第2話 虎の棲む家





 「奥様」とは、文字通り家の奥で静かにしていればよいと思っていたが、そう簡単ではなかったみたい…。



 「朝子様…ここには侍女もおらぬようです…」


 私に幼い頃から仕えてくれる「乳母」という設定の幸手局さってつぼねは呆れたように耳打ちした。

 『朝子あさこ』とは私の此処での呼び名である。この世では本名はとても大切なものだそうだ。  

 『ゆう』子様の変わりという単純な由来だった。

 肝心の話の内容には侍女の重要性がいまいち分からない私にとっては、困ったような顔をするしかなかったが。


 「…幸手局さま…「局とお呼び捨てを」…局には…苦労をかけますね」


「とにかく、堂々として居ればよいのです。おひいさまの変わりなど…ほんに…」


 その後に続く言葉を聞くのが怖かった。自分がこの世の何者でもないと突きつけられるから。


 


 「一色御前いっしきごぜん、入りまするぞ」


 女…朝子と局の部屋に、鋭い声と藍染の小袖をからげ紐でめくり上げるように着付けた中年の女性が入ってくる。

 「御前」とは貴人の敬称で、その妻の事もそう呼ぶらしく、実家の「一色」と合わせて「どこから来たか」まで一度でわかる便利な呼び名だ。また「北の方」「〜の方」「ご簾中」「御台さま」など公家や高位の武家の正妻を呼ぶ敬称でもあるそうだ。それが下級武家や商家などにも伝わってきていて…とにかくややこしく、徹底的に本名を呼ばないという強い意志を感じる。


 …話を戻し、入室してきた女性は夫の父、藤堂源助虎高とうどうげんすけとらたかの夫人、つまりしゅうとめのお様だ。

 対面するのは、これが初めてだった。


 常識に疎い私でも、これが非常にまずいのはわかる。そもそも、むかしの作法ならば、嫁である私から彼女の居室まで挨拶に行かなければならなかったのでは…ちらと幸手局を見ても、つんと夫人を見ているばかり。


「…北の方様、ご挨拶が遅くなり、申し訳ございません…一色義直が娘、朝子でございます」


 夕子様ならばもっと美しくお辞儀をしたに違いない。

 夫人は、あの男、…夫に、そっくりな深めの眼窩におさまった鋭い瞳を私と乳母に順番に向け、喉に力が入った鋭い声を発する。


 「…北の方など、身分高きものではございませぬ。また、そのように乳母を従えて御簾の奥におってはこの家が立ち行かぬ。

 本日より乳母様は別の仕事をしてもらいまするぞ」


 「な…!我が姫をなんと心得る…!」


 「お生まれが高貴であろうと、我が藤堂家はただの地侍。

 そこに嫁したのだから、お姫様もただの地侍の嫁御にすぎませぬ」


 幸手局とおとら様が睨み合う。

 

 (いつか…結婚したいなぁとは思っていたけど…)


 社会人生活も数年目、何故か当時の彼氏から貰った婚約指輪の輝きに浮かれ覗いた社員専用ページの「福利厚生」…結婚祝い金の雀の涙に、産休で六割に減ってしまう給与に、

まだ早いなと尻込みして断ったくらい『妻』に向かない女が私だった。

…やっていけるだろうか?

 不安を噛み締めながら、姑の凛々しい顔を見つめた。



 ——1年前。


 「な!!何者じゃ!!名乗らぬかっ…ぐっう」


 「羽柴秀長様が家中、藤堂与右衛門とうどうよえもん……もう遅いか」


 男は眼下の血溜まりを見つめた。死体の首を落とすには、骨の隙間を見つけ、一気に体重をかけるのが効率的だ。


 だが、並外れて背の高い、筋力に優れたこの男にとっても簡単な事ではない。


 男は、父の虎高とらたかの名をひっくり返したいみな…本名

藤堂 高虎たかとらと後の世で知られる人物だが、

今はまだ、ただの武者に過ぎなかった。


 首を落とし終えカッと開いた目を閉じてやりながら、地に臥したままの胴体からウゥ、グゥと漏れるいびきのような声を聴く、手の中の髷から伝わる首の重みも…

——これが人の命というものか——


 名乗りも上げずに敵を殺める利己的な部分と、繊細で感傷的な部分を持ち合わせることができる器用さは彼のこれからの人生を表していた。


 「与右衛門!」


 「…小一郎様…」


 嗎と共に、羽柴小一郎秀長はしばこいちろうひでながが現れた。


「なんと!賀古六郎右衛門を討ち倒したか」


 高虎は誇らしさでいっぱいの体を折り畳んで主君、秀長に跪いた。


 「はっ」


 …賀古六郎右衛門は山陽で名の知れた勇猛の侍であった。彼の主君、別所氏はこの東播磨の有力者、遡れば播磨守護の赤松氏の旗下にあったが、この乱世である、力のある播磨国内の豪族たちは、世の乱れと共に独立していった。


 しかし両隣を大国毛利、気鋭の織田に挟まれ、緩衝地帯として両者の顔色を伺いながら生き残る道しかない…

どちらかと言うと、羽柴秀長の主筋の織田家に好意的にみえた播磨国内の豪族たちであったが…秀長の兄秀吉との別所吉親との会談の不和から、

 とうとう別所氏は織田から離反し、火蓋は切って落とされた。


 三木城は長引く兵糧攻めに喘ぎ、猛将賀古六右衛門さえも痺れを切らし城内から打って出てきて、


 ……このざまだった。


 高虎にはその焦りがよくわかった。

空腹の苦しさは、身に染みて知っていた。

 初陣で浅井家の足軽として戦った姉川の戦い、長じて小谷城の戦い…すべて負け戦だった。

 腹が減り、頭まで鈍る、あのむなしさ…

…状況を変えようと、行く先が地獄であろうと走り出すのだ。

 (……。)

 高虎は胸中で念仏を唱えると、戦目付の元へと歩き出した。


 (…与右衛門には一家が必要ではないか)


 大きな獣が山野を走るような姿を、秀長は案じていた。






 「一色の姫さまは、いつも侍女により御簾に隠されて、外を歩くときは被衣姿と、顔が見えませぬが…お優しいお人柄でございます。

何かと必ず礼状をしたためて、小袖を我が娘らに下されたりと…」


 但馬の有力豪族、栃尾佑善はそう秀長に見合い話を持ち込んだ。


 一色修理大夫義直いっしきしゅりのたいふよしなおは、1500年代初期、幕府の側近くで働いた左京大夫義有の子で『修理大夫義直』と称した謎大き人物である。

 彼は、政治闘争により十代で消息を絶ち、縁故を頼り復活の機会を探っていたが、この地にて波乱の生涯を終えたという。


 件の娘は、修理大夫義直のじいと言って良い最晩年の子で、

 この大屋村に沈淪ちんりんする前、二十数年前に都にて生まれたそうだ。

 しかし彼女だけ生母が姫公では無く、幕府が力を失っていた頃だった事もあり、適当な婿を見つけられず、

 正妻の娘である姉妹たちが嫁ぐ中、但馬国で隠棲生活をする父に帯同していた。

しかし彼女は庶子私生児とはいえ、

家名に恥じない教育を受けた人品優れた『一色の姫御前』とこの地で敬われる女性だと言う。


 「ほう…そのような女性にょしょうが…」


 但馬国において影響力のある地侍栃尾氏、そしてかつて権勢を奮っていた一色家と家臣が結びつく利益は間違いないが、

 一家を構えれば、あの男を一回りも二回りも大きくしてくれるに違いない、と秀長は思った。


 武家の人間としては、初婚としては晩婚になるが、一色家の事情を思えば致し方無い。

 …子供のような姫様ではあの高虎とは暮らしてはいけないであろうし…


 世が世ならば、大家の姫君としてなんの苦労もなく暮らしたであろう、一色の姫公。


 辛酸を舐めても、下々にも心配りを忘れないような女とならば、高虎もほっと兜の緒を緩められるに違いない。


 「ならばぜひ、栃尾殿に仲立ちをお頼み申す」


 秀長の言葉に栃尾祐膳は深くうなずいた。




《※》

北の方…元々、公家や貴人の家の北に正妻の館があったことから「北」は正室を表す言葉になっていきます。(北政所、など。政所と正妻の意味です。)

ほかに「おたあさん(お母さん)」も対屋のお方が鈍ったもので、当時の「家庭」の雰囲気が伝わってきます。

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