第1話 三月

 まだ吐いた息が白くなるほど肌寒い三月下旬。本当に来月に桜が咲くのか心配になる。バスに乗って図書館へ向かう。今年受験生になるらしいので、気持ち程度に勉強をしにいくことにした。いつものバスに乗りこむと、いつもより混んでいるように思えた。入り口付近のポールに寄りかかるように立って、向かい側を見ると初めて見る制服を着た青年がいた。ここら辺では見かけない都会的でおしゃれなデザインに感じた。片田舎の少し淀んだ空気がそこだけ光に照らされているかのような。見すぎて視線に気づかれたのか、ふと顔を上げた彼と目が合った。何となくお互い会釈をして目をそらす。顔が熱を帯びて、下を向いた。ちょうどバス停に止まって一気に人が入ってきた。押されるようにして先ほどの彼に激突してしまった。「あ、すいません」「いえ大丈夫ですよ」にこっと笑った顔を見た瞬間に、ずきゅんと音が聞こえるほどに心臓が動いたのがわかった。ぼーっとしていた気がする。今度は困ったように笑った彼と目が合って、自分のおかれている状況に気づいて思わず飛び退いてまた後ろの人にぶつかった。「…っふ、っふふ…こっちきなよ」笑いをこらえながら腕を引っ張られて、また密着状態になる。目がぐるぐるしてきて、心臓はうるさいし、頭がこんがらがってきた。爽やかな彼の心音は一定のリズムを刻んでいて、ドキドキしているのは自分だけなんだと恥ずかしくなる。少し人が降りていって、隣に並べるようになると彼はおかしそうに笑い出した。「あの、大丈夫ですか」「あ、はいほんとすいません」「こちらこそ引っ張っちゃってごめんなさい」律儀に頭を下げた彼に、また好感度が積もっていく。「いえ」「あの、降りる場所どこですか」「市立図書館前です」「あ!ほんとですか、多分俺もです」「そうなんですね」「偶然ですね」ここの空気にはそぐわないほどの爽やかな笑顔で彼は笑った。「次ですよね。ちょっと失礼します」彼の腕が私の背中にのびてきて後ろにあるボタンを押した。ふわっと香水の香りがした。バスから降りて、彼に向き直ってもう一度お礼を言った。「ありがとうございました。」「いえいえ、こちらこそ面白かったです」「え?」「…ふっふふ…すいません」「なんで笑ってるんですか…」「すいません…いやふっふ」「やめてくださいよ…恥ずかしいです」「ほんとにごめんなさい…かわいくてつい」さらっと息をするように放たれた言葉に心臓がぎゅっとした。「じゃ、ここで」彼は私とは真逆に歩いていった。後ろ姿を見送りながらまだ収まらない頬の紅潮と鼓動が私の内側から訴えかけてくる。分かってるよ。この感覚を私は半分だけ知っている。誰に習うわけでもなく、誰もが平等に持っている好きという感覚を。それでも動揺が隠せないのは、初めての感覚が混じっているからで。…ひとめぼれ。脳裏によぎったその言葉に。私は「ああああーーーーー」と何の意味も持たない言葉とやり場のない空気を吐き出しながら路上にしゃがみ込んだ。

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かげろう日記 来栖 侑妃 @yo-zakura

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