第28話 横領事件
「先ほどから聞いておれば、その方こそ無礼であろう…ッッ」
高虎の敵兵に向けられるような低い声にも、三成は全く動じず大納言秀長を見据えていた。
大和郡山城に石田治部少輔三成が来訪したのは昼過ぎのことであった。
三成は平服だったし、「私用でございます」と断ったが、吉川平介の横領事件を受けてのことであろうのは明白でその顎の細い顔に収まる抜け目のない瞳でじっと城内を見回していた。
大納言秀長が、蓄財好きなのは、誰もが知っていた。しかしそれは、織田家の武将の時代から、兄秀吉に降りかかる無理難題の事業を成功させるための資金確保のためであり、
彼が自身の贅沢なために金を使うなどという事は無かった。
「大納言様は能楽者をよく庇護され、招いてござるが、それは殿下よりお借りしたこの地で不法な蓄財術をなさるからでございますか。」
出された茶をすすり、治部少輔三成は穏やかに投げかけた。
まるで「ご機嫌いかがですか」と聞くような口調で。
贅沢を好まない秀長の、唯一金を使うような趣味が能楽者の芸を見る事だった。
(……!!!!)
家老としてそばにいた高虎は、その発言にはじっとこらえた。
「佐吉、お主、何が言いたいのじゃ。
このわしが兄上に秘密で木材の横流しを許し、
私服を肥しているとほんとうに思うのか」
秀長の声には決して溶けない、降り積もる雪のような悲しみがあった。
高虎はそれを聞いて、たまらない気持ちがした。
…治部少輔と小一郎様は、俺などよりずっと長い付き合いではないか、小一郎様が、秀吉公のために、豊臣家のために、欲を挟まず働いてきたことをこの男は幼い頃より見ているはずではないか…!
「…人は権威を得れば変わりまする。
歴史を紐解けば、兄弟で相争う尊き家を多うございます。
私は秀吉様以外に崇められる存在はいらぬと思います、それこそが世の安寧の肝でございまする。
もしも大納言様が、
治部少輔三成は、そう静かに言った。
その言葉に高虎の我慢の糸は切れて、冒頭の怒声が放たれた。
「治部少輔…!もう一度、どちらが無礼か考えみよ…っ!!!!」
高虎の深い眼窩から怒りに燃えた瞳が睨みつけてくるが、三成は全く恐れない。
図体は高虎より一回りも小さいのに、三成は平然としている。
その様子が、関白という獅子の威光を纏って余裕綽々としている狐に見えて、
高虎は余計に苛立った。
「…佐渡守殿、そなたの奥方はよく分別なさる女であるのに、男のそなたはずっと猪武者のままでございますな。
そなたこそ主君と客人が話しているところに割って入ってきて、無礼千万ではないか。」
「減らず口を…!吉川の横領事件は、大納言様が直々に処断なされた。潔白だ。事を荒立てて、豊臣家の屋台骨を揺らして楽しんでいるのか。」
「吉川一人に罪をなすりつけることなど、容易いだろう。」
「何…ッッ」
高い鼻に皺を寄せ、まさに虎のような形相になった家臣に秀長は冷静さを取り戻した。
「与右衛門、控えよ。
……わかったで。佐吉、おまえにはいらん心配をかけた。兄者には即座に書状を出したし…知らん事とはいえ、まことに、わし自身の監督不足じゃ。申し訳ない。」
秀長は、慇懃無礼さを感じさせず、丁寧に詫びて見せた。
「…。」
「優しい兄者のことじゃからわしを許すだろう。しかしそれでは身内に甘いと舐められる。
わしは新年の参賀を拒否された、という事にして、罪を被る。豊臣という家を守りたいのじゃ。
お前と同じだがや。」
「…分かりました。しかしすぐに、秀長様に名誉挽回の機会を与えられるような場を設けまする。」
三成は、賢そうな瞳を伏せて、また茶を啜った。
「来る時に、農夫らが呑気に弁当を食って笑っておりました。」
三成はふとこぼした。秀長と高虎は、真意が掴めずに無言で彼の女のような細い輪郭を見つめた。
「大和は数年前まで荒れ果てておりました。大仏が焼き払われ、寺の僧兵どもが力を持ち、それは異常な事態でした。
…農夫が幸せそうなのは、よきことです。」
秀長は、三成がまだ佐吉と呼ばれていた頃を何となく思い出した。彼は、昔からこういう損な子だった。
「…そうか…」
太陽はすっかり西に傾いて、燃えるような色をして山裾に転がっていた。
▽
『朝子さん
すぐに文をくださってありがとうございます。
私も秀吉殿も、小一郎殿が横領をするなどと、思ってはおりません。
豊臣の体面のために、罪を被ってくださった事を夫婦二人で感謝しております。
しかし案じられるのは、この頃秀吉殿は、古いものを整理なさる。海のものとも山のものとも知れぬ頃に仕えてくれた者を、一つの失敗で処刑なさったりするのです。
だからどうかこれからも、小一郎殿を、
至らぬ我が夫と結びつけてくださいますように、
今回のような波風が立てばすぐに教えてくださいませ。
私たちも妻同士、支え合って参りましょうね。』
おね様の流麗なかな文字の手紙は、どこまでも人を気遣うものであった。
朝子は全ての優しい言葉を鵜呑みには出来ないまでも、おね様の心労が伝わってくるようで、胸が痛んだ。
山奉行こと吉川平介の横領事件で即座に大和大納言家は関与していないと文を出したが、おねはそれを信じ、秀吉に話してくれたようだ。
秀長様は責任を問われ、表面上秀吉公の怒りを被ることになるそうだ。
が、監督不足として、もっと重い罪に問われても仕方のない出来事のはずだ。
おね様の言うように、苦労を分かち合ってきた古株の大名でさえも、この頃は一つの失敗で切腹を申しつけられたりする。
(体面…か。)
倫理観や司法という概念が薄い分、肉親には甘くなりやすいし、その甘さで家臣や諸大名に軽んじられたりしてはならないのだろう…。
ひとまず大和大納言家にこれ以上の罰は与えられないようで、
ほっとしていると、大きな足音が迫ってくる。
「あの男、俺は許せん…!」
勢いよく襖が開いて、入って来た足音の主人は高虎だった。
このところずっと郡山城に詰めて仕事をしていたが、やはり何かあったのだろうか…。
怒りがおさまらない様子の夫に朝子は困惑しながら原因を問うと、治部少輔様と秀長様の“出来事“を話してくれた。
「治部少輔様が…」
あまり愛想のいい人では無いと、仙丸の件で思っていたが、まさか大納言秀長にもそんな態度をするとは…同じ職場にいたら確かに働きずらい人かも…と内心苦笑した。
「…大切なもののために、みんなすることは違います。
その人なりに、最善だと思うやり方をするのでしょう。」
朝子は高虎をなだめようと、極めて良識的な事を言った。
高虎はジロリと彼女を見る、そんな恐ろしい視線を向けられたのは初めてで一瞬身がすくんだが、
「…治部少輔が、お前のことを言っていた。いつ知己を得たのだ。」
高虎は怒りを少し和らげた目で朝子を見た。
「……北政所様のところで、一度お話をしただけです。私などを覚えておいでとは、よくよく目端のきくお方ですね。」
朝子はあくまでも世間知らずな大名夫人らしくほほ笑んでおいた。
高虎は、一緒になって怒るよりも、こうして穏やかに振る舞って見せた方が冷静になる人だとこの数年の結婚生活で学んだからだ。
「……刃傷沙汰にならんかっただけ、俺も成長したかな。」
「以前、大納言様が仰っていた、近江の頃の同輩との喧嘩ですか?」
「ああ。あの時はすぐに手が出て、俺は出奔、父上は蟄居させられた…まことに…馬鹿だった。」
高虎はごろりと横になって、正座する朝子の膝に頭をわずかに擦りよせた。
はぁ、と吐く息といっしょに眉間のシワも無くなっていく。
「はい。偉いですね、高虎様。」
怒るかもしれないが、朝子は思わずその頭を撫でた。
「なんだ、俺は童じゃない。仙丸をもらってから、婆くさいことをするようになったな。」
高虎は怒らず、照れ臭そうに笑った。
おね様の「大納言家と、豊臣家とを結びつけてください」という手紙の言葉が不思議と心に残る。
それに、秀長様からのある『依頼』が朝子を少し悩ませていた。
⬛︎いつも読んで頂いてありがとうございます!
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