第31話 水の行く末
豊臣家の慶事に、大名たちはこぞって祝を述べに大阪城に登城した。
「若君様の御誕生、まことにおめでとうございます。」
「ああ…与右衛門殿、朝子さん、わざわざおおきに。
挨拶を受けた北政所ねねは腕の中の赤子を二人に披露してくれた。
正絹に包まれた小さな命に自然と顔が綻んでしまう。
捨て子はよく育つという言い伝えから
この赤子は本当に一度城外に捨てられ、すぐに近習に拾われた。
北政所ねねの腕に抱かれた鶴松君は、たしかに茶々様がお手紙で心配されていた通りお体もお小さく月齢のわりにあまり泣かなかったが、けぶるような目つきの愛らしい赤子だった。
「赤子というのはほんに罪のうて愛くるしいもの…
秀吉公の喜びも格別なんえ。」
「そうでございましょうね」
高虎と朝子は頷いた。
朝子はちらり部屋を見回す、鶴松を抱いているのはねねで、そこに茶々の姿は無かった。秀吉の手で、生母の茶々から正妻のねねに「この子は私とおまえの子だ。」と預けられたと言う。
高虎もねねもそれが当たり前だという顔をしているので、そういうものなのだろう…。
「……与右衛門殿、仙丸殿を御養子にして、藤堂家も安泰かと存じますが…
これからどんなことがあっても、一の朝子さんを立てて何事もお任せするのが寛容でございますえ。」
朝子のほうがどきりとする言葉だった。高虎は
「はい。政所様。この妻はまことに過ぎたる女でございますから奥のことは全て任せます。」
と返している。
高虎とねねが当たり障りのない家臣と主君のやり取りを交わしている中、朝子は人形のように笑いながら、いつか自分にも求められるであろう「正室」の振る舞いを描き取るようにみつめていた。
▽
高虎は大阪城で大名らとの懇親があるため、夫人の朝子のみが旧知の茶々を見舞いに向かった。
「
最初の築城者は管領細川政元で、宇治川、桂川の合流付近に建てられた。大納言秀長が兄関白秀吉の命で茶々の産所として改修するまで天然の要害として存在した山城である。
川は穏やかに流れ、朝子を乗せた船は水を切って進んでいく。
(……主君の秀長様から頂いた仙丸殿……しかし必ず“天下“は移ろう…高虎様の血が残る事が、彼が一代で築き上げた御家の為になるのでは…)
—朝子の眼下の波紋は小さな泡となって呑まれていった。
淀城の奥、茶々が休養している部屋の四方にはしめ縄がとりまいていた。
出産の最中は安産祈願のために、魔除けの太鼓を打ち鳴らし、臣下の腕利きの武者が弓を空に向かって放ち続けたと言う。
「…朝子さま…きてくださったのですね…ありがとうございます…」
横たわる茶々は、朝子をみとめると少し笑顔になった。
…顔が青白い気がする…茶々様の乳母様が言うには、産後の
経験が無くどんな痛みや苦しみがあったか分からないながは、母となった20歳の女性を朝子は精一杯労った。
「お産で死ぬ人もあると聞きますから、私は幸運でした…それに男児でございますし…関白殿下に少しでもお礼が出来た気がして…」
茶々は心底ほっとしたように顔をふった。
この時代「医療」は限られた人間が受けられる特権だった。
上流階級でも病には投薬・儀式が基本で、
女性の出産は「病」ではなく「安産」を前提として捉えられ
むしろ「血の穢れ」を恐れ「しめ縄」で産屋をとりまいた。
子孫繁栄のために妻を多く持ち子供の頭数は確保したものの「母体の安全」に医学的に対処することは無かった。
「7歳までは神のうち」と言った言葉もあり、
未成熟な母体から生まれる新生児も低体重である事が多く、
また衛生環境の不足から合併症・感染症で乳幼児が死亡する事は珍しく無かった。
世の中が安定した江戸時代末期や、文明開花の明治時代でも、当時の日本を旅行した外国人が「内股でよちよち歩き、子供のように頼りない体つき」と評した日本人女性よりも平均身長が高く肉を食べ馬に乗る戦国の武家女性は壮健だったが、
それでも女性にとっては命をかけた大仕事に違いはなかった。
それを乗り越えた茶々の母としての強さを持った輝きは、
子の無い朝子には眩しすぎるほどだ。
「
「はい、昨年殿下のお住まい聚楽第に帝の行幸を賜ったばかり…晴れがましさが私のお腹に宿ってくれたようでございます。」
懸念だった九州を平定し、乱世の出口が見えた。
その喜びは昨年の後陽成天皇の聚楽第行幸という慶事になって現れ、
幼い頃は土に塗れ、長じては戦場で血に塗れた秀吉にとって人生の絶頂期であったと言える日々だった。
東の窓から西へ傾きはじめた太陽が見える。
それでも…その行幸に東国の雄北条氏は列席しなかった。
京雀は「氏政・氏直親子は天下に反する逆賊…近々関白は北条征伐を決行なさる…」と噂しているらしい。
(九助は徳川家康が必死に立ち回ってなんとか抑えている状態で、いつ戦になってもおかしく無いと言っていたわ…)
茶々の白い手を撫でながら朝子はこの若き母に幸せだけが降り掛かるように祈った。
▽
「…っきゃあ!」
船に乗ろうとした朝子の
驚く彼女を尻目に華奢な脇の下へ鍛えた太い腕を絡ませたと思ったら、そのまま攫うように抱き上げて共に馬に乗せられた。
恐怖で声も出せない朝子の被衣をずらして顔を覗き込んできた男は…
「た、高虎様」
恐怖が呼ぶ声に溶けていく。
「浅井の…いや今は淀の方様と呼ばねばならんな…ご健勝だったか。」
「は、はい…産後の肥立ちも順調なようです…」
「そうか…おまえも安心できたようで…なによりだ。」
騎馬の直垂姿の武者が、花繍の全面に入った裾を空に揺らす女を横抱きにした
そのうち下りる夜の帷にすべて覆われていく。
大阪城までの帰り道、高虎は何を話すでもなく前を見つめるばかりだった。
馬の歩みはゆらゆらと体を揺さぶり暖かい高虎の腕の心地良さに朝子は黒いまつ毛をうとうとと伏せた。
——ふと、暗闇の中、輿に乗って自分の元へ嫁いで来た日の朝子の姿が思い出された。あの日の気負い……そしてこの代え難い妻……
「…有田憂田 有宅憂宅 無田亦憂 欲有田 無宅亦憂 欲有宅…」
(なんでも、手に入れてしまった後の方が憂いが募ると、どこかの寺の坊主が言っていたな…)
迫る夜の隙間、川の水面には睦まじい男女の影だけが映っていた。
《※》
「出産」は骨格が未発達の十代前半は合併症の危険が高く、貧血・早産・低体重児の割合が20代の母体より高まり、30歳以上の「高齢出産」と並び「若年出産」も医療の発達した21世紀でも高リスクと言われています。
「医師」は古代日本にもおり、禁裏には「典薬寮」が置かれ「医官」が存在していました。
しかし外科手術ではなく投薬療法がメインで、殆どが「儀式」で病に対処するしかありませんでした。
貴族が弱体化し、武士が台頭する中世になると天皇や貴族にしか広まっていなかった唐・随から伝来した医学書が武士や庶民にも広がり「健康」の概念や「薬」が普及します。
意外にも足利義満の時代には人体模型「銅人形」が存在しており、
明への留学帰国者により「
しかし現代でも高リスクな妊娠出産だけは、当時の知識では対処のしようがありません。
中世日本の夫婦は思春期ごろのミドル〜ハイティーン同士である事が多数でした。産辱や子孫繁栄の為の性行為など精神的・肉体的に両親共に多大なストレスとダメージを残した事が想像出来ます。
・「有田憂田〜」は浄土宗の教えです。
田んぼがなければ欲しいと願い、手に入れたら心配する。家も同じ。尽きない人間の欲を表していますが、同時に人の世のむなしさも伝えてくれます。
いつも閲覧、コメント、レビューありがとうございます。
あまりハラハラドキドキは無いですし、主人公が流され気味ですが、普通の社会人の彼女なりの精一杯です(笑)
これからも読んでいただけると嬉しいです。
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