第3話 新妻と襤褸
「…あ、お久しぶりでございます…。」
しゃがみこみ洗濯をしていた女が、水桶から手を離して、睫毛も重たげにこちらを見上げた。
髪をひっつめ、裾をからげた小袖を着ているので、てっきり母かと思ったが、若い女だった。
我が家に女の使用人はいないはずだ……まさか…
洗濯に使う灰汁で、些か肌を曇らせていたが、その顔は…
「……ああ…。」
我が、妻であった。
なにしろ顔を合わせたのは婚礼の日の夜中のことで、翌日には突然の出征に後朝の別れよろしく、残夜の中で寝顔を見たのが最後…
あの日は、厚く白粉、紅を施されて「女」というより「人形」のような、
重々しい
妻を娶った喜びを持っていいのか、苦労をさせていると嘆けばよいのか、高虎は迷った。
(しかしこれほど身丈があったのか)
立ち上がって対面するのは初めてだった。
妻の小さな顔は高虎の肩口まで迫る。
「母屋で皆さまお待ちかねでしょう」
戦場の匂いをまとって立ち尽くす高虎に妻はほほえむばかりだった。
琵琶の
村の女手を借りているとはいえ、
その差配にとら夫人は大忙しであった。
(…こう言った家政を指示するには、たしかに自分も一通りの家事に精通していなければダメだわ…)
朝子は小さく息をつきながら、汗を拭った。彼女は共働きで協力し合う父母と便利な家電に囲まれて育ち、一から米を炊くことも、主婦という生き方も知らずに育った。
(…親の実家の田舎で、お葬式や結婚式の後、こうやって家に集まってるのをおばあちゃんが捌いてたっけ…)
そんな「田舎の女」を嫌ってか、母も祖母も「夫婦はつり合い、良い人を見つけたかったら自分も学をつけなさい」とよく言い聞かせ、朝子は大人の言うことを素直に聞いて努力してきた。
(…家事って、企画書をあげるより…難しいんだ…)
情けない事にこの宴の最中、上司の顔色を伺うようにおとらの動きを先読みして手伝うか、指示を待って動くしか朝子にはできなかった。
「…おとら様、冷えた茶でございます」
明日の月が空の頂点に登る頃。酩酊した男衆を親類や村の女衆に任せると、とらは土間の縁に座り込んだ。
朝子はすかさず労った。
「そなたこそ、ようきばられた」
とらは珍しく朝子の目を見てくれた。
「…そのような…私、なにも奥向きの事が分からず、恥ずかしく思っております。」
本心だった。
嫁いできてから、基本の“き“も分からない朝子に裁縫や炊事など家事全般をとらは投げ出さずに教えてくれた。
「誰でも初めてはある。それに、この頃は要領をつかんでこられたようじゃ」
「本当ですか…」
心底ほっとした顔を朝子がするので、とらはまじまじと見つめた。
いかにも深窓出身の白い冷たげな顔は、馴染んでみるとよく表情が変わる。
「これからも頼みましたぞ。お
とらは深めの眼窩にある目を細めた。親しみのこもった呼びかけに朝子は「はい」と頷いた。
▽
月が美しい。縁側で一人宴の賑やかな声を聞いていると、つい失ったものばかり思い出してしまう。
電子の光、友達との時間、両親の愛、仕事のやりがい…
(夕子様、あのお坊さんとどのように暮らしているんだろう)
手紙の主「
一色家は政争により没落し、以心様は出家した身だという。彼は夕子様と似合いの涼やかな面立ちの男性だった。
幸いなのは、私が知るより仏教とは奥が深く、この戦乱の世では尼が還俗し妻になることも、僧でありながら戦をしたり家庭を持つことも、ままあるらしい。
…思う人との道ならば、どんなことも乗り越えられるだろう。
朝子は最近心の底からそう感じる。
そんな以心と夫が数十年後、歴史の表舞台に立ち恐ろしい政治闘争を繰り広げる事になるとは、このとき朝子は想像もしていない。
「…お方様、でございますか?」
声に振り返ると、一瞬、夫かと思った。しかし、その男性は
おとらさまに似て、背が高く眼窩の深い高い鼻筋の顔立ちをしている。母系の血縁の特徴なのだろう。
「新七郎様、ご挨拶が遅れてしまいまして申し訳ありません。
朝子と申します。」
朝子は深々と礼をした。本来、婚礼の儀式とは三日間の寝所籠りの後、白無垢から色紋付に着替え、婚家の親戚と対面する大掛かりなものらしい。
生憎夫は初日の未明に突然の出征で旅立って、一族の男衆も戦場に帯同していたという。
「この方こそ。義姉上さま」
「……」
『義姉上』に思わず朝子が固まっていると、新七郎は、あっと言って
「
父を戦で亡くした私を、与右衛門の父 虎高殿が家に迎えてくださったのでござる。」
「左様ですか…すみません、まだ家中の事がわかりませず…」
幼名で呼ぶほど親しいらしい。新七郎様のお父様が亡くなった戦で、高虎の兄で、嫡男であった
(……戦死が身近なんだな…)
朝子はその現実に途方もない気持ちになった。
まつ毛を伏せる新妻の様子を、新七郎は夫を案じているのだと受け取った。
「心配なさいますな。義姉上さま、与右衛門は14のころから首をあげた八幡さまの加護を受けた強い男でござる。
どんな戦いからも帰ってきましょう。」
「…そうですか…」
朝子は「首をあげた」光景の想像を頭の中から必死に消しながら微笑んでおいた。
すると、新七郎様が嬉しそうな顔をして、私の後ろを見上げた。
「
「新七郎、…朝子殿。」
見上げた、夫の、
私は「夫」の声も顔も、ろくに覚えていなかったのだ。彼が、嬉しいのか、悲しいのかも、私には分からない。
「…旦那様、」
しばし茫然と自分を見上げていた妻はぎこちなく微笑んだ。
また、あのほほえみだ。
間近で、平服の己をみてやはり粗野な地侍よと思ったのだろうか。武家や郷士の女とは違い、ずっと正座をしている姿は、昼間、立って動いている時より力なく見えた。
「ああ。留守を父母とともに守って頂き、感謝する。…新七郎とは会ったようだな」
「先程ご挨拶が叶った。しかし与右衛門、王昭君の如き
たおやめ…たしかにと妻を見下ろす。しかし濃いまつ毛の奥は、何を写しているのかも分からない。
▽
おとら様に汗を流しもう休みなさいと言われ、奥へ引っ込むと幸手局がはっと私を見上げた。
この家に来てから、おとら様につきっきりでいたため「別の仕事」をしている幸手局とは顔を合わせる事が出来なかった。
「あ、朝子様」
幸手局は、いつも優雅に下げられた長い髪を
その姿に名家の侍女の貴婦人が凄まじい苦労をしていることを察した。
「局…幸手局…、本当に、すみ「朝子様、なんと、おやつれになって!」……。」
幸手局は、朝子の広く薄い肩に埋もれるように抱きついてきた。
「……幸手局こそ、」
「私でございますか?なんの、朝子様が知らぬだけで、一色家の没落の折はもっと苦労を致しましたのよ」
夕子様のそばで色々なことを教えられていた頃は、こうして深く話すこともなかった。いや、私が知ろうとしなかったのか。てきぱきと湯の張った桶に私を導く手は意外にも固く暖かった。
「大奥様のとら殿はたいそうきついお方でしょう。」
朝子の髪を梳かしながら幸手局がそうこぼした。
「……厳しい方ではありますが、
公平なお方です。」
感情的で周りを振り回す上司に苦労した事がある朝子は、
たしかに威圧的だが、公明正大なとらを嫌ってはいない。
「…まあ、そうでございますか」
「幸手局さまこそ、一体どんな仕事を…」
「この藤堂家には大木長右衛門なる家臣とも下男とも言えぬ一人しかありませぬから、私は朝子様と離され、
すべて、しましてございます」
「…。」
私が縫い物や料理、掃除を習っている間に、
とら様、虎高様、私の三人の衣食住を保つため家を回していてくれていたのだ。
そういえば、舅 虎高様が「何やら味が薄うなったな」と汁物をすすっていた。それは、幸手局の都風の味付けだったのか…
「本当に…苦労を…」
「なんの、元はと言えば我が姫が人倫にもとる恋をとったゆえ。」
「……。」
「朝子様、藤堂家の
「そ、そうなのですか」
「そのような方のお心を得るのは大変な苦労と存じますが…。私も夫とは、好きか嫌いかもわからぬまま子だけができ、死に別れましてございます。」
「…。」
男の『心を得る』
……両性の同意のもと結ばれた事しかない朝子は、
一方的な従属関係に内心頭を傾げる。
でも、現実として私はろくに顔も性格も知らない人とこうして夫婦になっている。
「…ご心配なさらないで、朝子様はこれほどお美しいのですもの。
私と亡夫にも、共に笑い合う時もございましたのよ。
馬には乗ってみよ、
人には添うてみよ、
と昔から申します。」
美しいと褒められて、こんなに気が重くなるのも初めてだった。
でも、幸手局が私を支えようとしてくれる気持ちには応えなければならない。
私が、ただでさえ役に立っていないこの家中で、夫の心まで得られなければ…
侍女の給金は、私が管理できる一色家の財産から出ているが、頼るべき一色家は離散し、財産は限りがある。
だから、藤堂家の家中で安堵されて生きていく必要があるのだ。
(この世では正室が政治のやりとりで離縁されることもあるそうだし…保険も慰謝料も法定化されてないし…)
「…あ、あの、幸手局…さん、体は、自分で洗えます…」
「何を申されます。」
「え、いや、本当に…!!っ〜〜」
「まぁ、そんな赤いお顔は旦那様の前まで取っておくものじゃ」
幸手局が笑った。どうして、この世の女の人はこれほど強いのだろう。
《※》
正絹…絹のこと。
桂巻き…髪をまとめて、手ぬぐいや布で覆った髪型。労働する女性に多い髪型。
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