{鶴松の誕生、大阪城での夫人たちの交流}

第30話 秀長の恋


 以前受けた「秀長からの頼み」のために郡山城の奥の間に通された藤堂佐渡守の夫人朝子は許しを得て上座に目を向けた。


(……。)


 高麗縁こうらいふちで囲まれた一段高い場所には

大納言秀長と、

髪のない女性がちんまりと座っていた。


 「ご機嫌うるわしゅう…大納言様

…お方様。」


 49歳、権力も人徳もある秀長に今まで正妻は


 「うむ。そなたは、やはりそういう女だわな…。

 このおふじを大和大納言家の女主人として迎える。

都ぶりを備えたそなたに色々支度をしてもらいたい。」


 



 



 「ほんに、色々とすんまへん…。」


 秀長が政務に戻り、女二人の奥の間に静寂が下りると…

お藤…の方さまは深々と頭を下げた。朝子は慌ててそれを制する。


 「いけません、お方様。私のような家臣の妻に頭を下げては…」


 「うち…お方様なんて呼ばれてええ女とちがいます…たまたま宰相秀長様にお気に召してもろうて…

俗世から離れた身なのに……道理に反してのこのことお城にまで上がって………

心底、恥ずかしいおもてます……」


 お藤の小さな背は、丸まると、そのまま消えてしまいそうなほどだった。


 「お方様…廉直な大納言様が還俗させてまで貴女様を望むなんて、よほどいとしいと思し召しだからです。

胸を張って郡山城の女主人となられてくださいませ。

仏様は、幸せを探す道をこそ祝福してくださるはずです。」


「……すんまへん…すんまへん…」


 お藤の方は歳の頃は30半ばほど、見ての通り落飾しているが、秀長様の御心おこころを受けられているからかふっくらした白い頬には俗世の色がついて輝いていた。その頬に安堵の涙がこぼれて光った。








 「…お方様、ほかになにか足りないものはございますか?」


 お藤の方様は元尼僧であるという背景から嫁入り道具というものが全くなかった。


 大名や公家の婚礼では

家紋の入った美々びびしい漆器のお化粧道具から始まって、綿入りから絽の小袖の揃い、金襴緞子の反物などを長持衣類を入れる木箱に詰め、そのお道具の列は一町分にも連なることもあった。

 豊かな家ならば、加えて妻名義の土地や金子なども管理出来た。


 …世をときめく豊臣家の奥方になられるとあらば、遠い親戚でも名乗り出てきて恥ずかしくない支度をしてくれそうなものだが…。

……お藤の方様は、深い事情があって仏門に入ったのだろう。

 自分も「真っ当な嫁」ではない朝子はそんな心配は決して表情に出さず、

臣下の妻として小間物屋や反物屋などとの仲立ちや、付ける侍女たちの選抜にあたっていた。



 「みや姫様の打掛は…すぐ大きくなられますが、

贅を尽くしたものを…と大納言様がおっしゃっていましたが…」


 「娘にまで…おおきに…」


 驚くことに、大納言様とお藤の方様の間にはすでに姫がひとりお生まれになっていた。

三八みや様とおっしゃり、当年六歳。

愛らしい盛りではじめての子ということもあり、大納言様はそれは可愛がっていらっしゃる。


 (それにしても今まで隠していらしたのを…全く気が付かなかった…)

 

大納言様が突然この母子を公式な存在にされたことに、何か意味がありそうで

朝子は久しぶりの華やいだ雰囲気を楽しむとともに小さな疑問を抱いた。




 



 「まさか、小一郎様がな…。」


 婚姻の儀礼はお藤のたっての願いで行われず、ただ臣下に披露目するだけになった。

家老の高虎も挨拶を受け、主君の華燭の宴に正直喜びより驚きが勝ったようだ。……近しい家臣にさえも知らされないこの恋には、二人の想いの強さが滲んで、朝子には何となくが悪いような不思議な気持ちがする。


 「…おめでたいことですね。

お二人はまことに睦まじいご様子です。こんな世ですから思い人とのお時間は格別でございましょう。」


 宴が終わり、二人きりになった妻は何通かの書状に目を通している。その睫毛の影には濃い翳りが滲んでいた。


(……。)


——誰しもが、あしたまで、生きているかわからない



 朝子が、先の一揆鎮圧のことで思うところがあるのは高虎にもわかっていた。


…聞いてくれ、俺だって喜んであんなことをしたはずがない。14の年、はじめて落とした野盗の首の重みだって俺は忘れたことがない。

…それでも仕方がないのだ……俺には選ぶ道がない…

 そんな言葉が溢れそうになって、高虎は喉を鳴らして飲み込んだ。


少し前の自分ならば、彼女に理解してもらおうとあの綺麗な目を見つめながら言葉を尽くしたかもしれない。

…しかし、いま、到底理解してもらえるとは思えないし、朝子もそれを望んでいない気がした。


 「高虎様…夜は冷えますから、どうか綿入りを着てください。」


 あぐらをかいてぼんやりと己を見つめる夫に、朝子はそばにあった自分の綿入りを膝にかけた。


 「悪い。」


 高虎がこぼした一言に、朝子は黙って頷いた。わかってる、そう言ってくれているような小さな顎に手を沿わせて柔らかい頬を己の爪が欠けたガサガサした指で撫でる。

 —そうだ、言葉を尽くさなくても、この女はわかってくれる。

高虎は、ひさしぶりに心の底から息をついた。指から伝わる柔らかさに肩が軽くなる。


 「それにしても…大納言様があのように大胆だとは…少し驚きました」


 「…そうだな。大和は寺の権威が強い地域。少し前なら尼に手を出したとあれば、反発が強かったろう。」


 恋を叶えるのは、乱世において「特権」だ。身分が有っても無くても、そうそうできることではない。

 


 「しかしいきなりのことだったな…隠し女に子までいて…それを日の当たるところに…」


 「姫様もいらっしゃり、世の中も安定しておりますから…秀長様も家庭をお持ちになりたいと思ったのではありませんか?」


 「そうだろうか…」


 高虎は妻の頬から首に手を下ろしながら、考える。くすぐったそうな声が心地いい、その声をもっと聞こうと身を朝子の方に乗り出したところで

 

 「……あ、」


 と朝子が声を漏らした。それに色があったが、驚きの色だった。


 「た、高虎様…これを…」


 手の中の小さな頭が眼下に釘付けになっている。興を削がれた…つられて朝子が釘付けになっている書状に目を落とす。


なよやかな女手おんなでの筆跡は全てひらがなで高虎の青ずんだ目にもするすると内容が入ってきた。


 「浅井の方様が…ご懐妊…。」


 朝子が呟く。以前親しくなった秀吉公の御側室からの手紙には、喜びが文字となって連なっていた。


(……。)


 兄の秀吉に子が出来たのを知って、秀長はあの母子を公式な存在にしたのだろうか。豊臣家の屋台骨がより強固な一本を得たような安堵を高虎は得たが、朝子は自分がの高い壁に内心爪を立てた。

 



 天正17年、関白豊臣秀吉の後継者 すて君が誕生


浅井茶々所生である。


 



《※》


秀長の妻は、長浜時代にもうすでに正室がいてその女性との間に『与一郎」なる嫡男がいたという記録もあります。

ですがこの小説では、都合上奈良の長谷寺に寄進した金燈籠に名のある和州大納言秀長公姫君 三八みや(のちの秀保の妻)ときくを実子として登場させていただくことにしました。


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