{戦国の婚家と暮らし}

第1話 姫君と三貫文の女


 一色 修理大夫しゅりのたいふが息女 夕子は、今まさに運命をその身と同じく荒縄に縛り付けられた女を認めて、はたと足を止めた。


 「この女、三貫文!!」


 いちに人が売られるのはこの乱世において珍しくもない。だが、目を引いたのはそのあたいと珍奇な姿だった。


足軽が一年かけずり回って稼げるのが一貫〜二貫ほどだ、奴隷は若い男や女でも、せいぜいその年収程がこの但馬では相場であった。


「まぁ、南蛮の娘でしょうか」


 隣の侍女も不思議そうにその売り物を見ている。


「都で垣間見た南蛮人はもっと肌が赤く鼻が大きく、中には肌の黒いのもおった。そうは見えぬ。女の南蛮人はああなのかもしれぬが」


 壺姿の夕子は被衣かずきをずらして「三貫文」の売り物の顔を見た。


 頬はなめらかに張りおとがいまではすっきりと細り、鼻は直線に高く、小さな山型の上唇と桜貝のような下唇が白い輪郭に収まっていた。

 確かに上等の人形のような整った顔をしている。

白粉は塗っていないようだが今まさに深窓から引き摺り出されたように肌が白い。

しかし、ずいぶん痩せているし、美しい黒髪ではなく犬のような赤毛であった。


 それ故か、せっかくの美貌は奇妙に浮いていた。


それに彼女を捕らえたであろう野武士より背が高く、遠目には細身の男のようでもあった。


「……」


 しかし、粗末で安っぽい赤い小袖を着せられていて、売り物になるまでに数々の辛酸を舐めたであろうその顔には、

一つの卑下も浮かんでいない。


 ギロリと、

切れ長の目頭の肉が覗く瞳で、不躾な視線で取り囲む群衆を睨みつけている。


 『私はこんなところで終わらない』


 そう、叫ぶような目つきだった。

 

……都を背に、姉妹の中で自分だけが父といなかに追われる道中、夕子もそう胸中で繰り返した。


 「幸手局さってのつぼね、あれを」


 夕子は顎で示した。


「ま、まさか、おひいさま…」


「はようせい」




—時は天正八年(1580年)、

混迷を極めた戦国の世が少しずつ光の方へと動き出した年である。


 十二年前、永禄十一年(1568)秋に上洛して幕府を復活させ、朝廷を庇護した織田信長だったが、やがて将軍足利義昭と対立し、中世武士を否定し始める。


 「下剋上」という言葉から、身分構造が柔軟だったと思われる戦国社会においても、身分差別は日常茶飯だったし、朝廷や幕府の意向は強く、武士達は父祖伝来の「本領」を守り抜くために戦っていた。


 これに対して信長は、そのような門閥に属さない人材登用を実行し、見事に領土を広げていく。


 そして、夕子の生まれた一色家はいわゆる旧体制の門閥に属していた。

時代は変わっていく、変わらないものもあると言うが、それらを判断する善悪も世によって変わるものである。

 





 「目覚めたかえ」



 鈴が転がる声とは、このことだろうかと女は目を開いた。


全身が痛む。久しぶりの布団での就寝に、夢も見ずに眠っていたようだ。しかし、目の前には電気の代わりの蝋燭……


 現実は、醒めることのない悪夢のように自分を包んでいる。


 だとすれば、目の前の女性はこの悪夢の中のいちばん美しい幻だと思った。


 薔薇色の頬はふくよかに張り、真っ直ぐ通った鼻が女性の意志の強さを表しているようだが、二重瞼に包まれた切長の瞳は濡れたように光り、どこまでも優美だった。

その顔を飾る黒髪は水を含んだように長く垂れ、少々痛んでいる朱色の着物を高価に見せている。


 この女性は……きのう、私を買った人だ。




「…名を聞いてもええか?」


 女の名乗った名には、氏まであったし、南蛮人ということもなさそうだ。


 「どこから来なさった」


 「…わかりません」


 どこの訛りもない、不思議な言葉だが、受け答えからしっかりと教育を受けてきたようだった。


「……とにかく、身上を整えねばならぬ」


「しんじょう…」


 女には通じない言葉も、夕子が知らぬ単語も価値観があったが、

きりがないので前後の文脈で察することにした。


 文字を書かせればみみずののたうちで、堂上家とうしょうけの姫のように着物もひとりで着られず、水の汲み方も分からないという。


 しかし漢字や平仮名は理解していて、不思議な書体だが、書けもするようだ。

 源氏物語や枕草子、論語も基本の基本は聞いたことがあると言う。



「そなたはまことに面白き女や」


 女を買って一月がたった。一人で着物も着れるようになったし、すっかり女らしい立ち居振る舞いも身につき、夕子のそばに仕えても問題ないくらいに成長していた。


「どこぞの貴人の隠し女でもしとったん?」


「…。」


「ま、ええわ。

私と同い年くらいやが、同じように結婚したことのないさんかえ。」


「…まだ二十代ですよ」


「二十歳をいくつも過ぎて、人の妻にならんのはおかしいのや」


「…」

 では貴女は?と女の顔が言う


 「…嫁に行くにも金がいるのや。それに、これほど零落しても、邪魔な身分がある故、好きに結婚もできぬ」


「そういうものですか…」


「そうじゃ。まこと身分とは重く面倒なもの。いっそ尼にでもなろうかと思うが、使用人を思えばそうもいかぬ」


「…」


 夕子はため息をつく、すると、女がおずおずとその長い指を夕子の小さな手に添えた。

 こんな風にされるのは、母を亡くして以来だった。


「夕子様、私、本当に感謝しているんです。貴女のために、私、なんでもします」


「…」


 女は教え込んだ教養以外にも情けを持ってくれたようだった。どこか、浮世離れし諦念して生きているような女が前を向いてくれたのが夕子は何より嬉しかった。





 夕子が、夜になると一心にある手紙を読んでいる事を女は知っていた。

 夕子の乳母で、この屋敷の奥を完璧に掌握している幸手局さってのつぼねさえも気づかない薄明の下、白い手の中にその手紙は握られる。


 相変わらずの『電気』を知るものの慣習なのか夜ふかしが染みついている女は、その様を見つけるたびに胸が痛む。

 じっと、視線を集中させて、乾き切った墨の匂いさえも記憶するようにじっと…


(人生が自分のものではないんだな)


 夕子はよく「婦人とはお家に名誉をもたらすのが仕事だ」と言っている。


 女は「いい大学を出て、いい会社に入って、いい人と結婚して、子供を産んで」と言い聞かされて育ってきたが、

実家の名誉なんて考えた事もなかった。

だから夕子の取り憑かれたような姿が分からない。



 『我が背子は物な思ひそ事しあらば 
 火にも水にも我がなけなくに』


 文字や和歌を覚えた事を女は後悔した。手紙から滲む切々とした夕子への想いが、女の胸をも濡らすのだ。




 「そなたは恋というものがわかるかえ?」


 夕涼みが長引き過ぎたようだ。月が真上まで登り、川の水面に光をこぼしている。


 「……夕子様は恋をしておいでなのですか?」


 女の率直な物言いは夕子の押し殺してきた心を掴んだ。

夕子の直向きな心は、最近もたらされた見合い話の相手には向いていないのだろう。


 「藤堂とかいう、陣借りの武者との縁談は知ってるえ……一色家を助けてくださっている栃尾殿のご紹介なのに……!いやでたまらん、私はほんまに情けない娘や…!」


 水面の月に向かって泣く夕子に女はいたたまれなくなった。


 きっと、この不自由な時代で、

 ただ一つの自由が、この恋なのだろう。


 恋の喜びや、悲しみを知っている女はその清々しくまっすぐな思いがよく分かったし、

 また、一時の気の迷いにも思えたが、優しい夕子の想いを、手紙の相手の「以心」なる豪胆かつ流麗な手跡の若者の心を応援したいと思ってしまった。


「夕子様、どうか悩まないでください…いざとなれば私がいます。」


 女の言葉に夕子ははっとして、女の静かな眼差しにこれから来たる朝日を見た。


「…お許し…遊ばして…」

 

 —あなたどうか悩まないで、いざとなったら、火であろうと水であろうと、私がいるではありませんか—




《※》

修理大夫…官位。主に内裏の修理造営を掌り、大夫(従四位下相当)は一人。また、戦国時代はこのように官位名を「自称」する東百官という名前かっこいい!みたいな風潮があり受領名と言って名乗っていたそうなので正式に叙位されていたものは少ない。(太夫は芸人たちも称するようになり、遊女なども名乗るようになります。)

一色修理大夫義直は情報が少なく、叙位されていたのか、否かは不明です。


被衣…女性が外に出る際、着物を頭から被った様。定着するにつれ、着る小袖よりも人に見られるため柄が華やかになっていったそう。


堂上家…(とうしょうけ)いわゆる上級公家のこと。公卿になれる家柄。貴人の姫君は顔もあらうのも、使用人任せだったそうです。反して、自分の家より格上にしか嫁がないため、出家し尼になる若い姫君も多かったと言います。

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