第4話 花見の夜

 川村敬介は、今年七十の坂を越えた。家も、仕事も、家族も今は無い。

 いわゆるホームレスの生活も随分と長くなったが、生まれついた時からホームレスだった訳ではない。


 四十を迎える前に、当時務めていた不動産会社を辞めて独立。

 その頃の日本は、バブル景気の絶頂期を迎えようとしていた。


 不動産取引を行う傍らで、株式売買や先物取引にも手を出すが、何をやっても上手くいき、面白いように儲かった。

 平均的なサラリーマンが一生掛かって稼ぐ金額を、ほんの数ヶ月で手に出来るようになると、当然のように生活は派手になった。


 高級な外車を乗り回し、自宅の他にリゾートマンションや別荘を所有し、愛人も囲った。

 金が生み出す全能感に酔いしれて、まるで神にでもなったような錯覚をしていた。


 一九九〇年三月、総量規制が行われた時、敬介は急激な地価下落が起こるとは考えもしなかった。

 その結果、対応が後手に回り、これまで金を生み出してきた土地は膨大な債務となり、家も、車も、別荘なども人手に渡り、愛人も家族も去っていった。


 莫大な借金だけを残して、敬介のバブル景気は幕を下ろす。

 当初、日雇いの建設作業員をして食いつないでいたが、足場から落ちて膝を痛めて以降はホームレスの日々を送ってきた。


 春先のこの時期、上野公園周辺を根城とするホームレス達は、一年で最も暮らしやすく、最も多忙な時間を過ごしている。

 理由は、咲き誇る桜だ。


 都内屈指の桜の名所として名高い上野公園には、毎年多くの花見客が押し掛ける。

 その花見の場所取りに、多くのホームレスが奔走するのだ。


 前夜の花見客が去った直後から場所取りを始め、翌日の夕方に引き渡すだけで、一晩で一万円以上になる。

 その他、花見客の残した食い物、酒、落としていったタバコ、物、金。


 敷物として使われるブルーシートも、ホームレスにとっては生活必需品とも言える資材だ。

 上野のホームレスは、この季節の立ち回り方次第で、その後の生活が大きく変わるとさえ言われている。


 皮脂や埃にまみれ、異臭を放つ服装などは論外。

 出来る限り身綺麗な服装で、互いに連携し、いかに酔客の反感を買わずに歩き回れるかが成否を大きく分ける。


 敬介にとっても花見のシーズンは稼ぎ時なのだが、どうにも体調が思わしくない。

 桜が開花する前、本郷の辺りで空き缶回収を行っている最中に急な雨に打たれた。


 桜の蕾が膨らみ始めていたとは言え、春本番にはまだ遠い時期の冷たい雨は、敬介の体から体温を奪い、その晩は熱を出してうなされることになった。

 その日以来、何かに気力を吸い取られているような感じがして、折角の稼ぎ時だというのに、思うように体が動かない。


「いよいよ俺も年貢の納め時かね。膝は悪いが、体だけは丈夫だと思っていたが、この歳だものな……」


 この日も敬介は、ホームレス仲間からの酒宴の誘いを断わって、ダンボールハウスに潜り込んだ。

 ブルーシート、ダンボール、フリースが秋から春までの命綱だ。


 頭がぼんやりとしているのは、熱が出ているからかもしれないが、手持ちの薬は飲んでしまった。

 敬介は、懐を探ってタバコを一本抜き出した。


 馬鹿みたいに値段が上がっても、これだけは止められない。

 使い捨てのライターで火を点し、ゆっくりと煙を肺へ吸い込む。


 ニコチンが身体に染み渡り、気分が落ち着いていくが、同時に胃の辺りがムカムカする。

 これは本格的に死病に取り憑かれたのかもしれないと思いつつ、フィルターの根元近くまでタバコを吸い、火を揉み消して敬介は眠りに落ちた。


 潰れるほどに地面に擦り付けられたフィルターが、風に吹かれてダンボールハウスの縁へと転がる。

 完全に揉み消され、煙も上がっていなかったフィルターがポっと燃え上がった。


 豆粒ぐらいの火は、風に吹かれるとダンボールハウスを包み込むように一気に広がっていく。

 敬介が浅い眠りから目覚めた時、既に視界は真っ赤に染まっていた。


「うわぁ、何だ、どうなってる……」


 慌てて起き上がった時には、火は服にまで燃え広がっていた。


「うぎゃぁぁぁぁぁ……」


 悲鳴を上げて地面を転げ回るが、ナイロンとフリースの防寒着に広がった火は消えそうもない。

 それどころか、炎は敬介の身体の中から溢れ出ているようだ。

 口、鼻、耳、そして毛穴まで、ありとあらゆる穴から青い炎が吹き出している。


「水ぅ、水ぅぅぅ……」


 混乱した敬介の脳裏に、一つのイメージが沸き上がった。


「池……池……」


 不忍池に飛び込めば火は消えると思ったが、池がどちらの方向かも分からない。

 分からないけど、その時の敬介は走ることしか出来なかった。


 一体、どこにそんな力が残っていたのかと思うほどの勢いで、敬介は一気に走り出した。

 火は髪にまで燃え広がり、目もろくに見えなくなっている。


「きゃぁぁぁぁ!」


 女性の悲鳴が聞えたが、止まる余裕は無かった。

 柔らかな体に衝突し、もつれるようにして転ぶ。


「いやぁぁぁ……助けて、助けてぇぇぇ……」


 耳元で悲鳴が響いた時、敬介はとっさに女性を抱き締めた。

 脳裏に別れた妻と娘の顔が浮かぶ……一人で死ぬのは嫌だった。


「理恵……ごぼぉ……」


 敬介が断末魔に妻の名を呼ぼうとした時、喉をせり上がって来たものがあった。

 太さは五センチ以上、長さは二十センチ以上ありそうな蛞蝓なめくじだ。


 青白い炎に包まれた蛞蝓が、ズルリと抜け出すと同時に、敬介の身体から魂が抜け落ちた。

 周囲には多くの野次馬が群れていたが、大きな蛞蝓を目にした者は居なかった。

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