第27話 恋重荷



 「仙丸様は、賢うございますね」


 千字文せんじもん…漢字の書き取りももうすぐ終えようかという『息子』を『母』は大袈裟に褒めた。


息子…仙丸せんまるは、その母の白い手をちらりとみて、恥ずかしそうに笑った。


実の父母と三歳で引き離され、鞠のように権力者の間を手渡されてきたこの小さな子供。

…九歳と聞いていたが、ずっと大人びて見えるのは、そんな生い立ちからだろうか?


 「そんな、これからまだまだ、論語や孟子など学ばなければなりません。」


 『武士』は、ただ刀と槍を振るって首を持ち帰ってくればいい生き物ではなかった。

日本は中国や朝鮮半島とは異なり、『科挙制度』は全く取り入れておらず、試験に受からなければ仕事に就けなかったり家督を相続出来ない訳ではなかったが、

教養として武芸以外の学問を修めることを奨励する空気がある。


 「…私も、仙丸様に教えられるように、また学び直しますね」


 飾らない言葉をくれる目の前の女性に、仙丸はたどたどしく言った。


 「母上様、どうぞ、敬わずに呼んでください」



 (母……)


 「……はい、仙丸、…殿…」



 身寄りのない子供のをよくよく理解している仙丸はよく懐いてくれる……いや、懐こうとしている。



その様が、この世に放り込まれて必死に一つの背に縋って生きてきた自分と重なる。





 秋、将軍足利義昭が京の都に帰還を果たした。

彼は身分の重荷に流転されながらも、

毛利氏に身を寄せていたともから関白秀吉に島津氏との和睦を勧めるなど世の平和のために尽力した。


 「公方様、ご帰還、

おめでとうございまする。」


 秀吉は、信長健在の時のように義昭を『将軍』として扱った。


 「筑前守…いや失礼…秀吉公…ご健勝そうでなによりじゃ」


 この男……秀吉の事は若い頃から知っている。

ただの侍大将だった時から……

昔から小男で武将としての風格には欠けるが、大きな透き通った瞳にはいかにも賢そうなきらめきが収められていた。


(……。)


 義昭の胸に今日までの日々が走馬灯のように迫り、

そして、驚くほど体が軽くなった。



 「…関白殿下、どうぞ朝廷を頼みますぞ。」


 義昭は、心から秀吉にそう言った。




 義昭は秀吉と共に参内し将軍職を返上、

朝廷より准三后の待遇を与えられ、晶山と称する。


 足利幕府はここにその歴史を終えた。


 義昭は政治闘争から身を引いたが、

秀吉の御伽衆となり長年よき話し相手として彼のそばで戦国の行く末を見守ることになる。







 「俺にはさっぱり分からん。」


 高虎は、妻朝子が読む本を覗き込んで、連なる漢字にうんざりとした顔をした。


 「私も、解らなくなるのでいつも読み直します。」


 油断すると、こちらの書体はすぐに読めなくなる。

だが、それでは「正室」として働けないのだ。


 

「高虎様、仙丸殿には『孟子』は良くありませんでしょうか」

 


 「俺には学がない。なぜあかんのだ。」


 珍しく近江訛りが出るほど高虎は素直に聞き返してきた。


 “孟子“は、氏を孟、字を子輿という中国の思想家の逸話集である。

有名なのは、周の国の武王が殷の紂王の圧政に謀反を起こし、国を治めたという話だ。

つまり、権力とは絶対のものではなく、そこに仁義や義務を果たす責任が無ければ、臣下が王を討つことは正当性があるという教えだった。

…万世一帯の天皇家を戴く日本においては、あまり好まれなかったと史学の教授が語っていたような…


朝子は概要を話し、再度問う。


 「むしろ学ぶべきだろう。」


 高虎はあっさり吐き捨てた。


 「……そうでございますか」


 江戸時代以降、大陸から儒学がもたらされ、尊皇、佐幕の絹に包まれ貴族化した「御武家様」とは

異なる価値観の中でこの時代の侍たちは生きていた。



 「…主君が失道なさったら、高虎様は謀反を起こしますか?」


 朝子は口に出してから、あまりにも考えなしだったと反省した。


…彼の手は、のし上がってくる過程で多くの命をもぎ取ってきた。

でもそれは、上役に命令されていたからのはず…


 高虎が、自分が身を寄せる権力が斜陽に覆われた時、どのように行動するのか気になったのだ。



 「…譜代の家臣ならば、そうするかも知れんが…。

俺の家は根っからの陣借りの侍、


次の家に行くだけだ。」


 高虎は少し寂しそうに言った。


 自分には、命を捨てて忠義を貫き通したり、

道を失った主人を正すような人生は歩めない気がした。



 高虎の大きな体には、たくさんの重荷がのしかかっていて、彼はそれを落とさないようにする事で精一杯だった。


 「…高虎様、どこへ行っても、私もついて行っても良いですか?」


 そう、華やかな声を曇らせて問う朝子が、初めて見るように悲しい生き物に見えた。


 「…なんだ、粉河の折、身分を捨てて二人で暮らそうと言ったらお前は駄目だと言ってきたじゃないか。」


 その悲しく美しい生き物に天秤を持たせてやりたくて、

高虎は白い頬を撫でながら言った。


 朝子はうっすら濡れた目を伏せた。何かを言おうか悩むような彼女を見下ろしていると、

妻の侍女が障子越しに「申します!」と声を荒げた。


 「何かあったのか」


ただならぬ侍女の声に、朝子もはっと顔を上げた。


 「吉川様が、材木の代金を横領していたとの報せが…」


 「何…」



 吉川平介は紀伊の特産である熊野の木材を支配する「山奉行」として材木の管理・調達の任に当たっていた。大納言秀長にとって非常に重要な臣下だ。

 

 何より、同じ紀州、粉河の領主であり

築城を任されることが多い高虎と、普請に欠かせない材木を管理する彼とは浅からぬ縁があった。


 「これはまずいことになった。

関白様に知られたらそれはお怒りになるだろう。」


 高虎は考え込む、小一郎様秀長はどう処するだろう?


 横領、不正は、

兵站管理や政略に長けた関白秀吉が最も嫌うことだ。


 関白秀吉に露見する前に、吉川を罰しなければ、大納言家も横領に関わっていると睨まれるかもしれない。


 「…北政所様に文を書きましょうか?

家中で処理をしたことをいち早くご報告したら、関白殿下のお怒りも和らぐかもしれません。」


 朝子は控えめだがするどく高虎に言上した。


 「…ああ、頼む。

俺もすぐに小一郎様のご意向を伺おう。」


 高虎は深く息をついて、立ち上がった。


 「吉川様は…」


 「死罪だろうな。すぐに身柄を拘束せねばならん。」


 ——高虎様の大きな手。指が斬られ、爪が剥がれた、長い指。

また命を奪う、その手…


 裁判も司法もない、もしかしたら失脚させるための諫言かもしれない。

でも、そんな事を斟酌しんしゃくする“余裕“はこの乱世にはないのだ。

 みんな悲しみや苦しみを抱えながら、なんとかここを泳ぎきらなければ、真実にたどり着けない。

 


 「いってらっしゃいませ。」



 朝子は深々と頭を下げた。


孟子は、人は生まれながらの善だと説いた。ただし、仁・義・礼・智の四端を努力して伸ばさなければ、人はずっと獣でしかいられないという。


(……。)


 新たな重荷を背負って帰ってくるであろう夫を、ただ待つことしか、妻にはできないのだ。




《※》



足利義昭…義昭は時代に翻弄された将軍であったでしょう。彼の波乱に満ちた人生は、悲しみのうちに終わらなかった事を祈ります。御伽衆になってからも信頼されていたようで、唐入りでは秀吉に要請され、名護屋まで参陣しています。


藤堂高吉仙丸…藤堂高虎の養子です。聡明で武勇にも優れた人物に成長します。




更新の間が空いてすみません。

そしていつも閲覧ありがとうございます。

今回は夫婦の心の奥がお互い垣間見えそうだったのに、また闘争によって離れていってしまいました。

吉川平介の横領事件は、秀長と秀吉の歯車の狂いの一つなのかなとも思います。

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