第2話 冥土往還
「ようやく元気を取り戻したようだな」
篁が首だけを曲げ、声のした方を振り向くと学友である
「うん?何のことだ」
そっけなく答えると、学友は
「ここのところ、妙に暗い顔をしておったではないか」
と覗き込むような眼をしてきた。
「そうか・・・」
見抜かれていたか、と篁は内心苦笑いを浮かべる。乙訓寺から戻ってきてから暫く篁は思い悩んでいた。どうやら自分が岑守の実子でないのは確かなようだ。あの夜の父の沈黙もそれを裏付けているように思える。だが、岑守が実の父以上に篁を
それよりも驚いたのは母のことである。弟の
実の母が己を地獄に招いたのは小春を救う為だけではないのではないかとも思え、暫くの間、考えた。現実を知ることで自分がどうするのかを実の母に確かめられているかのように思ったからである。考えあぐねた末にすっぱりと、全てなかった事にすると思い切ったのである。
「暗い顔はお前には似合わぬよ。この秀才が。凡才である俺が暗い顔をしていると言うならわかるが」
大学でめきめきと頭角を現し、僅か二年で文章生となった篁に比べ春道はだいぶ勉学で苦労している。
「何かあったのか?」
勘の良い凡才は遠慮なく尋ねてくる。
「いや、大したことではない」
風もなく陽だまりには梅の花が咲き始め、めじろやひよどりが花を
「なんだ、みずくさいな。お前でも悩むことがあるなら愚痴でも聞いてやるかと思っていたのに。たまには俺にそんな優越感を味あわせてくれてもよかろうが」
春道は冗談交じりに語り掛けてくる。
「悩む暇などない・・・。
「ほう、後には何と続ける?」
問いかけた春道に対し、 篁は暫く黙って歩を進めていたが、
「
「ははは、酒というか。どうだ久しぶりに」
春道は屈託無げに篁を誘った。
「よかろう」
この気持ちのいい男と飲んだら微かに残っている己の屈託も晴れようと篁の心は動いた。文章生の試験にこそ失敗しているが春道の詩には余人にない花があり、名前の通り今歩んでいる春の道のような
そんなこともあって、その夕、篁は春道の家で残り物の干魚を酒菜に酒を飲んでいた。
「すまんな。たいした物がなくて。まあこのような家だからな」
風が時おり隙間から吹きこんで来るあばら家の中を見渡して春道が苦笑いをする。
「いや、父の家に招ければ良いのだが・・・。いろいろと有ってな。今度は俺の
篁がぼそりと答えた。
「なに、今を時めく参議様の家などに行ったら肩が凝る。俺なんぞ不良扱いでお主とつきあっては困るなどと言われかねない」
「父はそんな事は言わぬ」
篁の声音はしごく真面目であった。
「ははは、そう真剣に取るな。ところで最初は何の役目を拝するつもりだ」
「
「お主がか?似合わぬの・・・。うん、いや、似合いか」
春道は目を泳がせた。
「どういう意味だ?」
「どっちだ。似合いの方か、似合わぬほうか?」
「どっちもだ」
一緒に大学にいた時のような気さくな調子で二人は話している。
「似合わぬと言うのはの、お主は文章の道に進むのかと思ったのよ。しかし文章を極めてもなぁ、出世は多寡が知れている。
そういうと言い差した春道に篁は眼を上げて問うた。
「しかし、いかに優秀なお主でも東宮を教育する係りはやめた方が良い。それでは東宮さまが余りに可哀想だ」
ははは、と屈託なく笑う春道につい、篁も頷いて苦笑した。
「で、似合うと言うほうは?」
「まあ、おぬしは正義の士だからの。弾正台は似合いというところだ。ところで
「いや。今は京と畿内だけだ」
「そうか」
春道はあごに手を当てて何やら考え込んでいる。
「どうしたのだ?」
篁が尋ねると春道は言うべきか言わざるべきか迷ったように再び眼を彷徨わせると小声で
「いや、俺は今は暇だからな。時間がある時にいろいろと諸国を回って見たりするのだがこれがだいぶひどい。殊に西国はひどいな。収八免二というが、取れ高はとても八には及んでおらぬ。種籾まで喰らってしまうような悲惨な状況だ。国司・郡司の取り立てはきつい。それでいて天災を理由に公には納めようとせぬ」
収八二免というのはみなし課税のような物でどんなに不作でもとにかく課税額の八割は完納せよと言うものである。以前は不三得七といって国司が取れ高に応じて免税するという仕組みもあったのだが不心得な国司がいて民から九をせしめて内には七と報告するような事があり財政の逼迫と農民の不満を同時招いたために仕組みを変えたのだ。
「そうなのか?」
篁は鋭い眼で春道を見た。
先の帝である奈良帝の時には不三得七に戻すと共に地方に観察使を置いて引き締めを図ったが、民は喜んだものの、中央・地方を問わず官吏の不評を買った。観察使が自分たちの利益を削るからである。律令というものは清廉な官吏を前提としており、それが機能すれば国家の維持と民衆の安寧が両立しうる。しかし官吏が自分の蓄財に励み始めた途端、国家と民衆が対立し国家は収奪の存在でしかなくなる。
「良いことを聞いた。お主・・・無駄に旅をしている訳ではなさそうだな」
「とはいえ、俺もこの先を考えたら地方官になるしかあるまい。そうなると俺も向こう側に回るのだろうな」
憂鬱そうにそう言うと春道は魚の骨を地面へ吐き棄てた。
「お前はさような者にはならぬだろう」
「簡単に言うがな。俺が万が一国司の
首を竦めて寒さげな表情をした春道に、
「ならばまつりごとをおおもとから正しくするしかないな」
あっさりと言った篁を、何を寝ぼけた事を言っているんだという眼で春道は眺めてからため息を吐いた。
「お主、心がけは良いがな。しかし一生など短いぞ、その間にせずとも良い苦労をうることになるぞ」
巡察弾正の仕事は思ったより単調だった。仕事と言えば役人が規則通り京の町を清掃しているかどうか確かめるようなものばかりだ。弾正台というのは本来左大臣以下の
最高位の
「地方は国司を信頼して任せるのが筋じゃ。任せられない者となれば送り出した側に問題がある事になる。それに郡司の方が悪辣だとも聞く。律令の不足は
と言った。だが令外官は律令を補う趣旨であるものの、本来律令の中で解決するべき事柄に対し、時の権力が恣意的に対応する事を可能にする制度である。
それどころかその年、
「篁、お主はどう思っておるのだ」
尋ねられても答えもせずに黙々と酒を飲んでいる篁を同僚たちは薄気味悪そうに見ていた。結局その夜、酔いつぶれた篁を
その夜、
翌朝、勤めにやってきた貴族・官人が紫宸殿の前で
無悪善
の三文字があるのみである。惟良春道が通りかかった時には既に人だかりの山が出来ていた。
「さて、悪がなければ善かろうとは当たり前の事ではないか」
などと声高に言うものもあれば
「まさかさような当たり前の事を言うためにわざわざ内裏に木札を立てるようなものもおるまい。何やら裏があるに違いない」
というものもある。春道は構わず通り過ぎようとしたが目に入った字の形を見て思わず人を掻き分け木札の前に立った。字は
「なんだ、書いた者に覚えがあるのか」
木札を抜こうとしていた
「いえ」
そう答えつつも春道は暫く木札から目を離すことが出来なかった。木札が抜かれるとその足で春道は弾正台に向かって急いだ。篁は在席していた。春道の慌てた様子に篁が訝しげに眉を顰めたのを見て、春道は自分の推測が正しかったのか急に自信を失った。
「どうしたのだ。こんなところに」
「お主ではないのか?」
「む?何の事だ」
「紫宸殿の木札の事だ」
「そういえば、何やら人が集まっていたな」
篁は、そんな事かとでも言うようにもともと見ていた書類に目を戻した。
「お主の字であったぞ」
「木札がか?」
問うた篁は、顔を上げるでもなく相も変わらず書類に目を通しているばかりである。
「うむ」
「何とあったのだ」
「無悪善、と書かれていた」
じろり、と篁は春道を見た。
「ふん、そうか」
「何の事か分かるか?」
「想像はつく。が、そのような物は放っておけばよい」
「今一度聞くが、お主ではないのだな」
「違う。昨夜は飲みすぎて酔いつぶれておった。朝、目が覚めたら父の家におったわ」
「そうか」
春道は肩で息をついた。
「いずれにしろ心配をかけてすまぬな」
篁の言葉は春道の耳に暖かく響いた。
宮中では木札の噂でもちきりだった。警固の者たちを問い質しても木札を持ちこんだ者を見た兵はいなかった。書かれている三文字の意味を解する者はおらず、謎のままであった。やがてその噂は帝の耳にも入った。
「たいそう巧みな手で書かれていたと申すではないか」
帝が 尋ねた相手は
「さようでございます。しかし、宮中にあのようなものを立てるとは不届きな者でございますな」
「朕にも見せてみよ」
「いけませぬ。
「構わぬ」
運ばれてきた木札を眺めると、帝は
「このように大きなものを見咎められずに持ち運んでくるとは妖しの仕業かもしれぬな」
と軽口を叩いたが、木札の文字を覆っていた布が取り払われると急に口を真一文字に引き締めじっと見入った。
「いかがなされました」
三守が心配そうに帝に尋ねた。
「弾正台に小野と申す者が居る筈だ。参議の息子だ」
帝は静かに言った。
「その者を呼んで参れ。この三字の意味が分かるやもしれぬ」
篁は父に伴われてやってきた。拝謁の礼を終えると静かに座る。
「参議小野岑守の息、篁であるな」
「さようでございます」
「紫宸殿の前に木札が立てられたことは知っておるか」
「人づてに聞いております」
「そうか・・・あれを見よ」
帝が指さすと供の者が木札を捧げるように持ち上げた。
「無・悪・善」
文字を一つずつ読み上げると篁は無表情のまま帝を拝顔する。
「何と読み解く」
「悪無ければ善なり、で宜しゅうございましょう」
体を前のめりに傾けると帝は篁を睨んだ。
「さような下らぬ答えを聞いておるのではない」
「されば考えを申し上げますが、畏れ多い事でございます」
「構わぬ。どう読み解いたとて何かをする事はない」
「では申し上げましょう。その前に一つ申し上げておきたいことがございます。わたくしは以前地獄の夢を見た事がございます」
「ふむ」
帝は興味深げに体を傾けた。
「そこで出会った僧がわたくしに申しますには、地獄の火は穢れた魂を清浄するための火との事。この世に生を受けた人は穢れない姿で生まれても自ずと現世で悪に染まっていく物なのでございましょう。されば人の
「ん?」
帝は何を言いたいのだと篁の唇をじっと見た。
「帝におかれましては嵯峨野に領をお持ちになっております。とすれば悪は人の性(さが)、悪は嵯峨、即ち帝を指すと考えます。これは『嵯峨無くばよかりならまし』と読むのでございましょう」
「何だと」
頬を朱に染め憤怒の形相に変わった帝の前で篁は平然としていた。だが父親の岑守や傍にいた藤原三守の顔色は蒼白になっている。
「これは読み解いただけでございます。さきほど、帝ご自身がどのように読み解こうと構わぬと仰せになられたではございませぬか。仰せになられた言葉が、まだこの辺りに漂ってございますうちにそれをお
「何を言うか?この三文字に寄せてお前が
帝の声は震えを帯びている。だが篁はちらりと帝を見遣っただけで平然と続けた。
「帝ご自身の言葉は重うございます。それに何より解釈がご自身の気に障るからと言って罪を被せるような事があれば、以降書の解釈の道が閉ざされてしまう事になりましょう」
「むう」
顔を朱く染めたまま、帝は言葉に詰まった。
「ならばそれは善しとしよう。だが、この木札はお前が立てた物であろう。だからこそ読み解けたのではないのか。かように巧みに隷書を書く者は
「それこそ謂れのないことでございます。わたくしは昨夜、弾正台の方々と呑み明かし正体のない程酔って父の家にかつぎこまれたのでございます。そのようなわたくしがあのような書を認め、あまつさえ内裏に忍び入る事などできましょうや」
帝は岑守を振り向いた。岑守は僅かに頷いた。
「では、弾正台の者を呼んで確かめさせよう。しかし、それほど言うなら、お前には読めぬものなどないな」
「さて・・・。ですが
「されば、文書博士を呼べ」
帝が大声で呼ばわると、慌てて侍従たちが駆けだして行った。
「木の頭切れて、月の中破る」
題を見るとすぐ篁は筆を執り不用と書いた。木の字の頭の棒を取れば不の字、月を割るように一本中に線を引けば用の字になる。文章博士は篁の答えを見て小さく頭を下げると次の題を渡した。
「粟天八一泥」
艶めいた話よと心の中で呟くと篁は加故都(かこつ)と書いて筆を措いた。「会わでや一人寝る」と読んだのである。その通りでございます、問いはこれで終いでございます、という文章博士の声に帝は、ううむと呻くと鬚を扱いた。
「先ほど、弾正の者共を問い質させたが、確かにお前は正体もなく酔っておったと申したそうだ」
「恥ずかしい限りでございます」
恥ずかしげな素振りなど些かも見せず篁は応えた。
「何か存分があるなら聞きおこう」
「ここで申し上げても構いませぬのか」
「構わぬ」
「ですが、先ほど構わぬと仰せでしたのにわたくしに罪を
「今度はそのようなことはせぬ」
聊か不機嫌に帝は言った。
「では、畏れ多くも申し上げたいことがございます・・・」
そう言うと篁は四半刻、それまで考えていたことを漏れる事無く帝に奏上したのだった。
聞き終えた帝は不機嫌そうな口調のまま
「分かった。もはや、それ以上言うな」
と篁を見据え、口髭を神経質に動かした。そして扇を広げると、暫く何事か考えていたが
「朕から一つお前に質したい」
扇の上にさらさらと筆を動かし篁に向かって掲げると、
「これを読んで見よ」
と指し示した。墨痕鮮やかに
「子子子子子子 子子子子子子子」
とそこにある。篁は微かに首を捻った。この頃、
「ねこのここねこ ししのここじし」
あっさりとそう答えた篁を冷たい眼で見やり
「それがお前の迂闊じゃ。良く考えもせずに口にする。なぜ、猫が獅子の先に来るか。獅子こそ百獣の先にあるものじゃ。されば、ししのここじし、ねこのここねこと読むのが正しかろう」
そう言うと不機嫌そうなまま扇をはしと打ちつけ、帝は御簾を下させたのであった。
湧きあがる疑問と興奮に気を静めようとゆっくりと歩を進めていたその時、向こうから公達の一団がやって来た。質のよさそうな
公達の中で一段と華やかな匂いを振りまいている若者がいた。その
「
その若者が尋ねると僧はにこにこと笑いながら、
「たいそう素晴らしいところでございますよ。まことに国家鎮護に相応しい場でございます。帝や御父上には感謝してもしきれませぬ」
と答えた。ということは、この僧はこの年の始めに東寺を
従って、後ろで空海上人が突然立ち止まって、
「さて、さきほど膝をついておられた方がおられましたが、あのお方はどなたですかな」
と若者たちに尋ねた事を知らない。
「うん?さような者がおったか?」
と周りの者たちに尋ねた緑の束帯の若者に別の若者が
「あれは参議小野殿のご子息でございます」
と答えた。
「あの者が何か?」
と空海に問うた若者が篁の後姿に視線をやると
「何やら、格別の御方でございますな」
空海は呟いた。
「さようでございますか?」
それまでの満面の笑みをすっと消すと若者は刺すような眼差しで篁の後姿を見遣った。
その若者こそ・・・後の太政大臣、
その日の内、篁が立ち去った暫く後の事である。空海の帝への奏上を聞き終えた三守と岑守は肩を並べて
「岑守殿は、なかなか痛快なご子息をお持ちですな」
笑いを
「ご子息が意見をしていた時の主上の顔をご覧になられたか。始終苦虫を噛み締めるような顔をなさっておられた」
「まことに・・・肝が冷える思いでござった」
岑守はため息交じりに答えた。地方の飢えを
「だが飢饉も地方によって程度が異なる。それを具さに見て、取るべきところからは取り救うべきところは救うべきで一律に取り立てるのは過ちではないか、と申された時は思わず帝も頷いておられたよ」
と三守は賛嘆するかのように手を上げた。
「あのように直言できる若者は国の宝でござるよ」
「畏れ多いことです。だがそのあとに空海殿と一緒に参られた右大臣様のご子息の立ち居振る舞いは、粗忽な息子よりもよほどご立派だ。見習わせたいものです」
「さて、それだ」
三守はあたりを見回すと声を潜めた。
「どうやらあの者に
「まことでございますか」
岑守も驚いて歩を止めた。
「臣籍になられたとはいえ、潔姫は帝のご息女。臣下に賜ると言うのは信じがたい。それに潔姫はまだ御年十四でございましょう」
「そこが右大臣の巧みな所」
三守も足を止めると、
「皇女を臣下に賜るのは禁じられておりますが、それは
と岑守に囁いた。帝はしばらく前、まだ姫が幼いころに姫を含めた八人の子供に源の姓を与え臣に下ろしたのである。
「それにしても・・・」
言い澱んだ岑守に、三守は畳みかけるように言った。
「今でこそ、右大臣が北家、大納言は式家、私が南家と藤原の家も共に帝を支えております。小野殿のような
「左様な事になるかもしれませぬな」
岑守は嘆息とも同意とも取れるような口調で答えた。
「大納言様も難しい方でございますからな」
「そこで一つ相談ですが、岑守殿が先程仰っておられた肝の冷え、それがしと分かち合いませぬかな。実はわたくしにはまだ嫁いでいない娘が一人おりまして。親が言うのもなんですがたいそう可愛い娘でございましてな」
三守は
その日の夕、今度は篁が起居している
「それで帝に直に質されたのか」
と問い質した春道の目には、讃嘆とも呆れ果てたとも取れる色が浮かんでいる。
「うむ。まあ試問のようなものだ。それもとりたてて難しい物ではない。謎々の類だ」
夕食にする菜を水で洗いながら篁が答えた。
「しかし、畏れ多い事ではないか。帝に直々に問い質されるとはな。俺ならとても平静ではおられまい。篁、お主、よほどに肝が太いの」
「お前に立札の事を聞いておいてよかったよ」
「しかし帝を謗る言葉とは思いもよらなかった。良く解いたな」
篁はふと菜を洗う手を止めた。
「当たり前だ。あれはつれづれに俺が考え出したものだ」
や、と叫ぶなり春道は
「では、やはりあの木札を立てたのはお主か?」
「いや・・・父母や家の者共は確かに俺が家でずっと寝ていたと言っていた。それに幾ら酔っていたとはいえ木札を調達しそれに字を書いて内裏まで差しに行って全く覚えていないという事はない」
「ではお主と同じことを考えていた者が居ったという事だな」
「かもしれぬ」
そう言うと、篁は棒で叩いた菜を茹ではじめた。
「或いは、俺の心が彷徨って札を立てに行ったのか・・・」
「おいおい、怖いことを言うな」
春道は零した酒を惜しそうに拭くと、新たな酒を器に注ぎ
「おい、その菜を少し俺にも分けろ」
と篁を箸で招いた。しかし篁は上の空で
「獅子の子、子獅子、猫の子、子猫。なるほど獅子は猫より先か・・・。あの御方の仰りそうな事よ」
と呟いている。
年が改まり春、藤原良房と源潔姫の結婚が公にされた。三守や岑守のように内心密やかに懸念するものや、かつての有力氏族の伴や紀のように公然と非難する氏族も少なくはなかった。
そうした反応を見越していたかのように突然、嵯峨帝は位を皇太弟に譲ると右大臣藤原冬嗣に告げた。帝が柏原帝同様、薨去されるまで位にいるのではないかと考えていた貴族たちは大いに動揺した。
皇太弟である
もともと嵯峨帝が即位するにあたって最初に立太子されたのは奈良帝の息子高丘親王であった。しかし薬子の変で奈良帝が追われると同時に高丘親王は廃され、その代わりとして急遽誰かを立太子をしなければならなくなった。その時最もふさわしいとされたのは大伴親王の長子、
この事態に嵯峨帝も大伴親王も違う意味で悩んだ。帝には若い恒世王を皇太子にすれば正良親王が即位する目はないだろうとの思いがある。さすがにこの時点で息子の芽を摘んでしまうのは夫人になったばかりの橘智嘉子の手前、抵抗があった。一方、大伴親王は皇位継承に絡めば息子の命が危ういのではないかと恐れた。三年前に伊予親王が反逆の疑いを受けて無実を訴えつつも自害せざるを得なかった事は記憶に新しい。そこで両者の妥協の産物として大伴親王が皇太弟となり、時間を稼いだのである。
それ故、譲位に一番驚いたのは大伴親王その人であった。冬嗣から話を内々に聞かされた後では出家さえ考えた。
いかがいたしますか、お受けになられますか、と尋ねてきた冬嗣の目の底は冷たかった。仄聞すれば冬嗣も再三再四、帝に翻意を促していると聞いている。どうも自分は望まれておらぬようだ、と大伴親王は悟っていたのである。しかし
「朕は徳に劣る。それでもなんとか十五年にわたり政をして参った。もうよかろうて。といって奈良院は御存命。朕は太上天皇を辞しても良いが、それではそなたがどのような謗りを受けるか分からぬし、奈良帝がまたぞろ妙な気を起こされないとも限らぬ。従って気には染まぬが太上天皇となって命をかけてそなたを守り抜こうぞ。すべての政はそなたが良いと思ったようにすればよい。万が一大臣どもがごたごた言ってくるのであれば、朕の治世のうちに首にして進ぜよう」
とまで言われると大伴親王としても頷かざるを得なかった。
「で・・・皇太子は・・・」
「恒世王がなられるのが良かろう」
ぎくりと身を震わせた大伴親王は言葉を失ったまま考え込んだ。
「一日、日をくださいませ」
やっとの事で答えると、大伴親王はその足で恒世王の許へと急いだ。嵯峨帝の意向を伝えると、息子の緊張した眼差しに大伴親王は能う限り柔らかく微笑みかけた。
「良いか、恒世。あのお方はもはや翻意なされぬ。わしは皇位を受けねばなるまい。それにあのお方が御前を東宮に推しておられる以上、わたしも一度はお前を推さざるを得ない。だがお前を東宮にすれば必ずや良からぬ事が起こる。皇后や正良親王が本心で納得しているとは思えないのだ。私に考えがある」
「どのようなお考えでございましょうか」
「お前は直ちに東宮を辞退するのだ。場合によったら出家も考えよ。私はすぐに正良親王を皇太子に推す。帝は政を私に任せると仰せになられたのだ。最初からそのお言葉を違えられることはあるまい。後の事は任せよ」
「承知いたしました」
恒世王はほっとしたように顔を和らげたが、大伴親王は
「しかし、なぜ突然帝は譲位など思い立ったのであられるのか」
身震いすると天を仰いだ。
そのころ帝は帝で大きな溜息を一つついていた。
「あの者が余計な事を言うからだ」
とひとりごつ。あの者とは篁である。篁と紫宸殿で対峙してからというものどこか自分が気弱になっているのを感じていた。それまで気にしていなかった民という存在が急に気になってきたのである。忌々しいが何事の決裁においても先にある民の事を考えると決断の矛先が鈍る日々が続き次第に鬱々としてきた。篁に指摘された時、
「しかし、朕は飢饉があれば過去の分まで含めて民に免租をしておるのだぞ」
と反論したが
「畏れながら民は十分とは言えぬまでもきちんと租を納めておるのでございます。それを一部の国司たちが京に納めておらぬだけ。免租をしても免じられるのは民ではなくてそうした国司たちでございます」
と言われてしまった。それが本当なのか確かめる手段である観察使を廃したのは己自身である。
「政は弟と大臣たちに任せてしまえばよい」
そう思うと少し気が楽になった。その気持ちを僅かずつ皇后に打ち明けると、皇后は
「帝のお考えに従います」
と言ってくれた。ただ、
「それで皇太子はどうなさいますか」
と尋ねて来た時
「恒世王よ」
と答えると、黙ったまま表情のない目でじっと自分を見詰めていたのが気懸りであった。恒世王と答えたのは長年考えに考えた挙句、血脈からそうあるべきであり、そもそも帝の血脈は一致団結して事に当たるべきだと思ったからであるが、智嘉子は違う風に取ったのかもしれない。自分が橘の生まれであるから正良親王より恒世王の方がふさわしいのだと儂が思っているのだと・・・。
「まあ、それが事実だからの」
と
弘仁十四年四月庚子、大伴親王は即位し
それから間もなく潔姫が良房に降嫁した。
潔姫の降嫁から半年ほど過ぎたある日、篁と宮内卿藤原朝臣三守の娘との結婚が密やかに行われた。三守の家に通い始めて三日目の夜、訪れた篁を三守とその息子たち五人が出迎えた。ところあらわし、という儀式である。三守はたいそう機嫌がよく、固めの餅を自ら運んで皆に振る舞った。五人の兄弟から、
「吾れらが妹の夫ではございますが、兄上と呼んで宜しいか」
と尋ねられ、初めの内はいやそのような、と拒んでいた篁だが皆勝手に兄上、兄上と呼び始めたのでもはや勝手にせい、と思い始めている。それにしても家族という関係に殊更自分が弱いのはどうしたわけか、と篁は新たな家族に取り囲まれながら考えている。もしかして・・・自分は本物の家族に憧れているのであろうか?
藤原三守の婿になるきっかけは、父の一言だった。
「宮内卿のところに良い娘御がおるそうだ」
呟いた岑守の言葉を父の家を久しぶりに訪れた篁は聞き流した。そのような話は山ほどくる。だが妻を娶る気はまだなかった。五日ほどしてまたやってきた日に岑守が、
「宮内卿が娘をどこにやるか悩んでおるのだよ」
と、今度はちらりとちらりと篁を見遣って言った。藤原三守は嵯峨帝の譲位と共に
「さようにございますか」
素っ気なく答えた篁にうむ、と岑守が哀しげに頷いた。篁はその日春道に会うことしていたので気ぜわしかったのである。
酒を酌み交わし合いながら、春道がにやにやと篁を見て来た。
「顔に何かついているか?」
尋ねた篁に春道はかぶりを振ると
「お主、近頃自分が何と呼ばれているか知っておるか?」
「知らん。そもそも私の事など人が興味を持つものか」
篁の答えに春道は噴き出した。
「何を言っておるのだ。帝をやり込めた挙句お父上と中納言どの、いや今は宮内卿どのか。お歴々の顔色をなからしめておいて人の噂にならぬ訳がなかろう」
「知らなかった。お主が変な噂を流したのではあるまいな」
「いや。お前はお父上や宮内卿どのが同席していたなんて言わなかったではないか」
「そうだったかな?で、何と呼ばれているのだ?」
春道は懐から紙を出して篁につきつけた。そこに黒々と
「俺が思うに、噂は
どうかなと首を捻りながら、宮内卿という名に篁は父の話を思い出し、
「そういえば宮内卿のところに一人娘がおられるそうだな」
と春道に尋ねた。ああ、と春道は膝を叩いた。
「若い男たちの間でもっぱらの評判だ。たいそう美しいということだが・・・だがなぁ、あの娘御は難しいぞ」
「ほう、なぜだ?」
「いや、やけに警固が固くてな。別に望みがあったわけではないが俺も一度行ってみたのだよ。そうしたら夜通し火を焚いておって兄弟やら
「そうなのか?」
父親から聞いた話といささか趣が違うので篁は眉を上げた。
「まあ、宮内卿殿の婿に納まれば俺にも栄達の目が出て来るのだがなぁ」
春道は暢気に言うと酒を呷った。
その夜は満月だった。月明りに萩の白い花が
「なるほどな」
と感心をして門の前を過ぎようとした篁を見て男の一人が
「おお」
と声が上げた。すると突然門の周りに屯していた者たちが一斉に門の内へ入ってしまった。門は開いたままである。
「なんだ?」
思わず門に走り寄り中を覗いたが男たちの影も形もない。
「これでは不用心ではないか」
と開いたままの門を眺めていると、中から一人の女人が現れた。
「小野さまでございますね」
「さようだが・・・」
見知らぬ女に名を呼ばれ途惑っている篁に女が門の内へと誘うような仕草をした。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
「いや、約束などしておらぬ」
茫然と立ち竦んだまま掌を向けた篁に向かって女はにっこりとほほ笑んだ。
「前世からのお約束がございます。さあ、こちらへ」
父は宮内卿から頼まれていたのだな、と篁は内心苦笑している。遠慮することはあるまい・・・はっきりと言えば良いのだ。
そういえば父は時おり自分に遠慮をする。滅多にそれを感じることはない。いつもは好きなように生きろとばかり、放っておく。だが大学へ入る時とか結婚の事とか人生の転機の時には父はさりげなく道を開けてくれている。
だが今回に限って父親の遠慮は無用であった。宮内卿の娘は親の自慢に違わず美しく
「婿どのにはな、このような事があったのじゃ」
舅殿が帝の前で文章博士の問いに完璧に答えた事や、政について一歩も引かず帝に意見を具申した事を話すと新しい兄弟たちは眼を瞠って話に聞き入った。篁は皆のそんな様子を少し照れながら楽しんでもいる。
新たな家族が出来た事ばかりではない。今までの家族とも結婚を機に変化があった。義母との長年の
「では、あの子はもはや苦しんでおらぬのですね」
涙声で尋ねた義母の顔には小春の優しい俤がほの見えた。
「ええ、今は天上で安らかに過ごしているのでしょう」
「ああ、小春、小春。母を許しておくれ」
泣き惑う義母の手を取ると篁は
「母上のせいではございませぬ。小春が地獄で苦しんだのは私への恨みが残っていたからでございましょう。だからこそ、
篁の言葉に義母はいやいやするように首を激しく振った。
「そなたにもひどい仕打ちだった。許せばよかったものを」
「いえ。私の思慮が足りなかったのでございます。これからは母上を実の母と思って大切にして参りますゆえ、御許しください」
義母はしっかりと篁の手を握り言葉もなくただ頷いたのだった。
妻の
「父はこのところたいそう機嫌が悪しゅうございましたが・・・。お前さまが来てからというものなんとも晴れ晴れとしておられます。みなほっとしていることでございましょう」
と呟いた。
「ほう、さような事がございましたか」
篁が答えると
「ええ、小野様の倅殿は
「それは・・・申し訳ない」
篁は苦笑いをした。
「わたくしもこのままではいつまでも嫁げないのではないかと心配しておりました。父はあなたさまにたいそう御執心でしたからきっと最後まで諦めなかったでしょう。そしてあなたも・・・なかなか嫁のなり手がなかったでございましょう」
「どういう事です?」
尋ねた篁にほほほ、と手に口を当てて袖子は可笑しそうに笑った。篁を婿に取るなと言う意味を籠め、野狂と言う綽名をつけて触れ回ったのがやはり三守だと篁が知ったのはその後暫く経ってからである。
翌年、袖子に子が産まれると三守はそんな事は忘れたかのようにすっかりいいおじいちゃんになって後院では太上天皇に、家では孫に仕えている。
篁は
新しい御代になっても淳和帝は嵯峨帝の政治を殆ど其の儘引き継いでいた。唐様と仏教の栄華も以前通りである。晩年空海と険悪になった天台宗の祖である最澄は四年前に没したので今や空海が他を圧して朝廷の信任を一身に負っている。以前は最澄に深く傾倒していた三守も今では空海を崇拝している。だが篁はそうした風潮から少し距離を置いて律令を真剣に学んでいた。
三守は篁を良く自分の所へ招いた。袖子は時おり、篁にあなたは私の所へ婿へ来られたのですか、それとも父の所にですか、とからかい交じりに尋ねる程であった。義父は篁に内裏や院の話を良くした。いずれ内裏に昇る事になろう自分のためになさってくれるのだろうと篁も畏まって話を聞く。
「先だっての譲位の時にな・・・」
三守は首を捻って、細かいことを思いだすような仕草をした。
「譲位の時には皇太子であれ、皇太弟であれ、三度は辞すものだ。また東宮の指名の時も同じようにする」
「はい」
「帝は例に従って、三度辞されたが太上帝が御許しにならなかった。結果として譲位を受けられた帝はまず御長子の恒世王を皇太子に推挙した。その時先の帝は一度の上表で辞退を御許しになり直ちに正良親王を皇太子に推挙なされた。ただ一度だぞ・・・。あまり例のないことであった」
「内々にお話をつけられてあったのでは」
「そうかもしれぬが・・・しかし先の帝は当初、まことに恒世王を春宮になされようとなさっておられたのだ」
三守はその時の東宮の件に大いに巻き込まれている。正良親王が東宮に推挙された時、嵯峨帝が辞退させたいという上表を淳和帝に届けたのは三守自身である。上表は即刻差し戻された。
「ところが冬嗣殿から話があって、この邸で正良親王を預かり、そこから東宮坊に入れてくれと言う。帝からのご命令で皇后様も親王様もすべてご承知との事だった」
「太上帝はご存じなかった、と?」
「そこがどうにも腑におちぬ。わしの邸を使った以上、太上帝は承知なされていたと思うがの。あのお方は果断な御方。もし意に添わぬならどんなことをしても止めたであろうよ。
「なるほど・・・」
「あるいは御二方の意を汲んで冬嗣殿あたりが画策なされたのかもしれぬ」
「さようでございますか」
「まあ、これはこれで良かったのであろう。だが次に帝が御変わりになられるとき、またぞろこの問題が
「そうでございますな」
篁は深く頷いた。
その年の秋が深まったある日、三守は冷然院に空海がやって来たと聊か興奮気味に話した。その年の
「あのお方はまことに民の為に力を尽くしておられる。
篁は頷いた。篁とて仏の道を信じていないわけではない。人々の心の救済としての仏道は信じている。だが、その仏教が国家の鎮護を唱えて朝廷に深く入り込む事には少々疑問があった。
「その小僧都殿から婿殿の話が出てな」
「は?」
「三守殿の婿は参議小野殿のご子息でおられると聞いておりますがまことでございますか、と尋ねてこられたのだよ」
篁は黙ったまま、舅の顔を見つめ言葉を待った。
「そうでございます、と答えると小僧都殿が、あの方は格別なお方でございますな、と仰った。格別なお方とだぞ」
お気に入りの婿を空海に褒められたのがよほど嬉しかったらしい。
「どうじゃ。一度暇な時に
「いえ、まだ私は役所勤めに精を出さねばなりませぬゆえ」
篁が公務を口実に断ると、三守は少し不服そうに、
「太上天皇もときどき婿殿がどうしているか尋ねて参られる。たまには
と口を尖らせた。
しかし篁にとってはそれが鬱陶しいのだ。殿上にまだ上がることはできぬ身だが、後院では差し支えない。となると一度上がれば幾度も参上せねばならぬだろう。
「いずれそのうち」
「そうか。まあ、今のうちは勤めに励んだ方が良いかもしれぬな」
ため息をつきながら三守は篁の器に酒を注いだ。
天長三年、一時は東宮に擬せられた恒世親王が病死した。新帝の嘆きは深く、一時は政に支障をきたした程である。政が滞るということは自然災害への備えが十分になされないという事にも繋がりかねない、とその頃は信じられていた。
幸いな事にここ暫く
「ご無沙汰をしておりました。毎年詣でたいとは思っておりましたが、いろいろと
篁がそう言うと、僧は篁を拝んで、
「いえいえ、あの折は大変なご寄進を頂き、また毎年色々なものを賜って有難いことでございます。都を外れたこの寺では滅多にないことと感謝しております」
と答えた。
「ところで、ご相談の
「ぜひ、ご自身の眼で見て頂きたいものがございまして」
と僧は静かに立ち上がった。
「これでございます」
外に出て地蔵の祀ってある小さな祠の前に来ると僧は静かに拝礼をした。覗いてみると身の丈に一寸ほど余る小さな祠の中で地蔵は真っ二つに割れていた。
「どうしたわけでございましょうか、祠には傷がございませぬのにこのように・・・丙寅の日になえがございましたでしょう」
僧は拝んだ手を静かに戻すと篁の方を向いた。
「京でも揺れましたが、さほど大きくはございませんでした」
「こちらではずいぶんと揺れました。次の朝、お花を供えようと参った者が気づきまして」
もう一度地蔵に手を合わせると僧は割れた地蔵を一つずつ取り出して、衣に包んだ。
「供養して差し上げようと思いましたが、貴殿が大変尊ばれておられたのでご相談申し上げようとお招きしたのでございます」
繋ぎ合わせた地蔵はまっすぐに篁を見詰めて来た。それを見つめ
「地蔵様は・・・まだ自分の役目が終わっておらぬと仰っている様です」
篁はぼそりと呟いた。
「では、いかが致しましょう」
「こちらにどなたか石工はおられますかな」
「はい。寺の近くにたいそう巧みな石工がおります」
「それでは二つの地蔵となして差し上げたいので頼んでは頂けまいか。費えはこちらで持ちますので」
「わかりました。では
さっそくその日のうちに石工を呼ぶと二つの地蔵に作り替える事を手配してから篁は長岡京を後にした。その後ろ姿を寺僧が拝みながら見送っている。
それから一月ほどしたある夜、篁の夢に善財が現れた。なぜか二人になっている。
「おお、善財様」
懐かしさに声を上げた篁に向かって二人の善財は
「迂闊じゃったわい。つい油断してしまったら、お怒りを蒙ってしまいましてな。今度は傷では済みませなんだ。あのままではなんともなりませんでのぅ。助けて頂いて有難いことです」
と揃って照れくさそうな顔で両の手を合わせた。
「もったいないことです」
「だがおかげさまで二体になりました。二人で
善財はそう言うと頭を搔いた。左側の善財が専ら話をし、右側の善財がにこにこ笑って頷いているのを見る限り、どうやら元の善財は左側らしい。
「いえ、そのような」
「おおかた帝が変わられたと聞いて血が
「用事がございませぬので」
篁の答えに善財はにやりと笑った。
「妻を娶られたのですな。地獄など覗く暇もないのじゃろうて」
「そのようなこともご存じで」
「こちらにはそちらから色々な人が参られるからの。いずれにしても目出度い。大事にして差し上げなされ」
「承知いたしました」
「では、これで失礼いたしますかな」
そう言って体を翻そうとした善財を
「もし、善財殿」
と篁は呼びとめた。
「何ですかな?」
「ひとつ伺いたいことがございます」
「うむ?」
「わが国では仏法を国家の鎮護をするものとしておりますが、仏法の道としてこれは正しいのでしょうか」
善財は振り向いたまま興味ありげに篁を見詰めた。
「ほう・・・お主はどう考えておられるますかな?」
「わたくしは仏法は人の道を説いておるものだと考えております。国家鎮護と仏の道は必ずしも相容れぬと」
「なるほどの」
「御坊のように人の煩悩を解いて回られるのが
篁の言葉に善財はふふふ、と笑みを浮かべた。
「そうかもしれないし、そうでもないかもしれぬ」
「と申されますと?」
「仏の説かれた道は仏しか知らぬ。その仏の教えをそれぞれの者がああだ、こうだと解釈をしておられるだけじゃ」
「はあ・・・」
「善きかな、善きかな」
僧は納得のいかない顔をしている篁の目を覗き込んだ。
「あるものは仏の教えに衆生の苦しみを解く事を観、ある者は衆生の苦しみを起こさせぬように国を家として守る事を説く。それでよいのです」
「どちらも仏の教えなのでございますか?」
「そうでもあるし、そうでもない。だがどちらか一方がこれこそが仏の教え、他方は
「なるほど・・・」
篁が頷くとからりと笑い、
「ほほほ、お主は存外素直な御仁であられますな」
そう言い残して善財は消え失せた。夢の三日後、乙訓寺から地蔵が出来上がったとの便りが篁に届いた。
この頃惟良春道は従八位上、近江少掾として近江に赴任していた。だが、年に二度ほど京にやってきて、篁と交遊を絶やすことはなかった。
「今度婿に入る事になってな」
夏のある熱い一日、突然やって来た春道は濡縁にどっかりと腰を下ろし、供された冷し瓜を美味そうに頬張りながら篁に語りかけた。
「それはめでたい」
篁は少し驚きはしたものの、年を考えれば遅いくらいだと寿ぎの言葉を述べた。すると春道は、ぺっと瓜の種を吐き出し、顔を顰めた。
「いや、さほどめでたくはないのだ。近江は
「ふむ」
学友が言い差したので、篁は相槌を打って先を促した。暫く目をうろうろとさせると春道は仕方なさげに
「女のてて殿がな、娘に手を出した以上、責任を取れと言って
溜息を一つつくと、春道は真っ青な天を仰いだ。
「良いではないか。別にてて殿と結婚したわけではあるまい」
「ところがそうでもないのだ。おっとりした女だと思っていたのだが、血は争えぬ。いざ、婿に入ると決まったら女の方も地が剥がれてな、これがなかなかに気が強い」
しょぼんとした春道の表情に篁は思わず笑う。
「国司とはいっても少掾は卑官だ。何とか昇任なさいと当りがきつうてかなわん」
「なに、お主には文章の才がある。それを糧にすればいい。せっかくだから祝いついでにこの本を貸してやろう」
そう言うと、篁は奥に引っ込むと一冊の書物を取り出してきて春道に渡した。
「うん?
「ああ、父が大宰府にいたとき手に入れたものだ。おそらく
元白とは唐の詩人、
「さような物、貸して貰ってていいのか?」
この時代、日本の貿易は国家間同士でしか許されないものであった。特に唐の珍しい文物、書物などは私貿易をして手に入れる事は許されていない。だが小野の家は初代遣隋使小野妹子以来、海外交流の先頭として有名な家系で
「人に知られるなよ」
唇に人差し指を当ててそう言った篁に頷き
「うむ。承知した」
瓜を急いで食い終えた春道はいそいそと葛籠の奥に大切そうにしまうと、訪ねたばかりだというのに嬉しそうに帰って行った。
「はや、お帰りでございますか?」
袖子が春道を送って戻ってきた篁に尋ねた。腕には四人目の赤子が抱かれている。これも男の子だった。近頃では乳母任せにせずに袖子自身がこうして赤子を抱いていることも少なくない。
父、岑守は
初秋の或る日、その父が篁を呼び出し頼み事をしたいと言った。
「もう私も歳だからな」
父は誰にともなく呟くようにそう言うと
「太上帝からこの仕事を御前に引き継げと言われておる」
「嵯峨院さま・・・でございますか」
篁は微かに眉を顰めた。
「さような顔をするな」
岑守は微笑んだ。
「
「高津内親王様?」
嵯峨帝には今の皇后の前に妃があった。嵯峨帝が即位するとほぼ同時に妃になったこの内親王は二人の子供を産んだが、或る日突然妃を廃された。篁が陸奥で馬で野山を駆けまわっていた頃の事である。
「毎年太上帝様お手ずからの
「さようでございますか」
「内親王様はお子さま二人と
「・・・」
「そこで見た事は口外してはならぬぞ。頼めるか?」
篁は肯った。
二日後、篁は愛宕に向かっていた。細い白雲が棚引いている山に向け馬を進めた先にあった邸では榊の厚い垣に囲まれた門を四人の衛士たちが厳しく守っていた。
「小野刑部卿の代理で参ったものだ。太上帝よりの料を持参申し上げた」
そう口上を言うと、門が開いた。
「さあ、こちらへ。遠い所、ご苦労様でございます」
小柄な老女が篁を誘って邸の中へ通した。
内親王は奥の暗い一間の几帳の後ろに
「主上からの文を持参いたしました」
「読んでたもれ」
細い声が返ってきた。自分が読んでよい物かと篁は首を傾げたが、老女がすぐに明りを持って篁の手許を照らし出したところを見るとこれは毎年の行事らしい。
「毎年毎年、愚にもつかぬ言葉を書き連ねて・・・」
という内親王の声に動きを止めた。
「太上帝は我が子を何とお思いじゃ」
憎さを隠す事もなく罵ったが、
「いつもの遣いと違うようじゃの。顔を御見せ」
声を和らげた内親王の言葉に先ほどの老女が明りを掲げた。
「何と若いの・・・うん?」
内親王はふと首を傾げると、
「お主はもしや、あの彰子様のお子ではないか?」
と言うと薄暗い場所からにじり寄るように近づいてきた。
「そうじゃ。そうに違いあるまい。眼も唇も大層似ておる」
声が若やいでいた。だが、たちまち咳き込むと、顔を隠し、手を振って退出を促した。
「たいそうご無礼を申し上げました」
内親王の許から篁を連れ出した老女は畏まって床に小さくなっていた。
「刑部卿の息子様が来られると申し上げておいたのでございますが」
「いや構いませぬ」
篁は小さく手を振ると、
「ところで先程内親王様が仰っておられた彰子さまとはどのようなお方でございましたのでしょうか」
小さくなったままで老女は答えた。
「彰子さま・・・太上帝様が親王であられた頃のおつきの
その女人こそが自分の本当の母なのだ。篁は直感した。
「その彰子さまという方は・・・」
言いかけた時、戸が開いて陽の光が差しこんできた。眩しい光に目を眇めそこに男と女の影を認めた時、老女がわななく声で
「親王様、内親王様、このような所へ・・・」
と突っ伏した。
「良いのだ、
若々しい男の声がした。
「
そう言った男の顔は、篁が陸奥にいた時、時折見かけた蝦夷の者たちに瓜二つの彫りの深い顔だちだった。女はうりざね顔で大和の女と言っても差し支えはないが色は抜けるように白い。今は宮中では噂にも上る事のないこの二人だが
「わざわざ料をお届けになって下さったと聞き及んでおります。有難うございました」
若者の言葉に隣にいた内親王も揃って頭を下げる。篁も黙ったまま頭を下げた。それから一刻と半、篁は打ち棄てられた兄妹と話し続けた。とりわけ兄の方は外の者と話がするのが初めてなのか言葉が熱を帯びていた。
「この家の者は良い者たちですが陰気でなりませぬ。子供のころから、私の顔を見ると涙ぐんだりして」
若者らしく、頬を膨らませて業良親王はそう言った。
「私は自分の事を不幸せと思った事はございませぬ。聞けば都でも飢えたり、はやり病に死ぬものも多いと聞いております。ここではそのような心配もございません」
「なれど・・・帝にもおなりになられたものを」
篁の言葉にきっぱりと、
「帝になれば幸せだと誰がお決めになられたのでしょうか。まあ母にはそういう期待もしていたようですが」
少し目を伏せ、
「木にもあらず草にもあらぬ竹のよの
はしに我が身はなりぬべらなり
これは 母の作った歌です。ですが嘆いてばかりいて何が愉しいのでしょう。木でも草でもないと言いますが竹はしなやかに生きておるではございませぬか。ただもっとも・・・」
そう言うと業良親王は脇にいた妹内親王を見遣った。
「妹にはつらい思いをさせています。私が二歳になった時、伯父の
「いいえ、兄さま。私は外を出歩けますもの。いつもこの家に閉じ込められておいでの兄さまの方がよほど不自由でおられます」
「何を言っているんだ。私だって夜ならば車に乗ってあたりを見まわることが出来るんだからね」
そう言うと業良親王は妹の手を取った。
「ですが外の者と話をする機会はございませぬ。時おりこちらにいらしてお話をしていただければ本当に嬉しくございます」
そう願った兄親王に頷いて内親王の家を後にした篁は、そのまま父の邸へと向かった。岑守は篁がやって来るのを予期していたように二人分の膳を揃え待っていた。
「ご苦労であったの」
いつものように優しげな言葉を息子に掛けると、
「息災であられたか」
と尋ねてきた。
「ええ。お子さまたちとも話をして参りました」
「それは良かった。儂も気に掛けておったのだが、年寄では話の
「これから時折、訪れようと思っております」
「それは良い、それは良い」
岑守は手を打った。
「しかし、なぜあのような・・・」
篁の問いに岑守は憂いを浮かべた顔で答えた。
「それは分からぬ。だが決して内親王様の咎ではないと太上帝は仰っておられた。内親王様は嘘を吐けるお人柄ではないらしい。で、投降した阿弖流為を処罰した父帝の罪かもしれぬ、と」
「たいそう気持ちの良い若者でございました」
「うむ。だが、蝦夷の顔立ちの者を帝につける訳にはいかぬ。田村麻呂様は自死を覚悟されて内親王様に説得に当たったのだそうだよ。それで漸く内親王様は廃妃となられることを承知なさったのだ」
「むごい事でございますね」
「自死はなさらずに済んだものの田村麻呂様は心労が祟ってその年の内にお亡くなりになられた。太上帝はそれから信の置ける者に託してああやって毎年料をお届けになっている。
毛を吹き
と内親王は御詠みになったがあの皇子達はけして曲がれる枝ではない」
「さようでございますね」
「内親王様も幸が薄くておられるが、あのお子たちの素直さはせめてもの救いであろう」
深々と溜息をついた岑守に向かって篁は思い切って口に出した。
「内親王様は私を見て彰子様の息子であろう、と仰られました」
手を掛けた椀を止め、岑守はゆっくり目を上げた。
「彰子という采女は太上帝がまだ親王におわしました時、不意に姿を消されたそうでございます」
「そうか・・・」
呟くと岑守は手にした椀を
「その御方は伏見の菩提寺という寺に葬ってある。一度墓を詣でてみるが良かろう・・・、ん、わしは
席を立った岑守が去り際に袖で顔を拭った。その後姿はひどく小さかった。
「 大変でございます。お父上がお倒れになられました」
執務中の篁の許に転げるようにして遣いがやってきたのは
「何?どこでだ」
血相を変えて立ち上がった篁の姿を見て遣いは怯え、腰が砕けた。篁はその頃の人としては大柄である上に、感情豊かな表情は驚きよりも誰へとも知れぬ怒りを露わにしている。
「・・・
遣いが息絶え絶えにした答えを聞くなり篁は朝堂院へと早足で向かった。朝堂院の一角に戸板の上に横たえられた岑守の顔は蒼白だった。
「
舎人の声に頷くと篁は戸板を
「父上、父上・・・」
叫ぶ声が網代車と共にゆっくりと朝堂院から遠ざかって行くのを聞き乍ら、何人もの者が悲痛な表情で見送っていた。
その三日後、
「もう、そなた達と私を繋ぐ物はどなたもおられなくなったの」
肩を落とし気弱に呟いた義母に、
「さような事を仰いまするな」
答えた篁の頬も痩せこけ、眼は赤い。
「母上はいつまでもわたくしの母上でございますよ」
隣に立つ弟の千株も頷いた。二人をゆっくり見上げた義母の頬は涙に濡れている。
「篁、千株。わたしは世を
「心を強くお持ちなされ。子供たちも淋しがります」
篁の子供たちはみな男で、何故かこの義母を慕っている。
「そうかぇ・・・そうじゃのう」
途方に暮れたように呟くと義母はもう一度立ち昇る煙に手を合わせた。
「お出かけでございますか」
篁が
「うむ・・・」
「せめて
「ああ、心配するな」
岑守が倒れてからというもの篁は殆ど物を口にしていない。
「ですが・・・」
「しばらく・・・。許せ」
「はい」
背中を見詰めている袖子の視線を感じながら篁は馬にまたがると供も連れずに邸を後にした。一条を西に都を離れれば
父を葬ったその夕、篁は善財が言った事をふと思い出したのである。
「地獄へ来るなら愛宕寺の井戸からおいで」
篁はその夜から愛宕寺を訪れ始めた 。怪僧、
馬から降り、馬の背に魔除の経文を置いた篁が寺の裏手に回ると先に
横を振り向くと閻魔が自分を見下ろしている。前見た時は太上帝とそっくりであったが、今はどこからどう見ても閻魔そのものの太い眉、引き締まった口元の、謹厳で恐ろしげな顔をしていた。
「参じゃ。畜生」
閻魔が身丈に合わず小さな声で言う。目の前には帳面がおいてあり、従七位下石山宿祢忠元と言う名だけ記されている。その上に眼を移すと壱やら伍と記されており更にその横に人やら畜生やら餓鬼と記されている。筆を執って、参、畜生と記すと閻魔は満足そうに頷き
「次の者」
と呼ばった。閻魔は罪状と功徳を亡者に読み上げる。しかし来世にどう生まれ変わるかは篁にだけ小声で告げるのであった。そのまま鶏の
やがてどこかから鶏の音が聞こえると閻魔は席を立ち、黙ったまま後ろの
「ほい、やはりやって参られたな」
左の方が我が意を得たりとばかりににやりと笑うと、右の方が、
「やはりお主は冥界の主になる御方だった。されば、以前ここに来た時、閻魔様に見られても死なずに済んだのは道理ですな」
と頷いている。
「善財どの、これは・・・」
と篁が左右交互に目を遣りつつ尋ねると、右の方が
「百年に一たび、閻魔様は入れ替わるのでござるよ。お主は次の世は閻魔様として裁きを行うのでございます」
と答えた。篁が驚く間もなく左の方が
「それで・・・御父上にはお会いなされたか?」
と尋ねるので
「いえ・・・」
短く答えると、
「そうかそうか、ここにすぐやって来るものもあれば、暫くかかるものもございます。明晩もおいでなされ」
と右の方が言う。
「ただ早う戻らねばなりませぬぞ。朝露が乾く頃には
左の方が言うと左右共々頷いて、
「帰り道を教えて進ぜましょう」
と合い和した。その時、地面が激しく揺れた。
「ほい、また暴れておるわい」
左の方がそう言うと、右の方に
「
というなり慌てて元来た道を戻って行った。
「では、こっちへおいでなされ」
手を引いて歩き出した善財に
「こちらでも地揺れがございますのか」
と尋ねると
「もちろんです。御霊が暴れますからの。ここでその揺れを吸いきれない時にのみ現世でも
と答えた。暫く連れ立って歩いて行くと白い霧の中から一本来た時と同じような槇の枝が垂れていた。
「これを登ってお行きなされ」
そう言うと再び激しく揺れた地面を見やって
「わしも
ふっと笑うと姿を消したのであった。篁が槇の枝に取りついて昇り始めると程なく上にぽっかりと丸い穴が見えてきた。その丸い木の枠に手を掛け外に出ると、外はもう朝の陽で白み始めている。
「はて、ここは愛宕寺であろうか」
堂の様子が思っていたより行き届いているのを見ながら寺の表に回ると、門には
篁は首を捻りつつ馬によじ登るとそのまま邸へと帰って来たのだった。次の日も同じように愛宕寺に行き福生寺から戻って来たのだがやはり岑守は現れなかった。三日目の晩今夜岑守が現れねば
いつもの通り閻魔の隣に座ると帳面の横に薄く燐のように光る珠が浮かんでいる。これは何だろうと閻魔を見やると、
「
と閻魔は小声で教えた。
「
そう言うと何事もなかったかのように前を向き、いつもの通り罪状を読み始めた。そろそろ鶏が鬨を作る頃、やはり今日も父は来なかったかと諦めかけた篁が帳面を見た時、そこに浮き上がったのは参議従四位小野朝臣岑守という名だった。思わず目をあげ目の前の亡者を見遣った。立っているのは確かに父である。
「参議従四位小野岑守。
父は黙ったまま俯いている。罪状は続き最後は
「
というものだった。
「
そう言うと篁を向き、
「四、人」
と囁いた。
「閻魔さま、この方に反魂を・・・」
「ならぬ、亡者の額を観よ。小野岑守、頭をあげよ」
閻魔の言葉に頭を上げた岑守の額には、「焼」と「腐」の二文字が浮かんでいた。
「死んでから二夜過ぎたものには腐の字が浮かぶ。火葬にしたものには焼の字が浮かぶ。そのいずれかがあれば反魂珠は使えぬ」
「なれど・・・」
言い返した篁に眼の前の亡者が、
「篁・・・。いや、閻魔様・冥官様に申しあげます。わたくしは仰せの通り罪深い身でございますれば
その言葉に閻魔は深く頷いた。
「篁、達者で過ごせ」
篁ににっこり笑いかけ鬼卒に手を引かれ後ろを振り返る事もなく岑守は立ち去った。篁は呆然とその後ろ姿を見送っている。
「四、人じゃ。冥官殿。閻魔になれば最初の内は見知っておるものに会う事もある。いちいち心を動かしてはならぬ」
そう諭すと閻魔は、次の者、と声を励ました。篁は心ここにあらずの様子で、父の名の横に四、人と記した。
「もしや・・・そのお姿は小野殿ではござらぬか」
亡者にしては若々しい声にふと目を上げるといま一人見知った顔が目の前に立っていた。
「
帳面にも
「なぜこのような所へ・・・」
問いかけた篁を閻魔は黙ったまま見ている。
「いや、突然胸が痛くなって倒れたところまでは覚えておるのだが、目を覚ましたらかような所に・・・」
心細げに辺りを見回すと、
「ここは閻魔庁にございましょうな。となると私は死んだと言う事でございましょうか」
そう言った良門に篁は微かに頷いた。
「寿命とあらば仕方ないが・・・ご存じの通り私にはまだ幼い子がございまして」
良門は途方に暮れたような表情を泛べている。確か産まれたばかりの赤ん坊が一人いたはずだ。
「そうでございましたな」
良門の額に二文字のどちらもない。子を残し、この歳で世を去るのはいかにも憐れに思えた。篁は閻魔を振り向いた。
「この御方に反魂を」
うむ、と頷くと閻魔は脇に控えていた鬼卒に命じ、高々と
四条の長良の邸では長良をはじめ良房、
「もはや、いかぬようだな」
良門の枕元に座っていた長良が静かにそう言った。女子供は追い払いそこに集っているのは六人の兄弟たちだけである 。
「良房、そちには男子がおらぬ。そちが良門の子供たちを引き取ると言うのはどうだ?」
「それは構いませぬが・・・」
良房は顎に手を当てて答えた。万一、妻に子供が産まれなければ同母の長良か良相のどちらからかを養子を引き取りたいと考えていたが、長良の言う通りにしても良いかとも思った。
「父上が亡くなられてから年月も経ておりませぬのに・・・。この若さで良門が逝ってしまうとは」
三男の良相が溜息をついた時、死んだと思っていた良門が突然大きな咳を立てて体を起こした。冷静沈着を謳われていた冬嗣の子供達が一斉に飛びのくように後退りをした。
「良門・・・生きておったか」
眼を見開いたままあたりをきょろきょろと見回している良門に長良が尋ねた。
「はい・・・。あの、小野様は・・・?」
「小野様?」
良房が怪訝な表情で尋ねる。
「はぁ、蔵人の小野様でございます」
「小野殿なら父上を失くされたばかり。弔いで籠っておられるはずだが・・なぜ小野殿を?」
良相の問いに、
「いや、実は・・・」
閻魔庁で起こったことを良門が
「なるほど、小野殿は閻魔庁の冥官をなさっているのか」
良門が語り終えると良相は感嘆したように呟いたが、
「何を言っておる。さような事がある筈がなかろう」
吐き捨てるような声に良門と残りの四人が一斉に良房を見た。
「世迷いごとを今後決して口にするでないぞ。つまらぬ噂が経てば北家の名に関わる。わしは家の者に良門が生き返ったと告げて来るわ」
そう言って立ち上がると去って行った良房の後姿を残りの男たちが驚いたような顔をして見送っている。
「兄上はなぜあのようにお怒りで?」
良相は困惑したような表情で長良に尋ねた。
「さあ・・・な」
長良はふと表情を緩め、弟の肩を軽く叩いたのだった。
「地獄を見たようであられるな」
ひそひそとそんな噂をしている場に入ってきたのは、今は侍従となっている藤原長良であった。
「父上の事はご無念でございましたな」
長良がわざわざ自ら出向いて弔意を述べた事に驚きながら篁は礼を返した。
「少し宜しいか」
長良の言葉に席を外して立った篁を見送ると、周りの者たちが抑えていた息を一斉に吐きだし、互いに見交わした。その顔には困ったような、情けないような笑いが浮かんでいる。
「良門がな、世話になりました」
長良は朝堂院の近くの庭で篁に礼を述べた。篁は曖昧に頷いた。
「突然倒れられたと聞きましたが、良くなられたので?」
「うむ。しばらくは養生させておりますが」
「それはようございました」
そう答えたが良門に残された寿命が八年しかないと知っている篁の声は生彩にかけている。良門の若さを考えれば決して長くはない年月である。うむ、と再び頷いた長良は
「ところで小野殿。貴殿は律令を学んでおられると聞いたが、事実でござろうか」
「はい。その通りでございます」
養老律令を個人的に学び、どのような局面にどのように解釈すべきかを篁は考えている。
「それは良かった。実は四年ほど前から帝の命により大納言様が中心となって
大納言とは
「いかがかな」
長良の問いに篁は
「ぜひお願い申し上げます」
と答えた。
「それは良かった」
長良は破顔して、篁の手を握り締めると、
「弟の事もよろしく頼みますぞ」
と囁いた。
「良門様のことで?」
聞き返した篁に
「いや、良房の方です」
と長良は篁の目を見て頷いた。
「良房様?ですが、あのお方は私などより、よほど・・・」
言いかけた篁を制すかのように
「良房は確かに太上帝、今上帝の御寵愛を受けておる。やがて
そう言うと長良は擽ったそうに笑った。
「その良房がどうやらお主を気にしております。良門から貴殿の名が出た時、ひどく心を乱しておった」
「さようでございますか」
「うむ、良房は傑出しております。だが、傑出しておるがゆえに我が強い。悪く言えば人をばかにしておる。その良房が心から気にしておる者と言えばまずは空海殿」
「はあ・・・」
「そして小野殿、そなたですな」
というと長良は篁を見据えた。
「そのような」
「いやいや、私は人を見る目はある積りです。では大納言様に今から申し上げて参りましょう」
そう言って、去りかけた長良はふと振り向くと、
「ところで小野殿、良門の命はあとどれほどですかな。十年は持ちますかな」
と尋ねた。篁は瞬きもせずにじっと長良を見返した。
「では、八年」
そう言った長良に篁は微かに頷いた。
「ありがたいことです」
長良は深く頭を下げもう一度篁を強い目で見ると去って行った。
良房は邸で瞑想に耽っていた。父冬嗣が潔姫を迎えるためにとりわけ立派に誂えた邸は今の良房には身分不相応に豪奢である。だが考え事をする時は狭く昏い
「あの男・・・」
良房の頭の中に浮かんでいるのは篁の姿である。
「冥官だとは・・・の」
清廉な官吏が地獄の冥官になるというのは唐から伝えられた話にある。良門の話を丸々信じているわけではないが、ある事と考え合わせるともしかしたらという気になる。ある事とは小僧都伝灯大師空海がある時ぼそりと呟いた、
「あのお方は格別でございますな」
という一言である。ひどく気になって空海にはなんどかその意味を尋ねてみたが、空海は良房が納得するような明快な答えをしてはくれなかった。しつこく尋ね続けると空海は煩わしげに、
「
と言ったのだった。染殿とは自身が建立した
「しかし、格別と言う事であれば私より上と言う事にはございませぬか」
執念深く問い質す良房に空海はそれまでにない冷たい眼をして
「上と言う事ではございませぬ。別と言うもの」
「ならばどう別なのか申されよ」
良房は執拗に問い質した。
「染殿は帝を始め皆さまから愛される方、ですが・・・あの方はむしろ・・・」
そう言うと諦めたかのように空海は遠い目付きをした。
「懼れられるものかもしれませぬ」
それ以上いくら聞いても空海は答えなかった。
「妖しやもしれぬ。帝から遠ざけねば・・・の」
そう呟くと良房は別のことを考え始めた。良房には子供が一人しかいない。潔姫が漸く去年産んだ子供は女児であった。女児は女児で使いでがある、と良房は考えている。妹のように帝の正室にすれば良い。が後を継ぐ男子がなければ一代限りで終わってしまおう。
その上父冬嗣が亡くなってから緒継が式家を盛り返しつつある。緒継には
「近さよ、血の濃さよ」
暗がりの中で良房は呟いた。時の帝のどれだけ近くにいるかと言う事こそが重要だと良房は強く思い込んでいる。良房にとってそれは距離であり、血である。
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