第16話 二人だけの国 【第一章完結】
「後々の事を考えて、一色御前を
父、虎高がどこからか聞きつけたのか、高虎の居室を訪れ放った言葉に、高虎は深い眼窩に収まる鋭い瞳を歪めた。
「なんという事を…」
「いや、与吉よ。もうお前は惚れた腫れたで妻を選ぶ立場ではないのだ。
身位のある武士は、あたら女に手をつける事は憚れるのだぞ。
それに、あの侍女は武井忠兵衛という歴とした豪族の娘。名家と言え庶流の女よりよほど武家の妻に向いておる。
子も産めるしな。」
(まさかあの女中…父上が…)
結局は名も知らぬ女と子まで成してしまった高虎は強くは言えないのだが、表情は不快さを隠さなかった。
(朝子を…?)
なんといっても高虎のただひとりの妻である。
娶ってから、慣れない家政を懸命に学び、母と共に家を守ってくれ、今は転地へ帯同してくれている。
それを、こうも簡単に打ち捨てるような発言が、我が父ながら理解できなかった。
「…朝子のことは但馬の有力国人栃尾殿、主君秀長様から縁談を頂きました。
そうそう家中での扱いを変えるのは国人衆にも…果ては親交のある豊臣の北政所様の覚えも悪くなりましょう。」
高虎は、論理的な理由を必死に探した。
「…子は女だけで成すものではないので黙っていたが…高虎、お前はちがう女とは成すことが叶った。」
「…」
「後継の無い家は悲惨じゃ。
また、正妻に遠慮する妾や子というのも悲惨なものだ。」
遡れば虎高は、三井源助と名乗っていた若き頃、渡り奉公人として数多の戦場を駆け抜け、甲斐の武田信虎に武勇を激賞され「虎」の一字を賜り諱を「虎高」と称したほどの武者であった。
虎高の実家は城主の家柄であったが、彼は養子だという話もあり、本当の出自は曖昧模糊としたものだった。
ただ一つ真実なのは「
この時代「
「家」に仕えるのは家臣だけではなく、妻や当主たちも、現代の「家庭」とは全く違う厳しい主従関係で繋がっているようなものだった。
▽
女丈夫は、布団の中から朝子の白く細い手を取った。
「なんといっても、そなたは正妻じゃ。
堂々としておるんや」
あたたかい義母の言葉を受けても、足先から冷たい雪に埋もれていくようだった。
(高虎様が…誰かと子供を…)
手紙の中の文字を一つ一つ頭の中に並べて、
それらの意味を組み立てる。
「…せっかくの子ですから、家にいれては…」
「しかしそれでは、その腹もこようぞ。」
(…はら…?)
思い出すのは、母が「弟」を妊娠していた時だ。
不幸な事に彼はこの世に産まれることなく旅立ってしまった。
あの時の母の落ち込みようは、少女だった朝子に大変なショックを与えた。
社会人としても女性としても輝いていた母が、一日中寝室に篭り泣きわめく姿は、少なからず彼女に『母体の摂理』への恐怖を覚えさせた。
妊娠に対して医療で対処できる現代でも絶対など無かったのだ。
それを…こんな世で、しかも子の父親や義理の家族に祝福されないなんて…
(その女性はどんなに心細く不安な事だろう…)
正妻たる自分を脅かす存在だというのに、朝子は心の底から顔も知らないその女性を案じた。
彼女はまだ…いや一生『自分は一社会人である』という感覚から抜け出せないのだ。
「…今は結論を急いではあかん。
兎に角、そなたこそが妻なのじゃ」
黙り込む朝子を見て、とらは握った手の力を強くした。
(
夕子様が嫁いでいたら、好きな人を胸に、こんな事態に見舞われて、それは悲しんだだろう。
いや、この世の住人の夕子様ならば、子を産んで、幸せに暮らしたのかもしれない。
(夕子様と…高虎様が…?)
そうありもしない世界を想像して、胸が痛んだ。
(あ…。)
朝子は理解した。
そして立ち尽くした。
▽
夫が普請したと言うこの城館は、小さな山の上にあり、簡素だが堅固に見えた。
知らなかった夫の職能に触れ、窓の外に見える川の流れにため息をこぼす。
…私のこの胸の中のすべてがあのさざなみのように形無く消えていかないだろうか。
襖が開いて、高虎が入ってくる。
「朝子殿。母の看病、家のこと、苦労をかけた。」
「とんでもございません。お義母様も共に参られたらよかったのですが…」
朝子はひとり粉河城に入った。それは、おとらや侍女たちの薦めだった。
高虎は、余り目を合わさず、朝子のそばでこれまでの事を話した。戦や、領地経営、慣れない事で一杯だと。
今まで、彼のそんな話を聞くのが好きだった。でも今は何一つ理解できず、ただ、聞きたいことで胸が一杯だった。
「高虎様…、女房殿の居室は高虎様のお近くがよろしいですか?」
すっかり日は落ちていた。でも、入城した正妻に気を遣ってか
まっくら闇の中、朝子の色素の薄い瞳だけが浮かんでいた。
「…それには及ばん。あの女中は嫁に行くことになった。」
「お腹に貴方様のお子がいると伺いましたが」
「良い縁組があり、そのまま嫁した。」
「……」
朝子は握った手がガクガクと震えるのがわかった。
その震えは、仕事でどんなに理不尽な目に遭っても、持ったことのないこの感情によるものだった。
(彼が私を選んでくれた)
—なんて醜い安堵だろう。
(どうしてそんな無責任な事が出来るのか)
—燃える様な苛立ちだった。
「それでも私は、その方にはしかるべき立場や金子を与えたいと思います。」
「構うな。貴女が気を揉む事はない。」
高虎は組んだ腕にうなだれた。妻の声は、いつもと違った。
「それではいけません高虎様!身重のその方がどんな思いでいらっしゃるか…!
私が邪魔でしょう?私はいつでも去ります…!」
朝子の白い手はどんな武器よりも重く高虎の腕にかかった。振り解くように立ち上る、でも、朝子も長い手足を駆使してついてくる。
「高虎様、どうか…!!」
そして他のどの女よりも近い視点で、自分の目を射てくる。責めるような眼差しが痛い。
「女が賢しいことを言うなっっ」
朝子は自分の頬に熱せられた石でもぶつかってきたのかと数秒混乱した。そしてすぐにはじめて人から受けた暴力だ、
と理解した。
(しまった…)
無意識に加減したとはいえ、どんなに痛かったか。殴った高虎の腕を、すぐに後悔が冷やしていく。
「……すま…っう!」
謝ろうと開いた高虎の口元に、小さな衝撃が走った。
「いい加減にしてよ…
…もう我慢の限界なのよ…っっ!!!」
衝撃を辿って平手を振りかぶった姿勢の朝子が、そう叫んでいた。
その叫びは戦場で幾度も武者たちの断末魔を受け止めてきた高虎の胸に、鋭く爪を立てる。
——朝子に、殴られたのだ。妻に、女に。怒りなのか、驚愕なのか、高虎は体が固まって動かなかった。
「人の命をなんだと思ってるんですか……!」
そう叫んで、立っていた高虎を力任せに引き倒し腹にのしかかって、
着物のあわせをねじる様に掴む朝子の顔と言ったら…
「高虎様は、貴方は、どうしてっ……」
着物から覗く肌には傷が絶えない、小指と中指が無い、戦に行けば、いつもそうだ。血塗れの鎧を洗うのも苦しい、貴方がそばにいてくれないのが悲しい。
言いたかった言葉が涙となって溢れて止まない。
思えば、この世に来てはじめて泣いた。
悲しい、苦しい、ひどい、怖い、
なぜ、なぜ…
私はこの男を愛してしまったの?
朝子は愛しい男の胸にすがって泣いた。ぎゅっと、厚い胸に小さな顔を
(…これは…)
朝子のこんな表情も、
自分のこんな感情も知りたくなかった。
(何の音だ?)
何かがドンドン音を立てて自分の胸を叩き続ける。
もしも「高虎様、全部私にくださいませ」と囁かれたら、家も城も地位も全部捨てて、この女と“此処“から逃げたい—
(…ああ…)
己の中の矮小な男が、刀を捨て誇りを捨て叫んでいるのだ。
「…すまなかった、朝子殿。」
理性を振り絞った高虎の言葉に重そうにまつ毛が上がった。涙に濡れた朝子の瞳のかがやきは——「宝珠」とはこのようなものかと思ったほどだった。
「…貴方はひどい…私は、こんなに…」
朝子が言葉を切ったのは、また涙が溢れたからだった。
高虎の胸に落ちてくる涙といっしょに朝子の心が沁みてくる。
高虎の動揺は収まらない。
「朝子、」
思わず名前を呼んで顔を引き寄せる。至近距離で見つめる妻は、もう何度もこうして近くで見たと言うのに初めてみる生き物に見えた。
…猥雑な本音を言えば、そこらにいる小さな女たちには泥酔でもしないと何も感じない。油を塗りたくった黒髪や、厚い白粉、寸詰まりの体など…幼く未熟で顔を背けたくなるほどだ。
「高虎様…」
声の温度までわかるほどに近くで名を呼ばれた。
「…全て捨てて、二人きりで暮らそう。俺は元の、陣場借りの武者に戻る。」
言葉は矜持よりも素直だ。
これは懇願に近い…と言ってから思う。朝子はじっと、俺の目を見ている。それから俺の胴に顔を埋めた。無言の慟哭だった。
「…わかった。」
他者と心が通じ合う、これが戀の喜びなら、もっと違う思いを共有したかった。と、震える朝子の体を強く抱きしめながら思う。
全てが遅かった。
二人だけの時間は、もうお互いの腕の中にしか残されていないのだ。
《※》
胴服…羽織り。
女房… 「女房」とは宮中・公家で一つの房(個室)を与えられた使用人。中には遊女や白拍子出身もおり、愛人でもありました。
武家などではたんに「女の使用人」「めかけ」「妻たち」を表す言葉です。(宮中→庶民と言葉が下りてきて似て非なる意味に変化するパターン多し。)
手懸け…いわゆる妾のこと。戦国時代は側室という呼び方よりもこのように呼ばれていたそうです。
権力があれば、好きなように女を囲えるイメージの戦国武将。実際は法度で妻妾たちの数は厳格に決められ妾や側室も『縁組』のためでした。
藤堂高虎は史実でも実子の無かった妻を大切にした武将として知られ、女色や衆道へ入れ上げるのを嫌い、小姓を侍らせたら妻共々厳しく罰したほどでした。
生さぬ仲…血の繋がりのない親子や家族
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