第15話 懐胎
久しぶりに夢を見た、自分の輪郭を辿る夢だった。
初陣の日、近江人にとって神聖な姉川で兜首をあげ、その川を赤く染めた光景。
…やがて浅井氏が滅ぼされ、縁を頼って主を探し求めた憔悴。
津田信澄殿の下、やっと母衣衆に抜擢され
(俺はこんなところで終わらない)
そう繰り返し、京では無礼を働いた農民まで斬った。…多くの首をあげ、戦さ場を這いずり回るような生き方をしている俺などは、
到底人の親には似つかわしからぬと天の神が妻の胎に子を送ってくださらぬのかもしれぬ…
自分で自分を殴り飛ばしたくなるほどに感傷的な夢だった。
(めでたい日だというのに)
かねてから大阪に築いていた秀吉公の城が完成したのだ。
高虎はその巨城を見上げると手足が震えた、自分が追ってきたものはこれだと思った。
大坂城の威容は「地の太陽が天の太陽に輝き優った」と、宣教師によって遠く欧州にまで喧伝されたいう。
大阪城の完成を祝した内輪の宴には、秀長の家老として藤堂与右衛門高虎の名前も見られた。
この頃より、羽柴政権では、戦場を共に駆け回った譜代の家臣たちよりも、官僚たちが台頭し始める。
天正13年7月、
その日、京は明け方から雨だったと、手紙には認められている。
(…信輔様はお嘆きでいらっしゃるのね…)
近衛前久は、姫は後陽成帝へ出仕させながら、息子の信輔(改名前は信基)は織田信長が烏帽子親となるほど親しい、武家にも朝廷にもパイプを持つ
だからこそ今、朝廷と天下のために尽力出来る人物は、息子より秀吉公だと考えたのだろう。
近衛家の祖である藤原氏以外に関白職を譲るなど、公卿の誇りを大いに傷つけられたに違いないが、信輔は二条昭実と関白職を争い、共に大阪城にまで乗り込み、秀吉に事の仲裁を頼んでいた経緯がある。対外的にも器量を示さなかったのだ。
結果的に近衛家の一門として秀吉が関白を叙任したことで、信輔は従一位が授けられ、妹姫の
ただひとつ不満を零すなら、羽柴秀吉は「豊臣朝臣藤原」の姓を与えられ、一代限りの関白職の約束が守られるのか…手紙はと締められている。
お通さんを通じて親交を深めた信輔からの手紙を読み終わり、朝子は世の写り変わりにため息をついた。
(歴史って、体感してみるとあっけなくて、なんて素早く流れていくんだろう…)
夫高虎は、紀伊国平定のため根来衆・熊野攻略に出征している。
その前の四国長曽我部氏討伐の戦功により加増され1万石の大名となり、紀州古河城を与えられた。
(まさか、こんな事になるとは)
朝子も驚いたが、高虎自身も顔には出さないものの、歓喜の美酒の中に一雫の混乱が垂らされ彼を揺らした。
ずっと立身出世を願っていたが、主君が位人臣を極め、己も城持ち大名となるとは…出来過ぎだった。
(…俺一人の体では無くなった)
そんな高虎の粉河城に、一族たちが集まってきた。
貧しく没落していた藤堂家も、祖先三河守景盛の祈念がやっと叶ったと皆口を揃えて笑っている。
…ただ、見たかった顔が無い。
病で動けない母と、妻朝子は未だに大屋村に残っていたからだ。
「母上のご容態はそれほど悪いのですか」
紀州攻めの戦後処理に駆け回っていた高虎は、やっと腰を城に下ろし、父と対面した。
父、
ちなみに高虎は父「虎高」を超えるようにと、ひっくり返した諱を付けたと伝わっている。
「おとらも、今までの無理が祟ったのだろう…
「左様ですか…」
高虎は母譲りの高い鼻梁に少しシワを寄せて、遠く大屋を想った。
母は昔から風邪一つ引かず、一日中家や畑で働いていた。
そんな母が…息子の自分がこうして地位を得た傍らで、
「与右衛門、しかしめでたい事だ。
お前は幼い頃より抜きん出たところがあったが、こうして城持ち大名にまでなるとはのう。
源助も彼岸で喜んでおろう」
体格の良い
…今になって兄が居ないことが寂しいと感じる。
父母は文武に優れた温厚な兄にこそ期待をかけていたのだから。
「……秀長様のお引き立てでございます」
その秀長も、紀伊・和泉に加えて大和一国を与えられ百万石の太守となり、兄秀吉のことを「殿下」と呼ぶようになった。
(…。)
顔を引き締めて、高虎は父と向き合った。自分には一族に対する責任がある…俺がまた短気を起こせば、みなが路頭に迷う立場となった事を、父の顔を見ながら噛み締めた。
「与右衛門、そなた一色御前とは相性が合わぬのか」
戦によって荒れた粉河の町をどのように発展させるか話し合っていると、ふと虎高が問いかけた。あまりの話題の変わりように高虎は珍しく
「はっ?」
と、父に向かって低い声を出した。
「…なぜそのような…」
先日朝子が「どなたかをおそばに」と言い出した思い詰めた顔が胸に浮かんだ。
「そなたもこの様な立場となった、それなのに後継が居ない。
それにもうすぐ三十ではないか、男とて早い方がよいぞ」
朝子への気持ちと共に、正直言って、そんな暇が無いのが本音だった。
高虎は元服して以来ほとんどを戦場で過ごし、秀長に仕えてからはまさしく西へ東へ奔走し、慣れぬ指揮や金勘定、普請まで任され、館で待つ妻一人に心を向けるので精一杯だった。世の中には、多忙の中でも暇を見つけて異性を探し回る人間と、そうでない人間に別れる。
「実子が出来なければ、養子を貰っても良いと思っております。」
言外に、父上もそうして入婿になったでしょうと漂わせて、高虎は書類に目を落とした。
粉河城がある山は、標高は低いが周囲から独立しており、南下を流れる中津川が自然の堀の役目を果たしている。
また、城からは粉河寺の境内が手に裸同然に見え、民衆の心の拠り所である粉河寺を見張る政治的な意図からも好条件だった。
しかしただ武威を持って支配するだけではならぬと学んでいた高虎は、灰塵に帰していた粉河寺を修復させ、当地伝統の祭りの復興に尽力した。
その甲斐あって、領民たちはかつて城下を戦火で舐め尽くした豊臣の家臣である高虎に次第に信頼を寄せる様になった。
そんな祭囃子が城館にも響く夕暮れ時、無礼講だと近習が酒を持ってきた。
普段酒を一切やらない高虎は、常の疲れも手伝って、深く酔いが回った。
「殿…具合が優れませぬか?寝間へいかれますか?」
何故か、そばには若い
こうした行いは恥ずべき事だと思いながら、その白い帯に手を伸ばす。女房が拒絶したらやめようと思ったが、女房はすんなりとその手を受け入れた。
中津川の水面に領民たちの祭りに浮かれた声と、笛太鼓の音色が溶けて流れていった。
▽
三月ほどして、
「殿…私、身篭りました」
女房はわずかに膨らんだ腹を撫でながら、はきとそう告げた。黒目がちの目は、どこか強さを湛えている様に高虎には写った。
(俺は…男として欠けたる身では無かった…)
懐妊の報せに、やはり喜びが勝った。
しかし次の瞬間、妻の顔が浮かんだ。
(…まだ、まだ、わからない…)
男の瞳には、目の前の女と、胎の中の子は見えていない。
夢の中の影を追って千里を駆ける、それが虎の生き方だった。
《※》
秀吉の関白就任…「関白相論」とも言われる争いの結果、仲裁役に選ばれ、のちに近衛信輔に関白を譲ることとして、秀吉は任命されました。他にも、秀吉の実父が禰宜の家系であり、勤王家だった要因もあるそうです。
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