春巡

森 瀬織

春巡


「ごめん、私好きな人ができちゃって──」

 と、うつむき加減に斜め四十五度。

 桜色に塗られた唇は光を反射している。

 彼女は筋肉質の男を僕の前に連れてきた。

 蛍の尻ような、黄緑色の主張が強い半袖のTシャツの上からでも明らかなガタイの良さ。

 たしかに湿度は少々高めで、もう春とはいえまだ充分肌寒い気温だろう。

 その服装は時期を先取りしすぎではないか。ぼくはニットの袖から毛玉をひとつ、もぎ取った。


 それが、ほんの数分前の出来事。

 変だとは、思っていたんだ。

「ちょっと話がしたいんだけど」

 ほんの少し上擦った声での連絡に。

 スウェット姿の僕は急いでニットを被り、家の近くにある桜の名所まで駆けつけた。


 桜の木のすぐそばに立つ彼女は、ちょっと洒落たレストラン、背伸びした街、いつもそういうところに着ていくピンク色のスカートを履いていた。

 そして彼女の第一声は、あれだったわけだ。

 ぼくはため息をつく。



『花見』という名の宴が繰り広げられる川沿い。

 規則正しくはめられた石畳は青いビニールシートか、足跡がついて茶色くしなびた桜の花びらによって覆われている。

 至る所で時間差で響く楽しそうな笑い声。

 羽目を外した奴らに囲まれるとうんざりするんだよ。

 近くに落ちているビール缶を蹴飛ばすと、軽く転がる。

 軽く凹んだ缶は羽目を外した一人の手に軽く触れてしまった。

 僕は歩くスピードを少し、早めた。


 下を見たって変わらないし上を向いて歩くか、なんて臭い台詞を呟いてみる。

「はぁ」

 二度目のため息。ほんのりと白い息が周りの酒臭い空気を押し出す。

 ……桜でも見ながら歩くか。



「……っ、すいません」

 足に何かが当たった感覚に咄嗟に謝る。

 ビール缶か、道にはみ出た酒酔いか。

 ……当たったのは、痩せこけた少女だった。

 華やかで、どこか浮ついた桜並木にはどうも不格好な、悲しげな雰囲気を纏った少女。

 まぁ、この雰囲気からあぶれているのはぼくも一緒か。

 僕は前に足を出すことは出来なかった。

 少女がすがるような目で僕を見るのだ。

 実家で飼っていた、年老いた柴犬の瞳を彷彿とさせるような目で。


「水が……。水が、欲しいんです」


 少女はそう、ひび割れた唇を小さく開けた。

 ──水? 水ぐらい、近くの自動販売機ででも……。

 罪滅ぼしのつもりなのか、『母性』なるものが実は心に潜んでいたのか。

「お母さんお父さんは? 」

 少女は小さく首を振る。

「一人で来たの? 」

 今度は首を縦に振った。

「お母さんお父さん探そうか? 」

 怯えるような目で僕を見る。

「……じゃあ、とりあえず、歩きながら自販機でも探そうか。きっと近くにあるだろうし」

 気がつくと、胡散臭い笑顔を浮かべていた。



 延々と続く桜並木。絶えずひしめき合うように並ぶビニールシート。

 自販機を通り過ぎて行く。

 僕は花見の名所をあまりにも甘く見ていたらしい。

 全ての飲み物に、売り切れを示す赤ランプが灯っている。

 普段では売り切れないような飲み物、ミルクセーキでさえ売り切れてしまっている。


 ◇◇◇


 ……やっと見つけた。


 赤いランプがついていない飲み物。

 そこだけが輝かしく見えるのは、気のせいだろうか。

 達成感に満ちあふれた僕は喉仏をゴクリと鳴らし、ズボンのポッケに手を突っ込む。

「……え? 」

 思わず間抜けな声が漏れた。

 いつもはここに小銭を入れているはずなのに、中に入っているのは糸くずばかり。

 ……そうだ。

 彼女に促されるがまま、慌てて家を出た自分の様子が脳裏を巡る。


 僕は今、一文無しだった。


 水を買うことも出来ない罪悪感とともに少女を横目で見ると、少女の髪には心做しか艶がない。

 もしかして、僕が歩かせたことで脱水症状が進行してしまったのだろうか。


「 冷たい水なら家にあるし、持ってくるよ。

 家、この近くだし、少しだけここで待っててもらえる?」

 思わずそう、口走っていた。

 少女は小さく首を傾げる。

「今、持ち合わせがなくて……。脱水症状、起こしているように見えるし……」

 少女は小さく頷いた。



 冷蔵庫からミネラルウォーターを二本取り出し、急いで玄関、階段を駆け抜けていく。そうしてそれを彼女に手渡した。

 その瞬間、少女は頭の上から水をかけた──。

「は? 」

 唐突な行動に、思わず腑抜けた声が出る。

 もしかして、僕も知らぬ間に脱水症状を引き起こしていたのか。たしか、幻覚もみえるって……。

 僕も何か飲まなければ。今見たことをなかったことにするかのように、もう一本のペットボトルを飲み干す。

 少女のほうに向き直った瞬間、ペットボトルが落下する音が鳴り響いた。

「え? 」


 なんだ、僕も疲れていたのかもしれない。


 それから、彼女はずっと家にいた。

「私、あなたが助けてくれたこと、感謝しているの……」

 そう、夜中になると表情を変えて声をかけてくる。愛着っていう感情を初めて僕は知ったよ。



 ──それから数ヶ月が経った頃だった。

 僕が人生最大の『モテ期』ってやつに突入したのは。

 女子からの視線を感じ始めるようになったのは、そう。

 あの、春の日からか。


 ◇◇◇


「おはよう」

 のどかな春の日。

 いつの間にか家に上がり込んでいた、3ヶ月ほど前から付き合い始めた彼女の声で僕は朝、目覚めた。

「あぁ……」

 頭を軽く掻きながら、ぼーっとした頭でキッチンに向かう。

「ねえ、あの大切にしてた棚の上の鉢植えどうしたの? 」

 物寂しい棚の上を指さした。

「んー。先週ぐらいに捨てなかった? 枯れちゃったから」

 気に入ってるって自慢げに言ってたよねぇ。

 そう彼女は続けた。

 靄がかかっているように思い出せない。

 観葉植物の見た目も、どのように手に入れたかさえも。

「そうだっけ」

 伸びをして曖昧な表情を浮かべた僕に、彼女は微笑んだ。

「今日さ、あそこ行かない? 」

 彼女は近くの花見の名所をあげた。

「もう少しピークが落ち着いてからでいいんじゃ……」

 そう言いかけつつ目をやると、彼女は睨むように僕を見る。

 例のモテ期のおかげで、選り取りみどりの中で選んだ美女だけれど、切れ長の目をした彼女の睨みは、怖い。

「今日じゃなきゃ、だめなの」

「あ、あぁ……」

 僕は思わずうろたえた。

 なんでそんなに今日、桜を見に行きたいんだよ。

 僕は仕方がなく、彼女に半ば引っ張られるように桜並木へと向かう。



 宴が開かれる集団のひとつを見つけると彼女は手を振り、長身で体育会系の男に駆け寄った。

「……実は、私……この人のこと好きになっちゃってね。だから、あなたとは別れたいの」

 男を見るうっとりとした目。

 男の、ワックスでしっかりと固めた髪。骨太な脚。

 僕は無意識のうちに寝癖を手で押さえつけた。


 そういうことか。


 僕のモテ期はどうやら今日で終わりらしい。

 不自然なほど、心に引っかかることもなく。

 彼女を引留めることもせず、僕は反対側へと足を踏み出した。

 さあ、せっかくだから、花見でもして帰ろうか。

 花見客で騒々しい、アルコールの臭いに包まれた中をひた歩く。

 こんな幸せな場所は……。


「あっ、すみません」

 足に何かがぶつかったような小さな衝撃を感じた──。

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