こころ消失

シオン

こころを失くした男

 心とは重いものだ。


 心があるからこそ人は喜び、悲しみ、楽しみ、苦しむ。心がなければ人生に色がつくことはないだろう。しかし、苦しむくらいなら色のつかない人生でもいいじゃないだろうか。


 私はこんな重いものを抱えて十数年間生きてきた。その道中は決して楽なものではなかった。人付き合いが下手な私は人から虐げられ、その苦痛から心を痛み、人とうまく付き合えないことを恥ずかしく思い自己嫌悪に陥る毎日を送っていた。いっそ心なんてないほうが良いとすら思っていた。


 あぁ、何故こんな厄介なものを持って生きているのだろう。


 そう思うにつれ、私は心を必要としなくなった。徐々に感情も動かなくなり、何も感じなくなっていった。


 私は苦しまないよう人間らしく生きることを放棄し、上手に生きるため心を眠らせた。


 そのことを後悔しているか、今はそれすらもわからない。



「新川君、次はこの紙に記された物を運んでおくれ」


「はい、わかりました」


 私は今運んでいた台車を特定の場所に並べていた。上司の命令に爽やかに応えて、次の仕事へ向かう。


 私の仕事は倉庫の荷物を仕分けすることだ。やり方と荷物の場所さえ覚えれば比較的楽な仕事だ。


「新川君はいつも笑顔で仕事受けてくれるからこちらは気分いいよ」


「いえいえ、仕事ですから」


 昔と違い今の私は人付き合いは上手で、とても社交的だと自負している。それは素直に成長だと言える。


 そして数時間後、本日の業務が終了し私は自分の車に乗った。時刻は十六時四十五分。まっすぐ家に帰るのももったいないので近くの飲食店で食事を摂ることにした。


 その店は洋風で主にパスタやオムライスが人気だ。私も暇なときにここで食事と摂る。入店した私はいつものパスタを頼み、パスタが来るまでコーヒーで喉を潤した。


 パスタの味はいつも通り美味だ。しかし、腹を満たした以上の喜びはなかった。私にとって食事は腹さえ満たせばなんでもよかった。店で食べるのも自分で用意するのが面倒だっただけに過ぎない。


 店を後にした私は寄り道せずまっすぐ自宅に帰った。それからはシャワーを浴び、二十時には就寝した。特に趣味もないので帰ったら後は寝るだけだった。強いていうなら人より睡眠時間が長いくらいだ。朝六時に起床し、ごはんも軽く済ませ身支度を済ましたら後は仕事に行くだけの毎日だ。それが私の日常だった。


 今の自分になってから人付き合いは上手くなった。しかし、沢山のものを犠牲にしてきたようにも思えた。



 休日、私は外出して特に意味もなく街を歩いていた。無趣味であるが故家にいるのが苦痛なので、暇つぶしで外を出歩いていた。


 店に立ち寄る訳ではないが、外の空気を吸い足を動かしていれば意外にも暇は潰せるものだ。私は休日のほとんどの時間をこうして浪費している。


 他に使うべき時間の活用方法があるのはわかっている。しかし、私はいつからか興味を持つことができなくなっていた。だから自分の時間をうまく使うことが絶望的に下手で、こんなことぐらいでしか時間を潰せなかった。


 無表情で街を歩いていたら聞き覚えのある声をかけられた。


「新川じゃん、お久~」


「……あぁ、油谷か」


 そこには私と同年代と思われる女性が立っていた。身に覚えのないギャルかと思ったが、よく見れば学生時代の同級生の油谷 詩乃だった。


 私は愛想よく相手した。


「久しぶりだな、油谷」


 すると油谷は人違いしたと思ったのかこちらを二度見した。そして、ぽつりと言った。


「へぇ、しばらく見ないうちに人当たり良くなってるね」


「失礼だな、こちとらもう社会人なんだ。いつまでも不愛想な子供じゃいられないよ」


 すると彼女は小声で


「前の方が人間味があって好きだったんだけどな」


 と言った。


「は?」


「あぁいや、別に悪いって言ってるんじゃないよ?ただ今の笑顔を見てると気持ち悪いなって思ってさ」


「…………」


 私は何も言えなかった。胸の辺りがざわついてまるで詰まったように言葉が出なかった。


「まあうん、とにかく元気そうでよかったよ。また機会があったらお茶でもしようよ」


 彼女は誤魔化すようにそう言って姿を消した。それから私は街を歩いたが胸のざわめきは収まらなかった。



 それから私は散々な目にあった。


 仕事では失敗するようになり、急に人付き合いが下手になり上手く人と話せなくなったり、上手く笑えなくなり、そのことで深く自己嫌悪に陥ったり、見るに堪えない毎日を送っていた。


 あれから胸のざわめきは収まるどころか大きくなるばかりだった。まるで眠っていたものが目を覚ましたように居心地は悪かった。せっかく今まで上手くやってたのに、上手く笑えていたのに、上手く生きていたのに、あの女と会ってから全部狂ってしまった。


 まるで昔に戻ったみたいだ。昔みたいな苦しみを感じる。何も感じず苦しまず生きてきたのに、また厄介な感情が呼び覚ましてしまった。


 私は苦しみながら決意した。あの女を探し、一言文句を言うんだ。そうじゃないと気が済まない。


  この重さを抱えたまま生きていくのが嫌だったから、そう決意した。



 結論を先に述べるなら彼女を見つけるまでに一ヶ月かかった。以前会った場所を重点に探したが、意外にも見つからず、見つけるまでに一ヶ月かかってしまった。


「あら、新川じゃん」


「…………」


 今の私は一体どんな顔をしていたのだろう。もはや愛想笑いを浮かべる余裕もなく、胸の苦しみにただ耐えていたからきっといい顔はしていなかっただろう。


「……とりあえずお茶しよっか」


 私は油谷に連れられ、近くの喫茶店に入った。


「何があったか知らないけど、前より人っぽい表情するようになったね」


「……お前のせいだ」


 私は恨み言を吐き出した。彼女はキョトンとしていた。


「私は今まで人当たりの良い社交的な人間として振舞っていたのに、以前お前に会ってから上手く笑えなくなって、上手く振舞えなくなって、昔みたいに苦しみを抱えるようになってしまった」


 私は胸に詰まった感情を吐き出した。そんなことをしたのは本当に久しぶりで、胸のつかえが取れていくように感じた。


「それで責任を取れって言いたいの?」


「そうじゃない。ただ、何も言わずにはいられなかっただけだ」


 私は彼女に何も求めてはいなかった。ただ、何もしていないのは苦しくて、苦しみを紛らわすために感情をぶつけただけだ。


 自分勝手と言われればそれまでの行為だ。


「……ひとつ言うけど、新川は元から笑ってなかったよ」


「へ……」


 思いのほか彼女は冷静だった。あまりに堂々とした態度に私はたじろいだ。


「前会ったときのあの笑顔はなんか笑ってるフリに見えた。感情がわからなかったし、人間味が感じられなかった。だから今のほうがまだ人間らしいよ」


「苦しみを味わうくらいなら人間らしくなくてよかった」


 人間らしさなんていらなかった。そのために自己嫌悪に陥ることが嫌だった。人とうまく付き合うために、上手に生きるために感情を捨てたのに、また私は苦しむのか。


 そう絶望しそうになったとき、彼女は言った。


「もしかして新川、ここ最近心から笑ったり怒ったりしてなかった?」


 また胸の奥がざわめいた。



 昔の私はとても内向的な性格の子供だった。


 人付き合いは苦手だったが、感情と情緒はとても豊かだったと思う。よく笑い、よく怒り、よく泣いた。普通の子供だった。


 それがある頃から上手くいかなくなった。人付き合いが下手だったのが悪化し、徐々に感情を表に出すことが少なくなり、人とちょっとしたことで上手くいかないだけで自己嫌悪に陥り、その負の感情は胸に溜まっていった。


 感情出さなくなり、負の感情が心を圧迫し始めた頃、私はとうとう言葉すら満足に出せなくなくなっていた。私は次第に感情が動かなくなり、何も感じなくなっていた。


 すると皮肉なことに心や感情を捨てた後になって私は人付き合いが上手くなった。意図的に笑うこともできて、淀みなく話すこともできるようになった。それらがたとえフリでも虚しいことでも利用しない手はなかった。これで苦しみから解放されると安堵すらしていた。


 私にはもう心は必要なかった。なのに、今になって心が起き始めた。本当に今更のことだった。



「私は心から笑ったり怒ったりなんて望んではいなかった。もう心なんて必要なかった。なのに、また胸の奥が疼いてきて、私は嫌だった。また苦しむことになるなんて、心なんてあっても苦しいだけなのに」


「必要ないなんて言わないで」


 彼女は懇願するように言った。何故彼女はこんな切ない表情をするんだ?


「新川のあの笑顔、嬉しくもないのに笑っていて、まるで嘘吐かれてるみたいに感じて嫌だった。友達がそんなことしてるなんて見たくなかった」


「私とお前が友達……?」


 彼女は哀しそうに笑った。


「忘れたの?よく教室で話したじゃない」


「一方的にからかわれていただけだろ」


 そうだったかなと彼女は呟いた。それは遠い昔の思い出を思い出しているようだった。


「新川は心を取り戻して苦しいと言ってたけど、本当にそれだけ?別に良かったことはなかったの?」


 彼女は哀しい表情で言った。私はどうしてか悲しませたくないと思った。


「……いつもより、ごはんが美味しく感じた」


 私はここ一ヶ月の感じたことを振り返った。


「他には?」


彼女は催促した。


「テレビ番組が面白く感じた」


「他には?」


「お前を探すときに立ち寄った本屋で、久しぶりに漫画を数冊買った」


 私はそれから心を取り戻した後の話をした。仕事で失敗したこと。お菓子を久しぶりに食べたこと、上手く言葉が出ず笑えなかったこと、今まで生活費にしか使わなかった金で旅行に行こうか考えたこと。まるで吐き出すように言った。彼女は静かに聞いてくれた。


「なんだ、いいこともあるんだ」


 彼女はホッとしたように笑った。


「でも、心を持てばまた苦しみに満ちた生活に戻ってしまう」


「そんなの当たり前だよ。でも、また心を手放したいと思った?」


 私は少し考えた。


「手放すには、もう私の心は馴染んでしまった。それに不本意だが、それも悪くないと思う自分もいるんだ」


 彼女は笑って言った。


「それが心を持つ者の喜びなんだよ」


 それを聞いて私は思い出した。心を持つことで苦しむことがあるが、同時に楽しむことも泣くことも、心から笑うことができること。そのために、私たちは生まれてきたことを。


 心は重いものだ。だけど、今はその重さが心地よかった。



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