第4話 遣唐前夜

天長てんちょう年間最後の年は意外にも静寂な年であった。

洪水や疫病の蔓延は局地的なものだったし、都をそれまで幾度となく震撼しんかんさせ、甚大な被害をもたらした地震も次第に落ち着いてきていた。そんな中、良房は秋、正五位下に、同じ年の十一月に正四位下に叙され、同時に正五位上に任じられた兄長良を遂に追い抜いた。

十一月、臨時りんじ司召つかさめしがあった数日後、東宮坊にふらりと長良が姿を現した。講義を終えたばかりの篁と親王の姿をにこにことしながら遠くから眺めている。普段なら講義を終えると暫くのあいだ篁に纏わりつく親王も、その姿に気付いたのであろう、篁を名残惜しそうに見上げただけで、東宮坊の役人に連れられて大人しく戻って行った。

「お久しぶりですな。小野殿」

庭に降りた篁が

加階かかい、おめでとうございます」

と昇任の祝いを述べると、なんの、と長良は手を振った。

「ついに弟に追い抜かれてしまったですわ」

自嘲気味に言ったが表情に苦渋の色は見えない。

「約束したので子も譲る事になってしまいそうです」

良房と潔姫はついに男子を儲けることができなかった。そのためもう一人男の子が生まれたなら長子を譲る約束をしたのだ、と長良は言った。

「一人、妻の腹におりましてな。これが男だったらその子に我が家を継がせることにします」

「それは・・・」

篁はそれが長良にとってめでたいことなのか判断しかね、口籠った。長良の眼は渡殿わたどのを曲がって消えて行く親王の姿を追っている。

「賢そうな親王であらせますな」

「ええ」

答えた篁の頬が少し緩んだ。わが子を褒められているような気がする。

「立派な帝になられましょう」

「うむ・・・」

ふと、苦しげな色が長良の顔に差した。自らの子を弟に譲ると言った時にさえ見せなかった表情であった。

「ところで・・・何の御用であらせられますか」

並の官人なら決してせぬ直截な問い方を篁はする。苦笑いを浮かべると長良は、

「東宮学士殿は律令に通暁しておられるばかりか、海外にも詳しいと伺っております。そこで聞きたいのだが・・・今、唐の国はいかがなっておりましょうか」

と尋ねてきた。

「唐の国でございますか?」

篁は眉を顰めた。いくら長良相手でも、迂闊に他国の消息に通じているような素振は見せられない。

「さて・・・先だっての遣唐使以来、詳しい消息は聞いておりませぬが・・・安史あんしの乱よりこの方、国情はかなり乱れているようですな」

安史の乱とは、玄宗皇帝末期の安禄山あんろくざん史思明ししめいによる乱で、八十年ほど前に起きた騒乱である。

「学ぶべき律令はあるのでしょうかな」

篁の曖昧な物言いを気にする様子もなく長良は畳みかけてくる。

「さて、それは・・・そもそも律令とは国の基本をかたどる律とそれをおさしめる令からなっております。ですから国が乱れたなりに令でどのように補っておるのか参考にすべき事があるやも知れませぬ」

「仏道、文化はいかがかな?」

 長良は篁の不審気な表情を気にも留めずに問い続けた。

「仏教は国家鎮護という形で政と結びついており日本もそれを取り入れております。その意味で天台・真言の密教は未だ唐から学ぼうとしています。文化や文物は学ぶべき所がまだ多いでしょう」

善財から教えられた通り、篁は仏教が政と結びつくことを批判するような口調を避けた。

「さようか・・・」

長良は腕を組むと考え込んだ。

「しかし、またなぜそのような?」

「なぜとは?」

長良は問いに善良そうな顔を篁に向けると、ああ、と頷き、

「先太上帝は唐のことを崇拝しておられる。今上帝もその御方の子。私もたまには唐の事を学ぼうと思いましてな」

と答えた。嘘だ、と篁は直感した。この程度の事は長良が知らぬはずはない。この男は何かをそれとなく伝えようとしている。

「年が明ければ改元ですな」

帝が年の半ばで譲位をした時、先帝をおもんばかって年号を変えないのは通例である。

「さて、どのような年号になりますことやら、どのような年になりますやら。いや小野殿のお考えを伺いたいとふと思いましてな。失礼した」

長良はふっと笑みを浮かべるとそれ以上何も言わずに篁の許を立ち去って行った。


新しい年号は承和じょうわと決まった。

その年号の詔が出る前日の正月二日、帝は先ず西院に赴き淳和帝に拝謁を願い出た。淳和帝は驚いた。てっきり帝は先に嵯峨帝に拝謁なされると思っていたのである。喜んだ淳和帝は共に拝舞し群臣に酒を賜ると、手許で飼っていたはいたかと鷹を献上した。

「猟に使いなされ」

一緒に献上する猟犬の頭を撫でながら、満面の笑みを浮かべている淳和帝に向かって帝は、ふと面を正し、

「太上帝様に申しあげておきたいことがございます」

と向き直った。

「ん、何でございましょうかな」

酒に頬を赤くしたまま淳和帝は帝を見遣った。その耳に帝が一言二言囁いた途端に淳和帝の顔色が醒めた。宴が終わり西院の南の屏へと見送る途中で、

「さきの太上帝はご存じなのでしょうな」

と尋ねた淳和帝は、寒さに頬を染めた帝が頷くのを見て見送りの歩を止めた。去っていく帝の後姿を見守る淳和帝の面からは喜びと興奮の色は消えている。寧ろ、今となってはこの重要な事を決定事項として伝えてきた事に覚えた些かの不満と不信の色が滲み出ている。

「兄君に尋ねねばならぬな」

冬の低い陽を背に受けたまま、眩しさの中に消えて行く帝の後姿を眇めながら淳和帝は誰にともなくそう呟いた。

翌朝、淳和帝は拝賀と称して冷然院に赴いた。嵯峨帝は弟の突然の訪問に中庭に出てそれを迎えた。

「お慶び申し上げます」

拝礼した淳和帝に、

「これは・・・これは、わざわざ」

と呟いた嵯峨帝はじっと弟の顔を見詰めたままである。

「昨日、帝が参られまして・・・」

硬い表情で告げた淳和帝に、こちらへ参られよ、と言う風に嵯峨帝は手招くと

「ふむ、あの事か・・・。さあ、風も冷たい故、早う」

二人は並んで歩きだした。

「なぜ、俄かに遣唐使など・・・」

さきの遣唐使は三十四年前、延暦えんりゃくの御時に藤原葛野麻呂ふじわらのかどのまろ持節大使じせつたいしとして遣わしたものであった。最澄・空海という密教の祖が同行し仏教界にとって重要な遣唐使であったが、既に唐の盛りは過ぎ政治的な意味は小さかった。その唐に持節使を送るなど淳和帝は自分の治世の時には一度も考えた事がなかったのである。

「帝の初めての大仕事じゃ。以前ほど力はなくともやはり唐は唐。真似ぶ所は多かろう」

「ですが・・・」

淳和帝の懸念は二つあった。一つは地震や旱魃などで宮廷の費えが枯渇しつつある事である。

以前度重なる京の移転・建設と東征で倉が空っぽになったのを、若い頃の緒継の諫言でどちらもを柏原帝が取りやめることを認め、漸く倉は満ちたのである。その結果、前回の遣唐使は賄えたのだが今はそのような時ではない。第一、前回の遣唐使で唐の衰えははっきりとしているではないか。今更、何を学ぶものがあろうか。

もう一つは航海の危険である。遣唐使の初期においては対馬、朝鮮を経由する航路があったが新羅と対立して以来その航路は使えなくなっている。海を越え直接唐に渡らねばならないがそれ以来事故のない遣唐使は、僅かに養老年間のもの一つのみであった。

「ですが、危険です。新羅との不仲がある上に、前回から四十年ほど空いております。果たして唐まで直接に行きつく船を作る技術が残っているか」

「それは心配ない」

嵯峨帝はあっさりと言った。

「既に造舶ぞうはくの目処は立っておる。というより奈良帝、わし、そなた。この三人が懈怠けたいしておったからさような心配をせねばならぬのだ。彼の国からは二十年に一度使いをせよと言われておる。それを吾らが怠ってきたのを・・・帝が正そうとなさっている」

帝のお考えを支えるというこのお方の決心は固いようだな、と淳和帝は察した。

「それはその通りでございますな」

素直に答えた弟に、嵯峨帝は表情を緩めた。

「なに、まだまだ彼の国から学ぶべきことはある。文物、文化、仏道。我が国に欠けておるものがまだたくさんあるのだ」

「大使、副使は決まっておるのでございましょうか」

「その事は帝が考えておろうよ」

そう答えた兄の顔を淳和帝はちらりと偸み見た。誰であろう。遣唐使ともなれば壮年の者でなければならない。また位の軽い者では務まらない。前回の大使は葛野麻呂、確か年は四十五ほどであった筈だ。その年よりも若く位もそれなりと言えば、愛発か助か、いや常嗣か。文屋秋津かもしれぬ。

良房は・・・あるまい。

「何をお考えだ」

兄は弟の顔を覗きこんできた。

「いや、太政官たちには既に?」

「まだだ。春の叙任が終わったのちに話すであろう」

では、まだ確定という訳ではないのだな、と淳和帝は考えた。緒継や夏野は少なくとも諸手を上げて賛成という訳ではなかろう。緒継が若かったならば必ずとめようとするに違いがないが、あれは近頃、とみに政に興味を失っておる。夏野は内心反対でもそこまではっきりとした物言いはすまい。三守はどうか。あれは信心が篤いから仏道の為とあれば賛成するかもしれぬ。直世王、愛発らは場の議論に流されるな。源の常、信も同じようなものだろう。

だが、吉野よしのがおるか・・・

そう思いを馳せていた時、兄が発した言葉に淳和帝は背筋が凍てついた。

「太政官との合議のとき、わしとそなたにも同席して賛意を表して欲しいと帝が仰っている。二人が承知とあればみな是非もあるまい」


丁卯ひのとうの日、太政官が慶雲けいうんが現れた事を上表したが新帝は裁可しなかった。この上表は太政官を集めるためだけのものであった。そしてそれに引き続いて太上帝二人の臨席のもと遣唐使に関わる合議が行われた。

淳和帝の予想した通りの展開であった。緒継は終始物を言う事はなく夏野は太上帝二人と帝が並んでいるのを見て静かに一礼しただけであった。三守は、

「これで仏道の奥義を知ることが出来ましょう。わが婿がさような大事の役目で唐に赴くとは重畳至極」

と喜んでいる始末である。他の納言・参議にも否はなかった。太政官という立場は重いものだが、太上帝二人と帝が揃って諾と言えばなかなか反対することはできない。持節大使は議に参列していた参議常嗣、副使は篁と決まった。常嗣は事前に聞いていたのか名を呼ばれると、おう、と顔を真っ赤にして立ち上がった。

「副使は篁か・・・」

淳和帝は心の中で呟いた。思いが至らなかったのが不思議である。小野の家系は初代遣隋使の妹子以来、遣唐使、遣渤海使、遣新羅使に頻繁に選ばれる家系であった。大使が前回の大使、葛野麻呂の息子である常嗣に決まったのと同様、決まってみれば至極妥当な人選である。

「しかし、あれは何なのだ」

些か八つ当たり気味に思うのが中納言三守の喜びようである。仏教に篤く帰依しているとはいえ、義理の息子の命のことを少しは心配にならぬのか。

耄碌もうろくしたのか?婿が命を落としかねぬのに」

合議の間、ちらりちらりと心配そうな顔で自分を見てきた吉野の方がよほど考えが深いわい、と西院に戻った淳和帝はひとりごちた。

恒貞は篁が学士から降りると知ったら悲しむであろうな。

年の初めというのに重苦しい気持ちで淳和帝は目を瞑って坐している。いつの間にか山の方から張り出してきた重たげな雲から、細かな雪が舞っている。


「いかがでございましたか」

細い唇を引き結んで戻ってきた帝に 尋ねたのは蔵人頭の良房である。帝は、

「うむ」

と頷くと

「派遣の儀は決まった」

「それはようございました」

淡々とした口調で良房は答えた。

「太上帝御二方の前で朕が告げたのじゃ。当り前であろう」

若い帝の口調には苛苛とした響きが混じっている。

「どうなさいました?」

「思ったより皆が賛同しておらぬ・・・と見えた。議の場がひどく白々とした感じがした」

「お気になさる事はございますまい」

良房はあっさりと答えた。

「突然のことで心の準備ができておらなかったのでしょう」

太上天皇、天皇三人を前にした不意打ちこそが議論を長引かせずに遣唐使を認めさせる最も有効な手段であると進言したのは良房である。

「諸手を挙げて賛成したのは東宮傅ひとりであった」

「三守殿が・・・?」

僅かに良房は首を捻った。宝亀、延暦と前二回の遣唐使ではいずれも副使が命を落としている。

宝亀の時の持節大使であった佐伯今毛人さえきのいまえみしが病気を理由に渡航せず、代理に急遽きゅうきょ任じられた篁の親戚筋の副使小野石根が海の藻屑と消えた事を知らぬ訳ではあるまいに。その副使の義理の父だけが無条件に賛成というのも変な話だ。

そう思ったものの、気にせねばならぬのはここで帝が心揺らぐことである。

「そのように憮然となされてはいけませぬ。国家の大事業でございますからな」

良房は重々しく諭した。

「そうだが・・・」

久しぶりの外交に称賛と驚きがあるだろうと考えていたのに、そうでもなかったのに落胆していることが露わである。素直なお方だ、良房は帝に目を遣った。思っていることが皆、顔に出ておられる。それでこそ組みし易いのだが・・・。年と共にもう少し大人になっていただかねばならぬな。


夏野は、京より一段と冷え込みの厳しい双丘の別荘で一人考えに沈んでいた。火桶で手をあぶる夏野の老いた貌を、消えかかった赤い炭が幽かに照らしている。夏野は遣唐使そのものには反対ではない。衰えたとはいえ唐はやはり国際的な国である。さまざまな文化や技術がそこにはある。篁や若い者たちがさまざまな物を見聞きして日本に持ちかえればきっと役に立つだろう。

だがそこはかとない違和感が夏野を苛んでいる。いったいなぜそのような事を帝は思いついたのであろうか。嵯峨帝が唐の文物をこよなく愛し唐への憧れを持っていることを知らぬ者はない。だが、その嵯峨帝でさえ遣唐使を送るなどと言うことをなされなかったのだ。さして唐に興味を持っていなさそうな新帝がなぜそのような事を?誰かが唆したのであろうか?そう考えた時、夏野の脳裏には一人の男の白い無表情な顔が浮かんでいる。

「良房・・・か?だが、なぜ?」

呟いた声は京外の山間やまあいの冷たい空気の底へ沈んで行った。


三守は聊か酔っていた。議の最中、淳和帝が一人燥いでいる自分を冷たい眼で見ていたのに三守は気付いていた。

「しかし、わしがああせねば仕方なかろう。なんじゃあの白けた雰囲気は・・・」

炭櫃すみびつの上で頻りに手を擦りながら三守はひとりごちた。嵯峨帝が遣唐使を推しておられるのは一目で分かった。やはり、親じゃのう、と思う。吾が子の決断を支えてやりたかったのであろうよ。

とはいえ、三守の目にも此の度の遣唐使派遣の話はいかにも唐突に思えた。それに副使に娘婿が選ばれるとは・・・。もしや・・・と三守の心の片隅に疑念が沸き起こる。もしやこれは常嗣や篁といった次代を担う可能性のある者を排除するために良房によって仕組まれた罠ではないのか?一番手であった家雄はもういない。常嗣は野心を持って居る。篁は・・・篁は野心家ではないが目の上のたん瘤のような存在だ。

いずれその話を聞いた時の娘の憂い顔を想像しぶるっと身を震わせると、酒が足りぬ、と三守は大声を上げ、手を叩いて家の者を呼んだ。


三日後、正式な遣唐使の任命があった。既に義父から聞かされていた篁に特別な感慨はなかった。

むしろ遣唐使に選ばれなかったならその方が違和感が湧いたであろう。血がなさせる業ではない。小野という家系がなさせる業なのだ。とはいえ義父から最初に話を聞いた時、全く思いが湧かなかった訳ではない。最初に脳裏に閃いたのは東宮学士に任じられた時に帝が口にした言葉である。あの時、帝は

「白氏はまだ御存命であるよな」

と言ったのだった。あの時帝は会うて、と言われたのかもしれぬ。

 そして長良の顔である。わざわざ訪れて来たのは密かにこの事を知らせようとしたのだろう。いや、この遣唐使派遣の裏に弟の良房殿がいると言う事を伝えに来たのかもしれぬ。とすれば素直に喜んでばかりはいられぬのかもしれない。

最後に思い浮かんだのは業子内親王の貌である。年賀に参った時、空からはらはらと降ってくる雪を二人で眺めながら

「春になればまたご一緒に野を眺められるのでございますね」

と呟いたのに

「今年は別の所に参りましょうか」

と問うと、嬉しそうに頷いた顔である。


義父が篁が遣唐副使に選ばれた話をすると妻は

「まあ」

と眼を瞠り暫くすると涙を流し始めた。義父は慌てて、

「何も泣くことはあるまい。重いお役目じゃ」

とおろおろしながら、言葉を継いだ。

「仏のご加護もついておる。空海殿が仰るには・・・」

「空海殿もご存じであらせられたのですか・・・」

思わず口を挟んだ篁に、うむ、と三守は頷いた。

「空海殿は先の遣唐使の一員であらせられたしな。請益僧しょうやくそうや留学僧の人選について頭中将から相談があったそうじゃ」

なるほど、と篁は頷いた。やはり頭中将良房はこの件に絡んでいたのか。

「だが・・・空海殿が仰るには篁殿は決して心配ないとの事じゃったよ。何せ・・・」

言葉を切った三守の唇に篁夫妻の目が注がれた。三守はそれを見ると些か言い難そうに言葉を継いだ。

「あのお方はたとえ地獄に落ちても帰って来られる方じゃ、とな。そう仰っておられた」

地獄から・・・?縁起でもございませぬ、と再び泣きだした袖子に三守は慌てている。その様子を眺めつつ、空海殿は自分が地獄との間の往還をしていたことに気が付いておられるのかもしれぬ、と篁は思った。

  翌日、実家に赴くと弟の千株が来ていた。篁を見るなり、

「兄上、このたびはたいそうなお役目を・・・」

と膝をついた弟の肩に静かに手を掛け、

「母上はどうなさっておられる」

と篁は尋ねた。

「それが・・・」

弟の肩から手を外すと篁はしんと静まった邸の中を見遣った。千株は春の叙位で尾張介おわりのすけに任じられたばかりである。夏まえには任国に赴かねばならぬだろう。岑守が逝ってしまってから母は気が弱っていた。二人とも腹を痛めた子ではないが、揃っていなくなってしまうのは心細いことに違いあるまい。

仄暗ほのくらい間で母はひっそりと座っていた。

「母上・・・」

篁の呼びかけにも返事をせず母は小さく蹲ったままである。

「母上、いかがなさいました」

わざと荒々しく足音を立てて入った篁に母は微かに顔を上げた。

「篁・・・。来ていたのですか」

「いかがなされたのです」

弱弱しく首を振ると母は目を伏せた。

「われわれのあらたな任をお慶びください。千株は尾張守でございます。必ずや父上の血を継いで善政を敷くことでしょう」

「そうですね・・・」

息子が二人揃って任官を得たのにこのように気力を衰えさせておる母親などそうはおらぬだろう、と苦笑しながら篁は母の横に座った。しかし、遣唐使に選ばれたいう事で、周りの女たちはみな嘆いておる。

弟の千株も母の向こう側に腰を下した。

「岑守様が生きておられたらどんなにお慶びであったでしょう」

母が呟く。

「そうですね」

篁は優しく母の顔を覗き込んだ。

「ですが・・・。これで二人ともわたくしのいない所に行ってしまうのですね。まして篁は唐の国へ。生きて帰って来られるのでしょうか・・・何もかもわたくしがいけないのです」

「なぜでございます」

「あなたと千春の仲を裂いたから。もし二人が一緒になっておれば大納言様の娘御と一緒になる事もなく、あなたも唐になど行かずにすんだでしょうに」

弟と目を合わせると、千株は困ったような顔で笑っている。今更そんなことを言い出しても仕方ない事であろうに、とその表情が言っている。

「母上。良いことを思いつきましたぞ」

篁が声を張り上げると母は目を上げた。

「遣唐副使となれば、国司を兼ね食禄しょくろくを増やして貰えるものです。その代りに父上が経営されておられた続命院を公で賄う事を陳情してみましょう」

 続命院とは岑守が太宰大弐であったとき、九州各地から大宰府への往来に際し、病気になった者たちが宿泊を拒否されそのまま餓死するのを救うために建てた宿泊所である。篁の代になってもその維持のために小野の名で少なからぬ金を毎年送っていた。それを国で賄って貰うようにすれば、父の遺志も世に聞こえるであろう。岑守も一度願い出たことがあるが、その時は財政の逼迫で認められなかったのである。

「それは良い」

弟は手を打った。

「私はまだそのような力もございませぬが、母上を大切に致しますぞ。尾張から色々な珍しいものを母上にお送りいたしましょう」

「うむ。それと近江の国の小野社おののおやしろに官位を授けて頂き、小野姓の者が春秋の祭礼に自由に往復できるように頼んでみましょう」

「それは良い考えですね」

母は漸く微笑した。

「あのお方もさぞかしお慶びになるでしょう」

「さあさ、母上」

老女の顔色が少し明るくなったのを認めると、篁は母の手を取った。

「何も召し上がっておられぬようではありませぬか。粥でも召しあがられませ。だいたい私はすぐにいなくなるわけではございません。これから船を作るのですぞ。あと一年や二年は待たねばならぬのです」


造舶使の任命があり、その長官に丹墀真人貞成たじひのまひとさだなりが決まるとすぐに宮中での打ち合わせが始まった。遣唐使の総勢規模は六百人余り、舶の数は四である。一舶に百数十人と舶の規模も相当に大きなものになる。

「このように大きな舶の造作は初めてでございますが・・・」

造舶使次官の朝原宿祢嶋主あさはらのすくねしまぬしが舶の長さを十丈と告げると、席にいた者がどよめいた。

「それほどの大きさなら、彼の国にも国威を見せつけてやれるの」

常嗣が鬚をしごきながら満足そうに言った。

「そうなると水手かこを増やさねばなりますまい」

篁が尋ねると嶋主が困ったように頷いた。

「水手を増やせばそのぶんまた大きさが必要になります。その者たちのかても必要ですからな。かといってこれだけの大きさの舶となれば一舶に百近くの水手が必要でして」

水手とは漕ぎ手の事である。

「唐に直接参るとなると途中で糧・水を賄う事もできません。すべて舶に事前に納める必要があります」

嶋主の言葉には遣唐使の困難さが詰まっている。新羅と仲違いをしている事が致命的にこの事業を難しくしているのだ。

「唐との距離はどの位なのだ」

常嗣が尋ねると大宰府少弐の藤原広敏ふじわらのひろとしが答えた。

「最も近い航路を取れば二千里ほどでございます。信風しんぷうを得れば四日もあれば着きましょう。ただ船が思いもかけぬ方角に流されたりする事もありますしなぎもありますので七日から十日ほどと考えておけば良いかと」

この時代の一里は五百メートルほどである。常嗣は

「随分と幅があるな」

不満げに呟いた。

「風、潮の流れと・・・海は分からぬものでございます」

静かに広敏は答えた。

通詞つうじにしても唐の者だけではなく、新羅・奄美の言葉を話すものも連れていかねばなりますまい。奄美の言葉を話すものはこちらで手配させていただきましょう」

「奄美に流れ着く事などあるのか?」

「ございます。未開の地に辿り着きますと言葉が通じねば危険でございます」

「確か安南あんなん崑崙こんろんに漂着した船もございましたとか」

篁が発言した。安南は今のベトナム、崑崙はスリランカの事である。広敏は丁寧に頭を下げた。

天平てんぴょう天平勝宝てんぴょうしょうほうの使でございます。とりわけ天平の船は帰路でばらばらになり全ての舶が遭難したと聞いております」

「幸先の悪いことを申すな」

常嗣は声を荒らげた。

「いずれにしろ」

造舶次官の嶋主は取り成すように言葉を継いだ。

「先ず材木の徴用から始めねばなりませぬ。これほど大きい舶を作るとなりますと、使える木も多くはありませぬ。それから舶を組み立てるという事になります」

「どれほどかかるのだ」

常嗣が尋ねる。

「さて、二年ほどはかかろうかと」

「それほどの時は要ろう。帝も再来年の春夏を期せと仰っておられた。人を選ぶにも時間がかかる」

常嗣の言葉に篁も頷いた。大使・副使の下につく判官はんがん録事ろくじや船員を取り纏める知乗船事ちじょうせんじは気の通じ合う者を選びたい。と言って遣唐大使や副使が勝手に決められるわけでもなく、常嗣と相談して有能な人材を選び太政官たちと折衝をせねばならない。六位、七位にある者たちあたりから有能で覇気のある者たちを選り分けていくにはそれなりの時間が必要である。

打ち合わせが終わると広敏が篁に近づいてきた。広敏は藤原京家の出で、氷上川継ひがみのかわつぐの乱に連座して流罪になった参議浜成さんぎはまなりの孫である。もはや中央で京職に返り咲くことはあるまいと割り切っている広敏は思い切って物事を言える立場にあった。

「弾正小弼様は此の度の遣唐使を如何様いかようにお考えでございますか」

篁は近づいてきた男の顔を眺めた。

「小野の方々は代々外交のお役目をなされる家系。深い考えをお持ちかと。それにお父上は大宰府で大弐となられたお方。一時、私もお仕えした事がございますがまことに広いご見識をお持ちでございました」

「そうであられましたか」

思いもよらぬところで父とかかわりのあった男と出会い、篁は表情を和らげた。

「お父上はご立派な方でございました。続命院を始めとして多くの立派なことを成された。続命院では今なお、小野の方々に資金を頂戴しております。お礼も申し上げたいと存じましてな」

そう言うと広敏は篁を見上げた。五尺五寸ほどであろうか、篁より小柄だが見上げてくる目は鋭い。かしらにも髭にもごま塩が混じっていて、肌の色は官人と思えぬほど日焼けしている。この男は現場に出て指揮を執る事を厭わないのであろう。

「実の所を申し上げますと、大宰府では遣唐使を送る事については不満がございます」

「どうしてでしょう」

遣唐使に選ばれたばかりの男を目の前にした上での率直な物言いに、篁は眉を顰めた。

鎮西ちんぜいでは相次ぐ天候不順で飢饉が繰り返しております。また疫痢えきりの流行が相次いでおります。その上、遣唐使を派遣すると言う事になれば民の負担が耐え切れない物になりましょう」

「ふむ・・・」

「唐に破県はけんという言葉がございます。農民が逃げ出して県が成り立たなくなる事です。農民は租で苦労してもなかなか土地を手放しませぬ。ですが壮丁そうていを役に供出させると逃げます。遣唐使がございますと鎮西では逃戸とうこが増え、破県に似た事がおきます」

「なぜでしょうか・・・」

「正直に申し上げましょう。遣唐使の船がすべからく遭難するからでございます。遭難した船が一艘でもございますと一帯では船を探すために昼夜となく人が駆り出され、いつ終わるともしれぬ役が始まるのでございます」

広敏が真っ直ぐに篁を見た。

「万一そのような事態になれば私は命を賭しても皆さま方を探すように指揮を執ります。それがわたくしの仕事ですからな。特に小野様のご子息ともあらば大宰府内に異はございませぬ。ですが、そのような事情もあると知っておいていただきたい」

「なるほど・・・」

篁が考え込んでいるのを見て眼を細めた広敏は、それともう一つ、と付け加えた。

「なんでしょう?」

「舶の事でございます」

造舶使が周りにいないのを確かめてから広敏は囁くように言った

「大きな舶を作るという事でございますが、念の為大宰府におります唐人、新羅人に尋ねたのでございます。彼らは海を渡ってきた者たちでございますからな。それに彼らは決して大きな船でやってきたわけではございませぬ」

「なるほど・・・」

「すると皆、それは止めた方が良いと」

「大きな船では危ないと申すのでしょうか?それはまた、なぜ?」

篁は尋ねた。大きい方が何事も安全だと誰もが思っているが、そうでないという考えに興味が湧いた。

「理屈は私では分かりかねます。ですから今日も申し上げはしませんでしたが、大宰府に来られましたら彼らの話をお聞きください。操舵そうだや気候の事など役に立つこともございましょう」

「ありがとうございます。そう致しましょう」

篁が礼を言うと、なんの、と善良な地方官人の貌に戻って広敏は深々と頭を下げた。

「以前、新羅の者が持っていた唐の詩集を譲ってもらってお父上にお渡しした事があるが、お手許にございますか」

「おお、あれはそなたからの頂き物でしたか」

一度春道に貸したことのある元白詩集の事だとすぐに篁は気が付いた。

「そのご様子でしたら、今は篁殿のお手許にございますな」

「はい」

 篁の答えに広敏は満足げに頷いたのだった。

この広敏の弟の貞敏さだとしは兄の制止も聞かずこの年の十月准判官として遣唐使の一員に加わる。琴の演奏を極めたい、その一念からの渡航であった。そして皮肉な事に彼は承和の遣唐使の唯一の成果と言ってよい「玄象げんじょう」「青山せいざん」という琵琶とその演奏法を日本にもたらす事になる。


遣唐使の準備に忙殺され始めた頃に至急とのお召しがあり、時間を割いて冷然院に赴いた篁を前太上帝さきのだじょうのみかどは眠たげな眼で迎えた。

「忙しいようじゃの」

「そうでございますね」

そっけなく答えた篁を面白いものでも見るような目つきでじろりと見遣り、おのこは少し忙しすぎるのがよいものじゃ、と呟くと、太上帝は

「そなたも唐で色々と学んでくるが良かろう。唐の文物は今は新羅の船でも入って来るらしいが、やはりおおやけで運んでくるものとは質が違う。おお、忘れておった。帝は胸を患っておる。良い薬も手に入れてきて欲しいものだの」

と続けた

「お呼びになったのはその事でございますか?」

「いや・・・高津内親王への料をな・・・」

前太上帝は目の前の男に太い指を突き出した。

「は・・・」

「お主に頼めるのも今年までだな」

「来年からはどうなさるので?」

「それはこっちで考える。今年は頼まれてくれ」

「承知いたしました」

「どうだ、業良親王は。妻と仲良くやっておるか」

「ええ、馴染んでおられるようでございます」

「それは良かった。これでも少しは心配しておったのだ」

嵯峨帝は笑みを浮かべた。

「ではこれを・・・」

手渡された文をまじまじと見てから篁は思い切って

「あのお方達をもう少し自由にさせてあげられないでしょうか。せめて次のお方にも年に何度か外歩きの随伴をするような・・・」

と尋ねたが、ぎろりとまなこを見開いて

「ならぬ。あれは宮の火種のような物じゃ。もうよい。下がれ」

うるさそうに手を振った嵯峨帝に篁はそれ以上口答えをすることはできなかった。

篁が来訪すると内親王一家はいつもと違って戸口に揃って座り篁を待ち構えていた。

「このたびは重いお役目、たいへんおめでとうございます」

母内親王の言葉に一家揃って頭を下げたのを見て篁は狼狽した。

「いえ、そのような」

「あなた様が訪ねて来られるようになってから邸が見違えるほど明るくなりました」

母内親王はあたりを見回した。邸内は丁寧に磨き上げてあり清々しい。森の奥でひっそりと暮らす小鳥のようだった兄妹も今はよほど人がましく見える。だが今日に限っては邸内にどこか重苦しい雰囲気が漂っていた。親王の口数は少なく親王妃はその様子を心配気な顔で見ていた。妹内親王は口を開くこともなかった。

「今年の園遊がなくなるのは残念です」

重い口調でそう言った親王に、いや、と手を振ろうとした篁を母内親王が遮った。

「いえ、もうなりませぬ。あなたが東宮学士となられた時に、私たちとこれ以上関わりになる事をおやめなさった方が良いかとは思ったのですが、つい甘えてしまいました。今度のお役目は命を懸けてなさねばならぬ大事業でございます。皆で話して決めた事です」

「そのようなご心配を頂かなくても」

「いえ、構えて辞退させてくださいませ」

母親王が厳しい口調で告げた。その横に座っている妹内親王の白い唇が母の言葉を聞いて、微かに震えているのを見て篁は思わず目を逸らした。

「ではいずれ戻って参りましたら・・・」

「そうなさってくださいませ」

漸く目に優しい笑いを浮かべると、

「さあ、あなたたち。いつまで暗い顔をしているのです?東宮学士様には大変なお仕事が待ち構えているのですよ。明るくお送り申し上げるのが私たちの務めと言うもの」

と母親王が言った言葉に親王と親王妃は頷くと昨年の旅の事を懐かしそうに話し始めたが妹内親王だけは固く唇を閉ざしたままだった。

やがて母内親王が少し疲れたから休みます、といって席を外すと間もなく親王と親王妃が妹をちらりと見遣ってから、では私たちもこれで、と二人を残して出て行った。二人きりで残された篁は何といったらいいのか言葉も見つからず、ただ座ったままの内親王の姿を見詰めていた。

「内親王様・・・」

沈黙に耐えかね篁が声を掛けると内親王が何かを小さく呟いた。

「なんでございましょう」

聞き取れずに少し傍へと寄った篁の耳に、

「わたくしはあなたのお名前さえ知らないのでございます」

か細い声が聞こえた。この頃には名前を互いに明かすのはよほどに親しくならない限り控えるのが普通である。さもないと、いつ呪いをかけられるか知れたものではないと当時の人々は考えていた。

「篁でございますよ」

と優しく答えたが内親王はそれっきり黙っている。やがて春の陽が長い影を落とし始めたのを見て篁が、

「ではそろそろ」

と呟くと、内親王は思い余ったかのように

「たかむらさま」

と小声で叫んで白い手で日に灼けた篁の腕を掴んだ。こらえた涙の滲む瞳はそれまで見た何よりも尊く美しいものに篁の目に映った。

「内親王様」

抱き締めたのは、以前水の中に落ちかけた時のような強張った体ではなく、柔らかく篁をうけいれようとするしなやかな体だった。


果たして良かったのだろうか?仄かに燭の揺れる中、内親王が人差し指を噛みながら喜悦の表情を浮かべていたのを篁は想い返していた。そんな篁を見て妻が不審げな顔をした。

「何をお考えでございます?」

「うん?いや・・・小野の者たちが近江に官符なしに行く事が許されるか考えておったのじゃ」

ああ、と言うように袖子は頷いた。

「明日、父上が行幸のお供をなさるそうでございます。その時帝のお耳に直接入れると仰っておられました。心配なさらずとも」

「そうか・・・」

「珍しくにやにやされておりましたから、てっきり唐の国の女人のことを考えておられると思っていました。あちらには美しい方がいらっしゃると申しますから。楊貴妃というお方や西施せいしというお方や・・・国を滅ぼすほど美しい御方たちが」

「まさか。そのような事など考えておらぬ」

篁はぎくりとしながら答えた。にやにやなどしていた覚えはないが、それとしらずに思いが表情に現れたのであろうか?

「今まで見た事もないようなお顔をなさっていましたもの」

三守の娘と結婚してから今迄一度も別の女と交わったことがない篁である。男の心の裡をいとも容易に見破る女というものに感心し、またおそれつつ篁は、

「国を揺るがすような美女がそうそうおる筈がなかろう」

頓珍漢とんちんかんな答えをした。

「でもあちらのでは後宮と言って帝の周りにたくさんの美女がおられるとか。その帝に会いに行くのですから美女にもお会いなさりましょう」

そう言った袖子の眼に軽い不信と嫉妬の色が浮かんでいるのを、篁は笑って打ち消した。

「女は宴席には出て来ぬ物だ。心配をするな・・・だいいち、お前がいれば私は満足じゃ。掛け替えのない妻だからな」

まあ、と言って妻は頬を赤らめた。子を五人産んだといってもまだ初々しい所が残っていて篁はそれを愛している。

「焼きもちを焼くな」

そんなことを言う篁を役所の同僚が見れば別人かと思うかもしれない。役所での篁は謹厳実直を絵にかいたようで、女の焼きもちなど端から相手にしない人間のように思われている。


そんなことが篁の家であった翌日、帝は三守や良房を伴って狩に出た。新年、淳和帝から拝領した鷹や鷂と帝自身が飼っていた隼も一緒である。だが芹川野せりかわののでの狩は不調であった。次第に不機嫌になっていく帝を横目で眺めた良房は

「鷹どもを放して戦わせてみませぬか」

 と提案をした。面白そうだの、と目を輝かした帝ではあったが鷹や鷂は後太上帝からの貰い物であり、隼は手ずから育ててきた大切なものである。鷹同士を争わせる遊びなど聞いた事もない。躊躇っている帝を見て良房は傍らにいた三守に

「いかがですかな」

と尋ねた。帝の機嫌が悪くなっていくのを不安そうな目で見ていた三守は良房の目配せに

「面白そうでございますな」

と思わず同調した。

「なに、人も鷹も同じでございますよ。戦わせて勝ち残った者を重宝すればよいのです。強いものを選び取る事こそ帝に欠かせない資質でございます」

主鷹司しゅようし達は良房の命を聞くと嫌な顔をした。どの鳥も手を掛けて育ててきた大切なものである。競わせて怪我でもしたらどうするのか。まして帝がそのような殺生にかかわる遊びをするのは不埒ではないのか、という思いがある。しかし、良房は

「帝がお望みですぞ」

と主鷹司正を見据えた。良房に睨まれたら主鷹司正など鷹に見つかった野鼠のようなものである。慌てて下の者たちに命じて準備を整えた。鷹匠の腕に乗った鳥たちは鋭い声と共に薄い青空へと一斉に飛び立った。鷹は鷂や隼より一回り大きい。その体格を生かして他の二羽を蹴落とそうとしている。その空中での動きは鳩や雉を狙う時より格段に早く、帝たちは唾を飲み込むようにして見守っていた。

 最初に脱落したのは鷂である。空中で鷹と交わった時、羽が飛び散り急に速度を落とした鷂は暫くよろよろと飛び続けたが再び鷹に体当たりをされると力なく地面へと墜ちて行った。鷹匠の一人が鷂の落ちたあたりへと駆けだした。

隼は体格では鷹に劣るもののその速さで鷹を翻弄している。

「もう宜しいでしょうか・・・」

主鷹司正が手を揉むようにして帝たちの前に転びでた。

「うむ、良い」

帝が間髪を入れずに答えると鋭い笛の音が響き渡り、鷹と隼は散開して鷹匠の許に戻った。その少し向こうに鷂を腕に抱えた者が茫然とうなだれていた。

「どうした」

三守が尋ねるとその男は黙って首を振った。

「死にましてございまする」

主鷹司正は短く言った。微かな後悔を面に滲ませている帝と痛ましげな表情の三守の横で、良房は平然とその言葉を聞いていた。

春秋の祭の際の小野氏神社への参拝は官符なしに行うことが認められた。伯父の野主や叔父の滝雄から慶賀の遣いが次々にやって来た事に母も喜んだ。

 三守は狩の翌日、しかしどこか浮かない表情で許しが出た事を篁に話したのだった。

「続命院のことはもう少し先に奏することにしよう」

三守はそう言うと太い溜息をついた。

「そのうち大使に食禄を増やすために地方任官の沙汰があろう。それを終えてからが良い」

「いかがなされました?先程から溜息ばかりおつきになられる」

「うん、そうか?」

ちらりと篁に目を遣りつつ三守はまた溜息をついた。

「また溜息をおつきになられました」

「そうだの」

三守は半笑いのような表情になると、

「昨日の鷹狩で後太上帝から帝が賜った鷂が死んでな・・・」

「時おりある事ではございませぬか」

「しかし・・・。嫌なものを見てしまった」

「そうでございますか」

屈託の浮き出た三守の顔を見守りながら篁は答えた。話したいなら三守の方から話してくるだろう。だが、三守は

「どうじゃ、遣唐使の人選は進んでおるか?」

と尋ねてきただけであった。

「はい、何人かは」

「それは良い。着実にせよ。人こそが大事というものだ」

「父上のお力添えを頂けますようお願い申し上げます」

「そうじゃな。わしも良さそうな男を探しておこう」

「ぜひ」

答えると篁は低く頭を垂れた。


三守が言っていた通り大使の常嗣はその年の内に備中権守、近江権守を兼ねる事になり、判官以下数人もそれぞれ掾などの役職を与えられた。船の建造は大工外五位三嶋公嶋継が次官となってから急速に進んでいる。

夏、良房が参議に任じられた翌月、前太上帝は冷然院を出、新しく建てられた嵯峨院に遷られ三守も共に移って嵯峨帝に伺候することとなった。この頃は前太上帝には三守、後太上帝には藤原吉野がついて仁明帝との間を取り持つ形になっている。

「お父上も大変だな。いろいろご苦労があろう」

篁の言葉に妻は頷いた。

「以前より楽だと口では申されておりますが、いろいろ煩わしいこともおありのようです」

夫が遣唐使に選ばれたと聞いて最初の内は泣いたり取り乱していた妻だが、この頃はよほど落ち着いて唐からの土産をねだったりする。泣かれるよりはだいぶましだが、唐の女のことが気に掛かるらしくたびたび何の根拠もない勘気を起こすのには手古摺っている。

年が明け、篁は従五位上に叙されると共に備前権守に任じられた。三守からは黙って受けて置け、続命院のことはもう少し待て、と言われ篁はその言葉を守った。

その間に三守は篁に一人の男を紹介している。篁より十ほど年上の男の名は長岑宿祢高名ながみねのすくねたかなといった。篁どころか大使より年上の男と言う事に多少懸念を抱いた篁に三守は

「齢など大したことではない。現にわれわれ年寄りはおまえより若い帝に仕えておるではないか」

と強く推したのである。しぶしぶ会って見ると細面で華奢な体つきの男である。遣唐使は見栄えも大切だとされている。貧相な男では見劣りするからだ。大丈夫なのか?篁は内心首を傾げた。

しかし話をしてみると案に相違して篁好みの男であった。貧しい家の出で地方官を望んでいたが一度安房掾になったきりで以降太政官の史を務めていると男は自己紹介をした。三守は身近でその精勤ぶりを見て遣唐使に推してきたようだ。

「喜んで、と申し上げたいところですが唐の国は地方というには少々遠すぎますな」

とにこにこと笑いながら男は、

「といってもわたくしの先祖は百済でございます。先祖が海を渡ってきた以上、わたくしに渡海できぬ訳はございませぬ」

と煙に巻くようなことを言う。

「判官というわけには参らぬが、それで宜しいか」

篁が言うと黙って頷いている。判官に決まっている菅原善主すがわらのよしぬしにしても高名より十は年若である。それを明らかにしてもう一度真意を確かめると男は

「わたくしは外位げいでございます。さような事を気にして何になりましょう。仕事を評価いただけるなら構いませぬ」

飄々ひょうひょうと応えた。外位とは地方官吏の位であり、昇進も内位に比べて制限がある位階である。

 それならば、ということで大使の常嗣に進言すると常嗣も高名を見知っていて

「なるほど、高名か。それは思いもつかなかったが・・・高名なら良かろう」

と手を叩き准判官という事で太政官に奏すことにした。大使副使の任命からほぼ一年が過ぎたが遣唐使の陣容はまだ道半ばである。


佐伯直真魚さえきのあたいまおは床でうつらうつらとしていた。ふっと目覚め、

「春と言うに、お山は寒いのう」

と呟いた。横で看病している若い僧は看病の疲れからかうつらうつらと体を揺らしている。

呟きながら冬でも暖かかった生まれ故郷の讃岐を懐かしみながら真魚は前夜見た夢を思い起こしている。昔夢で見た男と再び夢でまみえるとは思ってもみなかった。

「あれは、福州ふっちょうであったか」

長安に入ることが出来ずにいた遣唐使一行の苛立ちは募っており、漢音に通じた真魚は大使の藤原葛野麻呂から矢のように交渉を求められていた。極度の緊張を強いられ、日本であれほど厳しく求法の修業をした真魚でさえ交渉の辛さに死を想う事があった。そんな時、ある夜見た夢の中にその男は出て来たのだ。薄暗い霧のようなものがかかっている場所であった。

「お主、まだ死ぬには早いわい」

会うなり僧形の男はいきなり真魚を叱りつけた。

「は?」

虚ろな声で返した真魚をじろりと睨むと

「何度も言わせるな。お主の魂がここらを彷徨っておる。ここは人の来るべきところではない。さっさと帰るのじゃ」

「あなたさまは」

死を想ったことを言い当てられ、真魚は怪しむように僧を見た。

「わしか。わしは善財と申す」

「それではあなた様は善財童子様・・・」

「ふん、知っておるのか」

機嫌が悪そうな僧形に向かって真魚は拝跪はいきした。僧形は真魚をじろじろと見ると、

「お主はこの国に顕密けんみつの法を学びに来たのであろう。密を重んじておるのが気に食わぬが魂の位は高い。死ぬ事は無かろうよ」

素っ気なくそう言ったのだが、ところで、と僧形は今度は興味深げに真魚の顔を覗き込んだ。

「お主はやまとからやってきたのじゃろ?」

「そうでございます」

今度このたび新たな閻魔大王えんまたいおう践祚せんそする。何・・・」

真魚が物問いたげな表情をしたのを素早く見て取って、

「閻魔大王とて五道の内のものじゃ。遷り変るのよ。でな。次の閻魔は倭の者が成るそうじゃ。開闢かいびゃく以来じゃ。倭もいよいよ文化というものを持ったらしいの」

ひひひ、と僧形の者は妙な笑い声を上げた。

「こんなところを魂がうろついておるから、お主かと思ったがどうやら違うようじゃ。閻魔大王になるものは自死など考えぬからな。どうじゃその者を見たくはないか」

「はあ・・・」

「なんじゃ、気乗りせぬようじゃのう。まあ、いい。いずれお主もその者に出会うと見た」

「さようでございますか」

目を眇めるようにして善財は真魚の顔を見ると

「ま、苦労もいましばらくの辛抱じゃ。ここで出会ったのも何かのえにしじゃ。お主に一ついいことを授けて進ぜよう。長安ちゃんあんに着いたら青龍寺せいりゅうじ恵果えかの所へお行き。わしが話をつけておいてやろう」

と言ったのである。あれから三十年なおその夢を真魚は鮮明に覚えている。その善財が昨夜、夢の中に現れたのである。以前あった時よりよりもずっと和やかな顔をしていた。

「善財様、お久しぶりでございます」

「久しぶりじゃ。といってもわしゃ、お主の事を前世から知っておる。三十年など須臾しゅゆの間じゃ」

「では、私の前世を御存じなのですか」

「おおよ」

「お教え願えませぬか。私の前世はいかなものでございましたのでしょう?」

善財は笑みを浮かべると

「お主の前世はの・・・鳥飼じゃ」

「鳥飼?」

それはまた奇妙な前世だ。鷹を飼うあの鳥飼か?

「鳥飼といってもの、お主の前世の生まれは西天せいてんの王国のひとつじゃ。そこで王家の鳥飼をしておった」

「さようでございますか」

「そこでお主は白孔雀の世話をしておった」

「白孔雀・・・?」

「たいそう珍しいものであるがな。ところでその国にはもう一つの珍しいもの、白い大蛇がおった」

「はあ」

何の話だ?要領を得ないまま真魚は頷いた。

「王はの、どちらもたいそう大切にしておった。だが家臣の一人が白蛇は毒蛇ではないかと疑っての、白孔雀を使って調べる事にしたのだ。白孔雀は毒蛇を打ち殺すが毒のない蛇は相手にせぬ」

「なるほど」

「白孔雀に白蛇を見せると白孔雀は見るなり飛び掛かろうとした。それをお主、つまりお前の前世である鳥飼は必死になって止めた。白蛇を王がたいそう大切にしていたのを知っておったからの」

「そうでございましたか」

「その功でお主は引きたてられた。白蛇の命を守ったのは殊勝だとしてな。白孔雀は檻に入れられる事になった」

「ですが白蛇は毒蛇なのでございましょう?」

「王の言われるにはな、白蛇が毒蛇であろうと、人を噛んだ事はない。そもそも毒を持つのは蛇の罪ではない。人を噛む事のない毒蛇を殺すのは無慈悲で愚かだと仰ったのだ」

「なるほど・・・ならばなぜ毒蛇かどうか調べさせたのでしょうか」

「さての。王自身は毒蛇であるかどうかを気にしなかったのだろうがそれを知ることは必要だと考えたのであろう。やがて、その王は死んだ。次の王が即位してやはり白蛇を珍重した。前王の遺志を継ぐと言っての。だがの・・・白蛇は前王には忠実であったが、次の王にはさほど忠誠心を抱いていた訳ではない」

「はあ・・・」

「亡くなった王は主だった政の裁可をなさる時は蛇を体に巻きつけてなさった。その故実に次の王も従った。だが毒蛇が首の横に巻きついていては蛇の気に入らぬ裁可を下せるものではない。次第に次王は白蛇を疎んじるようになった」

「もっともでございますな」

真魚は頷き、だな、と善財も笑った。

「そして遂に前の王の慣習を改めることになさったのじゃ。その中に蛇を体に巻きつけるという慣習も入っておったのだが、それを隠しての。しかし、王の体に巻きついておった蛇は王の体からそれを感じたのじゃろうな。その裁可を下そうとなされた時、蛇はふっと不審な動きをした。その時お主が白孔雀を放ったのじゃ」

「はて・・・」

はて・・・どうなったのであろうか?

「はて・・・じゃな」

そう言うと善財はからからと笑い、真魚に尋ねた。

「どうじゃった。この世は」

「お蔭さまで過不足無き生涯でございました」

「何よりじゃ」

そう言うと善財の姿はふっと消えた。死ぬのだな、と真魚は悟った。まあ、いい。どうやらあの男は白孔雀の生まれ変わりらしい。閻魔になるのもあの男であろう。あの男が先に逝って裁いたならわしも地獄に落とされかねぬの、真魚はふっと笑みを浮かべた。

という事であれば・・・白蛇の生まれ変わりはさしずめあのお方じゃろうな、と呟いた。そして、そのまま真魚の口許は動かなくなった。遠くで烏が一声鳴き声を上げた。

 承和二年三月丙寅ひのえとら、大僧正伝灯大法師空海入寂。その便りは山おろしの如く高野山金剛峰寺から都へと吹き抜けて行った。


「高野山から東寺の長者を通じていつ遣唐使は出発するのかと頻りに催促が来ておる」

そう常嗣が篁に告げたのは空海が入寂にゅうじゃくしてから一月も経たぬうちであった。

「気楽な事を、と言いたいところだが大僧正が亡くなられ、仏教界を引き締めるためにも新たな経を早急に求めておる」

実恵じちえ殿ですか」

「そうだ。請益僧に真済しんぜい殿をと、あちらも相当本気であっての」

真済は空海の弟子のひとりで性霊集しょうりょうしゅうを編纂した事で知られる高僧である。その高僧を請益僧にということは確かに高野山は本気なのであろう。

 信心深い常嗣は高野山の意向を気にしている。空海の入寂を聞いた時もずいぶんと意気消沈していた。

だが空海入寂の報せを篁はどこか遠くでの出来事として聞いていた。あのお方が・・・初めて宮中で会った時以来、何を見ているのか底知れぬ視線はずっと自分の背中にへばりついているような気がしていたが、実際にはそれほど会う機会はなかった。互いに相手を気にしつつ、どこか互いに避けていたような気がする。

「空海僧正の入寂にゅうじゃくは・・・大変な騒ぎでございましたな」

「うむ・・・しかし、気にくわぬのは権中納言ごんのちゅうなごんよ。騒ぎの中ちゃっかり昇任しおって」

新しい権中納言は良房である。空海の入寂の報せから半月も経たぬうちに突然従四位上から三段昇階して従三位に叙され権中納言となったのであった。従四位上に先に昇り年下の競争相手に闘争心を燃やしていた常嗣は、相手が皇女を娶った為に昇任が早いのだと思い、まだ自分の方が位は上だと何とか心を鎮めて来たのに、あっという間に追い抜かれ、引き離されたのである。

「気になされても仕方がございませぬでしょう」

と篁が宥めたが、常嗣のわだかまりは解けぬようであった。

「なに、あやつは内親王を娶っただけではないか。気に食わぬと左大臣に文句を言ってきたのだ。なぜ、国を背負って唐の国へ渡ろうとしておる者の気を削ぐような叙任があるのかとな。ならば良房を唐に送ればいいではないかとな。わしらのかわりにな」

「わしら・・・とは?」

「わしとそなたよ。わしは二位にして貰わねば唐には往かぬ、と言ってきた。そなたには正四位を賜るように言ってきた」

「何を・・・」

篁は茫然とした。そんな位争いに巻き込まれるのは本意でない。

「心配するな。それにそなたが以前言っておった続命院の事もな、きちんと願い出てある」

有難くもあるが、実際はそれ以上に迷惑である。それでは篁が常継と示し合わせて叙位を策謀しているかのようではないか。さっそく義父の三守に尋ねると、三守は笑って言った。

「常嗣の話は左大臣から聞いておる。たいそうな剣幕だったと零しておった。右大臣は大笑いじゃ。わしの所にやってこなくて良かったとな」

左大臣は藤原緒継、右大臣は清原夏野である。大納言の自分を含め密かに自分たちの事を宮中の三爺と三守が呼んでいるこの三人の仲は意外と良いらしい。緒継は長子を失くしたあと、次男の春津はるつに強い期待をかけるでもなく淡々と過ごしていた。夏野の息子の滝雄たきおは良房の後任として蔵人頭、秋雄あきおは侍従となっているが二人とも政治的野心は薄い。三守の息子たちも似たようなものである。

「叙任の要望については私だけでも取り消していただけませぬか」

「なになに、心配するな。お前がそのようなことを申すとは緒継殿も、まして夏野殿は考えておらぬよ。なに、お蔭で却って続命院の話は通りやすくなりそうじゃ」

それから暫く音沙汰がなかったがその年の十二月左大臣から内々に常嗣に正二位、篁に正四位上を賜るとの口宣くぜんがなされた。

但し位記は贈られなかった。唐に渡った時にその位を名乗っていいと言う意味であり、無事任務を果たして帰国すればその位階を賜ぶという内意である。そしてその翌日故小野岑守の解文げぶみを諒とするという形で続命院を国が管理する勅が降りたのであった。

篁がそんな面倒に巻き込まれていた秋も末の或る日、久しぶりに惟良春道が訪ねてきた。

「忙しいようだな。以前より痩せたのではないか」

会うなり春道は篁の体を案じだした。

「大丈夫だ。お主はどうだ?人の心配をしていてもいいのか」

篁が切り返すと春道はさして大きくもない身を竦めた。

「いやまあ、散位さんいの身ではなぁ。そろそろ妻がしびれを切らしておる」

従五位下に叙されて貴族の仲間入りをしたものの、京職にも地方官にも任命されない者を散位と呼ぶ。年を取ってそれなりの蓄えを得てから散位になるならともかく、春道の年で散位のままでは御まんまの食い上げになりかねない。

「おれも・・・唐にでも渡るかな」

春道が呟いた。

「そうするか?」

 半分、本気で篁は尋ねた。長岑高名を准判官から判官に昇進させたために一つ席が空いているのだ。

「いや冗談だ、俺は船酔いがひどくてな。淡海を渡る船でも酔ってしまう。とても無理だ」

春道は苦笑いを浮かべ手を振った。任官を求め年に二回、除目と後世呼ばれる任官の時期に向け散位の者たちは有力者の許を駆けまわる。春道に三守や夏野を紹介してやろうと篁は言っているのだがどういう訳か任官くらいは自分で何とかすると言って聞かない。妙な男だ、と篁は苦笑交じりに思う。任官こそ口利きが物を言うのであるのではないか。そう思いつつ篁は春道の器に酒を注いだ。

「先だっては権中納言様の許に参ったのだ。ひどく待たされたが何気なくお主の名前を出したら会うて貰えた」

春道の言葉に酒を注ぐ篁の手が止まった。

「どうであった?」

春道は首を振ると篁に筆と紙を求め、そこにすらすらと漢詩の一節を記した。

言下暗生消骨火 咲中偸鋭刺人刀

言葉の下に空に骨を消す火を成す、笑みの中に密かに人を刺す刀を研ぐ、と読む。

言葉の中に骨まで燃やし尽くす悪意を込め、笑いながら密かに人を刺し殺す刃を研いでいるという意である。善良な春道はその善良さ故、良房の人となりを鋭く見抜いたのであろう。

そうか、と篁は呟いた。

「まあ、あのような位に昇れば人はそうなるものかな?だが、あの御方の近くで仕えるのは少々しんどそうじゃ」

ため息交じりに言った春道を前にして、この人の良い男を唐に立つ前になんとかしてやらぬとなと篁は考えた。やはり夏野様に頼むのが良かろう。どこかの地方官にでも潜り込ませてやろう。

「それにしても唐へ行くとは大仕事だな」

「うむ」

応えた篁をちらりと見ると、

「ともかくも、無事に帰って来い。無理はするな」

と春道は春道で篁を気遣っている。数少ない友ではあるが、やはり友とは良いものだな、と篁は素直にそう思った。

翌承和三年春、篁は正五位下の叙任を受けた。正四位下の叙任に止まった常嗣は不満そうではあったが、唐から戻れば二位の叙任もあり得ると鼻先に餌をぶら下げられた馬のように気負っていた。舶は完成間近である。二月には北野で天神地祇てんじんちぎの祀りが催され、六日後遣唐使一行は連れ立って賀茂大神かものおおかみ幣帛へいはくを奉納した。

 八省院はっしょういんでの拝謁の儀には天皇は出御しない。初代遣隋使を送る際に帝が病で出御しなかった時以来の伝統である。出御せずとも初代の遣隋使は成功したのである。いや、むしろ・・・と時の人々は考えたのであろう。出御しなかったからこそ成功したのではないか?

帝が出御こそ為されないが、先祖小野妹子がその時の大使であった事もありその儀は篁にとって一入ひとしおの感慨があった。

下って四月壬辰みずのえたつに帝が紫宸殿ししんでんに今度は出御なされ、諸官に「入唐使にはなむけする」という詩を賦させると共に一行に衣・砂金が下賜され、日をおかずに節刀を賜った。帝に代わって節刀を渡したのは清原夏野である。にっこりと笑っている夏野から篁に手渡された刀は予想外に重かった。節刀とは、遣唐大使副使に一行に関するすべての権限を委譲すると言う意である。と同時に節刀を受けたらもはや家に戻る事もできない。節刀を拝受した一行はその足で難波津なにわづへと向かった。同時に遣唐使の無事を祈り、下総しもうさ伊波比主命いはいぬしのみことを初め三神に加階が行われ、唐の地で没した藤原清河や阿部仲麻呂らに位記の追贈ついぞうがなされている。

遣唐使とはまさに神頼みの事業であった。

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