第2話 冥土往還

「ようやく元気を取り戻したようだな」

篁が首だけを曲げ、声のした方を振り向くと学友である惟良春道これよしのはるみちの笑い顔があった。

「うん?何のことだ」

 そっけなく答えると、学友は

「ここのところ、妙に暗い顔をしておったではないか」

 と覗き込むような眼をしてきた。

「そうか・・・」

見抜かれていたか、と篁は内心苦笑いを浮かべる。乙訓寺から戻ってきてから暫く篁は思い悩んでいた。どうやら自分が岑守の実子でないのは確かなようだ。あの夜の父の沈黙もそれを裏付けているように思える。だが、岑守が実の父以上に篁をいとおしんでくれてきたこともまた確かである。

 それよりも驚いたのは母のことである。弟の千株ちかぶが亡くなった母の実子である事に疑いはない。その実子と差別しなかったばかりではなく、自分を長子として認めていてくれていた母の心情を慮れば、自分が貰われ子だと騒ぎ立てるのはいかにも浅慮であろう。

 実の母が己を地獄に招いたのは小春を救う為だけではないのではないかとも思え、暫くの間、考えた。現実を知ることで自分がどうするのかを実の母に確かめられているかのように思ったからである。考えあぐねた末にすっぱりと、全てなかった事にすると思い切ったのである。

「暗い顔はお前には似合わぬよ。この秀才が。凡才である俺が暗い顔をしていると言うならわかるが」

大学でめきめきと頭角を現し、僅か二年で文章生となった篁に比べ春道はだいぶ勉学で苦労している。

「何かあったのか?」

勘の良い凡才は遠慮なく尋ねてくる。

「いや、大したことではない」

風もなく陽だまりには梅の花が咲き始め、めじろやひよどりが花をついばんでいる。そんな風景の中を二人は並んで歩き始めた。

「なんだ、みずくさいな。お前でも悩むことがあるなら愚痴でも聞いてやるかと思っていたのに。たまには俺にそんな優越感を味あわせてくれてもよかろうが」

春道は冗談交じりに語り掛けてくる。

「悩む暇などない・・・。人無更少時須惜ひとさらにわかきことなしす、べからくおしむべし(歳をとってしまえば若い時代にもどることはできない、ひたすらに時を惜しまねばいけない)とでも言っておこう」

「ほう、後には何と続ける?」

問いかけた春道に対し、 篁は暫く黙って歩を進めていたが、

年不常春酒莫空としつねにはるならず、さけむなしくすることなかれ(とは言っても一年がいつも若い時代、青春というわけでもない、春に楽こそ楽しく飲むことのできる酒を今のまぬというのは無駄だ)でどうだ」

「ははは、酒というか。どうだ久しぶりに」

 春道は屈託無げに篁を誘った。

「よかろう」

この気持ちのいい男と飲んだら微かに残っている己の屈託も晴れようと篁の心は動いた。文章生の試験にこそ失敗しているが春道の詩には余人にない花があり、名前の通り今歩んでいる春の道のような駘蕩たいとうとした趣があった。歳が一つ上ではあるが年の差や試験の合否に関わらず、いつも同じ調子で接してくれる得難い友人でもある。

そんなこともあって、その夕、篁は春道の家で残り物の干魚を酒菜に酒を飲んでいた。

「すまんな。たいした物がなくて。まあこのような家だからな」

風が時おり隙間から吹きこんで来るあばら家の中を見渡して春道が苦笑いをする。

「いや、父の家に招ければ良いのだが・・・。いろいろと有ってな。今度は俺の曹司ぞうしに招くことにするよ、すまんな」

 篁がぼそりと答えた。

「なに、今を時めく参議様の家などに行ったら肩が凝る。俺なんぞ不良扱いでお主とつきあっては困るなどと言われかねない」

「父はそんな事は言わぬ」

篁の声音はしごく真面目であった。

「ははは、そう真剣に取るな。ところで最初は何の役目を拝するつもりだ」

弾正台ただすのつかさが良いかと思っている」

「お主がか?似合わぬの・・・。うん、いや、似合いか」

春道は目を泳がせた。

「どういう意味だ?」

「どっちだ。似合いの方か、似合わぬほうか?」

「どっちもだ」

一緒に大学にいた時のような気さくな調子で二人は話している。

「似合わぬと言うのはの、お主は文章の道に進むのかと思ったのよ。しかし文章を極めてもなぁ、出世は多寡が知れている。文章博士もんじょうはかせがよいところじゃ。まあ、東宮にお仕えでもすれば政にも近づけるが」

そういうと言い差した春道に篁は眼を上げて問うた。

「しかし、いかに優秀なお主でも東宮を教育する係りはやめた方が良い。それでは東宮さまが余りに可哀想だ」

ははは、と屈託なく笑う春道につい、篁も頷いて苦笑した。

「で、似合うと言うほうは?」

「まあ、おぬしは正義の士だからの。弾正台は似合いというところだ。ところで巡察弾正じゅんさつだんじょうとは諸国を回るのか?」

「いや。今は京と畿内だけだ」

「そうか」

春道はあごに手を当てて何やら考え込んでいる。

「どうしたのだ?」

篁が尋ねると春道は言うべきか言わざるべきか迷ったように再び眼を彷徨わせると小声で

「いや、俺は今は暇だからな。時間がある時にいろいろと諸国を回って見たりするのだがこれがだいぶひどい。殊に西国はひどいな。収八免二というが、取れ高はとても八には及んでおらぬ。種籾まで喰らってしまうような悲惨な状況だ。国司・郡司の取り立てはきつい。それでいて天災を理由に公には納めようとせぬ」

収八二免というのはみなし課税のような物でどんなに不作でもとにかく課税額の八割は完納せよと言うものである。以前は不三得七といって国司が取れ高に応じて免税するという仕組みもあったのだが不心得な国司がいて民から九をせしめて内には七と報告するような事があり財政の逼迫と農民の不満を同時招いたために仕組みを変えたのだ。

「そうなのか?」

篁は鋭い眼で春道を見た。

 除目じもくにあたって地方の国司になりたがる者たちが存外に多いのはそうした不正な経済的利益を求めているからである。とりわけ京職きょうしきになるのを諦めた不逞ふていな輩はやたらに地方に出たがっている。

 先の帝である奈良帝の時には不三得七に戻すと共に地方に観察使を置いて引き締めを図ったが、民は喜んだものの、中央・地方を問わず官吏の不評を買った。観察使が自分たちの利益を削るからである。律令というものは清廉な官吏を前提としており、それが機能すれば国家の維持と民衆の安寧が両立しうる。しかし官吏が自分の蓄財に励み始めた途端、国家と民衆が対立し国家は収奪の存在でしかなくなる。

「良いことを聞いた。お主・・・無駄に旅をしている訳ではなさそうだな」

「とはいえ、俺もこの先を考えたら地方官になるしかあるまい。そうなると俺も向こう側に回るのだろうな」

憂鬱そうにそう言うと春道は魚の骨を地面へ吐き棄てた。

「お前はさような者にはならぬだろう」

「簡単に言うがな。俺が万が一国司のかみになったとしてもだ、周りのすけやらじょうといったものたちが承知をすまい。蓄財の為に都落ちをしてくるのだからな。自分たちがその地位にいる間になるべく多くの分け前を取り置こうとするに違いない。そんなところで義を振りかざしでもしたなら下手をすると殺されるぞ」

首を竦めて寒さげな表情をした春道に、

「ならばまつりごとをおおもとから正しくするしかないな」

あっさりと言った篁を、何を寝ぼけた事を言っているんだという眼で春道は眺めてからため息を吐いた。

 「お主、心がけは良いがな。しかし一生など短いぞ、その間にせずとも良い苦労をうることになるぞ」


巡察弾正の仕事は思ったより単調だった。仕事と言えば役人が規則通り京の町を清掃しているかどうか確かめるようなものばかりだ。弾正台というのは本来左大臣以下の非違ひいただす役職であるというのに、左大臣どころか公卿にさえ手を出せるものではない。

 最高位の弾正尹いんでさえせいぜい従三位、迂闊に公卿に手を出せば反撃にあって役職を解かれてしまう。もはや尹は親王たちの名誉職に成り下がっている。篁は時間を作ると馬で近隣の近江や播磨に足を伸ばし諸国の様子をつぶさに見て回った。程度の差こそあれ春道がいっていたことは正しかった。京で座ったまま地方の窮状や不正を取り締まる事は出来ぬ。まずは不正を行わぬものを抜擢し国司に配し、なおそれを具さに見回る者がいねばいくら律令を整えても国はよくなりはしない。それについて父、岑守と議論を戦わせることもあったが岑守は顔を顰め、

「地方は国司を信頼して任せるのが筋じゃ。任せられない者となれば送り出した側に問題がある事になる。それに郡司の方が悪辣だとも聞く。律令の不足は令外官りょうげのかんで賄うとしておられるが・・・」

と言った。だが令外官は律令を補う趣旨であるものの、本来律令の中で解決するべき事柄に対し、時の権力が恣意的に対応する事を可能にする制度である。

 それどころかその年、検非違使けびいしという令外官ができて弾正台も役目が形骸化してしまう事が明らかになった。弾正台の中で若手中心に憤慨した者たちもいたが小疏しょうそ以上の管理職の関心は弾正台の役職が減るか減らないかの一点に掛かっていた。宣旨せんじのあったその日、弾正台の若者たちはやけ酒を飲みながら上司たちを散々罵った。篁も呼ばれたが一人黙って飲んでいた。顔色は酒で青白くなっている。

「篁、お主はどう思っておるのだ」

尋ねられても答えもせずに黙々と酒を飲んでいる篁を同僚たちは薄気味悪そうに見ていた。結局その夜、酔いつぶれた篁を直曹じきそうに一人残すのもまずいだろうと言う事になって三人がかりで篁の実家に運び込む事になり、大柄な篁を背負い込むこととなった者は、潰れかけた役所と篁の重さの両方に愚痴を零しながら岑守の邸の門を叩いたのだった。


その夜、紫宸殿ししんでんに一つの人影が現れた。あたりは細い月が照らすだけの闇である。人影はしっかりとした足取りで紫宸殿の入り口に向かうと手にした木札を勢いよく地面に差した。そして一つ大きく頷くと来た時と同じ足取りで去っていった。月が映す影はその男が大丈夫だいじょうふである事を物語っている。

翌朝、勤めにやってきた貴族・官人が紫宸殿の前でつどって、立てられた木札を覗き込みながら何やら話し合い始めた。そこには

 無悪善

の三文字があるのみである。惟良春道が通りかかった時には既に人だかりの山が出来ていた。

「さて、悪がなければ善かろうとは当たり前の事ではないか」

などと声高に言うものもあれば

「まさかさような当たり前の事を言うためにわざわざ内裏に木札を立てるようなものもおるまい。何やら裏があるに違いない」

というものもある。春道は構わず通り過ぎようとしたが目に入った字の形を見て思わず人を掻き分け木札の前に立った。字は隷書れいしょで堂々と書かれている。

「なんだ、書いた者に覚えがあるのか」

木札を抜こうとしていた近衛このえ衛士えじが春道に問いかけた。

「いえ」

そう答えつつも春道は暫く木札から目を離すことが出来なかった。木札が抜かれるとその足で春道は弾正台に向かって急いだ。篁は在席していた。春道の慌てた様子に篁が訝しげに眉を顰めたのを見て、春道は自分の推測が正しかったのか急に自信を失った。

「どうしたのだ。こんなところに」

「お主ではないのか?」

「む?何の事だ」

「紫宸殿の木札の事だ」

「そういえば、何やら人が集まっていたな」

篁は、そんな事かとでも言うようにもともと見ていた書類に目を戻した。

「お主の字であったぞ」

「木札がか?」

問うた篁は、顔を上げるでもなく相も変わらず書類に目を通しているばかりである。

「うむ」

「何とあったのだ」

「無悪善、と書かれていた」

じろり、と篁は春道を見た。

「ふん、そうか」

「何の事か分かるか?」

「想像はつく。が、そのような物は放っておけばよい」

「今一度聞くが、お主ではないのだな」

「違う。昨夜は飲みすぎて酔いつぶれておった。朝、目が覚めたら父の家におったわ」

「そうか」

 春道は肩で息をついた。

「いずれにしろ心配をかけてすまぬな」

篁の言葉は春道の耳に暖かく響いた。

 宮中では木札の噂でもちきりだった。警固の者たちを問い質しても木札を持ちこんだ者を見た兵はいなかった。書かれている三文字の意味を解する者はおらず、謎のままであった。やがてその噂は帝の耳にも入った。

「たいそう巧みな手で書かれていたと申すではないか」

帝が 尋ねた相手は中納言藤原朝臣三守みもりであった。

「さようでございます。しかし、宮中にあのようなものを立てるとは不届きな者でございますな」

「朕にも見せてみよ」

「いけませぬ。怪体けたいなものでございますゆえ」

「構わぬ」

運ばれてきた木札を眺めると、帝は

「このように大きなものを見咎められずに持ち運んでくるとは妖しの仕業かもしれぬな」

 と軽口を叩いたが、木札の文字を覆っていた布が取り払われると急に口を真一文字に引き締めじっと見入った。

「いかがなされました」

三守が心配そうに帝に尋ねた。

「弾正台に小野と申す者が居る筈だ。参議の息子だ」

帝は静かに言った。

「その者を呼んで参れ。この三字の意味が分かるやもしれぬ」

篁は父に伴われてやってきた。拝謁の礼を終えると静かに座る。

「参議小野岑守の息、篁であるな」

「さようでございます」

「紫宸殿の前に木札が立てられたことは知っておるか」

「人づてに聞いております」

「そうか・・・あれを見よ」

帝が指さすと供の者が木札を捧げるように持ち上げた。

「無・悪・善」

文字を一つずつ読み上げると篁は無表情のまま帝を拝顔する。

「何と読み解く」

「悪無ければ善なり、で宜しゅうございましょう」

体を前のめりに傾けると帝は篁を睨んだ。

「さような下らぬ答えを聞いておるのではない」

「されば考えを申し上げますが、畏れ多い事でございます」

「構わぬ。どう読み解いたとて何かをする事はない」

「では申し上げましょう。その前に一つ申し上げておきたいことがございます。わたくしは以前地獄の夢を見た事がございます」

「ふむ」

帝は興味深げに体を傾けた。

「そこで出会った僧がわたくしに申しますには、地獄の火は穢れた魂を清浄するための火との事。この世に生を受けた人は穢れない姿で生まれても自ずと現世で悪に染まっていく物なのでございましょう。されば人のさがは悪」

「ん?」

帝は何を言いたいのだと篁の唇をじっと見た。

「帝におかれましては嵯峨野に領をお持ちになっております。とすれば悪は人の性(さが)、悪は嵯峨、即ち帝を指すと考えます。これは『嵯峨無くばよかりならまし』と読むのでございましょう」

「何だと」

頬を朱に染め憤怒の形相に変わった帝の前で篁は平然としていた。だが父親の岑守や傍にいた藤原三守の顔色は蒼白になっている。

「これは読み解いただけでございます。さきほど、帝ご自身がどのように読み解こうと構わぬと仰せになられたではございませぬか。仰せになられた言葉が、まだこの辺りに漂ってございますうちにそれをおひるがえしになる事はよもやございますまいな」

「何を言うか?この三文字に寄せてお前がちんを謗っただけではないか」

 帝の声は震えを帯びている。だが篁はちらりと帝を見遣っただけで平然と続けた。

「帝ご自身の言葉は重うございます。それに何より解釈がご自身の気に障るからと言って罪を被せるような事があれば、以降書の解釈の道が閉ざされてしまう事になりましょう」

「むう」

顔を朱く染めたまま、帝は言葉に詰まった。

「ならばそれは善しとしよう。だが、この木札はお前が立てた物であろう。だからこそ読み解けたのではないのか。かように巧みに隷書を書く者はよそには知らぬ」

「それこそ謂れのないことでございます。わたくしは昨夜、弾正台の方々と呑み明かし正体のない程酔って父の家にかつぎこまれたのでございます。そのようなわたくしがあのような書を認め、あまつさえ内裏に忍び入る事などできましょうや」

帝は岑守を振り向いた。岑守は僅かに頷いた。

「では、弾正台の者を呼んで確かめさせよう。しかし、それほど言うなら、お前には読めぬものなどないな」

「さて・・・。ですがあたう限りは読んでみましょう」

「されば、文書博士を呼べ」

帝が大声で呼ばわると、慌てて侍従たちが駆けだして行った。


「木の頭切れて、月の中破る」

題を見るとすぐ篁は筆を執り不用と書いた。木の字の頭の棒を取れば不の字、月を割るように一本中に線を引けば用の字になる。文章博士は篁の答えを見て小さく頭を下げると次の題を渡した。

「粟天八一泥」

艶めいた話よと心の中で呟くと篁は加故都(かこつ)と書いて筆を措いた。「会わでや一人寝る」と読んだのである。その通りでございます、問いはこれで終いでございます、という文章博士の声に帝は、ううむと呻くと鬚を扱いた。

「先ほど、弾正の者共を問い質させたが、確かにお前は正体もなく酔っておったと申したそうだ」

「恥ずかしい限りでございます」

恥ずかしげな素振りなど些かも見せず篁は応えた。

「何か存分があるなら聞きおこう」

「ここで申し上げても構いませぬのか」

「構わぬ」

「ですが、先ほど構わぬと仰せでしたのにわたくしに罪をかぶらせようとなさいました」

「今度はそのようなことはせぬ」

聊か不機嫌に帝は言った。

「では、畏れ多くも申し上げたいことがございます・・・」

そう言うと篁は四半刻、それまで考えていたことを漏れる事無く帝に奏上したのだった。

聞き終えた帝は不機嫌そうな口調のまま

「分かった。もはや、それ以上言うな」

と篁を見据え、口髭を神経質に動かした。そして扇を広げると、暫く何事か考えていたが

「朕から一つお前に質したい」

扇の上にさらさらと筆を動かし篁に向かって掲げると、

「これを読んで見よ」

と指し示した。墨痕鮮やかに

「子子子子子子 子子子子子子子」

とそこにある。篁は微かに首を捻った。この頃、ちまたで流行っている言葉遊びは帝の耳にまで届いているらしい。

「ねこのここねこ ししのここじし」

あっさりとそう答えた篁を冷たい眼で見やり

「それがお前の迂闊じゃ。良く考えもせずに口にする。なぜ、猫が獅子の先に来るか。獅子こそ百獣の先にあるものじゃ。されば、ししのここじし、ねこのここねこと読むのが正しかろう」

そう言うと不機嫌そうなまま扇をはしと打ちつけ、帝は御簾を下させたのであった。


 清涼殿せいりょうでんから下がった篁がろうを進んで行く。さすがに実の父であると地獄で示された帝本人と差し向いでやり取りをしたことは篁の心をざわつかせていた。帝は間違えなく自分をご自身の息とご存じであろう。しかし自分がその事に気付いていると知っているであろうか?岑守は帝にそれを伝えたのであろうか・・・。

 湧きあがる疑問と興奮に気を静めようとゆっくりと歩を進めていたその時、向こうから公達の一団がやって来た。質のよさそうな袈裟けさを着た大柄の僧侶を取り囲むように華やかな声をあげ近づいて来る公達を見て篁は膝をついた。僧は眠たげな眼差しで瞬きもせずに公達きんだちの言う事に頷いたり笑みを浮かべたりし乍ら歩を進めてくる。

公達の中で一段と華やかな匂いを振りまいている若者がいた。その束帯そくたいは緑で位は高くないが、やがて周りの公達を圧する存在になる事を疑いなげに自信たっぷりに振る舞っている。

上人しょうにん様、東寺はいかがでございますか」

その若者が尋ねると僧はにこにこと笑いながら、

「たいそう素晴らしいところでございますよ。まことに国家鎮護に相応しい場でございます。帝や御父上には感謝してもしきれませぬ」

と答えた。ということは、この僧はこの年の始めに東寺をぶられた空海上人であろう、と篁は僧をぬすみ見た。その僧に纏わりつくように歩を進めているきらびやかな若者は右大臣の第二子に違いあるまい。右大臣藤原冬嗣ふゆつぐ次郎じなんが帝のなみなみならぬ寵愛を受けているというのは内裏だいりでは良く知られている事だった。若やいだ一団が傍らを通り過ぎて行くのを見送ると先ほどの高揚はどこへやら、少しうすら寒いような表情で篁は早足で立ち去った。

従って、後ろで空海上人が突然立ち止まって、

「さて、さきほど膝をついておられた方がおられましたが、あのお方はどなたですかな」

と若者たちに尋ねた事を知らない。

「うん?さような者がおったか?」

と周りの者たちに尋ねた緑の束帯の若者に別の若者が

「あれは参議小野殿のご子息でございます」

と答えた。

「あの者が何か?」

と空海に問うた若者が篁の後姿に視線をやると

「何やら、格別の御方でございますな」

空海は呟いた。

「さようでございますか?」

それまでの満面の笑みをすっと消すと若者は刺すような眼差しで篁の後姿を見遣った。

 その若者こそ・・・後の太政大臣、藤原朝臣良房ふじわらあそみよしふさである。


その日の内、篁が立ち去った暫く後の事である。空海の帝への奏上を聞き終えた三守と岑守は肩を並べて八省院はっしょういんへ向かっていた。

「岑守殿は、なかなか痛快なご子息をお持ちですな」

笑いをこらえるように手を口に当て、三守は岑守の顔を窺った。

「ご子息が意見をしていた時の主上の顔をご覧になられたか。始終苦虫を噛み締めるような顔をなさっておられた」

「まことに・・・肝が冷える思いでござった」

岑守はため息交じりに答えた。地方の飢えを滔々とうとうと説き国司共の非道を述べ立て、挙句の果ては任命の仕組みが間違っていると言いだした時はさすがに止めに入ろうと腰を浮かしたのである。

「だが飢饉も地方によって程度が異なる。それを具さに見て、取るべきところからは取り救うべきところは救うべきで一律に取り立てるのは過ちではないか、と申された時は思わず帝も頷いておられたよ」

と三守は賛嘆するかのように手を上げた。

「あのように直言できる若者は国の宝でござるよ」

「畏れ多いことです。だがそのあとに空海殿と一緒に参られた右大臣様のご子息の立ち居振る舞いは、粗忽な息子よりもよほどご立派だ。見習わせたいものです」

「さて、それだ」

三守はあたりを見回すと声を潜めた。

「どうやらあの者に潔姫きよひめが降嫁なされるらしい」

「まことでございますか」

岑守も驚いて歩を止めた。

「臣籍になられたとはいえ、潔姫は帝のご息女。臣下に賜ると言うのは信じがたい。それに潔姫はまだ御年十四でございましょう」

「そこが右大臣の巧みな所」

三守も足を止めると、

「皇女を臣下に賜るのは禁じられておりますが、それは臣籍しんせきに降ろす事のなかった頃の決まり。一旦臣籍に下りればその決まりに縛られぬとの言い分です。右大臣は近頃お身体が優れぬと仰っている。早くご子息の行末を確かなものにしたいのでしょう」

と岑守に囁いた。帝はしばらく前、まだ姫が幼いころに姫を含めた八人の子供に源の姓を与え臣に下ろしたのである。

「それにしても・・・」

言い澱んだ岑守に、三守は畳みかけるように言った。

「今でこそ、右大臣が北家、大納言は式家、私が南家と藤原の家も共に帝を支えております。小野殿のような旧家ふるいいえも等しく栄えておりますが、このままではやがて北家のみが突出するに違いあるまい。良房は甥ですが、どうもあの目から鼻に抜けるようなところが気に入らぬ」

「左様な事になるかもしれませぬな」

岑守は嘆息とも同意とも取れるような口調で答えた。

「大納言様も難しい方でございますからな」

大納言藤原緒継おつぐは式家の重鎮だが、頑固な所があり、昇進で冬嗣に後れを取るとその頑固さに磨きがかかった。式家の筋である種継の娘薬子が奈良帝を唆して変を起こした事が式家の重しとなっていることは分かる。だが、もう少し動いて北家の横車をを止めようとはなさらないものか。

「そこで一つ相談ですが、岑守殿が先程仰っておられた肝の冷え、それがしと分かち合いませぬかな。実はわたくしにはまだ嫁いでいない娘が一人おりまして。親が言うのもなんですがたいそう可愛い娘でございましてな」

三守は好々爺こうこうやの顔つきになると岑守を尻目しりめで見た。


 その日の夕、今度は篁が起居している曹司ざうしに春道が訪れていた。春道の家よりはよほどに掃除が行き届いている。どうも気に食わぬ、なぜこの男の棲み処はこうもきれいなのかと言いたげにさんの辺りを指でなぞりつつ、

「それで帝に直に質されたのか」

と問い質した春道の目には、讃嘆とも呆れ果てたとも取れる色が浮かんでいる。

「うむ。まあ試問のようなものだ。それもとりたてて難しい物ではない。謎々の類だ」

夕食にする菜を水で洗いながら篁が答えた。

「しかし、畏れ多い事ではないか。帝に直々に問い質されるとはな。俺ならとても平静ではおられまい。篁、お主、よほどに肝が太いの」

「お前に立札の事を聞いておいてよかったよ」

「しかし帝を謗る言葉とは思いもよらなかった。良く解いたな」

篁はふと菜を洗う手を止めた。

「当たり前だ。あれはつれづれに俺が考え出したものだ」

や、と叫ぶなり春道は手酌てじゃくで飲んでいた酒にせ返った。

「では、やはりあの木札を立てたのはお主か?」

「いや・・・父母や家の者共は確かに俺が家でずっと寝ていたと言っていた。それに幾ら酔っていたとはいえ木札を調達しそれに字を書いて内裏まで差しに行って全く覚えていないという事はない」

「ではお主と同じことを考えていた者が居ったという事だな」

「かもしれぬ」

そう言うと、篁は棒で叩いた菜を茹ではじめた。

「或いは、俺の心が彷徨って札を立てに行ったのか・・・」

「おいおい、怖いことを言うな」

春道は零した酒を惜しそうに拭くと、新たな酒を器に注ぎ

「おい、その菜を少し俺にも分けろ」

と篁を箸で招いた。しかし篁は上の空で

「獅子の子、子獅子、猫の子、子猫。なるほど獅子は猫より先か・・・。あの御方の仰りそうな事よ」

と呟いている。


年が改まり春、藤原良房と源潔姫の結婚が公にされた。三守や岑守のように内心密やかに懸念するものや、かつての有力氏族の伴や紀のように公然と非難する氏族も少なくはなかった。

 そうした反応を見越していたかのように突然、嵯峨帝は位を皇太弟に譲ると右大臣藤原冬嗣に告げた。帝が柏原帝同様、薨去されるまで位にいるのではないかと考えていた貴族たちは大いに動揺した。

 皇太弟である大伴親王おほとものみこは性温順で兄二人に比べ野心もなく、以前臣籍降下を願い出た事があったほどの人である。宮廷内外では、帝の長子正良親王まさらのみこが成長したら皇太弟を辞し正良親王に譲るのではないかと言う見立てもあった程である。腹違いの兄二人を太上天皇だじょうてんのうに戴いて国を治めるには人柄がおとなしすぎる、国の乱れの基になるまいか、冬嗣はそんな貴族らの意を汲んで帝を諌めた。

もともと嵯峨帝が即位するにあたって最初に立太子されたのは奈良帝の息子高丘親王であった。しかし薬子の変で奈良帝が追われると同時に高丘親王は廃され、その代わりとして急遽誰かを立太子をしなければならなくなった。その時最もふさわしいとされたのは大伴親王の長子、恒世つねよ王である。恒世王の母、高志内親王こしないしんのうは奈良帝や嵯峨帝と同母の子であり、橘家の血筋の正良親王より血脈では上位だったからである。

この事態に嵯峨帝も大伴親王も違う意味で悩んだ。帝には若い恒世王を皇太子にすれば正良親王が即位する目はないだろうとの思いがある。さすがにこの時点で息子の芽を摘んでしまうのは夫人になったばかりの橘智嘉子の手前、抵抗があった。一方、大伴親王は皇位継承に絡めば息子の命が危ういのではないかと恐れた。三年前に伊予親王が反逆の疑いを受けて無実を訴えつつも自害せざるを得なかった事は記憶に新しい。そこで両者の妥協の産物として大伴親王が皇太弟となり、時間を稼いだのである。

それ故、譲位に一番驚いたのは大伴親王その人であった。冬嗣から話を内々に聞かされた後では出家さえ考えた。

いかがいたしますか、お受けになられますか、と尋ねてきた冬嗣の目の底は冷たかった。仄聞すれば冬嗣も再三再四、帝に翻意を促していると聞いている。どうも自分は望まれておらぬようだ、と大伴親王は悟っていたのである。しかし六日後冷泉院れいぜいいんに呼ばれ五寸にも満たない近さで大きなまなこを見開き、諭すように

「朕は徳に劣る。それでもなんとか十五年にわたり政をして参った。もうよかろうて。といって奈良院は御存命。朕は太上天皇を辞しても良いが、それではそなたがどのような謗りを受けるか分からぬし、奈良帝がまたぞろ妙な気を起こされないとも限らぬ。従って気には染まぬが太上天皇となって命をかけてそなたを守り抜こうぞ。すべての政はそなたが良いと思ったようにすればよい。万が一大臣どもがごたごた言ってくるのであれば、朕の治世のうちに首にして進ぜよう」

とまで言われると大伴親王としても頷かざるを得なかった。

「で・・・皇太子は・・・」

「恒世王がなられるのが良かろう」

ぎくりと身を震わせた大伴親王は言葉を失ったまま考え込んだ。

「一日、日をくださいませ」

やっとの事で答えると、大伴親王はその足で恒世王の許へと急いだ。嵯峨帝の意向を伝えると、息子の緊張した眼差しに大伴親王は能う限り柔らかく微笑みかけた。

「良いか、恒世。あのお方はもはや翻意なされぬ。わしは皇位を受けねばなるまい。それにあのお方が御前を東宮に推しておられる以上、わたしも一度はお前を推さざるを得ない。だがお前を東宮にすれば必ずや良からぬ事が起こる。皇后や正良親王が本心で納得しているとは思えないのだ。私に考えがある」

「どのようなお考えでございましょうか」

「お前は直ちに東宮を辞退するのだ。場合によったら出家も考えよ。私はすぐに正良親王を皇太子に推す。帝は政を私に任せると仰せになられたのだ。最初からそのお言葉を違えられることはあるまい。後の事は任せよ」

「承知いたしました」

恒世王はほっとしたように顔を和らげたが、大伴親王は

「しかし、なぜ突然帝は譲位など思い立ったのであられるのか」

身震いすると天を仰いだ。


 そのころ帝は帝で大きな溜息を一つついていた。

「あの者が余計な事を言うからだ」

とひとりごつ。あの者とは篁である。篁と紫宸殿で対峙してからというものどこか自分が気弱になっているのを感じていた。それまで気にしていなかった民という存在が急に気になってきたのである。忌々しいが何事の決裁においても先にある民の事を考えると決断の矛先が鈍る日々が続き次第に鬱々としてきた。篁に指摘された時、

「しかし、朕は飢饉があれば過去の分まで含めて民に免租をしておるのだぞ」

と反論したが

「畏れながら民は十分とは言えぬまでもきちんと租を納めておるのでございます。それを一部の国司たちが京に納めておらぬだけ。免租をしても免じられるのは民ではなくてそうした国司たちでございます」

と言われてしまった。それが本当なのか確かめる手段である観察使を廃したのは己自身である。

「政は弟と大臣たちに任せてしまえばよい」

そう思うと少し気が楽になった。その気持ちを僅かずつ皇后に打ち明けると、皇后は

「帝のお考えに従います」

と言ってくれた。ただ、

「それで皇太子はどうなさいますか」

と尋ねて来た時

「恒世王よ」

と答えると、黙ったまま表情のない目でじっと自分を見詰めていたのが気懸りであった。恒世王と答えたのは長年考えに考えた挙句、血脈からそうあるべきであり、そもそも帝の血脈は一致団結して事に当たるべきだと思ったからであるが、智嘉子は違う風に取ったのかもしれない。自分が橘の生まれであるから正良親王より恒世王の方がふさわしいのだと儂が思っているのだと・・・。

「まあ、それが事実だからの」

うそぶくと帝は顎鬚を扱いた。

弘仁十四年四月庚子、大伴親王は即位し淳和じゅんな帝が誕生した。東宮に推された恒世王は直ちに辞退した。幾分かの揉め事はありはしたが結局嵯峨帝の息、正良親王が皇太子となった。嵯峨帝は当初抗ったものの、あの時后が見せた表情の乏しい、底冷たい目を思い出したのか、新帝の配慮に屈するかのように同意をしたのである。

 それから間もなく潔姫が良房に降嫁した。


潔姫の降嫁から半年ほど過ぎたある日、篁と宮内卿藤原朝臣三守の娘との結婚が密やかに行われた。三守の家に通い始めて三日目の夜、訪れた篁を三守とその息子たち五人が出迎えた。ところあらわし、という儀式である。三守はたいそう機嫌がよく、固めの餅を自ら運んで皆に振る舞った。五人の兄弟から、

「吾れらが妹の夫ではございますが、兄上と呼んで宜しいか」

と尋ねられ、初めの内はいやそのような、と拒んでいた篁だが皆勝手に兄上、兄上と呼び始めたのでもはや勝手にせい、と思い始めている。それにしても家族という関係に殊更自分が弱いのはどうしたわけか、と篁は新たな家族に取り囲まれながら考えている。もしかして・・・自分は本物の家族に憧れているのであろうか?


藤原三守の婿になるきっかけは、父の一言だった。

「宮内卿のところに良い娘御がおるそうだ」

呟いた岑守の言葉を父の家を久しぶりに訪れた篁は聞き流した。そのような話は山ほどくる。だが妻を娶る気はまだなかった。五日ほどしてまたやってきた日に岑守が、

「宮内卿が娘をどこにやるか悩んでおるのだよ」

と、今度はちらりとちらりと篁を見遣って言った。藤原三守は嵯峨帝の譲位と共に致仕ちししたが改めて宮内卿に任じられ、今は冷然院に参上する日々を過ごしていると聞いている。内裏に通う父とは会う機会も減っているはずなのになぜそのような事をと思いながら、

「さようにございますか」

素っ気なく答えた篁にうむ、と岑守が哀しげに頷いた。篁はその日春道に会うことしていたので気ぜわしかったのである。

 酒を酌み交わし合いながら、春道がにやにやと篁を見て来た。

「顔に何かついているか?」

尋ねた篁に春道はかぶりを振ると

「お主、近頃自分が何と呼ばれているか知っておるか?」

「知らん。そもそも私の事など人が興味を持つものか」

篁の答えに春道は噴き出した。

「何を言っておるのだ。帝をやり込めた挙句お父上と中納言どの、いや今は宮内卿どのか。お歴々の顔色をなからしめておいて人の噂にならぬ訳がなかろう」

「知らなかった。お主が変な噂を流したのではあるまいな」

「いや。お前はお父上や宮内卿どのが同席していたなんて言わなかったではないか」

「そうだったかな?で、何と呼ばれているのだ?」

春道は懐から紙を出して篁につきつけた。そこに黒々と野狂やきょうと書いてあるのをみると、眉をひそめ、ひどいな、と篁は呟いた。

「俺が思うに、噂は宮内卿くないきょうどのが流されたのではないか、でなければ太上帝か・・・」

 どうかなと首を捻りながら、宮内卿という名に篁は父の話を思い出し、

「そういえば宮内卿のところに一人娘がおられるそうだな」

と春道に尋ねた。ああ、と春道は膝を叩いた。

「若い男たちの間でもっぱらの評判だ。たいそう美しいということだが・・・だがなぁ、あの娘御は難しいぞ」

「ほう、なぜだ?」

「いや、やけに警固が固くてな。別に望みがあったわけではないが俺も一度行ってみたのだよ。そうしたら夜通し火を焚いておって兄弟やら家人けにんやらが替わりばんこに見張っておる。あれでは入る前に殴り殺されてしまう」

「そうなのか?」

父親から聞いた話といささか趣が違うので篁は眉を上げた。

「まあ、宮内卿殿の婿に納まれば俺にも栄達の目が出て来るのだがなぁ」

春道は暢気に言うと酒を呷った。

その夜は満月だった。月明りに萩の白い花がほのかに見え隠れする。帰りがてらにふと噂の宮内卿の邸の様子を見てみようと思い立った篁は三条の邸へと歩を進めた。邸の門に辿り着くと慥かに火を勢いよくかがっており、数人の男たちがその火を絶やさぬよう見張っている。

「なるほどな」

と感心をして門の前を過ぎようとした篁を見て男の一人が

「おお」

と声が上げた。すると突然門の周りに屯していた者たちが一斉に門の内へ入ってしまった。門は開いたままである。

「なんだ?」

 思わず門に走り寄り中を覗いたが男たちの影も形もない。

「これでは不用心ではないか」

と開いたままの門を眺めていると、中から一人の女人が現れた。

「小野さまでございますね」

「さようだが・・・」

見知らぬ女に名を呼ばれ途惑っている篁に女が門の内へと誘うような仕草をした。

「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」

「いや、約束などしておらぬ」

茫然と立ち竦んだまま掌を向けた篁に向かって女はにっこりとほほ笑んだ。

「前世からのお約束がございます。さあ、こちらへ」


 父は宮内卿から頼まれていたのだな、と篁は内心苦笑している。遠慮することはあるまい・・・はっきりと言えば良いのだ。

 そういえば父は時おり自分に遠慮をする。滅多にそれを感じることはない。いつもは好きなように生きろとばかり、放っておく。だが大学へ入る時とか結婚の事とか人生の転機の時には父はさりげなく道を開けてくれている。

 だが今回に限って父親の遠慮は無用であった。宮内卿の娘は親の自慢に違わず美しくたしなみの深い女であった。舅の宮内卿も父と同じく権力臭の薄い男のようで、こうして婿になっても実家にいる時のような気安さが心地よい。

「婿どのにはな、このような事があったのじゃ」

舅殿が帝の前で文章博士の問いに完璧に答えた事や、政について一歩も引かず帝に意見を具申した事を話すと新しい兄弟たちは眼を瞠って話に聞き入った。篁は皆のそんな様子を少し照れながら楽しんでもいる。

 新たな家族が出来た事ばかりではない。今までの家族とも結婚を機に変化があった。義母との長年のわだかまりが解けたのは、婚礼の前の日に以前見た地獄の夢を委しく両親に語った時だった。その話をせずに家を去るのは憚られ、ままよとばかりに両親の前で打ち明けたのである。初めの内、固い表情で話を聞いていた義母は小春を地獄で見つけたと聞くと、急に姿勢を正し篁を非難がましい眼で見つめた。だが、娘が天女になって昇って行ったという話を聞くなりおろおろとあたりを見回すと泣きだした。岑守が慌ててその肩を抱いた。

「では、あの子はもはや苦しんでおらぬのですね」

涙声で尋ねた義母の顔には小春の優しい俤がほの見えた。

「ええ、今は天上で安らかに過ごしているのでしょう」

「ああ、小春、小春。母を許しておくれ」

泣き惑う義母の手を取ると篁は

「母上のせいではございませぬ。小春が地獄で苦しんだのは私への恨みが残っていたからでございましょう。だからこそ、それがしが地獄へ会いに参ったことで恨みが消えたのでございます」

 篁の言葉に義母はいやいやするように首を激しく振った。

「そなたにもひどい仕打ちだった。許せばよかったものを」

「いえ。私の思慮が足りなかったのでございます。これからは母上を実の母と思って大切にして参りますゆえ、御許しください」

義母はしっかりと篁の手を握り言葉もなくただ頷いたのだった。


妻の袖子そでこは慎み深く、風流を解す女性でありながら明るい性格であった。最初の夜、事を終えて二人で月を眺めながら寄り添っていた時、

「父はこのところたいそう機嫌が悪しゅうございましたが・・・。お前さまが来てからというものなんとも晴れ晴れとしておられます。みなほっとしていることでございましょう」

と呟いた。

「ほう、さような事がございましたか」

篁が答えると

「ええ、小野様の倅殿は朴念仁ぼくねんじんなのか心が金石でできておるのかと一時はたいそう機嫌が悪うございました」

「それは・・・申し訳ない」

 篁は苦笑いをした。

「わたくしもこのままではいつまでも嫁げないのではないかと心配しておりました。父はあなたさまにたいそう御執心でしたからきっと最後まで諦めなかったでしょう。そしてあなたも・・・なかなか嫁のなり手がなかったでございましょう」

「どういう事です?」

尋ねた篁にほほほ、と手に口を当てて袖子は可笑しそうに笑った。篁を婿に取るなと言う意味を籠め、野狂と言う綽名をつけて触れ回ったのがやはり三守だと篁が知ったのはその後暫く経ってからである。

 翌年、袖子に子が産まれると三守はそんな事は忘れたかのようにすっかりいいおじいちゃんになって後院では太上天皇に、家では孫に仕えている。

 篁は弾正小忠だんじょうしょうちゅうに昇進した。今で言えば省庁の課長クラスである。同じ年に蔵人になり昇殿を許された良房に比べれば遥かに遅いが、それは良房の昇進が早すぎるのである。帝が変わっても良房の昇進は止まらず、新しい帝も嵯峨帝と同様、良房に全面の信頼と寵愛を寄せているようにみえた。一方で良房の父、左大臣冬嗣が薨じると藤原緒継が右大臣のまま太政官の首班に任じられ、宮中の力の均衡は保たれている。

 新しい御代になっても淳和帝は嵯峨帝の政治を殆ど其の儘引き継いでいた。唐様と仏教の栄華も以前通りである。晩年空海と険悪になった天台宗の祖である最澄は四年前に没したので今や空海が他を圧して朝廷の信任を一身に負っている。以前は最澄に深く傾倒していた三守も今では空海を崇拝している。だが篁はそうした風潮から少し距離を置いて律令を真剣に学んでいた。

三守は篁を良く自分の所へ招いた。袖子は時おり、篁にあなたは私の所へ婿へ来られたのですか、それとも父の所にですか、とからかい交じりに尋ねる程であった。義父は篁に内裏や院の話を良くした。いずれ内裏に昇る事になろう自分のためになさってくれるのだろうと篁も畏まって話を聞く。

「先だっての譲位の時にな・・・」

三守は首を捻って、細かいことを思いだすような仕草をした。

「譲位の時には皇太子であれ、皇太弟であれ、三度は辞すものだ。また東宮の指名の時も同じようにする」

「はい」

「帝は例に従って、三度辞されたが太上帝が御許しにならなかった。結果として譲位を受けられた帝はまず御長子の恒世王を皇太子に推挙した。その時先の帝は一度の上表で辞退を御許しになり直ちに正良親王を皇太子に推挙なされた。ただ一度だぞ・・・。あまり例のないことであった」

「内々にお話をつけられてあったのでは」

「そうかもしれぬが・・・しかし先の帝は当初、まことに恒世王を春宮になされようとなさっておられたのだ」

三守はその時の東宮の件に大いに巻き込まれている。正良親王が東宮に推挙された時、嵯峨帝が辞退させたいという上表を淳和帝に届けたのは三守自身である。上表は即刻差し戻された。

「ところが冬嗣殿から話があって、この邸で正良親王を預かり、そこから東宮坊に入れてくれと言う。帝からのご命令で皇后様も親王様もすべてご承知との事だった」

「太上帝はご存じなかった、と?」

「そこがどうにも腑におちぬ。わしの邸を使った以上、太上帝は承知なされていたと思うがの。あのお方は果断な御方。もし意に添わぬならどんなことをしても止めたであろうよ。たしかに恒世王を推しておられたが心の裡ではご自分のご子息を東宮になさりたかったのかもしれぬ。逆に今上帝は恒世王が皇嗣承継に巻き込まれるのを怖れておられた」

「なるほど・・・」

「あるいは御二方の意を汲んで冬嗣殿あたりが画策なされたのかもしれぬ」

「さようでございますか」

「まあ、これはこれで良かったのであろう。だが次に帝が御変わりになられるとき、またぞろこの問題が出来しゅったいするやもしれぬな」

「そうでございますな」

篁は深く頷いた。

その年の秋が深まったある日、三守は冷然院に空海がやって来たと聊か興奮気味に話した。その年の神泉苑しんせんえんでの降雨祈願が効いた事を帝に誉められ空海は小僧都しょうそうづに任命されている。

「あのお方はまことに民の為に力を尽くしておられる。任王護国般若経にんのうごこくはんにゃきょう講説こうぜつを知っておろう。実に格調が高い物であった」

篁は頷いた。篁とて仏の道を信じていないわけではない。人々の心の救済としての仏道は信じている。だが、その仏教が国家の鎮護を唱えて朝廷に深く入り込む事には少々疑問があった。

「その小僧都殿から婿殿の話が出てな」

「は?」

「三守殿の婿は参議小野殿のご子息でおられると聞いておりますがまことでございますか、と尋ねてこられたのだよ」

篁は黙ったまま、舅の顔を見つめ言葉を待った。

「そうでございます、と答えると小僧都殿が、あの方は格別なお方でございますな、と仰った。格別なお方とだぞ」

 お気に入りの婿を空海に褒められたのがよほど嬉しかったらしい。

「どうじゃ。一度暇な時に後院ごいんのほうに参上してみれば。小僧都様がおいでになる時を教えて進ぜよう」

「いえ、まだ私は役所勤めに精を出さねばなりませぬゆえ」

篁が公務を口実に断ると、三守は少し不服そうに、

「太上天皇もときどき婿殿がどうしているか尋ねて参られる。たまには冷然れいぜんの宮にも来るがよい。殿上と違っていつでも来れるぞ」

と口を尖らせた。

 しかし篁にとってはそれが鬱陶しいのだ。殿上にまだ上がることはできぬ身だが、後院では差し支えない。となると一度上がれば幾度も参上せねばならぬだろう。

「いずれそのうち」

「そうか。まあ、今のうちは勤めに励んだ方が良いかもしれぬな」

ため息をつきながら三守は篁の器に酒を注いだ。

 天長三年、一時は東宮に擬せられた恒世親王が病死した。新帝の嘆きは深く、一時は政に支障をきたした程である。政が滞るということは自然災害への備えが十分になされないという事にも繋がりかねない、とその頃は信じられていた。

 幸いな事にここ暫く旱魃かんばつや冷害による飢饉ききんは少ないが、畿内で地震が頻発しそのたびに人々は逃げ惑った。篁の家も幾度となく損傷している。そんな世情が落ち着かぬ雰囲気の春のある日、篁は久しぶりに長岡京に足を伸ばし乙訓寺の地蔵を訪った。乙訓寺に寄進をして地蔵の供養を頼んであったのだが、寺から相談したい事があると言う書状を受け取ったのである。春の乙訓寺は以前訪れた時の寒々しい景色とうって変わり花盛りの実に美しい寺であった。用を伝えると以前訪れた時に会った僧が出てきた。

「ご無沙汰をしておりました。毎年詣でたいとは思っておりましたが、いろいろとさわりがございまして」

篁がそう言うと、僧は篁を拝んで、

「いえいえ、あの折は大変なご寄進を頂き、また毎年色々なものを賜って有難いことでございます。都を外れたこの寺では滅多にないことと感謝しております」

と答えた。

「ところで、ご相談のおもむきとは」

庫裡くりで桜の花を浮かべた湯を飲み干し喉を潤してから尋ねた篁に

「ぜひ、ご自身の眼で見て頂きたいものがございまして」

と僧は静かに立ち上がった。

「これでございます」

外に出て地蔵の祀ってある小さな祠の前に来ると僧は静かに拝礼をした。覗いてみると身の丈に一寸ほど余る小さな祠の中で地蔵は真っ二つに割れていた。

「どうしたわけでございましょうか、祠には傷がございませぬのにこのように・・・丙寅の日になえがございましたでしょう」

僧は拝んだ手を静かに戻すと篁の方を向いた。

「京でも揺れましたが、さほど大きくはございませんでした」

「こちらではずいぶんと揺れました。次の朝、お花を供えようと参った者が気づきまして」

もう一度地蔵に手を合わせると僧は割れた地蔵を一つずつ取り出して、衣に包んだ。

「供養して差し上げようと思いましたが、貴殿が大変尊ばれておられたのでご相談申し上げようとお招きしたのでございます」

繋ぎ合わせた地蔵はまっすぐに篁を見詰めて来た。それを見つめ

「地蔵様は・・・まだ自分の役目が終わっておらぬと仰っている様です」

篁はぼそりと呟いた。

「では、いかが致しましょう」

「こちらにどなたか石工はおられますかな」

「はい。寺の近くにたいそう巧みな石工がおります」

「それでは二つの地蔵となして差し上げたいので頼んでは頂けまいか。費えはこちらで持ちますので」

「わかりました。では石工いしくを参らせましょう」

 さっそくその日のうちに石工を呼ぶと二つの地蔵に作り替える事を手配してから篁は長岡京を後にした。その後ろ姿を寺僧が拝みながら見送っている。

それから一月ほどしたある夜、篁の夢に善財が現れた。なぜか二人になっている。

「おお、善財様」

懐かしさに声を上げた篁に向かって二人の善財は

「迂闊じゃったわい。つい油断してしまったら、お怒りを蒙ってしまいましてな。今度は傷では済みませなんだ。あのままではなんともなりませんでのぅ。助けて頂いて有難いことです」

と揃って照れくさそうな顔で両の手を合わせた。

「もったいないことです」

「だがおかげさまで二体になりました。二人で合力ごうりきし何とか今度こそは御霊みたまを鎮めましょう。この数年瞋恚しんいが少し収まられていたのでつい油断しておりましての。修行が足りぬのう」

善財はそう言うと頭を搔いた。左側の善財が専ら話をし、右側の善財がにこにこ笑って頷いているのを見る限り、どうやら元の善財は左側らしい。

「いえ、そのような」

「おおかた帝が変わられたと聞いて血がたぎったのでござろう。ところで地獄にはあれより参っておられぬようでございますな」

「用事がございませぬので」

篁の答えに善財はにやりと笑った。

「妻を娶られたのですな。地獄など覗く暇もないのじゃろうて」

「そのようなこともご存じで」

「こちらにはそちらから色々な人が参られるからの。いずれにしても目出度い。大事にして差し上げなされ」

「承知いたしました」

「では、これで失礼いたしますかな」

そう言って体を翻そうとした善財を

「もし、善財殿」

と篁は呼びとめた。

「何ですかな?」

「ひとつ伺いたいことがございます」

「うむ?」

「わが国では仏法を国家の鎮護をするものとしておりますが、仏法の道としてこれは正しいのでしょうか」

 善財は振り向いたまま興味ありげに篁を見詰めた。

「ほう・・・お主はどう考えておられるますかな?」

「わたくしは仏法は人の道を説いておるものだと考えております。国家鎮護と仏の道は必ずしも相容れぬと」

「なるほどの」

「御坊のように人の煩悩を解いて回られるのがまことの仏道と思っております」

篁の言葉に善財はふふふ、と笑みを浮かべた。

「そうかもしれないし、そうでもないかもしれぬ」

「と申されますと?」

「仏の説かれた道は仏しか知らぬ。その仏の教えをそれぞれの者がああだ、こうだと解釈をしておられるだけじゃ」

「はあ・・・」

「善きかな、善きかな」

僧は納得のいかない顔をしている篁の目を覗き込んだ。

「あるものは仏の教えに衆生の苦しみを解く事を観、ある者は衆生の苦しみを起こさせぬように国を家として守る事を説く。それでよいのです」

「どちらも仏の教えなのでございますか?」

「そうでもあるし、そうでもない。だがどちらか一方がこれこそが仏の教え、他方は似非えせであると言い始めてはいかん。真実を知ることが出来ぬのに、己の説くところ、おのれの考える事こそが正しいと言い張るのは無知と驕慢きょうまんのなせる業とは思われませぬか?」

「なるほど・・・」

篁が頷くとからりと笑い、

「ほほほ、お主は存外素直な御仁であられますな」

そう言い残して善財は消え失せた。夢の三日後、乙訓寺から地蔵が出来上がったとの便りが篁に届いた。


 この頃惟良春道は従八位上、近江少掾として近江に赴任していた。だが、年に二度ほど京にやってきて、篁と交遊を絶やすことはなかった。

「今度婿に入る事になってな」

夏のある熱い一日、突然やって来た春道は濡縁にどっかりと腰を下ろし、供された冷し瓜を美味そうに頬張りながら篁に語りかけた。

「それはめでたい」

 篁は少し驚きはしたものの、年を考えれば遅いくらいだと寿ぎの言葉を述べた。すると春道は、ぺっと瓜の種を吐き出し、顔を顰めた。

「いや、さほどめでたくはないのだ。近江は万事鄙ひなびていてな。女もどこか艶がない。そんな中、ちょっと良さそうな女についちょっかいを掛けたのだ。郡司こおりのつかさの娘でおっとりとしたいい女だと思ったのだが・・・」

「ふむ」

 学友が言い差したので、篁は相槌を打って先を促した。暫く目をうろうろとさせると春道は仕方なさげに

「女のてて殿がな、娘に手を出した以上、責任を取れと言って国衙こくがまで押しかけると言う強者つわものでなぁ」

溜息を一つつくと、春道は真っ青な天を仰いだ。

「良いではないか。別にてて殿と結婚したわけではあるまい」

「ところがそうでもないのだ。おっとりした女だと思っていたのだが、血は争えぬ。いざ、婿に入ると決まったら女の方も地が剥がれてな、これがなかなかに気が強い」

しょぼんとした春道の表情に篁は思わず笑う。

「国司とはいっても少掾は卑官だ。何とか昇任なさいと当りがきつうてかなわん」

「なに、お主には文章の才がある。それを糧にすればいい。せっかくだから祝いついでにこの本を貸してやろう」

そう言うと、篁は奥に引っ込むと一冊の書物を取り出してきて春道に渡した。

「うん?元白げんはく詩集?」

「ああ、父が大宰府にいたとき手に入れたものだ。おそらく本朝ほんちょうにはこれ一冊しかあるまい」

 元白とは唐の詩人、元稹げんしん白居易はくきょいを束ねて称した名である。

「さような物、貸して貰ってていいのか?」

この時代、日本の貿易は国家間同士でしか許されないものであった。特に唐の珍しい文物、書物などは私貿易をして手に入れる事は許されていない。だが小野の家は初代遣隋使小野妹子以来、海外交流の先頭として有名な家系で宝亀ほうき遣唐使小野石根おののいわねも直系ではないが小野家の一員である。脈々と培ってきた海外との繋がりは唐に留まらず、新羅しんら渤海ぼっかいとの間にも存在している。家にはいくつかのそうした伝来物が眠っている。これはその伝手ではないものの、太宰府に赴任していた父が持ち帰ったもので篁に呉れたものであった。

「人に知られるなよ」

 唇に人差し指を当ててそう言った篁に頷き

「うむ。承知した」

瓜を急いで食い終えた春道はいそいそと葛籠の奥に大切そうにしまうと、訪ねたばかりだというのに嬉しそうに帰って行った。

「はや、お帰りでございますか?」

袖子が春道を送って戻ってきた篁に尋ねた。腕には四人目の赤子が抱かれている。これも男の子だった。近頃では乳母任せにせずに袖子自身がこうして赤子を抱いていることも少なくない。市井しせいの人と変わらぬその姿が微笑ましい。

 父、岑守は大宰府大弐だいにとして赴任していたが昨年、刑部卿ぎょうぶきょうとして京官に復した。時おり孫の姿を見せに行くが、騒々しく走り回る子供たちを扱いかねて、直ぐに途方に暮れた表情になる父を見るとずいぶんと年を取ったものだと思う。思えば、父はずいぶんと長い間地方官としての仕事をしている。ずっと京官として仕えてきた義父に比べれば、七つの年の差を割り引いてみても衰えは隠せない。母も相応に年をとってはいるが、父と十は離れているのでこちらはまだ元気に父の世話を焼いている。

初秋の或る日、その父が篁を呼び出し頼み事をしたいと言った。

「もう私も歳だからな」

父は誰にともなく呟くようにそう言うと

「太上帝からこの仕事を御前に引き継げと言われておる」

「嵯峨院さま・・・でございますか」

篁は微かに眉を顰めた。

「さような顔をするな」

岑守は微笑んだ。

高津内親王こうづないしんのう様の事だ」

「高津内親王様?」

嵯峨帝には今の皇后の前に妃があった。嵯峨帝が即位するとほぼ同時に妃になったこの内親王は二人の子供を産んだが、或る日突然妃を廃された。篁が陸奥で馬で野山を駆けまわっていた頃の事である。

「毎年太上帝様お手ずからのふみりょうを献じに参らねばならぬ。それが妃を廃される事への条件であっての。陸奥から戻った時以来私の仕事になった。大宰府に勤めておった折は免ぜられていたが」

「さようでございますか」

「内親王様はお子さま二人と愛宕あたごに住んでおられるが外に自由に出る事は許されておらぬ。とりわけ男親王はの」

「・・・」

「そこで見た事は口外してはならぬぞ。頼めるか?」

篁は肯った。


二日後、篁は愛宕に向かっていた。細い白雲が棚引いている山に向け馬を進めた先にあった邸では榊の厚い垣に囲まれた門を四人の衛士たちが厳しく守っていた。

「小野刑部卿の代理で参ったものだ。太上帝よりの料を持参申し上げた」

そう口上を言うと、門が開いた。

「さあ、こちらへ。遠い所、ご苦労様でございます」

小柄な老女が篁を誘って邸の中へ通した。

内親王は奥の暗い一間の几帳の後ろにうずくまるように居た。

「主上からの文を持参いたしました」

「読んでたもれ」

細い声が返ってきた。自分が読んでよい物かと篁は首を傾げたが、老女がすぐに明りを持って篁の手許を照らし出したところを見るとこれは毎年の行事らしい。火影ほかげに揺れる文の文字を一つずつ拾うようにして篁は読み始めた。読み終えると拝礼をし、もう一通の親王宛ての文はそのまま老女に手渡すと、後ずさりながら去ろうとした篁だったが

「毎年毎年、愚にもつかぬ言葉を書き連ねて・・・」

という内親王の声に動きを止めた。

「太上帝は我が子を何とお思いじゃ」

憎さを隠す事もなく罵ったが、

「いつもの遣いと違うようじゃの。顔を御見せ」

声を和らげた内親王の言葉に先ほどの老女が明りを掲げた。

「何と若いの・・・うん?」

内親王はふと首を傾げると、

 「お主はもしや、あの彰子様のお子ではないか?」

と言うと薄暗い場所からにじり寄るように近づいてきた。

「そうじゃ。そうに違いあるまい。眼も唇も大層似ておる」

声が若やいでいた。だが、たちまち咳き込むと、顔を隠し、手を振って退出を促した。

「たいそうご無礼を申し上げました」

内親王の許から篁を連れ出した老女は畏まって床に小さくなっていた。

「刑部卿の息子様が来られると申し上げておいたのでございますが」

「いや構いませぬ」

篁は小さく手を振ると、

「ところで先程内親王様が仰っておられた彰子さまとはどのようなお方でございましたのでしょうか」

小さくなったままで老女は答えた。

「彰子さま・・・太上帝様が親王であられた頃のおつきの采女うねめでございました。内親王様はたいそう気に入っておられ、時おり文などを交わされておられたようです。ですがある時ふっつりと東宮から姿を消されて」

 その女人こそが自分の本当の母なのだ。篁は直感した。

「その彰子さまという方は・・・」

言いかけた時、戸が開いて陽の光が差しこんできた。眩しい光に目を眇めそこに男と女の影を認めた時、老女がわななく声で

「親王様、内親王様、このような所へ・・・」

と突っ伏した。

「良いのだ、常陸ひたち。父からこの御方に会うように言われておる」

若々しい男の声がした。

大内記だいだいき様でいらっしゃいますね」

そう言った男の顔は、篁が陸奥にいた時、時折見かけた蝦夷の者たちに瓜二つの彫りの深い顔だちだった。女はうりざね顔で大和の女と言っても差し支えはないが色は抜けるように白い。今は宮中では噂にも上る事のないこの二人だが業良親王ごうらしんのうについては痴愚ちぐで東宮の候補にもならなかったと聞いた事がある。だが、目の前の若者は蝦夷の風貌かおだちではあるが、健全そのものだった。

「わざわざ料をお届けになって下さったと聞き及んでおります。有難うございました」

若者の言葉に隣にいた内親王も揃って頭を下げる。篁も黙ったまま頭を下げた。それから一刻と半、篁は打ち棄てられた兄妹と話し続けた。とりわけ兄の方は外の者と話がするのが初めてなのか言葉が熱を帯びていた。

「この家の者は良い者たちですが陰気でなりませぬ。子供のころから、私の顔を見ると涙ぐんだりして」

若者らしく、頬を膨らませて業良親王はそう言った。

「私は自分の事を不幸せと思った事はございませぬ。聞けば都でも飢えたり、はやり病に死ぬものも多いと聞いております。ここではそのような心配もございません」

「なれど・・・帝にもおなりになられたものを」

篁の言葉にきっぱりと、

「帝になれば幸せだと誰がお決めになられたのでしょうか。まあ母にはそういう期待もしていたようですが」

少し目を伏せ、

「木にもあらず草にもあらぬ竹のよの

        はしに我が身はなりぬべらなり

これは 母の作った歌です。ですが嘆いてばかりいて何が愉しいのでしょう。木でも草でもないと言いますが竹はしなやかに生きておるではございませぬか。ただもっとも・・・」

そう言うと業良親王は脇にいた妹内親王を見遣った。

「妹にはつらい思いをさせています。私が二歳になった時、伯父の田村麻呂たむらまろ様が私を見て阿弖流為の生まれ変わりじゃと申され、産まれたばかりの妹とここに連れてこられたのですが、妹はご覧のように普通の人と変わりがございませぬ」

「いいえ、兄さま。私は外を出歩けますもの。いつもこの家に閉じ込められておいでの兄さまの方がよほど不自由でおられます」

「何を言っているんだ。私だって夜ならば車に乗ってあたりを見まわることが出来るんだからね」

そう言うと業良親王は妹の手を取った。

「ですが外の者と話をする機会はございませぬ。時おりこちらにいらしてお話をしていただければ本当に嬉しくございます」

そう願った兄親王に頷いて内親王の家を後にした篁は、そのまま父の邸へと向かった。岑守は篁がやって来るのを予期していたように二人分の膳を揃え待っていた。

「ご苦労であったの」

いつものように優しげな言葉を息子に掛けると、

「息災であられたか」

と尋ねてきた。

「ええ。お子さまたちとも話をして参りました」

「それは良かった。儂も気に掛けておったのだが、年寄では話のくさがなくての」

「これから時折、訪れようと思っております」

「それは良い、それは良い」

岑守は手を打った。

「しかし、なぜあのような・・・」

篁の問いに岑守は憂いを浮かべた顔で答えた。

「それは分からぬ。だが決して内親王様の咎ではないと太上帝は仰っておられた。内親王様は嘘を吐けるお人柄ではないらしい。で、投降した阿弖流為を処罰した父帝の罪かもしれぬ、と」

「たいそう気持ちの良い若者でございました」

「うむ。だが、蝦夷の顔立ちの者を帝につける訳にはいかぬ。田村麻呂様は自死を覚悟されて内親王様に説得に当たったのだそうだよ。それで漸く内親王様は廃妃となられることを承知なさったのだ」

「むごい事でございますね」

「自死はなさらずに済んだものの田村麻呂様は心労が祟ってその年の内にお亡くなりになられた。太上帝はそれから信の置ける者に託してああやって毎年料をお届けになっている。

なおき木に曲がれる枝もあるものを

         毛を吹ききずをいふがわりなき

と内親王は御詠みになったがあの皇子達はけして曲がれる枝ではない」

「さようでございますね」

「内親王様も幸が薄くておられるが、あのお子たちの素直さはせめてもの救いであろう」

深々と溜息をついた岑守に向かって篁は思い切って口に出した。

「内親王様は私を見て彰子様の息子であろう、と仰られました」

手を掛けた椀を止め、岑守はゆっくり目を上げた。

「彰子という采女は太上帝がまだ親王におわしました時、不意に姿を消されたそうでございます」

「そうか・・・」

呟くと岑守は手にした椀を折敷おりしきに戻した。

「その御方は伏見の菩提寺という寺に葬ってある。一度墓を詣でてみるが良かろう・・・、ん、わしは川屋かわやに参る」

席を立った岑守が去り際に袖で顔を拭った。その後姿はひどく小さかった。


 「 大変でございます。お父上がお倒れになられました」

執務中の篁の許に転げるようにして遣いがやってきたのは翌年四月壬戌みずのえいぬの日の事であった。その年の始めに蔵人となった篁は昇殿する事を、今は許されていた。

「何?どこでだ」

血相を変えて立ち上がった篁の姿を見て遣いは怯え、腰が砕けた。篁はその頃の人としては大柄である上に、感情豊かな表情は驚きよりも誰へとも知れぬ怒りを露わにしている。

「・・・朝堂院ちょうどういんにて出雲国造いずものくにみやつこをお迎えしておられます時、俄かに胸を抑えられてお倒れになられました」

遣いが息絶え絶えにした答えを聞くなり篁は朝堂院へと早足で向かった。朝堂院の一角に戸板の上に横たえられた岑守の顔は蒼白だった。

牛車ぎっしゃで邸へお向かいなされ。車を入れる許しは得ております」

舎人の声に頷くと篁は戸板を網代車あじろぐるまに乗せ自らも乗り込んだ。

「父上、父上・・・」

叫ぶ声が網代車と共にゆっくりと朝堂院から遠ざかって行くのを聞き乍ら、何人もの者が悲痛な表情で見送っていた。


その三日後、鳥辺野とりべのの一角に一本の細い煙が立っていた。うららかな青い空にすっと一筋慎ましやかに昇るその立ち姿はいかにも父らしいと思いながら篁は見守っていた。傍らにはこの三日で体が一回り小さくなった義母が遠い眼をして空を眺めている。

「もう、そなた達と私を繋ぐ物はどなたもおられなくなったの」

肩を落とし気弱に呟いた義母に、

「さような事を仰いまするな」

答えた篁の頬も痩せこけ、眼は赤い。

「母上はいつまでもわたくしの母上でございますよ」

隣に立つ弟の千株も頷いた。二人をゆっくり見上げた義母の頬は涙に濡れている。

「篁、千株。わたしは世をそむき仏に仕えたいと思っております」

「心を強くお持ちなされ。子供たちも淋しがります」

篁の子供たちはみな男で、何故かこの義母を慕っている。

「そうかぇ・・・そうじゃのう」

途方に暮れたように呟くと義母はもう一度立ち昇る煙に手を合わせた。


「お出かけでございますか」

篁が狩衣かりぎぬに着替えたのを見て袖子が心配そうに尋ねた。

「うむ・・・」

「せめて水飯みずめしでもお召しになられてから」

「ああ、心配するな」

岑守が倒れてからというもの篁は殆ど物を口にしていない。

「ですが・・・」

「しばらく・・・。許せ」

「はい」

背中を見詰めている袖子の視線を感じながら篁は馬にまたがると供も連れずに邸を後にした。一条を西に都を離れれば追剥おいはぎや妖しの物たちが跳梁跋扈ちょうりょうばっこしている。その中を低い声で金剛経こんごうきょうを唱えながら篁は愛宕寺への道を進んでいく。遠くでふくろうの鳴く声だけが聞こえてくる。

 父を葬ったその夕、篁は善財が言った事をふと思い出したのである。

「地獄へ来るなら愛宕寺の井戸からおいで」

篁はその夜から愛宕寺を訪れ始めた 。怪僧、道鏡どうきょうたぶかされた称徳天皇しょうとくてんのうの手による建立こんりゅうという事が仇となって今の愛宕寺は荒れている。篁が着いた時、その堂は既に寝静まって闇の中に溶けていた。

 馬から降り、馬の背に魔除の経文を置いた篁が寺の裏手に回ると先に青鈍色あおにびいろに光る丸い輪が見えた。近づいてみると古い井戸である。井戸には高野槇こうやまきの枝がり合わせ垂れている。思い合わせるとこれが地獄への道に違いない。篁は枝を伝って下へと降りはじめた。その枝が重みに耐えかねたように突然切れ、あっと思った瞬間、篁は自分が木の椅子に座っており、どこまで続くのかと思うほど亡者たちが列をなしているのを眼前に見ていた。

横を振り向くと閻魔が自分を見下ろしている。前見た時は太上帝とそっくりであったが、今はどこからどう見ても閻魔そのものの太い眉、引き締まった口元の、謹厳で恐ろしげな顔をしていた。

「参じゃ。畜生」

閻魔が身丈に合わず小さな声で言う。目の前には帳面がおいてあり、従七位下石山宿祢忠元と言う名だけ記されている。その上に眼を移すと壱やら伍と記されており更にその横に人やら畜生やら餓鬼と記されている。筆を執って、参、畜生と記すと閻魔は満足そうに頷き

「次の者」

と呼ばった。閻魔は罪状と功徳を亡者に読み上げる。しかし来世にどう生まれ変わるかは篁にだけ小声で告げるのであった。そのまま鶏のときが聞こえるまで篁はひたすら閻魔のいう数字と来世を書き続けた。殆どが畜生やら餓鬼で人に生まれ変わるのは十に二つ・三つほどしかない。

やがてどこかから鶏の音が聞こえると閻魔は席を立ち、黙ったまま後ろの石戸いわとを開け退出して行った。亡者を率いていた鬼卒きそつたちも深く頭を下げて閻魔を見送り、さばき切れなかった亡者たちを率いて岩屋の方へ退出して行った。一人取り残された篁が呆然としていると遠くの方から小さな影が二つ篁を目指してやって来るのが見えた。あの善財と名乗る僧であった。

「ほい、やはりやって参られたな」

左の方が我が意を得たりとばかりににやりと笑うと、右の方が、

「やはりお主は冥界の主になる御方だった。されば、以前ここに来た時、閻魔様に見られても死なずに済んだのは道理ですな」

と頷いている。

「善財どの、これは・・・」

と篁が左右交互に目を遣りつつ尋ねると、右の方が

「百年に一たび、閻魔様は入れ替わるのでござるよ。お主は次の世は閻魔様として裁きを行うのでございます」

と答えた。篁が驚く間もなく左の方が

「それで・・・御父上にはお会いなされたか?」

と尋ねるので

「いえ・・・」

短く答えると、

「そうかそうか、ここにすぐやって来るものもあれば、暫くかかるものもございます。明晩もおいでなされ」

と右の方が言う。

「ただ早う戻らねばなりませぬぞ。朝露が乾く頃には冥界めいかいと現世の扉は閉じますからの」

左の方が言うと左右共々頷いて、

「帰り道を教えて進ぜましょう」

と合い和した。その時、地面が激しく揺れた。

「ほい、また暴れておるわい」

左の方がそう言うと、右の方に

御坊ごぼうはこの御方を連れて道を教えて差し上げなされ。わしは往って親王の御霊を鎮めて参る」

というなり慌てて元来た道を戻って行った。

「では、こっちへおいでなされ」

手を引いて歩き出した善財に

「こちらでも地揺れがございますのか」

と尋ねると

「もちろんです。御霊が暴れますからの。ここでその揺れを吸いきれない時にのみ現世でも地震なえが起きるのでございますよ」

と答えた。暫く連れ立って歩いて行くと白い霧の中から一本来た時と同じような槇の枝が垂れていた。

「これを登ってお行きなされ」

そう言うと再び激しく揺れた地面を見やって

「わしもすけに参らねば。ここで失礼させて頂きましょう」

ふっと笑うと姿を消したのであった。篁が槇の枝に取りついて昇り始めると程なく上にぽっかりと丸い穴が見えてきた。その丸い木の枠に手を掛け外に出ると、外はもう朝の陽で白み始めている。

「はて、ここは愛宕寺であろうか」

堂の様子が思っていたより行き届いているのを見ながら寺の表に回ると、門には福生寺ふくしょうじとある。さては往きと還りは道が違うのかと篁は天を仰いだ。馬を取りに行かねばならぬなと嘆息をついていると寺の脇で馬のいななく声が聞こえた。行ってみると乗ってきた馬が草を食んでいる。馬の背には昨晩置いた経文がそのまま残っていた。

 篁は首を捻りつつ馬によじ登るとそのまま邸へと帰って来たのだった。次の日も同じように愛宕寺に行き福生寺から戻って来たのだがやはり岑守は現れなかった。三日目の晩今夜岑守が現れねば転生てんしょうを既になされのだ、そう諦めようと考えつつ篁はみたび愛宕寺へと馬を進めていた。袖子にこれ以上心配をかけるのは心苦しい。

いつもの通り閻魔の隣に座ると帳面の横に薄く燐のように光る珠が浮かんでいる。これは何だろうと閻魔を見やると、

反魂珠はんごんじゅじゃ」

と閻魔は小声で教えた。

甲午きのえうまの日には反魂一つの天赦てんしゃがある。お主の裁量で使ってみるが宜しい。使われた者は八年命を長らえることが出来る」

そう言うと何事もなかったかのように前を向き、いつもの通り罪状を読み始めた。そろそろ鶏が鬨を作る頃、やはり今日も父は来なかったかと諦めかけた篁が帳面を見た時、そこに浮き上がったのは参議従四位小野朝臣岑守という名だった。思わず目をあげ目の前の亡者を見遣った。立っているのは確かに父である。

「参議従四位小野岑守。罪障ざいしょうは以下の通りである。若くして狩猟を好み、鳥、鹿、猪を多く殺しその肉を食らった。あまつさえその肉を腐らせる事もたびたびあり、無駄に殺生を行った。利を求め我が子でもないものを我が子となし世を偽った。愛した女をまことの妻とせず、女は嘆きの内に世を去った。」

父は黙ったまま俯いている。罪状は続き最後は

養生ようじょうを忘れ宮中にて息を引き取り穢れをなした」

というものだった。

功徳くどくは以下の通り。世をたばかりりはしたが貰った子を我が子の如く慈しんだ。死んだ女を丁寧に葬り供養を欠かさなかった。自ら治めた所の民を慈しみ、苛斂かれんな取り立てをしなかった。飢えに苦しむ者たちの為私設でそのものたちを収容し、施しを行った」

そう言うと篁を向き、

「四、人」

と囁いた。

「閻魔さま、この方に反魂を・・・」

「ならぬ、亡者の額を観よ。小野岑守、頭をあげよ」

閻魔の言葉に頭を上げた岑守の額には、「焼」と「腐」の二文字が浮かんでいた。

「死んでから二夜過ぎたものには腐の字が浮かぶ。火葬にしたものには焼の字が浮かぶ。そのいずれかがあれば反魂珠は使えぬ」

「なれど・・・」

言い返した篁に眼の前の亡者が、

「篁・・・。いや、閻魔様・冥官様に申しあげます。わたくしは仰せの通り罪深い身でございますれば清浄しょうじょう致したくお裁き頂いた年月を苦しみとう存じます。そしていかなる身に生まれ変わろうと来世は清く過ごしたいと」

その言葉に閻魔は深く頷いた。

「篁、達者で過ごせ」

篁ににっこり笑いかけ鬼卒に手を引かれ後ろを振り返る事もなく岑守は立ち去った。篁は呆然とその後ろ姿を見送っている。

「四、人じゃ。冥官殿。閻魔になれば最初の内は見知っておるものに会う事もある。いちいち心を動かしてはならぬ」

そう諭すと閻魔は、次の者、と声を励ました。篁は心ここにあらずの様子で、父の名の横に四、人と記した。

「もしや・・・そのお姿は小野殿ではござらぬか」

亡者にしては若々しい声にふと目を上げるといま一人見知った顔が目の前に立っていた。

大舎人おおとねり殿ではないですか」

帳面にも大舎人正六位上藤原朝臣良門よしかどとある。思わず篁は身を乗り出した。良門は藤原冬嗣の子であるが篁より七つか八つ若くまだ死ぬような歳ではない。冬嗣の子の中で篁が親しくしているのは長子の長良ながよしとこの良門の二人だけであった。

「なぜこのような所へ・・・」

問いかけた篁を閻魔は黙ったまま見ている。

「いや、突然胸が痛くなって倒れたところまでは覚えておるのだが、目を覚ましたらかような所に・・・」

心細げに辺りを見回すと、

「ここは閻魔庁にございましょうな。となると私は死んだと言う事でございましょうか」

そう言った良門に篁は微かに頷いた。

「寿命とあらば仕方ないが・・・ご存じの通り私にはまだ幼い子がございまして」

良門は途方に暮れたような表情を泛べている。確か産まれたばかりの赤ん坊が一人いたはずだ。

「そうでございましたな」

良門の額に二文字のどちらもない。子を残し、この歳で世を去るのはいかにも憐れに思えた。篁は閻魔を振り向いた。

「この御方に反魂を」

うむ、と頷くと閻魔は脇に控えていた鬼卒に命じ、高々と銅鑼どらを鳴らさしめた。


四条の長良の邸では長良をはじめ良房、良相よしすけら冬嗣の息子たちが集まって沈痛な表情を浮かべていた。父冬嗣が歿してから四年、兄弟たちは月に一度か二度こうして集まって宴を催して結束を固めている。六男の良門が宴に加わったのは初めてである。その良門が宴の最中に突然胸を抑えて倒れたのだった。

「もはや、いかぬようだな」

良門の枕元に座っていた長良が静かにそう言った。女子供は追い払いそこに集っているのは六人の兄弟たちだけである 。

「良房、そちには男子がおらぬ。そちが良門の子供たちを引き取ると言うのはどうだ?」

「それは構いませぬが・・・」

良房は顎に手を当てて答えた。万一、妻に子供が産まれなければ同母の長良か良相のどちらからかを養子を引き取りたいと考えていたが、長良の言う通りにしても良いかとも思った。

「父上が亡くなられてから年月も経ておりませぬのに・・・。この若さで良門が逝ってしまうとは」

三男の良相が溜息をついた時、死んだと思っていた良門が突然大きな咳を立てて体を起こした。冷静沈着を謳われていた冬嗣の子供達が一斉に飛びのくように後退りをした。

「良門・・・生きておったか」

眼を見開いたままあたりをきょろきょろと見回している良門に長良が尋ねた。

「はい・・・。あの、小野様は・・・?」

「小野様?」

良房が怪訝な表情で尋ねる。

「はぁ、蔵人の小野様でございます」

「小野殿なら父上を失くされたばかり。弔いで籠っておられるはずだが・・なぜ小野殿を?」

良相の問いに、

「いや、実は・・・」

閻魔庁で起こったことを良門が訥々とつとつと話し始め、残りの五人の兄弟たちは耳を傾けた。

「なるほど、小野殿は閻魔庁の冥官をなさっているのか」

良門が語り終えると良相は感嘆したように呟いたが、

「何を言っておる。さような事がある筈がなかろう」

吐き捨てるような声に良門と残りの四人が一斉に良房を見た。

「世迷いごとを今後決して口にするでないぞ。つまらぬ噂が経てば北家の名に関わる。わしは家の者に良門が生き返ったと告げて来るわ」

そう言って立ち上がると去って行った良房の後姿を残りの男たちが驚いたような顔をして見送っている。

「兄上はなぜあのようにお怒りで?」

良相は困惑したような表情で長良に尋ねた。

「さあ・・・な」

長良はふと表情を緩め、弟の肩を軽く叩いたのだった。


いみを終え再び出仕してきた篁を同僚たちは憐れみの心半分、恐れの心半分でちらちらと見遣っていた。篁はその頃の人としては大柄で六尺を越えた丈である。肉付きも逞しく馬に跨れば蝦夷を凌ぐほどの腕前であった。怒らせたら腕の一つも折られるに違いない、と色白で華奢な同僚たちは怖れている。そんな篁が別人のように痩せこけていた。

「地獄を見たようであられるな」

ひそひそとそんな噂をしている場に入ってきたのは、今は侍従となっている藤原長良であった。

「父上の事はご無念でございましたな」

長良がわざわざ自ら出向いて弔意を述べた事に驚きながら篁は礼を返した。

「少し宜しいか」

長良の言葉に席を外して立った篁を見送ると、周りの者たちが抑えていた息を一斉に吐きだし、互いに見交わした。その顔には困ったような、情けないような笑いが浮かんでいる。

「良門がな、世話になりました」

長良は朝堂院の近くの庭で篁に礼を述べた。篁は曖昧に頷いた。

「突然倒れられたと聞きましたが、良くなられたので?」

「うむ。しばらくは養生させておりますが」

「それはようございました」

そう答えたが良門に残された寿命が八年しかないと知っている篁の声は生彩にかけている。良門の若さを考えれば決して長くはない年月である。うむ、と再び頷いた長良は

「ところで小野殿。貴殿は律令を学んでおられると聞いたが、事実でござろうか」

「はい。その通りでございます」

養老律令を個人的に学び、どのような局面にどのように解釈すべきかを篁は考えている。

「それは良かった。実は四年ほど前から帝の命により大納言様が中心となって令義解りょうぎのげという名で律令の解釈を纏めておられる。そこで小野殿の話をしたらたいそうお喜びになられてな。ぜひ話をしてみたいと仰せになられておられる」

大納言とは清原真人夏野きよはらまひとなつのである。舎人親王とねりしんのうに連なるこの人物は明晰・清廉で世に聞こえている官吏であった。

「いかがかな」

長良の問いに篁は

「ぜひお願い申し上げます」

と答えた。

「それは良かった」

長良は破顔して、篁の手を握り締めると、

「弟の事もよろしく頼みますぞ」

と囁いた。

「良門様のことで?」

聞き返した篁に

「いや、良房の方です」

と長良は篁の目を見て頷いた。

「良房様?ですが、あのお方は私などより、よほど・・・」

言いかけた篁を制すかのように

「良房は確かに太上帝、今上帝の御寵愛を受けておる。やがてとうの弁になるでしょう。我が家の家系はどういうわけか次郎・三郎が出世する家でしてな。先祖が次郎の房前ふささき公であったからであろうが、父もそうじゃ」

そう言うと長良は擽ったそうに笑った。

「その良房がどうやらお主を気にしております。良門から貴殿の名が出た時、ひどく心を乱しておった」

「さようでございますか」

「うむ、良房は傑出しております。だが、傑出しておるがゆえに我が強い。悪く言えば人をばかにしておる。その良房が心から気にしておる者と言えばまずは空海殿」

「はあ・・・」

「そして小野殿、そなたですな」

というと長良は篁を見据えた。

「そのような」

「いやいや、私は人を見る目はある積りです。では大納言様に今から申し上げて参りましょう」

そう言って、去りかけた長良はふと振り向くと、

「ところで小野殿、良門の命はあとどれほどですかな。十年は持ちますかな」

と尋ねた。篁は瞬きもせずにじっと長良を見返した。

「では、八年」

そう言った長良に篁は微かに頷いた。

「ありがたいことです」

長良は深く頭を下げもう一度篁を強い目で見ると去って行った。


良房は邸で瞑想に耽っていた。父冬嗣が潔姫を迎えるためにとりわけ立派に誂えた邸は今の良房には身分不相応に豪奢である。だが考え事をする時は狭く昏い塗籠ぬりごめに入るのが良房の習慣であった。

「あの男・・・」

良房の頭の中に浮かんでいるのは篁の姿である。

「冥官だとは・・・の」

清廉な官吏が地獄の冥官になるというのは唐から伝えられた話にある。良門の話を丸々信じているわけではないが、ある事と考え合わせるともしかしたらという気になる。ある事とは小僧都伝灯大師空海がある時ぼそりと呟いた、

「あのお方は格別でございますな」

という一言である。ひどく気になって空海にはなんどかその意味を尋ねてみたが、空海は良房が納得するような明快な答えをしてはくれなかった。しつこく尋ね続けると空海は煩わしげに、

染殿そめどのは今上帝をはじめ皆々様から御寵愛を受けたお方。現世においてもっともめでたくまた立身出世なさる方はあなたの外にはございませぬ。お気になさることはございますまい」

と言ったのだった。染殿とは自身が建立した染殿院そめどのいんに頻繁に遊びにやって来る良房に空海がつけたあだ名である。

「しかし、格別と言う事であれば私より上と言う事にはございませぬか」

執念深く問い質す良房に空海はそれまでにない冷たい眼をして

「上と言う事ではございませぬ。別と言うもの」

「ならばどう別なのか申されよ」

 良房は執拗に問い質した。

「染殿は帝を始め皆さまから愛される方、ですが・・・あの方はむしろ・・・」

そう言うと諦めたかのように空海は遠い目付きをした。

「懼れられるものかもしれませぬ」

それ以上いくら聞いても空海は答えなかった。

「妖しやもしれぬ。帝から遠ざけねば・・・の」

そう呟くと良房は別のことを考え始めた。良房には子供が一人しかいない。潔姫が漸く去年産んだ子供は女児であった。女児は女児で使いでがある、と良房は考えている。妹のように帝の正室にすれば良い。が後を継ぐ男子がなければ一代限りで終わってしまおう。

 その上父冬嗣が亡くなってから緒継が式家を盛り返しつつある。緒継には家雄いえおという跡継ぎがおり自分がいかに太上帝や今上帝に寵愛されているといっても年や家格を考えればまず先に公卿に列せられるのは家雄に違いあるまい。家雄が式家を栄えさせればその分北家は食われる。潔姫を正室にしたことで良い事もあったが不便もあった。側室を持つのが難しい。万一潔姫が不平を言ったり良房を嫌ったりすれば嫁女に娶った利以上の不利が生まれかねない。潔姫は皇室との掛け替えのない橋渡しである。幼くして源氏に臣籍降下した潔姫は血縁を鼻にかけるような事はないが、良房の方でどこか遠慮をしてしまうのだ。藤原の先祖の不比等ふひと公は葛城帝が子を宿したままの妻を鎌足公に賜り産まれた子で、家のもとは葛城帝であるというのは藤原家の伝えである。良房はその話を信じているし、自分が皇族に繋がる血筋だと思っている。だが・・・、

「近さよ、血の濃さよ」

暗がりの中で良房は呟いた。時の帝のどれだけ近くにいるかと言う事こそが重要だと良房は強く思い込んでいる。良房にとってそれは距離であり、血である。

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