ホワイトルーム

宇佐美真里

ホワイトルーム

男は扉の前に立っていた。

「どうぞ」と言う声に従い、ドアノブを捻り奥へと押す。扉はギギッと小さく音を立てて開いていった。一歩、二歩前へと足を進める。

中はイメージしていたのとは違い明るかった。薄暗いものとばかり思っていた。明るいのは、その部屋の中全面が真っ白だったからだ。狭い部屋だった。部屋に窓はない。陽の光は入って来ることも出来ず、見上げても天井には明かりのひとつもなかった。床、壁自体が明かりを発光しているのだろうか?とにかく明るい。正面には長机がひとつ。その奥の壁には何もない。部屋の左右両脇には扉がひとつずつあった。そのどちらもがやはり白く塗られている。テーブルの手前にもひとつ、男の入ってきた扉寄りに、白い椅子が長机に向けて置かれていた。長机には座っている者がふたり居た。

「あぁ、イメージぴったりだ…」男はその者たちを見て、そう思った。


男は此処が何処なのか朧げに分かっていた。なんとなくだ。明確に知っていたわけではない。なにしろ男が此処に来たのは初めてのことだったからだ。


「まぁ、座るといいよ。立ったままと云うのも何だからね…」

長机につく者のどちらかが声を発した。どちらの者が言ったのかはよく分からない。促されるままに男は目の前にぽつんと置いてある白い椅子に腰を下ろした。椅子に座ると、長机の者たちと視線が同じ高さになった。男はその者たちへと交互に、そしてゆっくりと視線を遣った。向かって右に座っているのは山羊、左は羊だった。山羊は黒く、羊は白かった。


「此処が何処だか知っているかい?何故此処に来たんだい?」

黒山羊が訊いた。どうやら男が部屋に入る前の「どうぞ」に始まって、ずっと口を開いていたのは黒山羊のようだった。白羊はひと言もまだ口を開いていない。初めの印象と違い、山羊はよく喋った。寧ろイメージとは異なり羊の方が無口のようだ。そして部屋に入ってきたこの男も黙ったまま何も答えない。黒山羊はテーブルの上に両肘をつき、組んだ手の甲に顎を乗せたまま言った。


「世の中じゃあ、何故か羊は『良きもの』の象徴、山羊は『悪しきもの』の象徴として考えている節がある。だが、けっして私がみんなを此処に誘い出し、其処の扉を開けることを強要して、永遠の"責め"を受ける場所へと連れて行っているわけではない。真実は違う。君だって"責め"ではなく"やすらぎ"を求めて此処に来たんだろう?」


"其処の…"と言いながら黒山羊は左手にある扉を指差した。男から見て向かって右側にある扉。


「残念ながら君らのように"自ら"此処に来た者は、"其の"扉の先には進めない」


そう言うと、今度は向かって左側、羊の傍らにある扉を指し示す。白羊は頷きながら黒山羊の示した扉に目を遣った。


「此処のことを、何か言い渡されでもする部屋だと思っているんだろう?大抵みんな、そう思うのさ。そう云うイメージなのさ。『お前はあちらの扉…』『お前はこちらの扉を行け…』とね?でも実際のところは違う。『審判の部屋』などと君たちは呼んでいるけれど、そもそも審判を下すのは私たちではない。君たちが自分の意思でどちらの扉へ進むのかを決めるんだ。選ぶんだよ。自然と此の部屋に辿り着いた場合には…ね。自らの意志で此処にやって来た場合にはそうもいかない…君のようにね」


そう…。男は自らの意志で此の部屋に遣って来た。


「それでも…。それでも、君のように自らの意志で遣って来た者にだって、一応、もう一度考え直すことを勧めているのが私たちの役目なんだがね…。こんなにチャンスを与えているのに、なかなか悪いイメージと云うのは拭い切れないようだ…」


「確かにあまり良いイメージではないですね…貴方」

男は初めて口を開いた。黒山羊がそれに答える。

「だろう?困っているよ…正直。羊と私とは、対立するような関係ではないんだよ…。寧ろペアのような物だと云ってもいい」


「つい最近、僕の知り合いが此処にやって来たはずなんですが…」

男は呟くように言った。


「あぁ、覚えているとも。彼は其の扉を開けて中に入って行った…」

白羊が口を開く…ようやくだ。羊は…男から向かって右側、黒山羊の傍らにある扉を指し示した。先ほどの白羊と同様に黒山羊は、頷きながら羊の示す扉に目を遣った。


「彼は私たちの言うことに耳を傾けることもなく、強い意志で此の扉を開けたよ」

黒山羊は羊の言葉に続けて言うと、バトンを再び白羊へと渡した。白羊が再び口を開く。


「私は言ったんだがね…。


  弱音を吐いても構わない…。

  無理して笑わなくても構わない…。

  涙しても構わない…。

  目を逸らしても構わない…。

  背を向けたって構わない…。

  走って逃げても構わない…。

  背負っている物を下ろしたって構わない…。

  君が何かを背負う必要もない…。


ってね。だが、彼は首をけっして縦に振らなかった。ひと言だけ言ったよ。


    『もう遅いよ…』


とね。そして扉の向こうへ行ってしまったわけさ」

羊は肩を竦めて口を閉じた。


「止めなかったんですか?貴方たちは?」

男は少しだけ声の調子を強めて長机につく者たちに訊く。

「決めるのはあくまで当の本人だからね。一度二度、説得はしてみるけれど、最終的には彼の決めたことだ」

黒山羊も肩を竦め「私らにはどうしようもない」と続けた。


白羊が再度バトンを握る。

「君たちは何かにつけ『前を向いて一歩一歩、歩いて行こう』などと言うけれど、踏み出せないで居る時にそんな言葉が耳に入るものなのかい?寧ろ私はしばらく立ち止まって居たらどうだい?と薦めるね。時間は一定方向にしか流れない。逆方向には流れないことは君たちも解っているだろう?ところが時間とは違って君たちは、後ろにだって一歩二歩と下がることが出来るんだ。ただただ無闇に"前に前に"ではなく、立ち止まり"後ろ向き"に踏み"下がって"みては如何かな?其の扉の先は何処までも続く深い闇だ。一歩後ろに引き下がる勇気…そちらの方が掛け替えのない程の価値があるとは思わないかい?」


黙ったまま男は、扉を抜けていった知り合いに想いを巡らせる。


「君はあの右手の扉を開けて自ら中に入って行ったんだね…。

入ったら二度と戻れないあの中へ…彼らの説得も虚しく…。


人にはそれぞれの事情がありそれぞれの道を進む。他人が君の選択をとやかく言う資格はないけれど、君はずっと何かを叫んでいたんだろう…。誰も気付いてはやれなかった…もちろん僕も含めて。でも、僕は違う。一度は君を追って此処まで来てしまったけれど、やはり僕は行けるところまで行ってみようかと思う。このまま這いつくばって泥水を飲みながらゆっくりでも進んでみるさ。後ずさりもするさ。

君と話しをするのはまだまだ先にしよう。その時は、君が何を叫んでいたのか?いや、そもそも何も叫んではいなかったのか?それを君の居るそちら側で訊いてみよう。悪いけれど、まだもう少し待っていておくれ。一息ついてから、またゆっくり話聞かせておくれよ。それまでは寂しがらずに待っていて欲しい。いや、寂しがっても居ないのかもしれないね。もうしばらく掛かりそうだけれど。きっと会えるはずさ。いずれ僕も其処に行くことになるはずなのだから」


山羊も羊も黙ったまま、男をみつめている。

想いから立ち返り、男は顔を上げた。


それを見て、白羊がゆっくりと言う。

「"引き際が肝心"というけれど、自ら"幕引き"をしなくたっていいだろう。幕なんていつか必ず勝手に降りるものさ。私は"戻り際の方が肝心"だと思うんだがね…」


黒山羊が引き継いで言った。

「さぁ、それでも君は此の扉の向こうに向かうかい?君の知り合いのように。決めるのは君だ。誰でもない君自身さ。此の扉を開けるかい?それとも振り返り入って来た向こうへと此の部屋を出ていくか…」



「やはりまだ、"その時期"ではないのかもしれないですね…」



男は呟きながらゆっくりと椅子から立ち上がると、黒山羊と白羊に会釈をしてから入ってきた扉に振り返った。扉へと近づき、ドアノブを捻ると入ってきた時とは逆に、手前に扉を引く。ギギッと扉が音を立てる。一歩、二歩足を進ませ部屋を出ると、後ろ手に扉を閉めた…ゆっくりと。


扉の向こうで黒山羊が叫んでいた。

「戻ったら、みんなから私の悪いイメージを拭い去ることが出来るように何とかしてくれよ!私も、いつまでも悪者で居たくないからね!」


初めに男は「あぁ、イメージぴったりだ…」と思ったけれど全く違っていた…実際には。

男は閉めた扉を背にして笑った…。



-了-

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