第5話 匂わぬ花



 妻は匂いがない女だった。

大身と言えぬ俺に気を遣って化粧道具を揃えないのかと様子を伺ってみたが、そもそも白粉を好まないようで、よそおいいといえば素肌に黛と紅を差しているくらい。

加えて肩まで伸びた赤っぽい髪を毎日洗いたがるので、体を冷やすと妻の実家より帯同した侍女がよく嘆いている。

女独特の髪油の匂いがないのは、高虎にとって大層不思議だった。

それに近づくと、肌からは白粉ではなく甘い花のような香りがする。

 それを不快だとは思わなかった。



 「与右衛門、この頃なにやら顔が優しゅうなったな」


 但馬国の平定は昨年完了したものの以前やる事は山積していた。

『但馬平定』は天正五年より続いている『中国地方征伐事業』の一環である。


 羽柴家には一つの綻びも許されなかった。

 あの妻も、そのために主人秀長から勧められて娶ったのだ。羽柴家の家臣となった但馬国人衆の人心掌握のために。


 高虎は、未だに己がこのように想う主人のもとでやりがいのある仕事をしているのが夢ではないかと思ったりするが、

これは現実だ。


(優しく…?)


 やっと慣れてきた金や領地経営の「数字」で刻まれていた眉間のシワがその「想う主人」の言葉で消える。


 「…?春から、戦にでておらぬ故でしょうか」


 高虎は真面目な顔をしてそう首を傾げた。くっきりした二重瞼に包まれた瞳には、にやけた秀長の顔が写っている。


 「そうかもしれんなあ」


 秀長は高虎の背を叩いた。




 屋敷に帰ると、妻の朝子が出迎えてくれた。


 「お帰りなさいませ、高虎様」


 笑っているから、この女は幸福なのだろうか。

 秀長様の家中の生粋の武士には、何人子を持とうと妻には心を許さないものも多い。

 妻の方も哀れな力なき傀儡人形ではなく、実家の父や兄弟と手を合わせまるで郭公カッコウのように実家のために働いている者も多い。


 半農と言っていい地侍の家庭、父母姉兄弟で手を取り合って生きてきた高虎には、どうもその感覚は分からない。

 妻の実家 一色家の盛衰を思えば、到底笑っていられない辛酸を舐めてきたろうと想像がつくが…

 高虎に見せる妻の顔はいつでも微笑を浮かべている。


 「この屋敷は慣れたか」


 「はい。」


 婚礼は高虎の故郷、近江藤堂村で行われ、朝子も高虎の留守を藤堂村の生家で守っていたが、

昨年の丹波攻めの一揆鎮圧・加古六郎右衛門を討ち取った功により3000石加増の上、この但馬に屋敷を賜った事もあり、妻を呼び寄せたのだった。


 前まで父母や一族と近江で暮らしていたので、僅かな使用人のみの当地での暮らしは心細い事もあるだろうが……朝子は、それでもいつも微笑んでいる。


 「すぐに夕餉にいたしますね」


 そう厨へ下がっていった妻の擦り切れた袖を見ていて思い出した。ああ、大切なものを忘れていた。



 畳紙たとうしから取り出されたのは、

この頃流行り出したのある身幅の狭い仕立てを淡紅藤色地に染めて、

枝振りの桜が写実的に肩から裾に向かって描かれ褄の水面に花弁が落ちている小袖だった。


 「わぁ、綺麗…」


 夕餉のあとに、高虎はその「忘れ物」を朝子に贈った。


 「あの頃はまだ三月の初めで、ちょうどいいと思ったが…すっかり桜が満開になってしまった。」


 桜の季節に枝振りの桜を着るのは野暮だと、粋人や遊女などは嫌うらしい。

 無骨な高虎はそんなこと気にかけた事も無かったが、嫁いで行った姉が、そんなことを言っていたような気がするが……当の本人は気にしていない様子で小袖を嬉しそうに見つめている。


 「私にはもったいないです。」


 「…本来なら、婚礼の三日目に白無垢からこの色物に着替えさせなければならなかったようだが…」


 婚礼どころか日常でも、母のお下がりを着せてしまっていたことを詫びたが、妻は女の細やかな決まり事を全く気にしていないようだった。

 …夫に文句を言ってはならないのが名門の習いなのだろうか?母はよく父を人前でも諫めていたので、妻の常に控え目な態度に慣れなかった。


 「そんな事、気になさらないでください。」


 「俺はまだ大身とも言えぬから、このように苦労もかけるが…着るものくらいは遠慮なく言ってくれ。」


 大木を彫り抜いたような厳しい男が、彼が出せる優しさをすべて絞るように私を見つめる。


 (…見た目のわりには優しい人なのかもしれない)


 それは、夫婦になったからだろうか。

男に好きだと言われない『関係』ははじめてなのだ、どう受け止めていいかわからない。目の前の夫は自分をいつでも、文字通り捨てる事が出来るのだ。…この優しさはいつまで私に捧げられるのだろう?彼は私に何を求めているのだろう?

 あでやかな正絹の重みが、朝子の心を覆った。


 

 

 七月になり、鳥取城攻めが発布された。

中国征伐の佳境であり、天正10年6月4日の講話まで約6年にも及ぶ長い戦いである。

 毛利家と羽柴家が停戦した理由は、あまりにも有名な『変事』の故だが

高虎や、秀長、秀吉が知る由もない。



 「朝子殿、すぐに父母や一族が来る故、その間の事を頼んだ。」


 「はい。いってらっしゃいませ。」


 朝子は寂しさや悲しさが一つもないように穏やかに目を細めている。夏が近づき日が長いが、妻の肌は異様に白い。それが少し気にかかったが、高虎の脳漿にはもう戦いのための知恵が絞り尽くされていて朝子が入り込む余地はない。




 遠ざかる夫の背を見つめながら、迫ってくる現実から逃れるように朝子は空を見上げた。

(…やはり私は

 彼は人を殺す、そして、彼も殺戮の中に身を晒す…—空だけは変わらない、いつかこの空を見上げて笑える日が来るだろうか?


 


 高虎は、去年の三木城の惨事を目の当たりにしていて、もうどんな戦も驚くことはないだろうと思っていたが…


 鳥取城は、まさに修羅の腕に抱かれていた。


 兵糧補給における水上交通の要地は羽柴方に占拠され、鳥取城は完全に補給路を絶たれた。

 城内の犬や猫まで食い尽くし、死者の肉まで奪い合う地獄だと秀長様が放った斥候が報告した。


 「反して味方はこの騒ぎか」


 高虎の眼下に昼間だというのに鐘や太鼓を打ち鳴らす芸人たちが群れをなしている。

 鳥取城の周囲では秀吉公が呼び寄せた芸人や遊女たちが面白おかしく舞い踊り、商人に市を開き小さな町を築いていた。


 鳥取城を取り囲むようにして造られた櫓の上からそれらを見ていると、城内の毛利方の厭戦気分が胸をくすぐる。


 (…戦いは武働きのみではないのだな…)


 羽柴家に仕えるようになって痛感した事実だ。


 (俺もいつまでも腕ひとつではならんな…なにか、なにかを得ねば…)


 …今は俺一人が露頭に迷うわけではない。俺が死ねば、頼る家のない妻は……


 扇や鈴をあやつり拍子に合わせて舞う芸人遊女たち。

 その女や男たちの背負うものを想像して、高虎は鳥取城をじっと睨んだ。


 「決して落ちぬ城があればいい」


 そうしたら、

 世の辛さや醜き事などを耳に入れずに

 そこにずっとしまっておくのに。



 翌月鳥取城は開城した。城主の山名豊国は織田方に降伏しようとしたため既に追放されており、家臣の森道誉や中村春続が指揮をとっていた。それらの救援要請に応じ鳥取城の地獄の中で奮戦した吉川経家らは自害。


 秀吉は吉川経家の首が目前に届けられると「哀れなる義士じゃ」と男泣きした。


 貧しい生まれの秀吉には飢えの苦しさが理解できた。それゆえの、戦略であった。

 



《※》

髪油…この時代、女性の美の要素として「長く豊かでテカテカした髪」が重要でした。身分のある女性たちはこぞって油を塗り、艶を出していたので、宣教師などは「少しにおう」とまで書いています。

現代人の価値観とは全く違います。

小袖…桃山期では、振りがある小袖はまだ早い気がしましたが、もしかしたら…と登場させてみました。形としては現代の着物と変わりません。

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