第二章 遠い天下の背中
{豊臣政権誕生、家康と高虎の出会い}
第17話 歌う花たちの庭
『ダイヤモンドを自分で買えるような女になるのよ。』
と母はよく言っていた。
…私は厳しかった母の期待に応えられる人間になれただろうか?
—夫の腕の中で考え込む、辺りは静かだ、彼の心臓の音しか聞こえない。分厚く固い体に抱かれていると、与えられる物だけでしあわせを探す道しか見えてこなかった。
(眩しい…)
障子の隙間から差し込む朝日を受けて、夫の高い鼻梁とまつ毛が輝いている。触れてみると、冷たい私の肌もあたたかくなった。
昨夜の記憶が、布団に散らばった私の髪の毛には残っていた。
▽
「
完成を祝して登城した大阪城の奥御殿。
一段高くなった高麗縁の畳に座るねねは、もう以前のように膝を合わせて話など出来る身分ではなくなったが…
「朝子さん、ようきてくれました。」
関白の妻となり「北政所、
「庭にでも出てみましょう」
ねねに案内され城中を歩く、どこを見ても目が回りそうだった。
襖絵や屏風は狩野永徳、長谷川等伯などの現代にも名を残す画家が手がけ、その美々しさはまさに天下の城の威容を備えていた。
「まことに…美しい城でございますね」
朝子はかつてねねと出会った安土城の華やかさを思い出していた。
「ほほ…このような豪華な城で私と秀吉公という小さなじじとばばが暮らしておるのや。おかしかろう?」
「そのような…政所様はますます美しゅうおなりです。」
「周りが美しい花に満ちておるからかのう」
そう、ねねは庭の方を見遣った。
そこには、掻取の褄をからげた女性が池のそばに佇んでいた。
(まあ…なんてお美しい方)
朝子が思わず見惚れていると、その方はすぐに私達に気づき、駆け寄ってきた。
「北政所さま…失礼致しました。ご機嫌うるわしゅう…」
「竜子殿、なんの、気になされるな。
こちらは近江の藤堂の奥方じゃ。」
「まぁ…近江…私、
彼女が近づいて来て、赤い花が風に揺れているのかと一瞬錯覚した。
牡丹の縫取りが素晴らしい緞子の打掛を肩に重たげに微笑む女性…竜子さまとおっしゃるこの方は、秀吉公のご愛妾だそうだ。
女優のように秀でた骨格をしているが、戦国時代の貴婦人らしくふくよかで優しげだった。
京極氏は近江湖北地方の元領主で、夫の実家である藤堂家が陣借りをしていた浅井氏の主筋であり、私などより、本来ならば格上の姫君なのだが、おっとりとしていて傲慢さがない。
聞けば、明智光秀公にお味方をされた武田元明の妻で、
戦後、家名を安堵してもらうため、子を残して豊臣家の人となったそうだ。
乱世の女性らしい、波乱に満ちた人生であるが、その微笑みには悲惨さは全く無く、おね様が愛妾の中でも一段と信頼を寄せられ、他の女性たちを束ねる役割をこなしているらしい。
竜子様と別れ、また奥御殿の襖絵などをねねさまと見ていると、
多くの女性とすれ違う事に気付いた。
「ああ、さきほどのは織田信長公の姫君、あれなるは前田利家公の姫君、そして、恐れ多くも足利の血を引く御婦人…」
「まぁ…」
そういえば、ドラマや俗説だと、豊臣秀吉は「女好き」と言われていたような…
朝子が思わず言葉を失っていると
「姫路殿の折もこんな話をしたかのう…位が上がればさまざまな領主の姫様が縁を結ぼうと送り込まれて参るのや。
そんな姫様らを取りまとめるのが、高貴の家の
…たしかに、女好きが女性を侍らすなら選ばないだろうな…という容貌の姫様達も多くいらっしゃる…。
この時代の結婚は就活みたいなものだ。
より良い家と縁を結び、家の権威を高める。
そしてその姫たちは実家を背負って奥御殿で一人の施政者を巡って「立場」を争わねばならないのだから…
それは、途方もない事だろう。
おねねさまは恋愛結婚されたというから、殊更この状況は…
「よいのう朝子さんは、与右衛門殿は、子ができぬでも、出世しても、妾はおかぬではないか」
庭の一角で二人きりになると、おねはふっとそう言った。
「いえ…お恥ずかしいです……おね様に教えられた通り、お話しして見ましたが、なかなかうまくいきませんでした」
「妾」をとるなら必ず自分の目で選ぶか、御し易いものにせよ。とやんわりと教えてくださったが、そのいずれも叶わず、懐胎したまま嫁がせてしまうという、朝子の常識ではとても心が痛む始末になってしまった。
本音を言えば、高虎様が、自分だけを見てくれるのは、とても嬉しいし幸せだ。
でも、「本当にこのままでいいのか?」
という不安が寄せて来て止まらない日もある。
「…せめて、養子なりを、取れたらと思ったりいたします」
「ほう…確かにのう…」
ねねは何やら思案していたが、「あ!」と声を出した。
「話は逸れるが、また、お市様の時のように、衣装を見繕ってくれぬか?」
「まあ…もちろん力になりとう存じますが、どなたかが、輿入れされるのですか?」
朝子の質問に、ふうと息を吐いて、ねね続けた
「秀吉公の妹君が、
「まあ…」
「しかしただの輿入れではない。妹君は、先夫と離縁いたし、徳川と豊臣を結び付けるために嫁ぐのじゃ。」
「それは…」
「いくら御政道と申しても…仲睦まじい夫婦を引き裂くのは誠にむごい…」
豊臣秀吉とは、弟で夫の主君の秀長様への扱いを見ても、家族思いの方だと思っていたが…
実の妹姫様を利用するとは、やはり、政治の表舞台に躍り出ただけあって、非情で利己的な面もあるのだろうか?
そして、徳川家康も、秀吉が尊重する、大人物であるようだ。
教科書の中の人物が、確かに息をしている…朝子は改めて、自分が生きている場所が、歴史という魑魅魍魎が巣食う舞台なのだと身が竦んだ。
「旭様、花嫁衣装についてのご相談があるのですが…」
「ああ、おねい様か…」
秀吉公の妹君は嫁ぐにあたって名を仰々しい「旭」と改められたばかり、家系の特徴なのだろう、小柄で秀長様とよく似た大きな透き通った瞳が印象的な40歳前後の女性だった。
この世の40歳にしては、丸顔の顔立ち故に若々しいが、その表情はどこか強張っていて、朝子は少し胸が痛んだ。
「お方様、お初にお目にかかります。
恐れながら衣装を合わせさせていただきます。」
「へえ…ありがとう…」
若々しい旭様に合わせ、婚家へお持ちになる小袖は爽やかで柔らかい色を心がけた。
「まあ…鴛鴦やね」
旭様は、小袖の中で流水に揺られながら二匹寄り添う鴛鴦に目を止められた。
暫しその愛らしい二匹を眺め、覚悟したように外を見つめた。
「なぁ、おねね様、うちらこうして正絹の小袖を引きずって、御殿で傅かれておるが、ふと長屋での暮らしの方こそ自分らしくいられたと思うたりするがや。」
出発する旭様の衣装は、今まで見てきたどの貴婦人たちのものより豪華だった。
赤紫色地に裾から腰にかけて錦繍で菊や松が刺繍され、一つ一つの花弁や松葉の色糸が違うという手のこみようだった。
そんな重々しい掻取は、小柄で華奢な旭様が纏うと、まるで雛人形が動いているかのように見えた。
「へぇ…」
ねねが、万感の思いを込めて寄り添った。
大きなダイヤモンドはいらない、欲しいものは自分で分かっている。花のようだと褒められるより、二人で手を取り合って歩いていきたい。
いつか移ろっていく心にしがみついていくのは、虚しい。
大阪城の庭に咲く花は、話もするし泣きもする。
《※》
京極竜子…「松の丸」とも称された女性です。父は京極高吉、母は浅井久政の娘(京極マリア)。兄(弟という説も)に京極高次、弟に京極高知。浅井長政は叔父、浅井三姉妹は従妹にあたり、本来京極氏は浅井氏の主筋に当たり、血筋の上では同じく秀吉の妾で血縁関係もある淀殿よりも、竜子の方が名門の出身でした。
その美貌は同時代の人にも知られています。
先夫、武田元明は明智光秀の味方に就き、丹羽長秀・羽柴秀吉の連合軍に討たれ、秀吉の領国である北近江の旧守護家・京極氏出身の竜子は捕らえられた後、秀吉の妾(側室)となりましたが、
豊臣家の繁栄と京極氏の復興に力を注ぎ、自分の弟高次と浅井三姉妹の次女初姫を添わせ、京極家の家政にも気を配った、武門の女性らしく、家の為に働いた人です。
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