第32話 君に扇



 笛の音が夜の帳を裂く。


 演者が左、右、左足で後退しながら両腕を広げると、黒にすすき柄の衣装がまるで野原そのもののように展開した。


 永遠のように思われたその型は一瞬の出来事で、その後すぐに糸に引かれるようにすっと背筋と腕が天へと伸びて、右手に持った扇が高く掲げられた。華やかな振りを全て削ぎ落とした能楽独特の舞である。


 その扇に観客たちの目は持ち主の意に反して釘付けになる…——視線を絡ませたまま演者は糸が切れたように檜舞台に倒れ込んだ。


 と、同時に手にしていた扇がくうを舞っていた。


 音曲が終わり、舞台は静まる。


見ているものは、しばらく心を奪われたままだった。


 この大納言秀長のために催された能楽は、笛の音に誘われて、散っていった友を思う武士の物語だった。

 中世日本では「能楽」という言葉は物語のある舞一般を指し、今日の能楽は猿楽とも呼ばれた。また、同時に本膳料理が振る舞われ、鑑賞しながら食事を楽しんだ。

 

 秀吉や秀長は特にこのような舞台芸術を好んだ。

一説には彼らの実父は禰宜であったと言う、神道と密接に絡んだ芸事を好んだのは彼等の血ゆえかも知れない。




 (小一郎様…)

 家老としてそばに侍っていた高虎は、檜舞台の前の赤塗りの桟敷に座る秀長と秀吉の背中をじっと見つめた。

 秀長は、天正16年ごろからたびたび病で臥すようになった。—秀長が咳き込む、すると秀吉は金襴緞子の羽織が痛むほど腕を動かして背中をさすってやっている。

…吉川の横領事件で秀長の正月の参賀を拒否したものの、二人の絆は健在だった。

 高虎の深い目の奥がズキンといたんだ。その痛みは悲しみだった。


 


 「色々、心配しては、良くなるものも良くならんで」


 そうこぼして、関白秀吉は弟の手を取った。


 幼き頃は鍬を、

 若き頃は刀を、

 そして今はまつりごとを奮った手は同じ辛苦にまみれてきた弟の手を、ぎゅっと握って離さなかった。


 (…兄者…)

 (五つの頃じゃったかなあ…兄者と…山で迷子になったんわ…)

——夕日が沈む、夜が来る。子供の頃から小柄だった兄なのに、幼い秀長の手を決して離さずに「なんにも心配いらんがや」と励まし続けてくれた。


 「殿下…」


 秀長はもう簡単に『兄者』とは呼べない兄を、万感の思いを込めて見つめた。




 「…小一郎様…せっかく今これから…穏やかに過ごせる時が来られたと言うのに…」


 帰宅した高虎が重しを吐き出すように呟いた。


 「はい…。

ふじの方様も、血まじりの咳をなさる大納言様を心配なさっておりました…。」


 秀長の病は重いようだ。秀吉が「番医」と呼ばれるお抱えの医師を派遣して診させているが、

寛解は難しいらしい。

 肺から重い咳をして痩せていく様子は結核のように思われるが、

…この時代ではどうしようも無い不治の病だった。


 「……。」


 寝室の灯火を睨む高虎の目に炎のかけらがちりちりと光る。

もしも……を考えるのを脳が拒否していた。それでも、いつかこの予感を受け止めて前に進まなければならない。

 彼に迫る足音の主は、悲劇だった。


 「…高虎様…今日はおやすみになっては…」


 と、朝子は手水鉢で高虎の手を洗わせ、水を差し出した。


 「ああ…」


 水を飲んだ高虎は、隣に正座する妻の姿をじっと見つめた。


 「…小一郎様の北の方様は、大阪城に行くことになった。」


 嫌な予感を覚えながら、朝子は問わずに返した。


 「…病の夫のそばにおれないのは、大変心残りでございましょう…」


 「…関白殿下が一万石以上の大名へ大阪に妻を置くようにとお触を出された故だ。」


 一万石…といえば、官位を頂いた際に加増され二万石となっていた高虎も当て嵌まる。


 これは、戦時の際などに心置きなく戦えるように安全な大阪に留め置けという趣旨だった。

たしかに戦時に無法者を雇い略奪をさせる武将は多く、夫が遠征した武家の妻女子息は標的にされやすい。

 だが、これは体のいい『人質』であり、もしも武将が裏切れば、妻子は見せしめに殺される。乱世にはありふれた政治的取引だった。


 「では、私も参ります。

私のような田舎者では、大阪城で物笑いの種になってしまうかもしれませんが…

高虎様の恥になりませんようにいたします。」


 朝子は笑顔を作った。

健気な言葉に妻の腕を引いて腕の中にしまう。相変わらず柔らかくほっそりしていて、このまま折れて消えてしまいそうだった。


 「あ……だれか…女を残しますか?」


 胸板に頬を寄せる小さな白い顔が頼りなくて、感傷的にその貌を見下ろしていたら

なんの雰囲気も情も無い言葉が飛び出してきた。


 「…馬鹿な………」


 それはそれは模範的な「正室」の言葉に頭を抱えた高虎は、ふと思いとどまって

ある侍女の名前を出した。


 「ではあれを貸してくれ。いいな。」


 「……は、はい。」


 高虎は少し面白そうに笑っている。

朝子は名前を出された『侍女』を思い浮かべながら、困惑と驚愕が募っていた。




 鎌倉以前より領地を頂く名門大名である南部氏の『当主』が秀吉に面会を求めてきた。


 「遠いところからご苦労じゃった。どれ、信直殿…と仰ったか、茶や菓子はいらぬか」


 想像よりも若いその『当主』に秀吉はあれやこれやともてなしてやった。


「ありがたく頂戴いたします…」


 彼の方が混乱してしまうほどだった。

信直は饗応を受けたあと、

北国らしい白い顔に高い鼻筋の涼やかな顔に似合わぬなまぐさい血の匂いが漂って来そうなことを語り出した。


 南部家は日本の北の果てににあり

血縁の多い奥州特有の縁組もあって、

その広大で鉄の山地や金山、馬山地を抱えた領土を巡って身内での争いが絶えないこと。

 晩年まで実子のなかった先代当主晴政の後継とされていた信直の立場が危うく、家を守るために正式な南部家当主として、

今日関白秀吉に面会を求めて来たこと。


 「晩年の子は、かわゆいものじゃからのう」


 「殿下のように、お身内がしっかりとしておればこのような憂いもないのでしょうが…」


 信直は真摯透き通ったまなざしでそう秀吉を見つめる。


 先代当主晴政の待望の実子である晴継は幼く、いきなり当主に据えられても困ると家臣たちは反対していると言う。

…その実彼の母が農民で、そんなことも家臣たちが案じる理由だとは秀吉の前では信直は匂わせもしなかった。


 「それで、その晴継とか言う童はどうしておるじゃ。そなたが領国を空けて来ては、不安ではないのか。」


 「は……晴継殿は、つい最近わずか13歳であったのに、

病死してしまいました。」


 信直は目頭を抑えた。

「義理の弟でございますのに…」と、濃いまつ毛に涙が本当に滲んでいるが、直垂の長い袖でその口元は見えなかった。


 (…なるほどのう)


 秀吉は面白そうに大きな爛々とした目を細めた。


 

 「わかった、信直殿。其方こそが南部宗家のご当主。

今日この日より認めようぞ。」


 「…殿下、我らが日の本の北を守っておりまする。

ご安心くださいませ。」


 

 信直はそう深々と頭を下げた。

 南部の中に火種はいくつもある。しかし、これで大義を奮ってその火種を潰していけるのだ。




 「あずま…やはり鎌倉殿や平泉の世が君臨したところじゃのう…」


 西を制した太陽は、東へと登り始めていた。







《※》


この時代の病は、ほとんど死と直結していたといっていいものです。

『菌』と言う概念もありませんから、手洗いうがいもあまりしなかったようです。(それでも日本はお風呂などが発達していたので少しマシでした。)

手水鉢や水は、朝子なりに家中に感染症が入ってこないようにとの対策かもしれません。


南部家・東国…いよいよ北条征伐がはじまります。

私は何気にこれに関連した九戸政実の乱や伊達政宗の挨拶遅れなどが大好きなので、ちょっと長くなるかもしれません…


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