チューリップと風車

吾妻栄子

チューリップと風車

“咲いた 咲いた チューリップの花が


 並んだ 並んだ 赤 白 黄色”


 葉桜になったばかりの街路樹の並び立つ歩道。


 幼稚園の曇りガラスの窓の奥からピアノの音色に合わせて響いてくる子供たちの声。


「これ、チューリップ?」


 三歳になったばかりの私は右手に持ったお気に入りのおもちゃを隣の母に見せる。


「それは風車かざぐるま


 一本の軸に赤、白、黄色の三輪が並んだおもちゃだ。


「あか、しろ、きいろだよ?」


 三歳の子供には「目の前のチューリップの花がたまたま赤、白、黄色だった」という歌詞が「赤、白、黄色のものはチューリップ」という教示に錯覚されてしまうのだ。


「それは風車なの」


 アスファルトの匂いが立ち上る、若緑の揺れる道で、母は笑顔で幼い娘の手を引く。


「わぁーっ」


 吹き付けてくる磯の香りと共に勢い良く周り出した赤、白、黄色の車輪に私は目を見張った。


「綺麗な海でしょう?」


 母の手が幼い娘の小さな手を握る力を強める。


なぎちゃん、頑張って歩いて来られたね」


 鮮やかな三色の風車は向こうに広がる深藍色の海を透かしながら、風を受けて回り続ける。


 少し離れた所で小さな白壁の城じみた灯台が光る海と向かい合っていた。


 *****


「ママ、もういっかいよんで」


 表紙が小さな指跡だらけになったアニメ絵本の「おやゆびひめ」を押し出す。


 金髪にピンクドレスの愛らしいお姫様が真紅のチューリップの中に腰掛けている表紙だ。


「お母さんは明日あした、夜遅くまでお仕事があるから」


 黙って苦笑いする母に体してお祖母ちゃんが見かねた風に顔を出して声を掛けた。


「お祖母ちゃんが代わりに読もうか?」


 そもそも普段は一緒に遊んでくれるのも、ご飯を作って食べさせてくれるのも、お風呂に入れてくれるのも、夜寝る前に絵本を読んでくれるのもお祖母ちゃんの役目だ。


「いやだ」


 三歳児は残酷である。


 *****


「どうして親指姫の話がそんなに好きなの?」


 お祖母ちゃんと同じように温かく、しかし、もう少し柔らかでふくよかな手が幼い娘の小さな頭を撫でる。


「おかあさんのところにチューリップから生まれてくるから」


「そう」


「なぎはどのチューリップからうまれてきたの?」


 赤? 白? 黄色?


 どれかの色をしたチューリップからママの所に生まれてきたはずだ。


「なぎはママのお腹の中から生まれてきたんだよ」


 小さな体を毛布でくるみ直しつつ母は抱き寄せる。


 ふわりと二人の間をお風呂で一緒に使ったボディソープの甘い匂いが漂った。


「ねえ、ママ」


 ボーッ。


 窓の方から低い大人の男の人に似た音が響いてくる。


 あれは海を行く船の鳴らす音だ。


 夜の間でも灯台の照らす灯りのおかげで船は海を渡ってよその国や町に行くのだ。


 ママもお祖母ちゃんもそう教えてくれた。


「おやゆびひめのおかあさんはどうしたのかな」


 親指姫はお母さんの所を出たきり、二度と帰らなかった。


「どうしたのかな」


 ママはおうむ返しにして娘を抱く手を強める。


 ボーッ。


 先程より遠く朧気になった汽笛を聞きながら母子は目を閉じる。


 *****


「なぎちゃんてガイジンなの?」


 いつもの公園に初めて来た、近くに引っ越して来たばかりだという女の子が尋ねた。


 真っ直ぐな黒髪を二つ分けにして結い、細く長い目をまるで糸のようにして微笑んでいる。


 顔にも声にも意地悪そうな気配など微塵もない。


 しかし、それまで周りで無関係に遊んでいた少し年上らしい子供たちやその母親たちが微妙に強張った面持ちで一斉にこちらに目を向けるのを感じた。


「ちょっとやめなさい」


 その子のママがまるで娘が車の走る道に飛び出そうとしたかのように急いで止めに出る。


 真っ直ぐな黒い髪を後ろで束ねて細く長い目を見張っている。


 この子とこの子のママはそっくりだ。


「パパがオランダ人なの」


 後ろからママの温かな声がした。


 振り向くと、ママはいつもの穏やかな笑顔だった。


「オランダ?」


 引っ越して来たばかりのお友達は黒髪の頭を傾げる。


 向かい合う私にも初めて聞く国の名前だ。


「チューリップやフウシャで有名な国だよ」


 お友達のママはどこかぎこちない笑顔で付け加えた。


 それをしおに周りの年上の子供たちやその母親たちも元の遊びや世間話に戻り始める。


「砂場でお城を作ろうよ」


 お友達は目を糸にした笑顔で告げる。


「うん」


 こちらも素直に頭を頷けて砂場に駆けた。


 会ったことのないパパのいるオランダとはどこにある国だろう。


 そこにあるというフウシャとは何だろう。


 頭の中に幾つもの疑問が渦巻いたが、今、皆の前でそれを口にしてはいけない気がした。


 *****


「ねえ、ママ」


 今日は風の弱い日だ。


 手にした赤、白、黄色の風車がゆっくり回り出したかと思うと止まるのを繰り返している。


「オランダってどこにあるの」


 磯の香りが立ち込める中、藍色の海を白い船がゆっくり遠ざかっていくのが見える。


「海をいくつも越えた、遠い所だよ」


 ママは何故そんな寂しい声を出すのだろう。


 肩で切り揃えた真っ直ぐに豊かな焦げ茶色の髪、やはり同じ焦げ茶色の切れ長い奥二重の瞳。滑らかな象牙色の肌。


 ママは子供の私の目にも綺麗な人なのだけれど、少しも似ていないのが今更ながら寂しい。


「可愛い」とはよく言われるけれど、私の髪はママより二段階くらい明るい、赤みのかかった茶色の天然パーマだし、奥に引っ込んだ丸い二重瞼の瞳も灰色の入った茶色だ。肌も微妙にピンクの入った感じに白い。


 背丈も同い年の子たちより頭半分は大きいから、初めて会う人からはいつも実際より一、二歳上に間違えられる。


 仮に「可愛い」と褒められたとしても、それは「物珍しい」「自分たちとは違う」という線引きのニュアンスが含まれた形容であることは三歳の私にもうっすら察せられていた。


「ねえ、ママ」


 カラカラと音を立てて赤、白、黄色の小さな車輪が色を薄めて円くなり始めた。


 少し風が吹き始めたようだ。


「フウシャってなに?」


 ママは一瞬、少し困った顔つきになって答えた。


「風で回るもの」


風車かざぐるまのこと?」


 今、自分の小さな手に握っているオモチャがパパのいる遠い国にあるというフウシャなのだろうか。


「フウシャはもっと大きくて固い板でできているの」


 ママは風を受けて半ば透いて見える三色の小さな輪を眺めて苦笑いすると立ち上がった。


「お祖母ちゃんも待ってるだろうから、そろそろ帰りましょう」


 手を引かれて歩きながら振り向くと、そろそろ夕暮れに染まり始めた海の上で進んでいく白い船は小さな点に変わりつつあった。


 *****


「かぐや姫は使いの人たちと一緒に光につつまれながら、月へ昇っていきました」


 普段寝る前にお祖母ちゃんに読んでもらう絵本は「ももたろう」か「かぐやひめ」だ。


 特にこの絵本でかぐや姫を育てるおばあさんは優しく笑った顔がお祖母ちゃんに似ている。


「かぐやひめはなんでつきにいっちゃうの?」


 竹から拾って大事に育ててくれたおじいさんとおばあさんがいるのに。


 桃太郎は鬼を退治したら育ててくれたおじいさんおばあさんの所に帰ったのに。


「かぐや姫はもともと月の人で、月が本当のおうちだからだよ」


 お祖母ちゃんの手が幼い孫娘の髪を撫でる。そうすると、お祖母ちゃんがお風呂で使う固形石鹸のミルクじみた香りが微かに届いた。


 サーッと窓の外から雨の振り出す音が響いてくる。


 絵本のかぐや姫はツヤツヤと真っ直ぐな黒い髪をしているけれど、私の髪は赤茶色でくるくる丸まっているのが少し悲しい。


「つきってオランダよりとおいの?」


 パパのいるオランダをママは海を幾つも越えた所にある遠い国だと言った。


「オランダ?」


 お祖母ちゃんの顔から笑いが消える。


「なぎのパパはオランダにいて、そこはチューリップとフウシャのあるところなんでしょ」


 話す内にもお祖母ちゃんの顔からどんどん血の気が引いて強張るのでこちらも怖くなる。


「そんなとこ遠いし、ちっともいいところじゃないよ」


 お祖母ちゃんの腕がまるで縛るように幼い孫娘を抱き締めた。


「凪ちゃんのおうちはここなんだから」


 そんなことは知っていると思ったが、固形石鹸のミルクじみた匂いに包まれて、すぐ近くの仏壇に飾られたお祖父じいちゃんの写真を眺めていると、自分は何も言わない方がいい気がして口を閉じる。


 窓の外から聞こえる雨音はバラバラと叩き付けるような調子に変わっていた。


 今夜は船の鳴る音もしないし、ママもお仕事で帰らない。


 *****


「でも、まあ、私なんて随分恵まれた部類だよ」


 進み始めた船の甲板で、上下する床板を踏み締めながら笑いがこぼれる。


「死んだ祖父が麻酔科医で母は外科医だったから、母子家庭でも経済的に余裕があったわけだし」


 クー、クー。


 真っ白なカモメの群れが上下しながら後を追って飛んできた。


「普段は祖母が面倒見てくれたしね。高二の夏に亡くなったけど」


 二階建ての甲板で海面からは数メートル離れているはずだが、磯の香りと共に潮の飛沫が微かに顔を湿らせていくのを感じる。


「オランダのお父さんとは」


 まだ三回目のデートで明確に付き合うという約束を交わしてはいない彼はゆっくりと選ぶように言葉を続けた。


「ずっと連絡を取ることはなかったのかな」


 穏やかだが確かにこちらを見据える眼差しで、この人が逃げずに受け止めてくれていると分かる。


「私はね」


 飛沫で微かに濡れた彼の顔は飽くまで穏やかだ。


「高三の春になって、母からオランダの父が死んだと言われた。今までずっとお金を送ってくれていたと」


 グラリと揺れた甲板の床を靴の足裏に力を込めて踏み締める。


「父には向こうに別の家庭があって、その奥さんから遺産の一部を分与して送ってくれるという連絡が来たと」


 彼の手が伸びて私を自分の隣に引き寄せる。それで自分が随分不安定な場所に立っていたと気付いた。


「私が知らない所で、皆、不自由しないように動いてくれた」


 クー、クー。


 いつの間にか遠ざかったカモメの声がこだまする。


「誰も悪い人はいないの」


 クルーズ乗り場に向かう際に通り過ぎた古い朱塗りの灯台が小さくなっていくのが見える。


 夏の晴れ空と藍色の海に挟まれてはまるで忘れられたやしろのようだ。


「でも、いつかパパのいるオランダに行こうと思ってたのに、行く理由がなくなっちゃった」


“パパ”と口にしてからそんな感傷的な繋がりなど直には無かった相手だと今更ながら思い当たる。


 潮の香りを含む風が吹き付ける中、背中を擦る彼の手だけが温かい。


「実際のオランダはそんな一年中、赤、白、黄色のチューリップが咲いて、風車ふうしゃがのどかに回っているような所じゃないと行かなくても分かるけど」


 今時はテーマパークだってそんな古いステレオタイプのままではいてくれない。


「でも、父がいて待っていてくれる気がしたから行きたかった」


 現実には他に家庭のあった父にとっての自分は過ちゆえの落とし子、もっとはっきり言えば会いに来たら困る厄介者だったかもしれない。


 だからこそ、母も彼が死ぬまで黙っていたのかもしれない。


 けれど、私にはいつの間にか「オランダ」という未知の国がいつか会うべきパパが優しく微笑んで待っていてくれるもう一つの家のように夢想されていたのだ。


「こんな話、された方が困るよね」


 バッグからタオルハンカチを取り出し、何でもない風に頬の辺りから拭く。


 実際、どこからが海からの飛沫でどこからが涙なのか境い目が自分でも分からない。


「いや」


 陽射しを受けた彼の顔が眩しげなまま笑う。


「君から話してくれて良かった」


杉田凪すぎたなぎ”と字面は完全な日本人名なのに、風貌は赤茶けた天然パーマ、灰茶色の瞳、身長一六九センチの白人ダブル。


 外科医のシングルマザーに育てられた医学部一年生。


 同期の中でもかなり特殊な部類に属すプロフィールだから、彼も色々と察するところはあったかもしれない。


「僕を信頼して話してくれたのが嬉しい」


 この人は日本人男性としては中背で目線の高さは私と同じくらいだが、向かい合っていると、いつも広く大きい影に包まれるように感じる。


「今は難しいだろうけど、オランダには君が行きたいと感じた時に行けばいいんだ」


 温かだが確固たる声で語ると、静かに付け加えた。


「僕も行ってみたい」


 甲板の人影がゾロゾロと私たちを追い越す風に移動し始めた。


「もうすぐ向こう岸だよ」


 彼の指し示す先では、船客たちの頭越しに灰白のチェスのルークの駒じみた灯台が大きくなりつつあった。


 あれは随分古いけれど、確かまだ現役だそうだ。


 近付くにつれて風雪を経たひびすすも明らかになっていくが、だからこそ生きて動いている気がした。


「今日はまだこれからだね」


 顔を流れた塩辛い雫を拭き取ったハンカチをバッグにまた仕舞って、私は隣の彼の手を取る。(了)

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