼窩からもバーナーのように青い炎が噴出する。
身体の内側から焼かれる激痛が、味わったことのない強烈な愉悦に変わり、耕太は獣のように咆えた。
「あぁおぉぉぉぉぉ……ごぼっ……」
直径十五センチ以上ありそうな
狂ったように腰を振っていた耕太の動きが鈍り、焼かれた筋肉が収縮しながら、黒い消し炭へと姿を変えていった。
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