第4話 ふたつめの初夜
藤堂家の屋敷は狭い堀に囲まれている。
堀を
先先代で家運が尽きるまでは、中原朝臣の末裔を称し、伝奏として広橋家に側近く仕えた近江では名の知れた家であったらしい。
その名残か屋敷は家人の数の割に広い。
風趣な庭、大工の妙技などこの家には施されていないが、アスファルトの道や人工的な自然しか知らぬ朝子の目には暖かで伝統的に映った。
今日から夫の部屋で眠るのですよと幸手局に促され、広く寂しい藤堂家を迷子のように進む。
「あ…」
庭の藤棚の前に佇む『夫』の姿を見つけた。
背後の鴨居や、屋根にも届きそうな…現代日本でも背が高い部類に入るだろう。
そんな『夫』の横顔をはじめてじっと眺める。
少々鷲鼻気味だが鼻梁は高く真っ直ぐで、鋭角的な輪郭を薄い唇がさらに引き締めている。深い眼窩に収まる瞳は見開かれたように力強い、が、青ずんだ虹彩は夜のように穏やかだった。その視線は藤花を超え、空をとらえて離さない。
…似ているが、新七郎様とは全く違う男だ。
(あの人にもこうして空を見上げながら考える事があるんだ。)
この世の人間にも、悲しみや苦しみがある。
当たり前のことなのに、朝子にはとても不可思議に感じられた。
「旦那様」
「…朝子殿」
「……お寒くありませんか?」
もう春だと言うのに、北風が冷たい。
薄手の筒袖の着物一枚ではいくら体の大きな男とはいえ、風邪を引いてしまいそうだ。
「やっと言葉を交わせましたな」
「え…ああ、そうですね」
戦場から帰って一日が終わろうと言うのに、夫婦は挨拶しかできていなかった。
「この藤花の事は聞いたか?」
「はい。義母上様から伺いました。」
松が数本植えられているだけの簡素な庭には、門前まで続く立派な藤棚がある。
白と紫の花の波は静かに夜の闇に揺れていた。家祖の
「綺麗ですね」
朝子は目を輝かせて花を見つめている。その白い顔にはじめて生気が湧いたように見え、おぼろげだったその輪郭がはっきりと闇に浮かび、高虎の脳漿に染み入ってくる。
(……。)
湯を浴びたのだろう。ひっつめていた髪は腰のあたりで放ち髪にされていた。
縁側に佇む夜着代わりの赤い絞りの小袖を纏った妻のそばへ寄る。
初夜は儀式的に事が流れてしまったが、白い正絹に包まれたこの女の姿はどれだけいいものだったろうと、戦場の土埃に汚れた情景を思い起こしてみる。
「…、」
近くで見下ろされると、やはり大きく、男性的で(怖い)が本音だった。
朝子は体育会系とは縁が無く語先後礼を尊ばれおっとりと生きてきた。
筋肉質な大男が匂いが分かるほど近くにいるのは初めてだった。
(…でも、嫌われないようにしなくちゃ)
下を向いたまま色々と覚悟を決める朝子の横を通り過ぎ、高虎は屋内に入っていく。
戦国時代、寝所は板の間に茣蓙を引いているのがふつうだった。まだ畳敷は高価で、綿の入った布団などは贅沢品だった。
一色家が持たせてくれた嫁入り道具の布団に、高虎は長い体を折るようにしてあぐらをかく。
「こっちへこい」
「は、はい」
足の裏で感じる板の間がやけに冷たい。布団のそばにこわごわと正座すると、高虎はおかしそうに笑った。
「思っていたが…それ、辛く無いのか」
「…正座ですか?は、はい…こちらのほうが慣れていて」
(…本当なら椅子に座りたいけど)
習い事で幼少期から正座する機会が多かった朝子だが、やはり床中心は時折りつらい。
戦国時代の女性たちは着物の着付けのゆるやかさもあり片膝を立てたり、あぐらをかいたり、横坐りだったり、現代日本の和装よりも解放的だ。
でも局部をしっかり隠す「下着」が無いので、朝子はどうしても裾を割って座る事が出来なかった。
「そうか。」
高虎は視線を遠くに投げた後、横に座る朝子の腕を掴んで、引き寄せた。
引き寄せられた朝子は(よかった、衆道を好むと言うのは噂だったんだ)と斜め上の感想を持ちつつ、思わず身を固くした。
(……、)
—春の月が雲に隠れる。胸の中の妻は誰よりも身丈があるのに、骨が細く頼りない。妻を抱き留めていると—ふと敵の穂先に絡んだ血肉を躱し、山間を駆け、時には隊伍を崩され必死で追撃から逃れる——見えない死に首をくすぐられるあの心地が去っていくような気がした。
しかし、高虎は少し困った。
「……そんなに緊張しないでくれ。」
「す、すみません…旦那様…」
畿内ら夜這いが盛んで性に対しては非常におおらかだった。
だから
…俺と妻はお互い二十代でいい大人だと言うのに、妻の薄い体からは鼓動が漏れ聞こえてくるほどだ。
…このまま動かない訳にもいかず紐帯を緩めると、赤い襟元から白い体が現れた。
—伸びやかな足、細い体をさらに絞ったような腰、妙に肉のついた胸や尻…人類が何世紀もかけて作り上げた黄金比の肉体は中世の男の目には眩しいほどだ。
「旦那様など仰々しくこそばゆい、別の呼び方をしてくれ」
平静でいようと、骨張った大きな掌で小さな顔を包んで上を向かせ、高虎はささやいた。
「……高虎…様?」
視線が絡む、朝子は夫の名を呼んだ。
諱を呼ばれたのは主君以外で初めてだった。
それでも、それを嫌だとは思わない。
「……ああ、高虎だ。」
けわしい高虎の顔がゆるんだ。それは誰にもわからない変化であり、目の前の朝子も解らない。なにしろ朝子は他の感情で手一杯だった、するりと高虎の太い首に細い腕を絡め、
「……どうか私を見捨てないでください。」
厚い耳たぶへ祈りのような囁きを送った。
高虎は、頼るべき実家とも縁が薄いため嫁ぎ先で気弱になったのだろうとその言葉を受け止めたが、
朝子のほうは必死だった。この囁きは、全喪失の末の悲鳴だった。
「ああ、何があっても。」
その返事にどこまで真摯さがあるのか分からない。
ただ、高虎の心臓には“重し“がつけられた。その心地よい重みは、どんな戦場からもこの身をこの妻のもとへ戻してくれることだろう。
《※》
正座…戦国時代は、世は乱れ、咄嗟の行動が求められたためか日本女性たちも「片膝立て」「あぐら」をかいていたそうです。なので、着物も現代のものよりかなりゆったりしていて、着付けもずるずる引きずる雰囲気です。しかし現代人の朝子は、正座や横坐りのほうが慣れているようです。
諱…実名。昔は身分の高い人は通称と実名を持っていました。有名な「信長」「秀吉」「家康」なども諱にあたり、ドラマや小説と異なり「秀吉!」と呼ばれることは余りなく大変失礼に当たりました。なので、藤堂与右衛門高虎ならば「与右衛門」が呼び名で、馴染み深かったようです。書状にもそう書かれています。
ちなみに女性も同じで有名な「北条政子」でさえ、政子は朝廷により賜った名前であり、実名は伝わっていません。
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