OLが正室になる話
琴太郎
第一章 乱世への旅へ
第0話 夜の腕の中の花嫁
朝の来ない日があるのだろうか。
落日が迫る高楼から、あの夜の底へ逃げてしまいたいと女は考える。
——彼の愛が欲しかったのは、生きる為だった。ひたむきな恋心ではなく、せつせつとした祈りに近かった。
だから、逃げなくてはならない。私の手を引くあの手から、乱世を征く背中から——私は此処に居てはいけない。居られない。
でも、逃げ道にあてなどない。
女は空を覆い始めた夜の帳の裾にすがりながら、自分を忘れた
藤棚の屋敷の前で輿がぴたりと止まった。
屋敷の門前には松の木を組んだ火が焚かれ、白帯の若武者がその灯りを守っている。
輿を率いるのは
「おひいさま、つきましたえ。」
まるで繊細な細工ものを置くように輿が地上に下され、漆塗りの小さな引き戸が開く、
すると白糸の滝のように長い裾が滑り出てきて
すらりとした女が現れた。
「…参ります」
深々とした綿帽子さえ重たげな女は、上臈に導かれるまま左足から屋敷へ踏み出し、藤棚の下を進んでいった。
女の衣装が廊下の蝋燭灯に浮かび上がる。
なめらかな真白の
見事な婚礼衣装である。
この乱世において、豊かではない台所からこれほどの小袖を持たせるのは、花嫁のこれからの幸福を祈るものに他ならない。
それでも、女の心は重く苦しい。油断すると不安が胸からたちのぼり、涙となって溢れそうだった。
唯一の幸せは、自分の嫁入りによって、あの人が恋しい人との展望を掴める事だけだった。
闇夜を進む正絹は、それは重々しい音を立てて廊下を滑る。
「申します。藤堂殿、姫のお成りでございます。」
声と共に開いた座敷には、両家の家紋があしらわれた暖簾が吊るされ、
婚礼初夜の儀式を行う部屋には花婿、上臈、花嫁の三人のみが入室するのがしきたりで、中央には魔除けのための鏡が光る。
—未だに夢の中にいるようだ。
華燭の宴とは程遠い空間に、女は綿帽子の下で目を閉じた。
—『結婚』とは、恋人とするもので、花嫁衣装は幾重にも重なったチュールやサテンか真っ白な振袖を着て友達に祝われながら門出をパートナーと共にすると信じていた。
…でも、私に起こっていることは違う。
数少ない嫁入り道具と共に、ぽつんと置かれた女は、まるで捧げられたように見えた。
「貰い受ける」
男の声は低く険しい、当たり前なのにそこには一つの喜びも無い。女はいっそう虚しくなった。
—春の夜の中、漆器の
上臈の銚子から盃に清酒が注がれていく。蒔絵の
夫婦固めの儀式が始まった。
まず男は端正な所作で月の盃を空にした。
次に女が誰にも気付かれないように落とした吐息と一緒に、白い指先で受け取った日輪の盃から酒を飲み込んだ。
交互に繰り返すこと九回、
最後に男は喉を鳴らして全て飲み干した。
そうして、ようやく『花婿』は視線を左に座る『花嫁』に送った。
視線を感じているが、男の顔を直視してはいけないと上臈に教えられている女は、綿帽子からかすかに覗き見える直垂の袖に向かって「旦那様…末長くお頼み申し上げます」と落とした。
座っていても、ずいぶん高い位置にあるらしい、男の顔はどんな表情をしているのだろう?
「
返事と一緒に男の大きな手が綿帽子に伸びて、正絹の雪に埋もれていた顔を暴く。
その指は
《※》
上臈…いわゆる侍女の高位のもの。変わって手紙を出したり、人に会ったりと、使用人の枠を超えて働く。秘書に近いかもしれません。故に身元のしっかりした、武家や公家の娘がなる事が多かったそうです。
長持…昔の収容箱で、衣装ケースのようなもの。
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