第8話 茞(ちさ)の花

その年は、初めこそ静かに始まったが一向に天地の異変は止む事がなかった。

前年突如火を噴きあげた伊豆上津島いずかみつしまの噴火は続いており、信濃の国では地震が起き九十四度も揺れた。肥後阿蘇では神社のご神体である神霊池しんれいいけが涸れた。雨は降らず、降ったかと思えば洪水を引き起こすほどの大雨になった。内裏には物の怪が頻りに現れた。橘奈良麻呂の祟りと言うものがあればそれを祀り、伊予親王とその母吉子の祟りと占いに出れば贈位し、柏原帝の怒りと聞けばその山陵を祀った。そもそも天地を祀り鎮める事こそが帝の仕事である。天地が騒ぐのは帝にとって常に心痛の種であった。

 その九月、突如篁は正五位下の位に復した。史書には、篁が悔いており、またその文才を帝が愛する故とある。遣唐使の事業が完了してほぼ一年、嵯峨院が強く推し今上帝にも異存がなかった。嵯峨帝は依然として力を保ち続けており、秘められたその力は顕われさえすれば良房と雖も押しとどめる事は出来なかったのである。

翌年春五月のこと、篁の邸には長岑高名と惟良春道が集っていた。春道はそれほどでもなかったが高名は帰国以来忙しく、ついぞ篁を訪れることができなかったのであった。

以前この二人が似ていると思った篁だったが二人を実際に見比べるとそうでもない。高名は日焼けして面構えも頼もしいが、春道は年上なのにも関わらず、どこか弟のような可愛げがある。

「お蔭さまで大過なく渤海使の宴の接待することができました。彼の国での接待を真似べば遺漏なかろうというのは誠でございました」

春道が高名に頭を下げると、いやいやと高名は手を振って、

「唐での宴の事を覚えているのは他にもおります」

「しかし、常嗣殿亡きあと。長岑殿に優る者はおるまい」

篁の言葉にそれはそれとして、と高名は、躊躇うような目で篁を見つめるとぼそりと呟いた。

「大使様と副使様は何か秘密を持っていたのではございませぬか。以前もお伺いしたが・・・大使様亡き後でもそれはお教えいただけないのですかな」

高名は幾度となく制しても篁を副使と呼ぶことを止めない。篁もなかば諦めていた。

「なぜそのような事を?」

「実は以前中納言様からたびたび常嗣様が出航前に何か申されたことはないかとお尋ねを受けたのです」

「ほう、中納言様が・・・」

中納言とは良房である。篁はすっと視線を高名から逸らした。

もはや遣唐使は終わったのだ。今更蒸し返しても嵯峨帝の思いに反する。頭を振った篁を見て高名はふっと笑いを浮かべた。

「つまらぬことを尋ねました。お許し下され」

「それよりも長岑殿、唐に渡った時の話をして下され」

春道が請うた。

「ようございます」

高名は唐に辿り着いた船が座礁した所から話し始めた。

「私も大使殿もふんどし一つで船に体を結んでおりましたが、まるで罪人への水責めのようでございましたよ」

体の屈強な船師や水手の者が幾人となく倒れたにも拘らず円載、円行、円仁、常暁ら僧の方々が一人として欠ける事無く生き残ったのは果たして仏のご加護でしょうか、或いは密教の奥義を求める探究心のなせる業だったのでしょうか、と続けた高名は

「大使殿も彼らが望む寺へと送ろうと散々交渉をしたのですが叶わぬ者もいて・・・。間に入ってたいそうな苦労をされたのです。大使殿は粘り強く間を取り持っておられましたから仏のご加護がございましたとしても良かろうに、あのように若くして亡くなられて」

と言うと篁に向かってしみじみと

「小心なお方でしたし、人の上につくべきお人でもありませんでした。が、それでも私はあのお方を嫌いではございませんでした」

そう言って手を合わせた高名に、篁も頷くと手を合わせたのだった。

夏が終わるころ、呼び出しを受けた篁は床に伏したままの嵯峨帝の枕元に座っていた。取り立てて例年と比べ暑いと言うほどではなかったが京の夏は老いた嵯峨帝の体にはこたえていた。

「篁か」

 そう尋ねた太上帝の声は弱弱しい。

「そうでございます」

「うむ。少しうとうとしておった」

小半刻、動かぬまま枕元で座っていた篁に向かって、まあ、足を崩せと言うとぎょろりとした目をにやりとさせ、

「もういかんようだ」

と囁いた。

「そのような・・・」

「心にもないことを言うな」

声を励ますと、ゆっくりと辺りを見回して

「頼みたいことがある。これが最後じゃ」

と今度は声を潜めた。

「なんでございましょう」

「恒貞親王のことじゃ。弟との約束がある」

「はい」

「わしが死んだらどうなるか心許ない。近頃、嘉智子の様子が妙じゃ」

帝の母である嘉智子は孫の道康親王みちやすしんのうを目の中に入れても痛くないほど可愛がっており、帝の子であるのに東宮でない事を哀れに思っているらしい。儂が病に倒れる前はたびたびその事で不平を言っていたのに近頃、とんとその話をしなくなった、と嵯峨帝は続けた。

「頼みとは・・・必ず東宮を次の帝にということでございましょうか?」

篁が尋ねると嵯峨院はじっと宙を見詰めて力なく首を振った。

「いや、無理をすれば国が割れるかもしれん。東宮がそのまま即位なされれば言う事はないが・・・」

言い差すと、篁をじっと見つめ

「万一の事があっても東宮が決して命を落とされるような事がないようにして欲しいのだ。弟もそれを気に病んでおった。わしが恒貞を東宮にしたのが悪かったのかもしれぬ」

「では、帝は東宮のお命を?」

「わからぬ。が、あれは良きにつけ悪きにつけ人の意見に流される。母にも従順であるしな」

自嘲するように笑い声をあげると嵯峨帝は軽く咳き込んだ。

「どこか人の顔色を窺うような所がある。もしやあれが恒貞の命を奪ったりするかと思うとおちおち死ねぬ。わしは帝の家系を兄弟共々で繋ぐ方が皇室の地盤が固まると信じておったが、弟はそうでもないと思っておったようだ。結局弟の方が正しかったのだろう。あれは人の心というものを儂よりもよく知っておった。

もし・・・万一の事があるとしたらわしが身罷ってすぐに違いあるまい。その時はあの文を・・・忘れるな」

嵯峨帝は篁を強い眼で見ると、ふっと淋しそうな顔をした。

「お前には苦労を掛けるな」

それは初めて篁にかけられた労いの言葉だった。


刑部少輔に任じられていた篁のもとに夏七月のある日、ふらりと藤原長良が訪れた。

「ちょっと宜しいですかな」

ゆらりと手を振った長良に釣られるように篁は外へ出た。

「嵯峨の御方の御容体が急にお悪くなられた」

強い日差しに手をかざしながらそう言うと長良はゆっくりと篁を振り向いた。

「そういえば相撲節すまいのせちが停止されましたな。太上帝は殊の外相撲がお好きであられるのに」

篁が答えると、

「今日、弟中納言が右近衛大将に任じられました。今、左近衛の大将は源の大納言、少将は良相よしみでございます。わかりますかな?」

そう問う長良は一見飄々とした表情であったが視線は鋭かった。源の大納言は源常のことである。幼い頃から良房と親交が深い。良房が右近衛大将に任じられたと言うのは近衛府が一枚岩になったと言う事に違いあるまい。帝はいよいよ脇を鎧で固めたのだと考えつつ、篁は常々不思議に思っていた事を尋ねた。

「折に触れわたくしにそのような事を話して下さる。なぜでございますかな」

長良は微笑を浮かべ答えた。

「以前申し上げませんでしたかな、私は弟が行き過ぎるのではないかと常々案じておる」

「それだけでございますか?」

篁が今一度尋ねると、長良は飄々とした表情をふと納めると、さて、と呟いた。

「刑部少輔殿は以前弟の良門を助けて下さった。その事もございますかな」

良門は篁の言った通りあれから八年生きた。とはいえ、早逝であることに変わりなく残された二人の遺児は長良が面倒を見ている。

「だが此の度の事はそうではない。まことに心より案じているのです。もしや東宮の身に何かあったら・・・」

長良は言葉を選ぶように空を仰いだ。

「弟は大逆の罪を背負う事になりかねぬ」

長良が帰ると、篁はすぐに東宮坊を訪れた。帝の周辺が慌しさを増しているというのに東宮坊の雰囲気はのんびりとしたものだった。東宮学士は休みであった。

「刑部少輔殿・・・何か御用でございますか?」

怪訝そうに尋ねてきた坊掌ぼうしょうに篁は、いやと手を振った。東宮学士は東宮坊の所管ではないが、東宮に居る事が多い。それでやって来たのだがうろうろとしていると誰かの眼に留まらないとも限らなぬ。休みならば直接邸へ赴いた方が人の眼も少ない。そう思った篁はその足で春澄善縄の邸に急いだ。

春澄善縄の京貫きょうかんの在処は六条坊門小路である。訪いを告げると家人が出てきて主人は書房に籠っていると答えた。

「いつになれば出て来られますかわかりませぬ」

相も変わらず書物に没頭すると昼も夜もないらしい。

「至急の用事だ。取り次いでは頂けぬか。刑部少輔小野と申す」

家人は眼を瞠った。何も言わずひたすら頭を下げ怯えた顔で取次に戻って行ったところを見るとどうやら篁が地獄の冥官だという噂を信じているらしい。家の中で何かを投げつける音と怒鳴り声がして不意に止んだ。それからすぐに、ととと、と小走りに駆けて来る足音がした。

「おお、小野殿、久しゅうございます」

久しぶりに会った善縄の髪は真っ白で、眉から長く白い毛が左右に三本ほど伸びている。

「どうも要領を得ない家人でしてな、叱りつけておった。小野殿なら会わないわけがございませぬに。見苦しい所を御見せして」

何も言い出さぬうちにいきなり主人から物を投げつけられたに違いない家人を気の毒に思いつつ篁は善縄に長良から聞いた話をかいつまんで話した。耳を傾けていた善縄の顔は次第に曇って行った。

「まことの事でございますか?俄かには信じがたい」

「杞憂であれば宜しいのですが」

「それで・・・私に頼みとは?以前仰っておられたことと同じですかな?」

「嵯峨帝がお亡くなりになられたらすぐさま東宮を辞すことをお勧め頂きたい。万が一にも東宮には叛く御心がないことを示していただきたいのです」

「既に一度、東宮を辞す上表をなされておられますがな」

善縄は首を幽かに振ると、

「東宮が帝位を望んでおられませぬことはご存じでしょう。ですが敢えて東宮に指名されたのは帝ご自身。望まれて、なおいなぶのは国に背く事と仕方なしに東宮でおられるのです」

「東宮に指名なされたのは帝の本心でございませぬのでしょう」

これは嵯峨帝が敷いた道に対する今上帝の謀反のような物です、と篁が言うと謀反という言葉の響きに愕然とした善縄だったが、やがてなるほどと頷いた。

「そう言えば、東宮が帝にお会いに行っても度々拒まれたことがあったそうです。そんな時東宮はやはり帝から疎まれているのかとお嘆きになっておられた」

「上表は左大臣・右大臣ご一緒の時に。そうでなければ左大臣とお二人の時に・・・」

「左大臣ですか・・・」

左大臣は藤原緒継である。老境に入って久しいが、柏原帝・奈良帝・嵯峨帝・淳和帝・そして今上帝の五代に仕えてきた緒継の存在感と機を見抜く判断力は欠かせない。

「東宮には異存がございませぬでしょう」

「万が一、東宮に危害が及ぶような事があれば帝御自身ものちのちお苦しみになりましょう」

「そうかもしれませぬな・・・」

感嘆したように篁を見上げると、

「で、この身はいかが相成りますかな?まさか・・・」

善縄は片手で首を掻くような仕草をした。

「東宮に辞表を書くようお勧めした御身に危害が及ぶことはありますまい」

篁の答えに

「ですかな・・・」

善縄は暫時考えると、

「では刑部少輔殿の仰ることに従いましょう。なに、生い先短い身でございますからな。東宮の御身に厄災が振り掛かるような事があっては後生が報われますまい」

そう言うと莞爾と笑ったが、不意に声を低くすると

「もしそれでも東宮の身に災難が降りかかるようであれば、如何いたします?」

と尋ねた。

「その時にはその時の手がございます。ただ・・・」

そうなれば帝は父が自分を呪う言葉を読まねばなるまい。できればそれは避けたいものだ・・・。

翌々日、左右近衛の中将・少将らが嵯峨院に遣わされ、院は事実上封鎖された。


阿保親王は悩んでいた。上総太守かずさのたいしゅの職に推してくれた良房に感謝はしているが、良房からの今回の頼まれ事が何を意味するのか考えたくはない。奈良帝の長子でありながら東宮に名の上がらなかった自分には、もはや皇位に一切の興味はない。その事に関わりたくもない。だが、書く事を強いられた文を読み返せば読み返すほど、どう考えてもそれが皇位に関する企みに加担しているものとしか思えぬ。

そもそも最初は酒の席での軽口に過ぎなかった。春宮坊帯刀とうぐうぼうおのたちはき伴健岑とものこわみねと但馬権守橘逸勢とは時おり酒を飲み交わす仲であった。嵯峨院が病に罹った頃に三人で酒を呑み交わしていた時にふと、伴健岑が漏らした不安が発端だった。

「しかし、万が一にも嵯峨の御方がいなくなられたら東宮はそのままでおられるだろうか。私には心配でなりませぬ」

阿保親王には伴健岑の気持ちが分かった。東宮に擬されれば次の帝位での立身出世を見越して色々な人間が近寄ってくる。薬子の変が起きる前、弟の高丘親王たかおかしんのうにも一時、そんな輩が山ほどすり寄って来たのを見知っている。しかし、仲成・薬子が失脚し弟が廃位になった途端に今度は可哀想なほど周りから人が消えた。弟はその時の事について何も言わなかったが世の無常を感じて僧になったのだと思っている。自身もあの変のせいで十年に渡って大宰府に左遷されたのだ。

 東宮坊で働く身であれば東宮が即位なされ、自分が取り立てられることを望むのは人情である。今、公卿と呼ばれている人々は多かれ少なかれそういう経験をしてきた者たちだ。伴の不安は謂れのない物ではない。だが、橘逸勢はそういう機微を理解していなかった。

「あの業つくばあさんがそんな事を許す事は無かろうよ」

年下の皇后をそう呼ぶことを逸勢は憚らなかった。

「孫可愛さに今の東宮を何とかせねばと思っているに違いない。あれは権勢に寄り添うおなごだ」

この男は鬱屈しているのだ、と阿保親王は思った。

皇后に対する罵詈雑言にあっけに取られている健岑と口を閉ざしたままの阿保親王を交互に見遣ると、逸勢は吐いて捨てるように続けた。

「いざその時は東宮をお連れして東国に遁れ戦うが良かろう。東宮に同情される方もさわにおるに違いあるまい」

「口を慎まれよ、逸勢どの」

阿保親王は注意したが酔っている逸勢には逆効果だった。

「阿保親王さまのお父上もそうなされようとしたのだ。あの時はしぐじりなさったがの。何、理は親王さまの側にある」

まくしたてるように言い募る逸勢に、話を振った伴健岑も困惑していた。あの時、私は逸勢に同情していたのだ。権力から零れ落ちたものは権力を恨むものだ。自分は良くそれを知っている。

その同情心からつい逸勢の位をもう少しあげてやったらどうかの、と良房に勧めたのが仇になった。良房は、ほうと目を細め、もう少しわけを詳しく教えてくだされと言いながら親王の話に耳を傾けた。尋ねられるままに伴健岑が同席していた事や、東宮の処遇を心配しているようなことまで話してしまった。だが逸勢が皇后の悪口を言っていたのは隠したし、東宮坊が不穏だとも言ってはいない。

 だがその挙句・・・これだ。

 忌々しそうに眼の前の文を睨む。書いたのは自分であって、自分ではない。良房の筋書き通りに書かされたのだ。僅かな真実とそこから派生する多くの憶測。これを皇后や帝が読まれたらどのように思われるであろうか。酒のみ友達の先行きを想うとぞっとしない。だがもしこれを中納言の言う通りに渡さねば、今度は自分がどうなるか分からぬ。大宰府に名ばかりの権帥として無為に過ごした十数年が悪夢のように思い出される。私は京で過ごしたいのだ。子供達を臣籍降下までさせ漸く京に戻れたのだ。次は大宰府では済むまい。

嵯峨帝崩御の報せは七月丁未、未明の宮中を駆け巡った。たちまち鈴鹿、逢坂、不破の三関は固関使こげんしによって封鎖された。だが封鎖されたのは僅か二日、関を封鎖した兵たちは耳を疑うような理由で京へと戻された。

「春宮坊帯刀舎人伴健岑と但馬権守橘逸勢謀反。東宮を奉じて遠国へ逃亡の疑いあり」

二人の名を聞いて信じたものは殆どいなかった。まさかと笑いだすものまでいる始末である。謀反を起こすには余りにも軽い。そもそも恒貞親王が帝位に執着していないということはみな知っている。その親王がまさかこの二人の口車に乗って、と誰もが疑うのは自然の成り行きであった。


「東宮は辞表を帝に出された。わしがしかとこの目で見ておる。その東宮が謀反など考えるわけがあるまい」

緒継は頑強に言い放った。

「ですが伴健岑が東宮を奉じて東国に向おうとした事は明白でございます」

良房は軽くあしらうように答えると、

「新たに伊勢斎宮主馬長伴水上いせさいぐうしゅめのおさとものみなかみ他五名を紐禁ちゅうきんし、取り調べを始めた所でございます。阿保親王さまより伴健岑、橘逸勢両名から皇太子をお連れして東国へ逃亡する内々の相談があったとの上奏が皇后に届けられ、畏れながら私も相談にあずかりました」

と言った。

「何、阿保親王殿が?」

緒継はぎろりと良房を睨んだ。

「はい。それをお聞きになって皇后はたいそう御怒りのご様子でございました」

「ばかな。そもそもあの二人だけで何ができるというのだ」

緒継は抵抗を続けた。

誣告ぶこくにもほどと云うものがある」

だが良房はにやりと笑って言葉を継いだ。

「確かに、あの二人では難しかろうかと。ですが、実は東宮坊が一体となって企みを支えていたという噂もございます。実際、帝を呪っていたという事実もございまして・・・今までは大目に見て来たのですが」

「なんと・・・東宮坊全体の企みというか?」

緒継は絶句した。

「それにとどまらず、大納言藤原愛発様、中納言藤原吉野様、参議文屋秋津様もこの件に関わっておられる。御三方については疑いが晴れるまで邸を閉じ近衛の者たちに見張らせております」

言葉を失って緒継は天を仰いだ。三名がこの場に居ないのは遅れているだけだと思っていたのである。それにしても吉野まで・・・あの者は心底致仕を願っていたのだから巻き込む必要もあるまいに。緒継は良房の徹底ぶりに肝が冷えた。

「だが・・・」

帝の声に参列した者たちが一斉に御簾の方を振り返った。

「東宮が重ねて辞表を出したのを朕自身が受け取っておる。東宮自身には叛乱の意思はなかったと思うぞ。この騒ぎは東宮坊の勇み足だと考えるべきではないかな」

細いその声に皆が頷いた。緒継は嘆息をついた。東宮を守るために重臣三名を含め東宮坊全体を罪に処さねばならぬようだ。下手を打てば老い先短い我が身にも毒牙が及んで来ぬとは限るまい・・・。

六日後、左近衛少将藤原良相が近衛兵を伴い、東宮の直曹を包囲し、藤原愛発・藤原吉野そして文屋秋津が拘束された。

東宮が廃され、重臣とともに東宮に関わる六十人余りが一挙に左遷されるのを阿保親王は心が細るような思いで見守っていた。一度宮中でふと視線を感じ振り返った時、左大臣が自分を瞋恚の眼で睨んでいるのに気付いてから出仕をする事さえ嫌になっている。

事が収まり、良房が大納言に昇進し手先となって働いた藤原富士麻呂らが昇任、昇進を重ねていくのに自分には一品への昇任は告げられることはなかった。橘逸勢は非人とされ伊豆へ流されて行く道中で死んだ。いや、死んだのか殺されたのかさえ分からない。どうしてこんな事になったのだ、と頭を抱え煩悶していた阿保親王はその年を越すことができず世を去る。薨じてのち一品を賜る事になるがそれを生きて知る事は出来なかった。


「やれ、面倒な事じゃ、この歳になって」

春澄善縄が口をへの字に曲げているのを見て篁は済まない気持ちで一杯であった。まさか東宮に関わるものすべてが罪を負わされるとまでは思っていなかったのである。

周防すおうは遠い」

ひひ、と笑うと、が・・・まあ隠岐よりはだいぶましですな、流人でもありませぬしと付け加える。そして篁の肩を叩きはなむけはこの辺で良いと、尚もついて来ようとする篁を手で制すと、

「しかし、お主がわしの後釜となるとは思いもよりませんでしたな」

とからかうように語り掛けた。

「思いもよらぬ事でございました」

「そりゃそうですな。許されたとはいえ、一度は罪人となった方がまさか東宮学士に復帰なさるとは」

帝が東宮学士に望んでいると聞いた時、篁はまさか、と思った。何の冗談であろうか?もしや、嵯峨帝から預かった文の事を知って中味を知らぬまま自分を籠絡しようとでも考えておられるのであろうか?と疑った。

しかし、当の帝から呼ばれ、乞うようにして任を受けるように言われた時、篁は疑いを解いた。帝は心から自分を息子の師としたがっておられる。ならば東宮を教え諭し、立派な帝にする事こそ嵯峨帝の思いに叶う事であろう。

「春澄殿にだけこのような思いをさせて・・・」

口籠った篁に

「何、お主のいう事を聞いておらねば、素首を掻き切られていたかもしれぬ。それにお主ご自身はもう散々な目に既に遭われておりますからな」

そう言って背の篁を上から下まで舐めるように眺めると、

「ま、お主ほど東宮の養育に適任の者もまあ、おられますまい。だが相当の反対もあったと聞き及んでますぞ。今度こそはお気をつけなされ」

と笑った。

篁を東宮学士にすると強硬に主張した帝に緒継でさえ首を捻り、良房ははっきりと反対した。

「赦されて僅か二年、復位して一年も経たないのでございますぞ。世間がどのように思うかお考えなされ」

詰め寄らんばかりの良房に帝は譲ろうとしなかった。良房の進言を公然と否ぶ帝の姿に他の臣下は驚きを隠そうとしなかった。

「そう致しましょう」

素直に答えた篁に向かって善縄はそれだけは心配だとでも言うように問い質した。

「で、東宮さまはいかがでおわされた?」

善縄のいう東宮とは前東宮さきのとうぐうの事であった。淳和院に籠められた恒貞親王は警固を解かれてはいないが、帝は以前篁が東宮博士をしていたのを理由に東宮に会う事を許した。

「私を辛茞からちさ小茞おちさの華、と世間では囃しているようですね」

恒貞親王は幼い頃からの身につけた老成した静けさを身に纏っていたまま、篁に静かに語り掛けた。「天には琵琶をぞ打つなる」で始まる童謡は、殿上では琵琶が響いている、美しい女たちが裾を引いて歩いている、そんな中を牛車に乗って淳和院へと牽かれていくのはさぞかし茞の味のように苦かろうよと言う恒貞親王の心情を推し量って謡われた歌である。そして、ふっと笑うと

「茞の花も、こころ素直に見れば美しい」

前の東宮は歌うように呟いた。

「不服があるとすれば、それならばなぜ帝は私を東宮につけたかということです。健岑はじめ罪のない者たちまで巻き込んでしまった。それに母上までが・・・」

恒貞親王の母、正子まさこ内親王は嵯峨帝と太政皇后橘嘉智子の娘で、帝の妹でもある。その正子内親王は恒貞親王の廃太子が決まった時、激しく母・兄を詰った。母が冷然院に戻ると聞くと落飾らくしょくして抗議した正子内親王には母と同じ激しい血が流れていた。

「善縄殿にお伝えください。おかげで命は助かったと」

別れ際に落ち着き払って親王がそう話したと聞くと、善縄の両目からふつふつと涙が零れた。

その恒貞親王が良房の死後、北家の長者を継いだ藤原基経ふじわらのもとつねに、陽成帝の後の帝位に推され敢然と拒んだのは篁の死後のことである。

善縄は東宮廃位を悲惨な結末を迎えずに済ませるようにした配慮を帝に愛され、ほどなく京官に復し「続日本後記」を良房や良相、後の大納言伴善男らと共にあらわす事を命じられる事になる。

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