第3話 流觴曲水(りゅうしょうきょくすい)
篁が、大納言清原夏野の邸に呼ばれたのは長良から話があってから五日後、初夏の日差しが目に
「おお、よう参られた」
門で出迎えた夏野は活き活きとした目で篁を見上げた。大伴親王の
「父上様は惜しいことであった。お幾つであられたのかの?」
「五十三でございました」
篁は深く頭を下げた。
「あのお方も国の色々な所を回られておられた。私もそうであっての。一緒になる事はなかったが、
続命院とは父が太宰府に仕えていた際、私費で旅人を助けるために作った宿のような物である。その頃は凶作続きで旅の途中に行き倒れて死ぬ者たちが多く、それを救うための施設であった。
「ええ、まだなんとか続けておりますが」
「素晴らしい。御人徳の深さが身に染み入ります」
少し大仰と思えるほどの嘆息をつくと、清原夏野は篁を邸に迎え入れた。
篁が手に抱えている
その日、家の者は普段なら夕暮れ前に何があっても散策に出る夏野が、尋ねて来た若者と時に激しく言い合い、時にほほほっ、という甲高い笑い声を上げるのを奇異な思いで聞いていた。邸で夏野がこんな様子を見せるのは初めてであった。初夏の長い日が暮れるころ、家人がおそるおそる
「膳はいかがいたしましょう」
と主人に戸越しに尋ねると、
「なに、そんな刻か?」
夏野はあたりが暗くなっていることにさえ気づかなかったのか、
「それより灯じゃ、灯を持て」
と燥ぐような声を上げた。だが、
「いや、待て。腹も減った。膳をこちらへ参らせて差し上げよ」
と付け加えると夏野は、
「これを暫時、貸して下さるか。目を通したいのじゃ」
と篁の持ってきた包みを指した。
「もちろんでございます」
篁が
「これで
にやりと笑って
「
そう言うと命に応じて灯を持って来た家人に
「どうしたのじゃ。客人を待たせるのか。早く膳を運んで来い」
と気短に怒鳴りつけたのだった。
それからの篁は時に父の死を忘れるほど多忙な生活に明け暮れる事になる。却ってその方が良かったのであろう、
「小野殿、こちらへおいでなされ」
夏野は令義解を編纂している十一人の中で一番若い篁に対しては優しい。狸と綽名をつけられた
呼ばれた篁が夏野の許に来ると、夏野は
「
そういうと篁を見つめた。その話は篁も耳にしていた。帝の血統であるとは言え、臣下の邸へ帝が行幸されるという事はそうそうあることではない。
「小野殿もいらっしゃるがよい」
夏野は何でも無げにそう誘った。
「わたくしがですか?」
篁は目を上げた。
「なに、邸の
ふふふ、と笑い声を漏らしながら夏野は
「先の事じゃ。先の事じゃが・・・儂に少し考えがある」
と謎のようなことを言ったのだった。
行幸の日の朝、双丘の上に霜が真白に降りたが、日が昇ると霜は渋々といったように溶け、空は薄い冬の青に染まった。小高い丘の中腹に建てられた夏野の別荘からは
「小野殿も心に詩が浮かんでいるのであろう。良ければ皆に紹介いたすがな」
悪戯っぽい夏野の言葉に
「いえ、そのような・・・」
篁が言葉を詰まらせると夏野は、ほほほっと特有の笑い声を上げ、
「こちらへ来なさい」
と下世話な女のような仕草で篁の袖を引いた。詩を皆が読み終わる頃合いに夏野は席に戻っていくと文人たちに禄を
ではここは帝の控えの間か?篁は慌てて叩頭すると帝をお迎えした。
「なんじゃ。会わせたい者とは岑守の息か。知っておる、知っておる。いかがしておった。夏野は厳しいじゃろう。いじめられておらぬか?」
淳和帝は頻発する地震に心を痛め、嵯峨太上帝には事があるたびに気を遣う繊細な面もあったが、相撲や競馬、宴、射礼を楽しむという
「いえ、さような・・・むしろ実の子のように親切にしていただいております」
恐縮している篁に、
「どうじゃ、同じ題でお前も詩を読んで見たら」
夏野と同じことを言った帝に、いえ、わたくしは、と一旦はへりくだった篁だったが、先程夏野に言われた時にふと思い浮かんだ
「
という一節を詠じた。
「ほう?」
帝は驚いたように篁を見た。
「今のはそちが詠み出したのか?」
「いえ、これはわたくしの詩ではございません。もとは三声猿後垂郷涙でございます」
「存じておったか、夏野?」
振り向いた帝に夏野は首をふりふり、
「いえいえ、わたくしは唐の詩はとんと、でございましてな。
と恥ずかし気に答えた。
「ふむ、猿とすれば船足は早く雁とすれば少しゆったりとして思える。もとはさぞ高名な文人の物であろうな」
帝の言葉に、
「唐の白氏のものでございます」
と答えた。帝は
「さすが岑守の息であるな。良く知っておる事よ」
と豪放に笑った。
「さようでございましょう、それでですな」
夏野は帝の耳に口を近づけると何やら囁いた。帝は面白そうな顔をして
「なるほどな。その時が来たら朕の方で考えよう。わかったぞ、夏野」
と言った。
「では篁、もうよいぞ」
夏野の満足げな声に、篁は訳が良く分からぬまま帝の前から退出したのであった。
高津内親王の所へ篁は月に一度日を選んで向かうようにしていた。父は年に一度訪れていただけだが、今少し踏み込んでいる。
翌春、料と文の用意が出来たと嵯峨太上帝に呼ばれ冷泉院に赴いた篁に太上帝はどこか物憂げな様子で
「あの者たちは
と尋ねた。
「みな御達者でおられます」
そう答えた篁に太上帝は疑うような眼を向けた。
「先月も参りましたが皆、元気であらせられました」
「なに、先月?」
「はい。親王さまが時おり遊びに来いと申されましたので・・・いけませんでしょうか」
「いや、なに・・・」
一瞬身を乗り出した事を
「あの者たちはさぞかし朕を恨んでおろうな」
と呟いた。
「いえ、親王さまも妹内親王さまも料を頂けることにたいそう感謝しておられます」
「さようなことがある訳があるまい。本来なら帝にもなれたものを
疑わしげな目で太上帝は篁を見詰めた。
「はて、親王様にお生まれになったからと言って皆が皆、帝になりたいものでしょうか。そうでないお方もあらせられましょう」
「そうかの」
「高津内親王様だけは・・・残念ながらお恨みが解けぬようであらせられますが」
篁の言葉に嫌な顔をした太上帝であったがその率直さに却って子供たちの事は本当の事かもしれぬと思い直したのか、
「そちはあの者たちと年も近い。時おり訪れてやるがよい」
そう言って篁を帰したのであった。
篁が内親王の邸に到着したのはそれから二刻後である。去年初めて訪れた時は陰鬱な邸に見えたのだが今年は梅の花が邸のそこここに残ってあでやかな色が懐かしく、
「まあ、小野様」
簀子で梅を見ていた業子内親王の華やかな声がした。
「お待ちしていたのですよ。母もまだおいでになられぬのか、まだかとしきりにせっついておりまして」
「これは内親王様。観梅なされておられたのでございましょう。邪魔をして申し訳ございませぬ」
「いいえ。母があまりにも待ちかねておられるので兄が、私にちょっと見て来てごらんと仰っただけでございます」
内親王の白い頬に紅梅の色が映り、紅をさしたようである。
「おお、参られておられたか。これ、妹よ。小野殿を独り占めするとは何事じゃ。母上がお待ち申されていると言うのに」
業良親王が邸の奥から大声を出しながら現れると内親王は、まぁと呟いて袖で顔を覆った。
「親王さま。いかがお過ごしでいらっしゃいましたか」
「小野殿。堅苦しい挨拶は抜きにして、さあさあお上がり下さい」
そう言って篁を上げると顔を隠している内親王に悪戯っぽく、
「妹よ。小野殿は貰って行くぞ」
と語りかけた。
「いやなお兄さま」
内親王は頬を膨らませたが、二人の姿が消えると慌てて後を追った。
高津内親王は篁がやってくるたびに薄皮を剥くように明るくなっていった。篁は篁でひっそりと暮らしているこの親子たちに羨望に似た気持ちを抱いていた。自分の家が誠実な嘘に固められたものだとしたらこの家族は温かみに満ちた真実の家族だった。岑守も育ての母も篁を可愛がってくれたがこの家族のように
「太上帝からの文でございます」
高津親王は受け取ると、自分で読み始めた。以前のように太上帝を罵る事もなく黙って文を畳むと、
「あのお方の字はいつも美しいこと」
と懐かしむように呟いた。
「昔は文の遣り取りをなさられていたのですか?」
業良親王の問いにふと華やかな顔になり、
「ええ、昔は・・・」
と答えた高津内親王だったが、ふと表情を直すと、
「文を返さねばなりませぬね。いつも頂いた
と誰にともなく言った。
「そうなされば宜しいでしょう」
業良親王は優しい声で言うと母の傍らに寄った。
「わたくしたちも文を差し上げて宜しいのでしょうか」
業子内親王が若やいだ声をあげた。
「そうなされませ。私が確かにお届け申し上げます」
篁の言葉に三人が頷いた。
翌日再び訪れた篁を太上帝は不審げな眼でじろりと見遣ると、
「いかが致したのじゃ。苦情でも預って来たか」
「いえ、別の預かり物がございまして」
そう言うと篁は袖から三通の文を出し恭しく太上帝に差し出した。
「文か・・・」
呟くと手に取り、一通ずつ目を通し始めた太上帝はやがて頼りなげな表情を浮かべ始め、最後の業子内親王の文を読む時には
「手間をかけたの・・・」
弱弱しい声で篁に言った太上帝に
「一つ、お願いがございます」
と篁は切り出したのだった。
その事があってひと月の後、家の者たちで警固を固めた高津内親王の一行を篁が先導して
「まことでございますか?」
篁が太上帝を訪れた足で再び高津内親王の邸を訪れ告げた時、業良親王は驚きの声を上げ、業子内親王は喜びに満ちた目で篁を見た。母内親王は子供たちと篁の顔を交互に見ながら、一抹の不安を面に湛えて瞬きもしない。
「決して外に出ぬ事が
男親王の問いに
「年に一度、近い所で、人目につかぬようにという事が条件ではございますが・・・」
篁は
「そのうちもう少し遠い所へお連れする事もできましょう」
と付け加えた
「大丈夫でしょうか。人目につけばまたお叱りをうけないとも・・・」
高津内親王は篁に縋りつかんばかりの様子で尋ねた。
「御安心なさいません。道々はわたくしの家の郎党に守らせますし、行き先には人を入れないように致しますから。では、その日お迎えに参ります。小さな宴を催しますので、楽しみになされませ」
そう言った篁に業良親王が熱を帯びた目を向けた。
「本当に外に出て宜しいのですね。まことに・・・」
優しく頷くと、篁は袖で涙を拭っている業子内親王に
「皆さまでいらっしゃるがよい。美しい所でございますゆえ」
と声を掛けたのだった。
その日用意した
「なんて見事な・・・」
と眼を瞠った。ならば普段は
高津内親王は静かに手を合わせ拝むと
小野郷は内親王一家の邸から半刻ほどで到着するごく近い所であった。その一角、洛北の山々を眺める広い野に
一行が着いた時は日が昇ってだいぶ暖かくなっていた。
「おお」
と胸一杯に空気を吸い込みながら立ちどまった。
「お兄さま、早く下りてくださいませ。母上が降りられぬではないですか」
屋形の中から苦情の声がする。
「妹よ。つれないことを言うな。十七年来の外の空気じゃ」
そう言って日に向かって遥拝をすると親王は榻から降りた。高津内親王と業子内親王が続けて降り立ち、
「まあ、なんて美しい」
「お母さま、みどりが溢れんとしてございますね」
とそれぞれに華やいだ声を上げた。野には白や黄の小さな花たちが眠りから目を覚ましたばかりのように咲きそめていて、業子内親王は駆け寄ると一心に花を摘み始めた。そんな妹の様子を優しげに見守りながら親王は篁を降り向いた。
「小野殿、いつかはこのような事があればと願っておりましたが叶わぬ物と諦めておりました。母と妹と・・・」
感極まったのか言葉が続かない。
「さ、幕の中に。内親王様はわたくしが見ておりますから」
袖で目を押えている親王と母内親王をを幕の中に通す。そこには宴のための膳が設えてあった。二人はそれを見て嬉しそうに腰を下すと親子で語り合い始めた。
業子内親王は幕の外で花を手に一杯に摘んでいた。子供のころに一家で野で花を摘むと言うような事がなかったのであろう。
「母上は・・・」
「幕の中で内親王様をお待ちですよ」
「まぁ」
小さく呟いて立ち尽くしている内親王に
「さあ、あそこの流れで手を御洗い下さい。花はわたくしがお持ちしていますから」
そう言った篁におずおずと握りしめた花を渡す白い手が眩しかった。
岸のほとりには蘆の若芽が吹いていた。手を丁寧に洗っている内親王の後ろに控え、篁は幼い頃の自分の事を思い出していた。確かここには一度父母と一緒に来た事がある。あれはまだ四つか五つの頃だったのだろう。やはり花や蕨を摘んで手を汚した篁はこんな風にして手を洗ったような気がする。そんな思い出に耽っていた篁の眼前で手を洗い終えた内親王が立ち眩んだのか、あっと声を上げた。慌てて篁は内親王を後ろから抱きかかえた。手にした花は篁の手を離れ、幾許かは岸の上に落ちたが大半は水の上に散った。抱きかかえた内親王の体は強張って、そして少し震えた。
「花が・・・」
脈を打つように流れる水面に持ち去られて行く白や黄色の花を見遣りながら内親王は呟いた。
岸に落ちた花の残りを拾い集め妹内親王と連れ立って幕の中へ入ると母と楽しそうに話していた親王は内親王が手にした花を見て、
「おや、時間がかかったわりに少ないね」
と尋ねた。
「手を洗っている時に流してしまいました」
恥ずかしげに答えた妹に
「それは残念だった。そういえばあそこを花が流れていくのを見たような気がするが、あれはお前が流したものだったのだね」
川の方を指さしつつ親王は妹の様子を興味深げに眺めていた。
「さあ、膳を参られませ」
そう言った篁の声に親王はようやく妹から視線を外すと
「楽しみですね」
手を叩いた篁の合図に内親王家の供の者たちは次々と酒や料理を運び込んできた。
暫くすると少し酒に酔ったのか、親王は篁に
「小野殿はたいそう詩ややまと歌がお上手との事でございますね。いかがでしょうか、ひとつ。ここに筆と墨もございます」
そういうと川の流れに目を遣った。
「さて、」
と篁は考え込むと筆を執り
「
と一挙に書き上げた。
「素晴らしい手でいらっしゃいますね」
高津内親王が感嘆したような声を上げた。
「あのお方もお上手でした。あなたの字はあのお方によく似ておりますね」
篁は心を集中させるように眼を空の一点に据えた。あの時内親王の足もとで天に手を伸ばしていた早蕨や川岸の蘆の若芽を二人に例えたのだが・・・。親王の言葉は篁の心を乱した。
「どうやら杯が流れて行ってしまったようです」
次にどのような詩句が書かれるのかと篁の筆先を見守っていた兄妹はそう言いながら篁が筆を
「ここの流れはたいそう早うございますからね」
高津内親王が滔々と流れる川を見遣ると、花はもう見えなかった。
「
静かに言った内親王に、親王はほほ笑んで頷いた。
「この詩を」
業子内親王がおずおずと篁を見上げて尋ねた。
「戴いてもよろしいでしょうか。今日の思い出に大切に取っておきたいのです」
「宜しければ」
篁が差し出した紙が春風にはたはたとたなびいた。
二刻半もそんな風にして過ごしただろうか、日が傾き川を渡る風が強まった頃、名残惜しそうに一家は席を立ち家路へと戻って行った。取り残された幔幕は吹く風に膨らみ凋み、やがて落日に染まって、
その年の秋、突然冷然院に呼ばれた篁は翌日方違えと称して一日家に籠っていたが、次の日聊か重い心を抱いて高津内親王の邸へと向かった。十日前に訪れたばかりである。日を置かずして訪れたら何か良からぬ事でもあったのかと余計な心配をするかもしれない。
一昨日、太上帝は前日に建礼門での観覧で競った
「大納言どの、一番とってみなされ」
と言った。一人の剽軽な相撲人が、おお、と進み出たので三守は困ったような顔で主上と傍に控えている義理の息子を仰ぎ見ている。太上帝はそんな三守を見て大笑いしていたが、ふと篁を待たせている事を思い出したらしく、
「篁」
と呼びつけるとその耳にある事を囁いた。
「相手の御方は・・・」
篁の問いに
「柏原帝の親王の姫じゃ。ある事で父親王が罪を得ての、配流先で薨じられた。そちも承知しておろう?」
そう小声で答えてから、
「あれももう随分と前に成人しておる。不憫に思っての。相手も同い年じゃ。この姫も逼塞しておっての。きちんと話を通しておる。親王の姿の事もな」
そう言うと、いつもの癖か篁の方に首を伸ばして
「なんじゃ。その顔は。不満か」
とぎょろりと目を剥いた。
「いえ、お気遣い痛み入りますが・・・」
と篁は目を伏せた。太上帝はどうやら父親としての義務を十七年ぶりに思い出したらしい、その事は良い事だ。
「が・・・なんじゃ」
「いえ、何でもございませぬ」
「なら、早く行って伝えてやれ」
「わかりました」
「もう行ってよいぞ・・・大納言どの。ご老人。その一番大きい者の腹を触って見なされ。ぷよぷよして気持ちが良いぞ」
太上帝の大声に相撲人たちがどっと湧いた。
馬上で篁は考えている。あの日陰に咲いた花のような慎ましい一家はそのままひっそりと咲かせておいた方が良いのではないか。そこに一人新しい人が加わる事によってあの睦まじい家族たちに亀裂が生まれはしないだろうか。そんな思いが馬にも伝わったのか、いつもより邸に到着するのに時間がかかった。短い間の二度目の訪問に、不審げに眉を上げて中に通した警固の者が訪ないを告げると親王が篁を出迎えた。
「いかがなされたのですか」
篁は目を伏せたまま、母内親王様と親王さまにお伝えしたいことがございます、と答えた。
高津内親王と業良親王は篁の話を聞き終えると黙ったまま目を見合わせた。
「もし、お気に染まぬならわたくしから太上帝にそのように申し上げましょう」
そう言った篁を内親王が心配げに見遣った。
「そのようなことを申し上げたら、あなたがどのようなお叱りをお受けになるやら」
呟いた内親王だったがそれ以上は何も言わずに息子を見守っている。その業良親王は暫く考えると、
「母上、お話をお受けいたしましょう。太上帝がわざわざわたくしのために決められたお方でございます。わたくしの事を知ったうえでそれでも嫁ぐと言って下されたのでございましょう?わたくしが拒めばその御方にどのような事がおきるかわからぬではございませぬか」
自分の秘密がその娘に知られた事でその娘に何か悪いことがありはすまいかと心配しているのだ。
「では小野どの。確かに有難く承りましたとお伝え下され」
と頭を下げた。畏まりました、では日取も太上帝の仰せの通りで、と言うと篁は立ち上がった。
「今日はこのまま御帰りですか」
高津内親王の言葉の抑揚は篁を引きとめたい気持ちに溢れていた。
「ええ、太上帝には、なるべく早くお伝え申し上げた方が宜しいでしょう」
「そうでしょうな」
業良親王が篁の肩を持った。
「妹にも話をせねばなりますぬよ、母上。さあ、小野殿。ここは私にお任せください」
頷いて立った篁が、席を立ち戸を出ると、冷えた空気の中にあの春の日水に落ちかけた体から漂ってきた香りが仄かに混じっていた。ふと篁は首を傾げた。女親王は話を聞いていたのだろうか?まさか女親王が自分を一目見たいとそこにいたことなど篁には思いもつかなかった。
戸の向こうでは母と息子が密やかに話し続けている声がする。
年が明けた。例年なら
前年の夏、義父に言われ京の三条の土地を手に入れ独り立ちした篁であったが政治感覚に鋭い義父は叙任を予感して邸を構える事を勧めたのだろう。あまり蓄えに関心のなかった篁であったから、費用の大半は義父が出してくれた。これでは到底独り立ちとは言えないな、と篁が呟くと妻は、御父様はそれが嬉しいようでございますよ、と答えた。
その月の
篁自身は内宴の翌日に執り行われた業良親王の結婚の儀式の準備に追われていた。入婿ではなく、姫の方が業良親王の家に入ると言う形である。調度は太上帝がすべて用意していた。
嫁いできた娘は落ち着いた慎み深い人となりのようで篁はほっとしていた。色白のふくよかな姫で、挙措にしっとりした趣があり、これであれば内親王家にも馴染んで行きそうな気がする。ただ妹の業子内親王が心配であった。今まで兄を独占してきただけに嫁いできた姫に対して複雑な思いがあるだろうと、時おり篁は妹内親王に方に目を配ったが内親王はいつもと変わりなく、夫となる親王よりむしろ熱心に姉となる人に話しかけたり微笑んだりしていた。
文字通りの輿入れが済むと花嫁を乗せてきた輿を率いて帰ろうとしていた篁のところへ親王がやって来た。
「小野殿。これからも邸に参ってくれましょうな」
心配げに見つめる親王に、
「はい、その積りですが」
と篁は応えた。
「ではあの春の出歩きもして頂けるか・・・今度は妻も一緒に」
「もちろんでございます。どこか場所を考えておきましょう」
「いや」
親王は首を振った。
「去年と同じ所でいいのだ。あそこはたいそう美しかった。妻にも見せてやりたい」
「そうでございますか。その方が楽ではございますが」
「うむ、頼んだぞ」
初めて出会った時、どこか人生を諦めていたように見えた親王に力強い心が備わってきた様子が篁の眼に眩しく映った。
翌年の小野郷行きは去年にもまして日に恵まれ、朝からうららかな日和で風もなかった。業子内親王は着くなり、
「お姉さま、花を摘みませぬか」
と姉となった人を誘い、二人で楽し気に花を摘む姿を篁と親王は並んで眺めていた。
「幸せな風景です。こんな日が私たち一家に訪れるとは思っていなかった」
幸せでいいのだと篁は思った。この一家が政治的に
「みな、小野殿のお蔭です。そんな貴殿にもう一ついらぬ荷を背負わせるようで申し訳ないのだが・・・」
言い難そうに親王は篁をちらりと見遣ると言葉を切った。
「何でございましょう」
「うむ・・・妹がな。貴殿を慕っておるようなのだ」
「わたくしを?」
篁は目を見開いた。
「さような事は・・・」
「あれは小野殿から去年頂いた詩を大切に仕舞っておって、時折それを見ながらぼんやりとしている」
「ですが・・・」
私は内親王様と血が繋がっているのです、と心の裡で密かに呟いた。しかし例え妹であっても腹が違えば一緒になることが出来るのがこの時代の習わしである。そもそも妹だなどと口が裂けても言う事は出来ない。口籠った篁に親王は情理を説くように言った。
「わたくしが男だから太上帝は相手の世話をして下さったのでしょう。妹にはそのような事をお考えくだされはしないでしょう」
篁は頷いた。内親王が嫁いだなら親王似の顔立ちの子を産んでしまう事があるかもしれない。太上帝が高津内親王の家族をこの邸の
「こんな事をお願いするのは気が重いのですが、せめて時おり邸でお会いして頂けぬかと。なに・・・」
頬を染めて親王は言った。
「お会いして頂けるだけで宜しいのだ。それだけで妹は幸せでございましょう」
篁は曖昧に頷いた。色恋に疎いという積りはないが今まで本気で愛したのは亡くなった義妹と今の妻だけである。
親王の言わんとしている事は理解できる。もし自分が京を離れる事があれば業子内親王は兄以外の若い男を見る事さえないかもしれない。自分に恋をしたというより、恋をする最後の機会を本能的に悟ったのだろう。そう思った。
親王が妻を迎えて妹を遠ざけようとしているとは思えないが、思ったより夫婦の間柄がしっくりしているのを篁は感じている。
「では、できるだけそうしましょう」
そう答えつつ、どこか危ういひりひりとした感覚が残った。そんな篁の気を知ってか知らぬか、親王は安堵したように空を見上げ、
「
と言うと、花を懸命に摘んでいる妻の方へ歩いて行った。
「兄と何をお話しされていたのですか?」
腰を降ろして睦まじげに話し始めた夫婦を眺めていた篁の後ろから声がした。
「おや、だいぶ摘みましたね。立派な花冠が作れそうだ」
問いには答えず篁は内親王の持っていた籠に目を遣った。
「ええ、でも・・・」
ちらりと談笑している夫婦を見遣ると、
「もう兄にはお姉さまがいらっしゃいますから・・・母に豪華なものを作って差し上げる積りですけど」
「あなたたちを見ていますと古の奈良の都はこんな風であったのかなと思えます」
「まあ、私たちはそのように
内親王は軽く篁を睨むようにしてから微笑んだ。
「小野様にも作って差し上げましょう」
「花冠ですか。私には似合いませぬ」
「そのようなことはございませぬよ。作って差し上げますわ」
手にした花を見詰めると、
「お兄さまは私の事を心配なされておられるのでしょう?自分には妻がいらっしゃるのに、と」
「優しい御方ですからね。気になさっているかも知れません」
「小野様だって・・・お姉さまがやって来られた日、私の事を心配げに何度も見ておられたではないですか」
「そうでしたか?」
「そうでございました。気を回されすぎでございますよ」
そう言うと、内親王は溜息をついた。手の花がそよぐ。
「わたくしは本当に喜んでおります。兄が結婚してお姉さまができたことを。でも小野さまだけではなくお母さまもお兄さまもなんだか変な気遣いをなされて」
「肉親と言う者はそういうものですよ」
諭すように言った篁をちらりと見上げると、
「でも小野様はわたくしの肉親ではございませぬではございませぬか」
と切なげに答えた。
「そうですね。ですが・・・畏れ多いですが、あなたの年の離れた兄のような心持でございますから」
「兄・・・ですか。畏れ多くなどございませぬわ。こんな風に棄てられた家など」
ぷっと頬を膨らませ母のいる幕の中へと消えて行った内親王の後姿を微笑ましげに見送ると篁は空を仰いだ。こんな日は小春も天で遊んでいるのだろうか。
河原で芋粥や餅を食べ、男たちや高津内親王が酒を嗜んでいると親王の新妻と妹内親王が編んだ花冠を入れた籠を手に入ってきた。業子内親王は花を細かく編み込んだ冠を母親の頭に飾った。
「少し重いわね」
と言いつつ、母親王は嬉しそうに手で直している。
「はい、お兄さま。お姉さまはとってもお上手ですわ」
花冠を
「そして、お姉さま。これはお兄さまが作ったもの」
少し歪んだ花冠を手際よく整えて義姉の頭に飾ると、
「これはわたくしから」
と言うと、長い花環を新妻の首に掛ける。
「それから、小野様に・・・」
「わたくしにですか?」
篁は
「そうですよ。年の離れたお兄さまに」
「喜んで戴きましょう」
おお、と親王が声を上げる中、内親王は篁の烏帽子に冠を載せた。内親王の柔らかな腕が頬に触れ篁は背中を固くした。
「妹よ。お前のものがないな」
親王の問いに、
「ええ、花を皆使い切ってしまいました」
残念そうにそう答えた内親王に親王は自分の冠を外すと、
「では、わたくしのものを賜ぶこととしよう。小野殿、かけてやってはくれまいか」
そう言って手渡された冠を篁は、では、と受け取り内親王の頭に載せた。
「よく似合っておる」
手を打った親王に皆が和した。妹内親王は恥ずかしげに頬を染めていたが、やがてその両の眼から涙がぽつりと滴った。
「いかがしたのだ」
親王が慌てたように立ち上がった。
「申し訳ございません。わたくし・・・幸せで、幸せで。こんな思いをした事がないから」
妹を優しく抱き寄せて立ち尽くす親王を見て高津内親王も親王の妻も目頭を拭っている。
それ以降内親王家を訪れると、篁は業子内親王と庭を二人で眺めたり貝合わせをしたりするようした。庭を眺めながら夢に見た地獄の話をしたりもした。内親王は善財の話が殊更に好きで、
「もう一度、割られたら四体になられるのでございましょうか。その方がもっとご活躍出来ましょうに」
などと物騒な事を言って篁を困らせた。
「早良親王と仰られる方は本当に悔しゅうておられたのでございましょう。信頼していたお兄様に裏切られたのでございますから」
「そうでございましょうね。かほどの祟りをなされるからには恐らく無実だったのでしょうから」
篁が答えると内親王は首を傾げて、
「柏原の帝はどうして親王さまに皇太弟を退いて頂くようにお願いなさらなかったのでしょうか」
と尋ねた。
「
篁が答えると、内親王は悲しそうに首を振った。
「男の方々は、なぜそのように争うのでしょうね。家族の間と言うのに」
「そうですね。きっと自分や自らの血筋が国を治めたほうが良い世の中を作れると思うのでしょう」
「でもそれは間違っておられます」
業子親王は間髪を措かず言い切った。
「人を欺いて恨みを残すような方が良い世を作れるはずがございませぬ。小野様はそのようにはお考えにならないでしょう?」
「どうでしょうか」
世の中はそう簡単にはいかぬのだ、と思いつつ篁は答えた。もし聖人君子だけがいるのなら政はいとも容易く、この世は徳に満ちているだろう。だがそうでないからこそ、人は律しなければならぬ。法を作るのは人間が愚かだからだ。だが愚かな人々は法があったとしてもいかにしてそれから逃れられるかを考え、時には律する立場にありながら法の趣旨を
「年寄りが書いてもな。これを若い者たちがきちんと広めて貰わねばならぬ。だから序はお前がお書き」
畏れ多いと思いつつ篁は
「小野様」
ふっと気づくと内親王の顔が間近にあった。
「何をお考えでいらっしゃるのですか。お仕事の事でございますか」
不満げな内親王の表情に
「いや、仕事の事もありますが・・ここで皆さまと過ごす事でずいぶんと心が落ち着くものだと思いまして、ついぼんやりと」
そう答えたのも篁の本心である。
「まあ、嬉しい」
内親王は華やかな声を上げた。
その
馬上で篁は呟いた。
「さぞかし緒継様は力を落としておられる事であろう」
父親の緒継が期待を持って厳しく育ててきた家雄である。篁自身は深い面識はないが、夏野は家雄を評して緒継から気難しさという
「お幾つであられたか。確か自分より二つか三つ若い筈」
篁が馬上でそう考えていた頃、同じ報せを京の邸で聞いた良房は沈痛な面持ちの陰で笑みを浮かべていた。
「すぐに弔の遣いをやるのだ」
家人を叱咤しつつ、内心では天は自分に味方をしてくれていると思っていた。良房に比べ家雄の昇進は目覚ましいと言うほどではない。しかし従兄弟に当たる今上帝が帝位についてから着実に位階をあげ今や蔵人頭に任じられている家雄は脅威であった。その年従四位上へと上がっていた家雄が次の参議となろうというのが大方の見方で、父冬嗣を既に喪っている良房にとって不利であったのだが・・・
「右大臣もさぞかし気落ちしておられようよ」
良房はそう呟くと面を正した。どういう訳か気質が自分とまるで異なる緒継を良房は嫌いではない。気難しい面倒な老人だが、へらへらしているだけの他の公卿たちよりは数等ましだと思っている。家雄の死を内心喜びつつも緒継を哀れに思う自分に良房は少し戸惑っていた。どちらが本当の自分かと聞かれれば、どちらもとしか答えられぬ。
その年の十一月、淳和帝は緒継を左大臣に夏野を右大臣に昇任させたが一月も立たぬうちに緒継が辞任を求める上表を提出した。
柏原帝に
それを次の若い帝の間近で見ていた良房は要職の者の致仕の申し出が若い帝にどれ程の圧迫感を与えるかを
前年からの
あくる年の二月右大臣清原夏野を筆頭とした公卿たちが殿上に侍し、令義解の校読が行われた。風邪気味の左大臣藤原緒継は
「いかがなされますか」
と尋ねてきた夏野に
「右大臣殿が長い間努めて来られたものだ。右大臣がなされればよかろう。私はあとで権中納言から話を聞いておく」
と咳の合間に答えた。
校読が終わると夏野は淳和帝に一人残るように言われた。皆が下がると淳和帝は夏野の手を取り、感に堪えぬような声で讃えた。
「よくぞ成し遂げてくれたな、夏野。先帝から引き継いだ格式は大納言が終えてくれ、日本紀はいずれ緒継が纏めてくれよう」
格式とは
「大納言と言えば、あのお方の婿のこと、ほれ先ほどまでそこにおったあの男・・・。そろそろそなたの言ったようになろう」
双丘の別荘で夏野が帝の耳に囁いたのは篁を東宮の世話係の一人に加える事であった。東宮の世話係を構成する東宮坊には御守り役の責任者である大夫を筆頭として亮、大進など数々の要職がある。房に属さぬ御守り役の傅と教育係の学士を加え将来の支配者である帝の養育をする態勢が敷かれている。ここで東宮に認められれば将来国を率いる有力者と成る可能性が高い。夏野自身も帝の春宮大進、春宮亮を経て現在の地位にいる。
「亮でございましょうか」
位階から考えると太夫はなかろうと考えつつ夏野は尋ねた。
「いや、学士に推しておいた」
なるほど教育係である学士は最適かも知れない。組織として動く
「
と帝は言ったのだった。
「それでは・・・」
傅も学士も変えるということはもしや新たな東宮を選ぼうとなされているのか、夏野は顔色を変えた。もしや自らも譲位なさろうと?仰ぎ見た夏野に小さく頷くと、
「位を譲られてあと二月で十年となる。十の数字は避けたいものだ。太上帝には内々にお伝えしてある。自分で言うのもなんだが、よくぞ十年ももったものだ。それもこれも夏野、お前のような良臣がいてくれたからだ」
「畏れ多い事でございます」
夏野は身を震わせつつ頭を下げた。
「朽ちた手綱で馬を駆り、とか、薄い氷を踏むような思いで、と昔の帝は言った。太上帝をはじめ先達の方々がどのような思いでそう仰っていたのか知らぬが、私にとってはまさに現実であった。いや、天翔ける馬に乗って天地を旅している思いであったよ」
静かに語る帝に夏野は身揺るぎもせず頭を下げ続けている。
「わたくし共の力が足りませぬゆえ」
かろうじて目を上げそう言った夏野に
「いや、臣たちは良くやってくれた。緒継、愛発、吉野、みな朕を能く助けてくれた」
そう言うと、帝は微笑を浮かべた。
「最後の楽しみは緒継にわしの方が先に辞めるといってやる事じゃよ。どのような顔をするか楽しみだ。最後の頼みだ。決して朕の楽しみを奪わないでくれ」
ははっ、と頭を下げた夏野だったが肝心の質問をすることは忘れなかった。
「では皇太子はどなたに?」
「もはや恒世はおらぬ。
道康親王は東宮の直系の子である。
「しかし道康親王では幼すぎではございませぬか」
「構わぬ。わしの子も同じような年じゃ。これ以上、政にかかわりとうないし、子供たちにも関わらせとうない。許されれば太上天皇も返上したいと考えておる」
「それは・・・」
「さすがに難しいかもしれぬな。それでは新しい帝がわしを逐ったように見えかねないからの」
帝は力無げに微笑むと、
「太上帝にもお伝えしてある。頷いておられたよ。傅、学士の事も良い考えだと仰っておられた。あのお方の仰ることならば新帝も拒まれまい」
と言ったのである。
そして九日の後、淳和帝は俄かに
だが、左大臣藤原緒継より泡を食ったのは他ならぬ譲位した淳和帝であった。
形通り、皇位をその日、翌日と辞した新帝は翌、
その数日前のことである。
東宮正良親王は嵯峨帝の命を拒めずに終わっていた。だが、それは傅や学士についてではない。東宮そのものに誰を立てるかであった。道康親王が
「では東宮は・・・?」
と尋ねたのである。
「恒貞親王が良かろう」
と聞いた時一瞬、父の言葉に耳を疑うかのように嵯峨帝を見詰めた正良親王の顔を母太皇太后が心配そうに眺めていた。
「知っての通り、本来恒世が朕を継ぐのが筋であったが諸般の経緯で先帝が後を継ぐことになったのだ。もしあの時恒世親王となったならばお前も帝となることがなかったろう。その事を考えれば今生帝の息を東宮にすることが万民の承服するあり方である。先帝の血筋、お前の血筋を糸のように縒り合せ共に力を合わせてこそ皇統が続いていくのだ。まして恒貞親王の母はお前の妹ではないか」
そう諭している嵯峨帝の頭には思いがある。自分や弟ならば、藤原南家・式家・北家や他の貴族を意のままに操り、必要であれば力を削ぎつつ忠誠を誓わせることが出来る。夏野のような優秀な血筋を登用して競わせることも可能であろう。しかし、このまま放置すれば・・・嵯峨帝は一人の男の顔を思い浮かべ、内心で呟いた。
「少し甘やかしすぎたかもしれぬ」
脳裏に浮かんだのは娘婿の顔である。律儀に娘以外の女を作ろうとしない良房の誠実さを評価しつつも嵯峨帝はその事さえあの男の打算のような気がしてきている。新帝では御することは難しいのではあるまいか。
緒継の息子が逝ってしまったのは惜しかった。緒継、夏野、愛発、三守・・・いずれも年を取りすぎている。ここで敢えて先帝の息子である恒貞親王を皇太子にする事によって息子と良房の間に楔を打ち、力の均衡を図っておかねば、と嵯峨帝は考えている。太皇太后が見兼ねて、
「されど、さきのみかど・・・」
と口を挟もうとしたのを煩そうに叱りつけ、
「傅は三守、学士は婿の小野篁にせよ。それ以外はお前の好きなものにするがよい」
と言うと席を立ったのであった。残された母子は互いに目を見合わせた。正良親王の握った拳は僅かに震えている。それを眼にした智嘉子は微かに震えを帯びた声で、
「いつかは・・・お前が思う通りにできる時が来ます。きっと」
息子を掻き抱くと、そう耳元に囁いたのだった。
淳和帝が嵯峨帝に会えたのは翌日の昼近くだった。左京二条二坊の冷然院に藤原吉野を供に入ってから半刻近く、先帝はじりじりとした思いで嵯峨帝の出御を待っていた。
「待たせたの」
嵯峨帝は何の前触もなく先帝の前に現れた。ひどく待たされたのも忘れ淳和帝は嵯峨帝に縋りつくようににじり寄った。その動きを制する様に柔らかく手を振ると、嵯峨帝は藤原吉野に目を止め、
「権中納言殿、二人きりで話がしたい。済まぬが控えていてくれるかな」
と声を掛けた。頭を下げ権中納言が退出すると、
「弟君よ」
嵯峨帝は久しぶりの呼び名で先帝を近くに招いた。
「東宮の事であろう?」
「さようでございます。兄君。私が恒貞を東宮にしたくないと言うのはご承知でございましょう」
「うむ」
と嵯峨帝は頷いた。
「ならば、なぜ?」
「弟よ。われらがおじいさまの事を知っておろう」
二人の祖父は
「あの時、道鏡と言う坊主が法皇となろうとしたことは知っておるな」
「はい・・・ですが」
「うむ。あれ以来、女帝は国を揺るがす事になりかねぬと
淳和帝は沈黙した。兄帝の言わんとする事は理解できる。近い歴史を鑑みれば浄御原帝と葛城帝の子同士の間の争いが国を揺るがす元になってきた。腹が違うとはいえ兄と弟が互いに皇位を縒り合わせていけばそのような隙も生まれないと兄は考えているのであろう。
だが自分たちはともかく子孫も同じように考えるであろうか。
それに新帝は若い。恒貞はこれから長い間誰を頼みとして行けばよいのか。悩ましげに頭を抱えた淳和帝の耳近くで嵯峨帝は囁いた。
「弟よ。恒貞親王はそなたと同じく慎み深く欲がない。そのような親王がわしのような
そういうと嵯峨帝は奉書紙に書かれた二通の書を手渡した。押し戴いた淳和帝はそれを読むと顔色を蒼白にした。
「これは・・・」
そこには万一、皇太子の命を奪わんとするものがあれば如何なる者であろうと自分の
「一通はお主が持っておくがよい・・・儂の
と笑った。
祟道天皇とは
「さて、儂は誰にこれを渡しておくことにするか・・・」
と呟いた。
「無沙汰をしておった。あの時以来だな」
春道が久しぶりに篁を尋ねて来たのは春遅くのある日であった。借りていた詩集を手に携え、礼の代わりに冬の間に作ったという干し大根を荷車に山ほど載せてきたのである。無沙汰と言っても宮中で出会う事はある。篁の家を訪れるのに間があったという事であり春道がこの家を訪れたのは従五位下に叙された先年春以来の事であった。その時の挨拶は
「まさか、貴族の仲間入りができるとは思ってもいなかったよ。お前のお蔭だ」
で、そう言って深々と頭を下げた春道に、
「何、お前の詩が先帝の御眼に留まったからだ」
と軽く否定した篁だったが、今度の挨拶と言えば
「まさか、お前が東宮学士になるとは思ってもいなかったよ」
だった。
まさか、の多い迂闊な男だと苦笑を浮かべた篁に、
「覚えておるか、以前俺が東宮から出世をすると言う手があると話した事を」
「ああ。お前に、俺には東宮の世話は無理だろうと言われた」
篁は憮然と答えた。
「そうそう、俺は今でもそう思っているが・・・」
笑って春道は手を叩いた。
「どうも勝手が良く分からん。教える事はできるが・・・」
篁は素直に打ち明けた。
「しかし出来が悪ければ
「その惧れがないとも言えないな」
「やはり、俺としては春宮に同情せざるを得ん。しかし、驚いたな。恒貞親王が皇太子になられるとはな」
「うむ」
驚いたのは先帝だけではなかった。左大臣・右大臣から公卿全てが驚き、陰に嵯峨帝がいると感付いて曖昧に首を振っていた。この状況をどう判断しどのように身を処して行くべきかを思い悩んでいたのである。
新帝は先ず良房を左近衛権少将に長良を左兵衛権介に任じた。いずれも武官である。武官の任官が叙位より先んじた事にも新帝の微妙な気持ちが垣間見える。次いで緒継・夏野・三守ら重臣を昇任させ、三守を東宮傅に、篁と
「しかし良いのかな?」
春道は首を傾げる。
「ん、何がだ」
「いや、新帝のお気持ちさ。皆、東宮の選任は嵯峨帝の差し金と噂している」
春道の言葉に篁は文机の上の包みにちらりと目を遣った。
「なんだ、それは?」
春道は篁の視線の先にある油紙に包まれた物を見て尋ねた。
「うむ、預りものだ」
「ほう」
それは篁が嵯峨帝の所に恒例の高津内親王への料を受け取りに行った時に別に預かった物である。嵯峨帝が人をさげ
「万が一な」
と秘密めかして顔を近づけて来たのに篁は気が滅入った。この御方が顔を近づけて来る時は碌な事が起こらないような気がする。
「もし後太上帝がわしより先に亡くなられたなら、わしが死んだときにその包みを正良に必ず渡してくれ。いや・・・万一、皇太子の身が危うくなった時で良い。必ず直に手渡す事じゃ」
「それは・・・」
疎ましく思ったにも拘らずこちらから顔を近づけ篁は尋ねた。
「うむ、まあ」
太上帝はつと顔を遠ざけると、
「そのような事はないと思うが・・・しかし万一の事が起こったなら弟に顔向けができぬでな」
悩ましげに遠くを見つめると、
「このようなこと、お主にしか頼めぬのじゃ」
と太い吐息をついたのだった。その時の嵯峨帝の切なげな顔が忘れられない。あのお方は自分の息子さえ信じ切れておられぬのだ。
「どうしたのだ、篁?」
春道の声に我に返ると、篁は顔を撫で、
「思ったより忙しい」
と、らしからぬ弱音を吐いた。春道は、はははと声高に
「お主からそのような言葉を聞くとは思わなかった。ざまを見ろ、といってやりたいな」
と笑ったが、
「ところでお主のところはどうだ。仲良くやっておるか」
そう篁に聞かれると、
「うむ、それがな、位を授けられてから半年ほどはだいぶ機嫌が良かったのだが・・・」
と細い体を縮めた。
「なかなか思ったような官につけなくてな。妻は京官ではなく、地方で稼げる
「ざまを見ろと言いたいところだな」
そう言い返してにやにやとしつつ顔を覗きこんできた篁に春道は弱り切ったような笑顔を見せた。
春道が訪れた数日後、ようやく時間を見つけ篁は高津内親王の邸へと赴いた。
「たいそう遅くなって申し訳ございません」
邸に入るなり篁は内親王に頭を下げた。
「東宮さまの学士になられたとのこと、お慶び申し上げますよ。お忙しいのでございましょう」
内親王は寿いでくれたがどこか浮かぬ顔をしているのはやはり東宮という言葉が心に引っ掛かりを覚えさせるのであろう。
「それに弾正台の
つい三日ばかり前に受けた任官をこの方はご存じなのだ、自分以外にも内裏に繋がりを持っておられるに相違ない。
「お忙しいのにわざわざいらして頂いて宜しいのでしょうか」
心配げに尋ねてきた親王に
「いえ、だからこそお邪魔させて頂き、心を洗いたいと」
そう答えた篁に親王の妻と業子内親王が目を見合わせて嬉しそうに笑った。母内親王も顔を和ませている。
新しい帝を迎え内裏はどこか浮足立っていた。
そんな中、篁は東宮が初めて「
「篁は詩も良うするのだな」
久しぶりの酒に頬を朱くしている篁に今上帝は言葉を掛けた。この年二十四になったばかりの帝の声は若々しい。
「杜甫、李白にも勝る詩を
「めっそうもございません」
「先帝が感心しておられた」
「恐懼に耐えませぬ」
「白氏を存じておると言うではないか」
帝の口から意外な詩人の名が出て来たので思わず篁は目を上げた。
若い帝はにこやかに篁を見詰めていた。新羅との間の正式な行き来こそ途絶えているが、
彼らが運んでくるものの中には本来取り締まられている書籍も時おり入っている。白氏の詩集そのものは入って来ないが幾つかの詩が引用の形で伝わって来て、その名は次第に知られつつあった。この四年後、太宰少弐であった
「白氏の詩はそれまでの詩とどこが違うのかの?」
「さよう・・・・。詩は元来景を五言七言に凝縮するものでございますが白氏の詩は景を広げる趣がございます」
白居易の詩が政を風刺していることが多いとは敢えて帝に告げなかった。帝は莞爾とすると、
「なるほどな、白氏はまだ御存命とか」
と言葉を継いだ。
「さように聞いております」
「そのような御方とお会いしたいものだな」
「は」
頭を下げた篁を奇妙な微笑を浮かべて見ていた新帝は
「よう励めよ。東宮をよろしく頼んだぞ」
と言うと次に善縄を手で招いたのであった。
養老律令に「凡学生先讀経文通熟、
本来、篁はわがままで移り気な子供が苦手である。だが、恒貞親王に限って言えばそのどちらでもない。それに歳が行って謹厳な善縄には見せる事のない甘えた素振りをなぜか篁にだけふと見せるのが愛おしい。同僚にあれほど恐れられる自分であるのに、と考えると妙にくすぐったい気持ちになる。
そんな或る日、休みの次の朝、恒貞親王が幼い顔に僅かに屈託を見せて講義に出てきた。いつものような覇気もなく、たびたび読み違えたり読み飛ばしたりする。
「どうなされたのです、親王さま」
講義を短めに終えると篁は親王に尋ねた。
「え?」
目を上げた親王はあどけなく答えた。
「心ここにあらずというご様子ですよ。そんな事では「老子」の講義で叱られてしまいますよ」
春澄善縄は授業に身が入らないような学生に厳しい。
「昨日、父帝にお会いしたのだ」
親王は小声で答えた。
「暇を申した時、父帝はわたしを抱き締めて泣かれた。不憫な子よ、とな。篁、どういう事じゃ。やはり帝は道康を皇位につけられたいのであろうか。父は私の身を案じておられるのであろうか」
篁は静かに親王の手を取った。
「ご心配なされるな。これは先太上帝も関わってお決めになられた事。大丈夫でございますよ」
「伯父さまがか・・。だが畏れ多いことだが伯父さまと
憂鬱な顔で
「わたしはなりたくて皇太子になったのではない。望まれているのでなければ道康に譲ってしまいたい」
嵯峨帝は罪作りな御方よ、と思いつつ篁は小さな手を握り締めた。
「では、私心の無いことを常にお示しになられませ。そうすれば帝も理に合わぬ事はなさいますまい」
「私心の無いことを示すとは、どうすれば良いのじゃ」
篁はそっと親王を抱き寄せるとその耳に何事かを囁いた。幾度か頷いていた親王は
「分かった。ではいざとなればそうしよう」
と愁眉を開くと、
「その時は篁がわたしを助けてくれるか」
と正面から篁の顔を覗くようにして尋ねた。
「もちろんでございます。もし私がその時におらねば、春澄殿に御頼みになられませ。ただ・・・」
「ただ・・・何じゃ」
「東宮坊の方々には申されますな」
「なぜじゃ?」
篁は一瞬答えに詰まったが、噛んで含めるような口調で諭した。
「東宮坊の方々はそれなりにお立場と言うものがございます」
親王に囁いたのはいざいうときは自ら皇太子を辞するが良いと言う事である。辞することが出来ればそれはそれでよい。辞することが叶わなくても自らに私心がないことを示すことが出来る。だが東宮坊に務めている官人たちには恒貞親王が次の帝にしてその繋がりを以て自らの地位を上げようとする野心がある。今上帝が東宮の時に東宮坊に強い影響力を持っていた良房がこの親王が東宮に座ってからというものの一切手を引いてしまったのが不気味である。
「わかった、篁よ。そなただけが頼りじゃ。これからも色々教えておくれ」
恒貞親王は利発そうな眼に戻るとそう答えたのであった。
数日後、篁は春澄善縄を自分の邸に招き東宮の思いを打ち明けて協力を頼んだ。善縄は話を聞き終えると、
「さような心配はないように思いますが・・・」
と宙に目を彷徨わせたが、
「だが皇太子さまはまだまだ幼い。帝もお若くていらっしゃる」
と呟いた。篁は声を押し殺して続けた。
「他戸親王、早良親王、伊予親王、こうした例には必ずどなたかが別の親王を位につけたいという思惑があるのでございます。今もそういうお方がおられますので」
「道康親王でございますな。確かにそう言われれば惧れがないとは言えない。道康親王ご自身とは思えませぬがな」
善縄は思慮深そうな眼を篁に向けると、
「宜しいでしょう。東宮坊の方々に秘密にしたいと言うお考えも分かります。事があれば力をお貸ししましょう。
柔らかな笑みを浮かべながらそう答えたのであった。
この人のためにも・・・そんな日が来ない方が望ましい。政治には殊更縁の薄そうな、恬淡とした同僚の帰る後姿を見ながら篁は目を瞑った。
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